佐々木とキョンの驚愕第1章-2

 その日の放課後、俺達は教室に二人で残っていた。橘京子がうちの教室にくるということになっているらしい。
 いきなり信者が大量に座禅し黙祷しているような建物に連れ込まれやしないかと思っていた俺は内心ほっとしていた。
 俺と佐々木はそれぞれ自分の席について教室の入り口の方角を向いている。
「ここで話し合うのか。てっきりどこか案内されるのかと思ったんだが」
「これは僕が出した条件なんだ。話し合いをする上で相手を自分の領域に引き込むのは
心理的に相当なアドバンテージを取れるからね。例えば警察が犯人に自白させるときに取調室を使うのはこの状態を利用しているんだ。
彼女が選ぶ場所がどんな場所かわからないし身の安全を考える上で最低限の配慮という訳さ。僕もそれなりに彼女のことを警戒しているんだよ」
 相手は佐々木を神だと危ないことを言ってる人間だからな、そりゃ佐々木も内心気味が悪いだろうに。
 しかし証拠を見せると言っていたらしいが漫才の前座のような手品を見せるつもりじゃないだろうな。
 もしそうだとしたら橘京子に佐々木を巻き込むなとしっかりと釘を刺す必要がある。
 そんなことを考えている俺とは対照的に佐々木はなにやら腕を組みながら興味深そうに入り口を見ている。
「さて何が出てくるんだろうね。証拠っていうからには僕が神様という証拠なんだろうけど色々想像してしまうよ。例えば…」
 途中で佐々木は話を止めた。俺は視線を佐々木から教室の入り口に振るとその先には一人の女子生徒がいた。
 どうやら入り口にいるのが橘京子らしい。亜麻色の髪を左右に束ねた所謂ツインテールの少女がいた。
 俺が想像していた変人とは予想を大きく裏切り優しい微笑が似合うそれなり整った顔立ちをしている。
 制服をぴしりと着こなし俺が視線を送ってるにもかかわらず橘京子は平然としていた。
 可愛らしい顔に似合わず落ち着いたクラスの委員長のような雰囲気がある。
 しかし教室に入ってきたのは橘京子だけではなかった。
 もう一人のほうは橘京子とはまるで違うタイプだ。映画の悪役を気取ったかのような表情をしている男。
 だが制服は意外にもしっかり着こなされマフィアに例えると頭脳派に入るタイプだろう。その顔は笑っているのだが橘京子と違い嘲笑していると言ってもいい。
 初見だが一目で俺は気に食わない野郎だと思った程だ。いや、外見はこの際置いておこう。佐々木の話では橘京子以外に人物がいたように思えない。
 そいつは俺に目線を合わせると更に嘲る表情を見せた。そう思った瞬間俺の口が開き、
「お前誰だ?」
 そう訊ねるとそいつはニヤリとして、
「今のあんたには関係ないし名乗る必要も無い。話があるのは橘京子だろう、詰問する相手が違うんじゃないか?」
 どうやら俺の勘は正しかったようだ。佐々木と橘京子がいなければ殴りたいと思えるほどに腹だたしい奴だ。
 名乗る必要も無い?何様のつもりだこの野郎は。
 俺のその敵意を感じ取ったのか佐々木は俺の肩を叩き
「落ち着きたまえ、キョン。僕にとっても橘さん以外の人間が来るのは予定外だが、
 ここで乱闘騒ぎを起こされキミが停学処分を受けてしまうようなことになるのはもっと予定外だ。
キミはもっと冷静な人間なはずさ」
 ああ、そうだ。俺は人並みに冷静さをもつ人間だ。殴ってやりたいが実際そんなことはしやしないさ。
 だが初見の人間に馬鹿にされて腹が立たないほどお人好しでもない。
 何か一言言ってやりたい気持ちを抑える必要なんてないね。
