早明浦ダムwiki ~香川県出資拒否デマ~

早明浦ダム建設の際、分水と資金負担に反対した徳島県(出資拒否?)

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sameuradam

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早明浦ダム建設を停滞させた徳島県


早明浦ダムの建設計画は、徳島県の強い反対でなかなか進みませんでした。

1. 分水への強い拒否感情


「吉野川はその功罪合わせて本県のもの」

「ダムの必要性は認めるが、香川分水には絶対反対」

「分水によって香川県は得をすることができるが、吉野川沿川住民は水くみをしなければならない。徳島県民は吉野川の洪水で損はしているが、儲けたことはない」

✅参考資料


吉野川流域の水資源を巡る議論の中で、徳島県は一貫して「吉野川の水は徳島県民のものである」との認識を示してきました。
このため、香川県や他県への分水に反対する立場をとっており、県内には「吉野川の水を県外に分け与えるべきではない」とする意見も強く、これが早明浦ダム事業にも影響を与えました。

われわれは理由がどうあっても生活を脅かす分水には絶対反対する
【昭和8年 吉野川保全に関する決議】

2. 高すぎる建設費負担への拒否感

徳島県はダム建設費の約72%(約180億円)を負担することになっており、特に治水部分の負担(約94億円)が重くのしかかっていました。
これは資金負担の決定ルール上では正当な負担でしたが、
「自分たちが水を分け与えるのに、なぜ徳島だけが大きく負担するのか」と、県民の不満は強く、1961年には支払いを拒否しています。

「大切な郷土の水を、愛媛と香川に分水する上に、工事のために高額の負担金を課せられるのは承服しかねる
(昭和31年9月の県議会で徳島県知事が分水反対を表明

昭和37年の吉野川総合開発計画部会では、
徳島に配慮する形で以下の議決がなされました。
吉野川の開発に当たっては、歴史的な背景に考慮し、徳島県民の感情を十分尊重する。建設費についてもあまり徳島県に負担をかけないよう関係県は努力する
しかしこれはあくまでもルールの範囲内での努力義務にすぎず、
徳島県が求めた大幅な負担軽減には程遠い内容であり、徳島県民の感情を納得させるような内容ではありませんでした。

✅参考資料
四国の発展を支えた吉野川総合開発事業
香川用水誌 P196,197

3. 香川県との負担格差への不満

香川県と愛媛県は利水分(ダムから送られてくる水)に対する費用しか負担しておらず、ダムからの恩恵を受けない治水などの費用は負担していません。

資金負担を決める制度上は妥当でも、徳島の人々から見ると「香川は利益だけ得て負担はしない」と映り、強い不公平感を募らせました。

4. 過去の経験による不信感

徳島県は1950年代の柳瀬ダム(愛媛)で水の使い方に不満を感じた経験があり、それ以来「他県に水を分ける=水を取られる」という意識を強く抱くようになっていました。
香川用水もその延長線上にあり、過去のわだかまりが再び県民感情を刺激する結果となりました。

昭和31年に柳瀬ダムからの銅山川分水の分水量をめぐって徳島県と愛媛県が対峙する事態になった

5.他県の立場と対応

香川県は、慢性的な水不足を背景に早明浦ダムに強い期待を寄せており、当初から導水路建設や資金負担に積極的でした。特に1973年の「渇水」により、香川県は水の安定供給の重要性を再認識し、四県協議の場でも歩み寄りの姿勢を見せるようになりました。

一方、愛媛県もダムの利水に参加する立場から、香川・徳島両県の調整に協力する形で関与してきました。

✅参考資料


「分水・負担金拒否」から「条件付き分水容認」へ


初期の姿勢:分水の拒否

徳島県は、吉野川の水資源を地域の重要な資産と位置づけ、他県への分水に対して拒否反応を示していました。
特に、香川県や愛媛県への分水については、地元の水利用への影響を懸念し、分水やダム建設への資金負担に対して否定的な立場を取っていました。

新産業都市指定と国の働きかけ

しかし、1960年代に入り、国の経済政策の一環として「新産業都市」指定が進められる中、
徳島県もその指定を受けることで、地域経済の発展を図る機会を得ました。
新産業都市に指定されることで、地方税の特別措置や地方債の利子補給・補助率のかさ上げなどの恩恵を受けるために、安定的な水の供給が急務となったのです。
これにより、徳島県は条件付きで分水を容認する方向へと立場を変化させました

新産業都市として必要な水が確保されるなら、香川分水も場合によってはやむを得ない

ダム建設と分水容認の引き換え

徳島県は、早明浦ダムの建設と分水を容認する代わりに、
以下の条件を国や関係県に対して提示しました

交通インフラの整備:明石海峡大橋の優先的な整備を要望。

水利用の優先権:自県の水利用における優先権の確保。

建設費の負担軽減:治水分を含む徳島県の負担を他県に分担させること。

これらの条件交渉は、関係者間での調整が難航し、長期にわたる協議が行われる事になります。

長く続いた条件闘争とその結果


① 橋の優先:届かなかった“本四連絡橋・徳島ルート”の夢

徳島県は分水の条件として、本州と四国を結ぶ本四連絡橋のルート選定において、自県を経由する「明石海峡大橋ルート(明石-鳴門)」の優先を強く要望しました。
これは、地域の発展や経済波及効果を見込んでの戦略的な主張でした。
しかし、昭和37年の第一回吉野川総合開計画部会で「吉野川の開発は本四連絡橋とは切り離して考える」と議決されてしまいます。

