36-3「佐々木さんの、子猫の目の甘い日々9 風立ちぬ いざ生きめやもの巻」

佐々木さんの、子猫の目の甘い日々9
風立ちぬ いざ生きめやもの巻

そろそろ夏休みも残り2週間を切った。
さて今年はハルヒがやり残したことはあったかしらんと、古泉と連絡を取りつつ、
カレンダーにふと目をやって、残りの休みの日数を数えて愕然とする、
そんな日々。
残念なことに暑さだけは盛夏の勢いをいまだ脱しておらず、
夏好きの俺としても、いい加減少しお日様には骨休めしていただきたい今日この頃である。

尤も、俺以上にこの夏の暑さに参っておられるお方が、今日もぐったりと、
我が部屋でのびている。
なにせ、ここの所この部屋は、先月の電気代の高さに目を回したウチの母親が、
「35度越えるまでは、できる限りクーラーは我慢!」と言い渡したせいで、
窓から入り込む僅かな風と、おんぼろ扇風機がかき回す熱風の坩堝と化しているのだ。
「キョン、キョン……。僕達は地球温暖化について、
 もっと真剣に取り組むべきだと思うんだ。
 洞爺湖なんて涼しいところでサミットを開いたせいで、
 玉虫色の解決策しか出なかったのは、本当に口惜しい事だよ。
 ヒートアイランドの東京か大阪でサミットを開いて、効果的な合意案が出るまで、
 冷房禁止を言い渡せば、きっと各国も本気で二酸化炭素削減案を検討したはずさ」
日陰の床に頬をつけ、いつもの耳も尻尾も、元気なくてれーんと伏せたまま、
シャシャキはうわごとのように力なく言葉を垂れ流している。
つーか、そんなに辛いならシャシャキにならなければよかろうものを。
確かお前の部屋、冷暖房完備してただろ。
「……それでもなお君の傍に侍らずにはいられない乙女心を、
 君はそうやって無慈悲に踏みにじっていくのだねしくしく。
 君のサドとしての成長ぶりは、まさしく目を見張るものがあるよ……」
暑さで本格的にまいっているのか、
いつにも増して言ってることがおかしいぞシャシャキよ。
しかしお前さん、そんなに暑さに弱かったっけか? 
中学時代に夏場にバテてたって記憶はないんだが。
「……僕も特に夏が苦手なわけではないのだけれどね。
 どうもこの体だと、汗腺が猫の体に準じてしまうらしくて、
 どうにも排熱の効率がよろしくないようなんだ」
ああ、そういや犬猫は汗かかんものなあ。
「そもそも、犬や猫は全身が体毛で覆われているからね。
 汗を流しても、排熱効果があまりないのだよ。
 その代わりに耳の毛細血管や、舌で排熱をしたり、犬の場合は鼻呼吸の際に
 ずいぶんと排熱しているらしいよ」
確かに、夏場に犬が近くでハアハアすると暑苦しいよな、アレ。
「逆に、人間以外でも、カバや馬など、体毛で覆われていないタイプの哺乳類は発汗
により体温調節を行っているわけだけれど……、
……どうにも、この体は、排熱に、問題が、ある、よう……」
ゼンマイじかけの玩具が、ゼンマイを伸ばしきったときのように、
シャシャキの言葉がゆっくりと途切れてしまう。
おいおい、大丈夫かシャシャキ。
座っていた椅子から床にしゃがみこんで、横たわるシャシャキの額に手を当てる。
額の滑らかな感触に一瞬意識が奪われるが、それどころではないと自分を戒める。
確かに結構温かいが、思ったほどひどくはない。こりゃ本当にバテてんのか。
「……ああ、君の掌は冷たいねえ。手が冷たい人は心が温かい、という俗説を信じてしまいそうだよ」
ちょっと焦点がぼやけたような大きな瞳が、上目づかいに俺をぼんやりと見つめている。
いつもと違う、放心したような口調もあいまって、何か妙な色気というか、何というか、その。
ええい、俺は何を考えているんだ。
こちらの内心の煩悶も知らずに、シャシャキがそっと俺の掌に、自分のそれを重ねる。
「……こうしていると、少し楽かなあ」
夢見るような口調。シャシャキの掌と、額がやけに暑い。
「ねえ、キョン……」