「少しキミは黙っててくれないか。僕としては穏やかに話し合いたいんだよ」
 佐々木の表情は普段とは少し違い俺を制するようなものになっていた。その表情が俺の頭に上った血を下げていく。
 さっき佐々木は橘京子以外の人間が来るのは予定外と言った。つまり佐々木もこの男のことは知らないのだろう。
 人間どんな時でも知らない人間に話しかけられると緊張や警戒をするものだ。佐々木もそれなりに不安な気持ちに違いない。
 それなのに俺を気遣っているんだ、俺が騒いでどうする?その心遣いを無駄にするわけにはいかない。ここは佐々木に任せよう。
「僕の親友が粗相をしてしまって申し訳ない。僕からも非礼を詫びさせてもらうよ。彼の初対面の相手に対しての口利きは後で僕が責任を持って注意させてもらうよ。
 だが僕も君とは初対面な訳だから名前が知りたいんだ。僕の名前は佐々木というんだが君の名前は何て言うんだい?」
「藤原」
そいつは苗字だけだがあっさりと答えた。
「そう呼べばいいさ」


 その様子を見ていた橘京子が苦笑いをして、
「もう…あなたは話をややこしくしないで欲しいわ。それともこれは規定事項なのかしら?」
 規定事項?そのままの意味だと規定事項ってのは決められた事柄という意味があるはずだ。
 この言葉の意味どおりだとしたら一体何が決められたことなんだろうか。
 すると藤原と名乗った男はふっと嫌な笑い方をして、
「これが?はっ、まさか。そんなはずは無いだろう。僕は目の前にいる無知な男を哀れんだだけだ」
 確かに俺は勉強はできないが無知とは言ってくれるじゃねぇか。佐々木の薀蓄を1年程聞かされてるんだ、
 それなりに雑学には自信があるつもりなんだよ。俺は精一杯藤原を睨んでやるが全く動じていない。
 それどころか失笑してやがる。続けて何か言ってやろうと思ったら間に橘京子が割って入り俺のほうを向きながら、
「ここまでにしてもらおうかしら。今日は話をしに着たんですもの」
 後ろの奴は穏便に話をしに来る態度とは思えないけどな。正直なところもう俺は佐々木を連れて帰りたいんだが。
 こんな初対面から胸糞悪いことになったのは俺の人生を振り返っても思い当たらないね。
 それに俺より後ろの奴のほうに言うほうが先じゃないのか?信号を青で渡っていたら、
 信号無視をした車に轢かれてしまった歩行者に気をつけろと注意するようなもんだろう。
 その場合最も注意しなければいけないのは轢いた車であって歩行者ではない。
 そんな俺の姿をみて佐々木は、
「キョン、そう怖い顔をせずに話をはじめようじゃないか。彼女はキミと彼の仲裁に入ったわけだし、
この場はこれで矛を収めよう。これ以上話が脱線するのはお互いにとって不利益だと思うんだ」
 確かにこいつらの顔はあまり見たくないし最もな意見だ。
 その言葉を聞いた橘京子は俺から視線を佐々木に移し改めたように、
「御待たせしました、佐々木さん。そちらの方があなたの信頼できる人ですか?」
「ええ、そうです。この隣にいる人がその信頼に値する人物ですね。ね、キョン?」
 そう言いながら佐々木は俺を紹介するように手を差し出す。まぁ本当のところはそれなりの付き合いしかなく、
 言いくるめられてきたんだけどな。それより佐々木よ、その哀れな子羊を見るような目つきは止めてくれ。
「はじめまして、あたしの名前は橘京子といいます。橘って呼んでもらって結構です。よろしくお願いします、キョン君」
 ちょっとまて、勝手にそのニックネームで呼ぶんじゃない。親しいどころか佐々木の話と先ほどの藤原のやりとりでお前らを敵視してるんだぜ?
