プロローグ
「そろそろ通りかかります」
まるで噂話をするかのように声のトーンをおとし、橘がそう呟いた。
「あ、ほらほら。見えてきましたよ」
声のトーンを落としたままそう続けた。何を興奮しているのか先ほどより若干大きくなっている。
しかしまだ見えたといっても一人の女子学生が歩いていると確認できる程度で、こちらの声なんか聞こえる距離ではない。
この距離で聞こえるなら聖徳太子といい勝負ができそうだ。普通に声を出せばいいものを。
「いや、それは一概には言えないんじゃないかな。現在科学で証明されているだけでも人間には20以上もの感覚が存在するんだ。
僕たちがこうしている間にも日々科学は発達しているのだから、将来更に見つかる可能性は十分に残されていると言えるね。
それに一般的な五感だけでも聴覚以外に視覚というものがある。耳で聞こえなくても目で見て勘でなんとなく気づく人だっているってことさ。
僕にだって今のキミの憂鬱そうな気分くらいなら分かるからね」
声を押し殺すような独特な笑い方をしながら佐々木が語りかけてきた。
相変わらず小難しい話をしてくるな。悪いが俺の頭は認めたくはないが谷口より少し上くらいだぞ。
誤解のないように言うが学力なら、ということだ。
「お前とは中学の時から一緒だからな。それなりに付き合いもあったから分かるが」
佐々木とは週に2回ほどとはいえ一年ほど共に塾に行き帰りが一緒だったからな。
だが佐々木と俺の学力は昼寝をする前のうさぎとかめくらいのどうしようもない差があった。
だからてっきり俺たちはそれぞれの学力に合った高校に行くと思ったのだがなぜかこいつはここにいる。
もっと上のレベルを狙えただろうに北高にくるとは物好きなもんだ。
毎日ハイキングをして通学するような場所にあるってのによ。
「北高にも特進クラスがあるからね。とりあえず一年間は様子を見てからそっちにいくかどうか決めるよ。
それにあの通学路は中々健康的でいいじゃないか。運動部に入っていない僕たちにはちょうどいい運動さ。
キミと歩きながら色々話もできるし僕としてはとても有意義な通学路なんだよ」
そのおかげで毎日遅刻寸前で学校に通う羽目になってるんだがな。
それでもなんとか遅刻をしないのは母親に命ぜられ面白半分で起こしにくる我が妹と、
それをわざわざ待ち続ける佐々木のおかげといっても過言ではない。
しかし通学路に対する考え方だけでもつくづく頭の出来が違うと感じるね。
もし神様がいるなら一言くらい文句を言っても罰は当たらないんじゃないか?
まぁ宗教に無縁な俺が語っても説得力が微塵もないわけだが。
俺がもし真剣に進学を考えるならそんな暇はないと断言してもいい。
頭のいい人間の考えることはよくわからん。
「それよりキミはそれなりの付き合いと言ったが、僕とキミとの一年間の思い出に関してどう認識してるんだい?
少なくとも僕にはそれ相応にキミとの思い出を育んだつもりだがね」
そう言いつつ少し皮肉交じりに微笑しながら、俺をからかうような目線を送っている。
それ相応の付き合いか。まぁ佐々木とは塾の行き来を1年ほど続けていたとはいえ、
他はクラスでの会話などありふれた内容が多くて特別何かあったわけでもないんだよな、俺が覚えている限りでは。
いつもなら他になにかあったかと思い出そうとするんだが生憎今はそんな場合ではない。
だがお前は紛れもなく中学校時代親しくした友人の一人には違いないさ。
そんなことを考えていると突然、あからさまに不機嫌な声色で会話に混じってきた。
「やっとお出ましか。全く無意味な時間をすごしていたようでならないな」
声だけではなくうんざりとした表情で藤原は言った。あまりの不快感からか唇まで大きく歪んでいる。
ただでさえ普段から無愛想なくせにこうなると更に忌々しい。
というか俺は別にお前について来いと頼んだわけじゃないんだぜ?
お前のその顔を見ているとただでさえ気分が悪いのに更に悪化する。
「あんたに言われるまでもなくついていくつもりはさらさらなかったがこれも指令なんでな」
女子生徒の待ち伏せまで指令に入ってるとはご苦労なことだ。
未来でアイドルやら有名人やらになると決まっている女子生徒の情報を確保し金儲けでもするつもりなんだろうか。
もしそうならストーカーとして逮捕されちまえばいい。
「―――退屈」
そう一言ぽつんと九曜が言った。量の多い髪は強い風が吹いても少しもゆれることはない。
初対面のときから慣れたとはいえ、無機質な顔にガラス玉のような黒い瞳は未だに少し不気味だ。
九曜本人から聞いた話によるとここの時間の流れは元々いた場所よりかなり遅いらしい。
そのせいかいつもぼーっとしてたり眠そうに過ごしている。正直何を考えてるのかほとんどわからん。
まさか宇宙人ってのはこんな変なやつばっかりなんじゃないだろうな。こんなのはこいつだけと信じたいもんだ。
「何ぶつぶつ言ってるんですか?だんだん近づいてきてるんですからお静かに」
すこし怒気を含みながら橘が話を戻した。俺だって好きでこんなぶつぶつ言ってるわけじゃねぇよ。
「佐々木さんの…いや、世界を元に戻す第一歩なんですからしっかりしてください」
「俺はまだ一言も協力するとは言ってないぞ」
いつの間にそんな展開になっているんだ?
俺は佐々木の件さえなければこいつらと顔をあわせることすらなかったはずだ。
自分の進む先に待ち伏せされているのを知ってか知らずか女子生徒は足早に俺達の方に向かっていた。
遠くから見る限り普通の女子生徒にしか見えないのだが、橘の説明どおりならとんでもない存在だ。
だがこの頃の俺はまだ橘達の言うことを完全には信じちゃいなかった。
同時に自分の運命が変わり始めていることにも気づくことができなかったわけだが…。
桜の花はとっくに散り早くも夏の陽気を垣間見る5月の終わりの午後、
日が傾き始め俺達を赤く染め始めた頃のことである。俺達はある人物を待ち伏せていた。
その人物とは…
「あれが涼宮ハルヒさん。佐々木さんの力の所有者よ」
―――多分、というか絶対と言い切ってもいいと思う。
今この説明だけではなぜこうなったのか…なんてのはほとんど分からないんじゃないだろうか。
説明口調は橘や佐々木のほうが得意だし俺としてもこいつらに任せたいのだが俺が語り手である以上俺がやらなくちゃならんようだ。
元々不向きなのは重々承知してるさ、だから多くは望まないで聞いて欲しい。
最終更新:2007年10月11日 16:34