シャシャキの言葉をさえぎるように、これまで僅かしか吹かなかった風が、ふいに部屋を通りぬけた。
おお、えらく爽快だぞシャシャキ。
立ち上がって窓の外に目を転じてみれば、いつの間にか西の方から雲が沸いてでてきている。
こりゃ、一雨振るかもしれないな。
しばらく風に吹かれていると、シャシャキもようやく元気を取り戻したようで、
「風立ちぬ、という奴だね。
 本当に生き返るようだよ。いざ生きめやも、とはよく言ったものだよ」
いつもの明晰な口調に戻って答えた。
今は秋、ってか。秋にはまだちょっと早くないか。
「キョン。もう立秋は過ぎているから、暦の上では秋なのだよ。
 実際には、残暑で朦朧としかけているのだけれどね。
 それにもう一つ。「風立ちぬ」というのは、別に松田聖子の歌詞だけじゃないよ。
 P.ヴァレリーの詩に「風立ちぬ いざ生きめやも」という一説があるんだ。
 現国で習わなかったかい? もっとも、この訳自体は堀辰雄の『風立ちぬ』
 で引用されている方なんだけどね」
……いや、まあ、いつもの薀蓄回路が正常動作するぐらい元気になってよかったなシャシャキ。
「くっくっ。そうだね。ちょっと残念だった気もするけどね。
 君は病人には優しいみたいだから」
 そう言うと、ようやく床から頭を起こして、シャシャキはいつものように微笑んだ。
 

……というところで済めば、まだシャシャキとのいつもの他愛ない日々だったのだが。
いっとき吹いた涼しげな風は、すぐにピタリとやんで、
立ち込めた雲も、湿度を上げるだけで、全然気温を下げる役目は果たしてくれない。
結果、部屋はまたすぐに灼熱の坩堝に逆戻りしてしまった。
というか、湿度が上がった分、不快感と体感温度はうなぎ昇りだ。
先ほどは力なくヨレヨレだったシャシャキだったが、
一旦涼しい風で元気を取り戻したせいか、
ほんの僅かに汗ばんで赤くなった顔に不快の色を浮かべ、
尻尾をペタンペタンと振りまわして、ご不興さ加減を現しておられる。
「キョン、キョン。先ほどは暑さで参るあまり気づきもしなかったのだけど、
 そもそもなぜクーラーを入れないのだね?」
いやそれはな、うちの親からなるべくクーラー使うなとのお達しがあってだな。
「……他家の教育方針に口をさしはさむつもりは毛頭ないのだけれど、
 これは「なるべく」の範囲を逸脱していると言ってよい気がするよ」
ウチ的には、まだ我慢できる範囲なんだよ。ほら、団扇で扇いでやるから。
「……うー」
ぱたぱたと生ぬるい風を送ってやると、シャシャキは唸りともため息ともつかない声を洩らした。
シャシャキがここまでストレートに不快げな感情を出すのも珍しい。
こちらも暑さでぼんやりしているせいか、何故かそんなシャシャキの物珍しい姿が、
妙にかわいらしく見えた。

「キョン、キョン……」
ぱたぱた
「……うー」

「キョン」
ぱたぱた
「……うー」

などと下手に遊び心を出して、そんなことを繰り返していたのがよくなかった。
何度目かの「うー」という唸り声が止んだのでふとシャシャキの方を振り返ると、
真っ赤な顔をしたシャシャキが、決然とした表情でいつもの上着に手をかけていた。
もしもし、シャシャキさん?
「もう限界だニャ!! ぼ、ぼぼぼぼ僕は今猫なのだから、服は言わば毛も同様!
 だから脱いでも別に恥ずかしくないのだニャ!!」
いやちょっと待て。落ち着けシャシャキ。あからさまに無理してるぞお前。
わかった。お前が暑さに苦しんでいるのはわかったから、そのシャツを捲り上げる手を
止めなさい。
「もう暑くて暑くて限界なのだよキョン!
 人間の尊厳は、この姿の場合適用外ということに決めた。決めてしまったのだ。
 大体、他の人には猫にしか見えないのだから、この場合僕の裸体を鑑賞できるのは
 君だけであって、それならもう別にいいやというかいっそこっちから襲わないと
 君ってやつはもううにゃー!!!」
シャシャキが熱暴走したー!!


……翌日からシャシャキが現れるときは、気温30度を下回るときでも、絶対にクーラーを
入れることとあいなった。
母からは何度かお小言をくらったのだが、
母上様、恐れながら、多少の電気代と、息子が不健全な方向につっぱしる危険性を、
秤にかけるのはやめてください。お願いですから。いやマジで。

                       特にオチもなく おしまい

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最終更新:2012年07月24日 00:15
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