 いや親しいからといってキョンと呼ばれてもいいということじゃないんだが。
「いいじゃないか。キミの本名よりこちらのほうが呼びやすいし覚えやすい。
キミのそのニックネームは大変効率的で素晴らしいと思うんだがね。」
「おい、何言ってるんだ佐々木」
それを聞いた橘は間髪いれず、
「とても覚えやすいです。駄目ですか、キョン君?」
 なぜ物悲しげな目で見てるんだ、なぜか罪悪感が吹き出してくるじゃねぇか。
 藤原の奴は後ろでニヤニヤしてやがるしむかつくったらありゃしない。
 それにまるで話がすすまないのはどういうことなんだ?俺はとっとと帰りたいんだよ、あー疲れる…。
 まさに取調べに心が折れた犯人の心境はこんな感じなんだなと思い浮かべつつ俺はこう言った。
「好きにしろよ、もう」


 この後俺の自己紹介をさっさと済ましお互い名前が分かったところでようやく本題に入ることになった。
「あたしたちは佐々木さんが神的存在だと考えています」
 そうはっきりと言い切った。まぁこれは佐々木の話で予想できたことだ。
 橘の顔を見ると決意溢れる表情をしていた。どうも本気らしい。
 橘が表情凛々しく悠長に続ける。
「まずなぜそういう結論に導かれたかというと…」
「待ってくれ」
 そう俺が叫んだ。いきなり話を止められた橘は少し不機嫌そうにしていた。
 橘の隣の藤原は無表情のままだ。
「…何でしょうか?」
「その話は佐々木から聞かせてもらった。単刀直入に言うがその話は俺も佐々木も信じてはいない。
だってそうだろう?いきなりあなたは神様ですと言われて信じる奴は頭がどうかしてるとしか思えない」
 はっきり言ってやった。こう言った話し合いは相手のペースで進行させては相手の思う壺だ。
 当事者の佐々木が直接言うと角が立つ。ここは俺がきちんと言わなくてはならない。
 佐々木も橘も藤原も表情を変えず俺を見ている。だが俺は構わず続けて、
「佐々木は橘が証拠を見せるといっていた。それを見せてもらえば済む話だと思うんだが」
 最後は三人の眼力に押され弱気になってしまったが言いたいことはしっかりと言えたと思う。偉いぞ、俺。
 それを聞いた藤原は鼻先で一息笑いやがった。そして橘は少し呆れた様に、
「せっかちですね、キョン君。慌てる乞食は貰いが少なくなりますよ?」
 俺は乞食でもないし慌ててもいない。お前らのその話に付き合わされるのは佐々木も迷惑しているんだよ。
 同じ話を何度も聞かされる身にもなってみろってんだ。
 佐々木が俺を援護するように口を開き、
「私もその証拠には興味があるのでできるだけ早く見せてもらえるなら見てみたいです。百聞は一見に如かずと言いますし」
 佐々木がこう言ったからか橘は仕方ないといった面持ちで、
「分かりました。ではキョン君、手を出してください」
「手を?」
「そう、手です。証拠をお見せするために体験していただきます。
そうすればあたしが言ってることも理解してもらえるはずです。
そして理解してくれたらそれを佐々木さんに説明してあげてもらえませんか?」
 回りくどいな、佐々木に見せれば済む話じゃないのか。
「佐々木さんはあなたのことを信頼できる人と言いました。
だからあなたに理解してもらってそれを佐々木さんに説明してもらえばお二人とも分かってもらえると思います。
それにもしかすると催眠術をかけるんじゃないかと思ってらっしゃるんじゃないですか?