さらに、昭和43年に日本土木学会が発表した報告書は、岡山・香川ルートである瀬戸大橋案の方が建設費は約690億円安く、工期も3年短縮できるという経済的優位性を指摘。加えて、昭和47年の国の調査でも、瀬戸大橋ルートが最も合理的であると結論づけられました。

こうした合理性を前に、徳島県の要望は退けられ、国は「吉野川の開発と本四連絡橋は別問題」との立場を表明。結果として、徳島ルートは後回しとなり、地域の思いは果たされませんでした。この決定は、徳島県民にとって大きな落胆となりした。

日本土木学協会は昭和43年2月27日に瀬戸大橋ルートの方が明石-鳴門ルートよりも工費で690億円安く、工期が3年短く出来るという内容の調査報告を公表し、また国が行っていた経済調査も同47年7月瀬戸大橋ルートが他の候補ルートよりも総合的に見て一番経済的であるとの結論を下したのである。
木村倭士著「橋と水と道と」より

② 水の優先:譲れなかった“命の水”への執着と妥協

徳島県がダムの話し合いの中で特に大切にしたのが、「水をしっかり確保すること」でした。
吉野川は、徳島県にとって生活や産業を支える大切な川であり、
その上流にある早明浦(さめうら)ダムの建設は、
水の使い道や分け方に大きく関わるため、県にとって非常に重要な問題でした。

その結果、話し合いの中で徳島県は、ダムから流れる水のうち全体の70.7%を受け取ることが決まりました
(内訳は、生活や農業などで使う水が24.5%、特に用途を定めずに自然のまま川に流す水が46.2%)。
これは、ダムの建設を受け入れたことによって得られた、大きな成果のひとつだと言えるでしょう。

特に「不特定の46.2%」については、「もともと吉野川を流れていた水の分」として、
徳島県が求めていた水の量がほぼそのまま認められた形です。

ただし、この話し合いの過程で、徳島県は最初、「ほかの地域に水を分けることは一切認めない」「ダムの費用も負担しない」といった強い姿勢を取っていました。
しかし最終的には、ほかの地域に水を分けること(分水)や、費用の一部を負担することを認めることになり、その点について不満を持つ県民もいました。

「何を得たのか」「何を譲ったのか」という点について今も意見が分かれており、評価が難しいところです。

✅参考資料
第4回水問題研究会


③ 建設費の負担軽減:避けられなかった“重い受益の代償”

早明浦ダムの建設費は、「受益者負担の原則」に基づき、各県がダムの恩恵を受ける割合に応じて分担する形で決定されました。
このルールは国と4県の同意により明確に定められており、交渉によって大きく変更できる余地はほとんどありませんでした。

その結果、吉野川流域に位置し、治水・利水両面で最も大きな恩恵を受ける徳島県の負担割合は71.86%と突出して高く設定されました(内訳:利水14.33%、不特定19.94%、治水37.59%)。この数値は単に計算上のものでなく、「誰がどれだけ得をするか」に基づく厳格なルールに沿ったものです。

さらに、当時の徳島県にとって早明浦ダムの建設は、「新産業都市」の指定を受けるための大前提でもありました。工業用水や都市基盤整備の要となる水資源の安定供給は、工場誘致や都市インフラの整備計画に不可欠であり、徳島県自身がダムの存在を強く必要としていた背景も見逃せません。

こうした事情から、県は高い負担を強いられながらも、最終的には受け入れざるを得なかったのです。香川県・愛媛県・国からの説得があったとはいえ、それ以上に、「ダムを得られなければ徳島の未来もない」という現実が、県の決断を後押ししたとも言えます。

ただし、県内では「他県にもっと負担を求められなかったのか」「結果的に徳島だけが重荷を背負ったのではないか」といった疑念や不満の声も残りました。県民感情としては、“必要だから仕方なかった”という理屈が感情的な納得に繋がりきらなかった面もあったのです。

終わりに:得たものと、失ったもの――地域交渉の難しさ

こうした一連の条件闘争を通じて、徳島県は自県の利益を最大限に引き出そうと尽力しましたが、その全てが実現したわけではありませんでした。

水資源の優先確保という成果の一方で、橋のルートや建設費負担では期待通りの結果を得られず、「結果としての妥協」を余儀なくされた部分もあります。地域住民の間には「もう少し強く出るべきだった」「他県の都合に振り回された」という複雑な感情が残されました。

この事例は、地方と中央の関係性、インフラ整備と地域利益のバランス、そして公共事業をめぐる合意形成の難しさを改めて浮き彫りにしています。

地方自治体が自らの立場を主張し、条件を交渉するという行為は、単なる行政の枠を超え、地域の誇りや未来を賭けた「政治的闘争」とも言えるものでした。その成果と限界は、今日においても多くの教訓を残しています。
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