その可能性を否定するためにも佐々木さんがあたしたちの見張り役をしてくれれば信じてもらえるはずです」
 やけに自信たっぷりに言うな。確かに俺が見張り役で佐々木に催眠術をかけられたりしても俺が気づくことが出来ないかもしれない。
 俺は佐々木を横目で見て、
「頼めるか?」
「任せてくれたまえ。催眠術の方法に関しては僕もそれなりに知識があるんだ。
橘さんが催眠術と疑わしき行動をとった場合は僕がその場で大きな声で制止させて貰うよ。それでいいね?橘さん」
「ええ、構いません。」
 そう言った橘は自信ありげに微笑んでいた。


 橘が両手を俺の前に伸ばしてくる。ささくれのない綺麗な手をしていた。そして俺も右手を差し出す。
 橘の湿っぽい指が手の平を握り、俺にさらに注文を告げた。
「目を閉じて。すぐに済みます」
 俺は目を閉じる前に隣の佐々木を見つめた。佐々木は柔らかく微笑んでおり、
 その黒い瞳で真直ぐに信じろといわんばかり俺を見ている。
 今から何をされるか分からんが頼むぞ、佐々木。
 不安となぜか一種の期待を抱いてゆっくりと目を閉じた。
 軽くつむった目蓋越しには教室の入り口から入ってくる薄い夕焼けの光が確認できる。
 視界が閉ざされたおかげで鋭敏さを増した耳に届くのは窓の外の運動部の掛け声と
 女性の声でちり紙交換を呼びかける音割れした声だ。
 その声を聞きながらしばらく教室は無言になる
 ……………………。
 数十秒経ったが誰も話さない。橘の手の温もりが妙に伝わってくる。
 …………………………………………。
 まだだろうか?そろそろ1分ほど経つと思うんだが何も変わったように思えない。
 いや、俺が目をつぶってるだけで周りに何かが起きてるのかもしれないが…。
 そろそろ痺れを切らし声をかけようとしたその刹那だった。
「…なぜなの?どうして…?」
 橘の消え入りそうな声が聞こえて右手の感触がなくなり俺は思わず目を開けた。
 目の前には動揺を隠せず目を泳がせる橘の姿がある。周囲を見渡すが何も変わってはいない。
「入り込めない…今までこんなことなかったのに…」
 何が入り込めないのか分からんがどうも橘にとって予想外の出来事が起きているようだ。
 だがその橘の様子をみて藤原は口を吊り上げ微笑んでいる。こいつは橘の仲間のはずだ、なぜ笑っている?
「もう一度…もう一度お願いします!」
 橘がまた両手を伸ばしてきた。顔を見ると先ほどとは違い少し余裕がない。
 もう一度さっきのをやれということだろうか?しかしそう何度も手を握るのは抵抗がある。
 俺だって青春真っ只中の青年なんだ。誤解のない様に言っておくが決して嬉しい訳じゃない。
 その…なんだ、照れくさいって程度だ。
 俺はもう一度手を握るか迷っていると佐々木が肩で俺を小突いてきた。
「キョン、橘さんの言うとおりにしてあげてくれないか」
 そういう佐々木はどこか悲しげな表情をしていた。
「ああ、わかった」
 しかしその後何度やっても何も変わることはなかった。
 橘は更にうろたえ目に涙を浮かべさえある。藤原は無表情でそれを見つめ、
 佐々木は表情を固くしていた。俺はというとその状況にどうすればいいのか戸惑っていた。
 目線を誰に合わせるわけでもなく日が沈みかけて光の射し込みが少なくなった教室の入り口に向けていると佐々木が橘にこう言った。
「橘さん、残念だけど何も起こらなかったみたいだ。ひょっとしたら今日は調子が悪かったのかもしれないね。
話は信じられないけれどあなたの話はとても面白かったよ。またよかったら聞かせてほしい、あなたとはいい友達になれそうだ。
とりあえず今日はそろそろ日も暮れるころだし帰らせてもらうよ。また会おう、橘さんに藤原君」
 そう言うと佐々木は鞄を持ち立ち上がった。そして横にいる俺にアイコンタクトのつもりだろうか目配せをしてきた。
 どうやらこのまま黙って去ろうというつもりらしい。今座って俯いている橘をおいていくのはどうかと思ったが、
 今の橘に何を話しかけても励ましにはならないだろう。
 俺は佐々木と共に教室を出ようとした、が。
「――――」
 入り口にいつの間にかもう一人女子生徒がいた。その生徒は薄暗くなっていたがはっきりと分かるくらい真っ白の顔をしていた。
 漆黒といっていいほどの黒くガラスのような瞳と、カラスのような髪の色。
 その髪は腰より長く伸びており波濤のように波打っている。やたらと長く量の多いまるでモップのような髪の毛だ。
 表面積のほとんどを髪が占めているといい。一度見たら忘れないほどの特徴的な姿をしていた。
 俺も佐々木も驚き立ち止まっていたが後ろの橘を思い出しその生徒とすれ違うように教室から出るように歩を進めた――が
「……な?」
 教室の入り口もない。窓もない。廊下側に面した教室の壁は、
 すぐ後ろの女子生徒の髪のように真っ黒に塗りつぶされたような壁に変わっていた。
 女子生徒に目線を奪われるまでは入り口も窓も確かにあった。
 ――ありえない。なんだこれは?一体何が起こっている?
 隣を見ると佐々木も驚きを隠せず目を見開いていた。
 そしてすぐ後ろから機械のような無機質な声が聞こえてきた。
「―――信じた?」


 何をだ。橘の話か?今目の前で起きていることか?というかこの状況はなんだ?
 さっぱりわからないが……いや、今はとにかく落ち着くんだ。落ち着け……冷静になって考えろ、俺。まずは一つだけやる事があるだろう?
「何もんだ、お前」
 俺はすぐ後ろの女子生徒に問いかけた。そいつは直立したまま、言葉を発することも瞬きもせず俺の挙動をすべて録画するような目でみている。
「―――九曜」
 女子生徒はまるで電池の切れかけた玩具の反応のように一言だけ呟いた。
 くよう?どんな字を当てはめるんだろうか。隣を見ると佐々木もその少女を見つめている。
「―――周防―――九曜―――」
 周防九曜、どうもこの女子生徒の名前らしい。しかし馬鹿にゆっくりなしゃべり方をするな、聞き取りにくい。
「それが…あなたの名前なの?」
 ようやく佐々木が口を開いた。出て行こうとした教室の壁が一瞬で黒いコンクリートのような壁になったら驚いて喋れなかったのかもしれないな。
 自衛隊が訓練をしていたら突然戦国時代に迷い込んだ映画があったがまさにこういう気分なんだろうか。佐々木の問いに答えないのかと思ったその刹那、
「―――そう」
 九曜なる人物は電波が悪いトランシーバーのように遅れて佐々木の問いに対して答えた。何なんだこいつ、わざとなのか?
「わたしは―――観測する。ここは―――とても………時の流れが遅い場所。温度が―――退屈」
 全く意味不明なことを言い出した。時の流れが遅い?温度が退屈…?初対面だがどうやら変なのは見かけだけじゃなさそうなのははっきり分かった。
 俺が渋い顔で周防九曜を見ていると九曜の後ろにいた藤原が低く笑い出し、
「そいつはずっとそんな調子なのさ。それよりさっきのあんたのB級ホラー映画に驚いたような表情はまさに滑稽としか言いようがないな。
信じてなかったんじゃなかったのか?…はっ」
 煩い。信じないのは橘の話で俺は今この出来事のことじゃないだろう。それに手品で驚くのとはわけが違うんだぞ。
 手品はタネも仕掛けもあるわけだしそれを分かって楽しむもんだ。
 だがこれを手品とすると教室の片側を一瞬で真っ黒のコンクリートのような壁に変えるなんてタネは一体どうやって説明するんだ?
 隣にいる佐々木はなにやら考え込んでる。多分俺と似たようなことを考えてるんだろう…なんてことを考えてると、
「…話を聞く気になってくれたみたいですね。周防さんありがとう。もういいわ」
 その声に反応したのか周防はベルトコンベアに乗せられた荷物のように滑らかな動きで俺と佐々木の間をすり抜け真っ黒な壁の前に立った。
 そして指紋照合させるかのように手を当てたかと思うと、壁が一瞬眩く輝きキラキラとした砂のような物になって崩れ落ちていった。
 そして半分ほど崩れ落ちた所で同時に見慣れた教室の壁の再生も始まり、見る間に元に戻っていった。
 この光景はなんと言えばいいんだろうか…。最新の科学を駆使して製作したよく出来たCGを見ている感じといえば分かってもらえそうだ。
「わかってもらえたかしら?」
 さっきまでの凛とした声よりも少し啜れているが橘京子の声だ。やはり先ほど目に浮かべた涙は真実だったようだ。
「話しても大丈夫なのか?まだ少し…」
「もうっ!泣いてませんよ!」
 顔を赤らめ少し勢いのある口調で橘が続けた。中々整った顔である橘が普段とは違うであろう口調で必死に否定する
 その姿は谷口くらいの男心を簡単にくすぐりそうなものである。
 しかしだな…そんな充血させた目と涙で濡らしたハンカチをポケットに入れながら、いつもどおり話せないのに話そうとしてる感満々の声で言われても説得力というものが…
「キョン、キミはデリカシーという言葉を知ってるのかい?」
 佐々木が俺の横顔を見つめている。表情はいつものままだが視線が痛い。
「俺の頭だってそれくらいのことはわかるさ」
 ただ今は事態が飲み込めねぇんだ、この状況をおそらく知っているであろう橘が有利に展開を進めようとするのを妨げるために多弁になってるということで勘弁してくれ。
「――――――――」
 俺と佐々木の後ろに佇んでいる周防九曜は退屈そうにしていた。


「橘さん。あの壁はあなたが作り出したの?」
 佐々木の一言でようやく本題に入る。
 話に入る前に橘、藤原、周防の3人には俺と佐々木とその前の席に座らせ俺たちはその隣に座った。先ほどの席だと逃げ道がないような気分がしたからだ。
「違います、これは周防さんが作り出したものです。あたしにはこのような事はできません」
 端的に答える橘。きっと橘にとってはいつもどおりなんだろう、一番最初の状態に戻っている。
「ちょっと待ってくれ、周防がやったってどうやったんだ?」
 そろそろタネを明かしてもらおう。といっても理解できるかどうか分からんが。
「それはあたしの口から説明してもいいんだけど本人に話してもらったほうが信憑性があると思います。」
 正直タネが分かればどっちでもいいんだが、ここは黙って従っておくことにする。
 そして相変わらずのテンポで周防が口を開いた。
「―――分子の…―――結合情報の―――改変」
「…すまん、分かりやすく言ってくれないか?」
「――――――――」
 周防はそのまま時が止まったかのように静止している。藤原が口を吊り上げ含み笑いをしてやがる、この野郎…。
 分子の結合情報の改変の一言で分かる問題なのか?隣を見ると佐々木は周防をみつつ何やら頷くように考えていたかと思うと納得した表情になっていた。
「わかったのか、佐々木」
「仕組みとしては理解できた、というレベルさ。この世に存在するすべての物体は元素から出来ている。この元素が集合したものが分子というのはキミも分かっていると思うんだ。まぁこれは厳密に言うと少し違うんだがなるべく簡単に説明したいから割合させてもらうよ。この分子の情報、即ち組み合わせのことを結合情報というならそれを彼女は言葉のとおり改変したんだろう。つまり彼女の言葉どおり信じるならば教室の壁の物質を違う物質に変えたということさ。
変えたといっても化学変化というレベルじゃない、ただの石ころから金にすることだってできちゃうんじゃないかな」
 そんな中世ヨーロッパで発展した錬金術のようなことが今目の前で起こったというのか?それをお前は信じると?
「キョン、結論を急がないでくれ。言ったろう?仕組みとしては理解できたと。
彼女の言葉どおりならばすべてしっくりくるというのがあるんだがこんな話をされていきなり信じれるはずもないだろう。
だけどさっき目の前で起きたことを証明しろといわれても今の僕にはできない。正直まだ混乱している、同時に動揺もね」
 動揺しているといっているがどう見ても普段どおりにしか見えないんだがな。まぁさっきは一瞬目を見開いたように見えたがそれほど変化があったわけでもない。
 そんな俺たちを真正面で見つめるのは佐々木を神だという橘。そして俺から見て左隣にいるのが橘と一緒にいるものの味方かどうかわからない皮肉野郎の藤原。
 最後に橘から右隣にいる俺たちの帰宅を妨げた周防。こいつらの繋がりすら全く分からない。
「お前たち何者なんだ?」
「そんな怖い顔しないでください。あたしたちは敵じゃありませんから」
 そういう台詞をいうやつは小説やアニメでも肝心なときに敵に回ると相場は決まっている。現実で考えても如何にも裏がありますよと言ってるようなもんだ。
「いいから話してくれ」
 出来るだけ語気を強めて発言した。
 周防がやったというあの出来事から明らかに橘達に有利な展開になっているんだ、相手の正体が分からないがこちらが弱気な部分を見せるわけにはいかない。
「今はまだ話せません」
「なんだと?」
「話してもいいけれど今話さなくてもいずれ分かることになるわ。それにその時になって話したほうがあなたと佐々木さんも信用してくれると思うの。
今は警戒されているみたいだしね」
 当たり前だろ。ほんの数分とはいえ閉じ込められたんだぞ?
 しかも閉じ込められた方法が全く分からん上に同じ学校の制服を着ているとはいえ正体が分からない連中によってだ。
 その時というのは十中八九こいつらにとって都合のいいタイミングだろう、そんなもん待てん。
 というか元々今日決着がつく話だったろうが。話にならん、佐々木もなんかこいつらに言ってやれ。
「私は判例や経験則を重んじる人間。直感と解析は苦手なのよ」
 いきなり何を言い出すんだ。
「だから私にも時間がほしいの。橘さん、あなたの言うその時まで待たせてもらおうと思う」
「おい、ちょっとまて」
「なんだい?キョン」
「なんだい?じゃないだろ佐々木。お前自分が言ってる意味が分かってるのか?」
 こいつらのタイミングを待つということは受身になる。俺達はこいつらの言うとおり従い受身になった結果奇妙な出来事に巻き込まれた。
 つまり受身は危険ってことだ。それが俺なんかより遥かに頭のいいお前がわからないはずがないだろう。
「ああ、わかってるよ。キョン」
「ありがとうございます、佐々木さん。分かってもらえて嬉しいわ!」
 橘は満面の笑みを浮かべ有頂天といったところだ。それをどうでもよさそうに見る藤原と退屈そうな周防が対比させて余計にそう見える。
 どうやら佐々木は正確な判断が出来ないほど動揺しているようだ。佐々木のそんな姿を初めてみたがここはそんなことを驚いている暇はない。
 俺がなんとかしなくちゃなと思った矢先、
「但し条件があるんだ」
 佐々木がこう続けた。橘が表情を変える間を与えず、
「まず一つ目、キョンと私を無事に帰らせる事。二つ目はその時までキョンと私に接触しない事。
三つ目はキョンと私の二人のどちらかでも『その時』を拒んだら今後一切関わらない事」
 それを聞いた橘は赤色から青色に変わるリトマス試験紙のように顔色が変わっていく。
「ち、ちょっと待ってください。いくらなんでもそれはっ…!」
「橘さん、あなたは確か最初は私が神様だという証明をすると言ったよね。だけど私が神様という証拠はあなたは立証できなかった。
そして私達が帰ろうとした時、周防さんが何らかの手段で私達を妨げた。そしてその後強引に引きとめ今に至るわけなんだけども、
私達はあなた達がしたことすら理解できずにいてあなた達は私達をずっと帰さないことも出来る。
この状況はあなた達にとって都合のいい回答を強要していると言えるんじゃない?」
 佐々木がまるで検事が被告人を追い詰めるように鋭く指摘する。話の筋は通っており確かにそう言えるかもしれない。
「あたしはそんなことしたつもりじゃ…信じてください!」
 橘が声を若干荒げて反論する。しかし佐々木は動じることなく、
「私もそう思う。そんなことをするなら私だけの時にすればよかったし、あなたがそういうことをするような人にも思えない。
周防さんだって私たちに危害を加えるつもりじゃなかったはず。でもね、それでも私は怖かった。あなた達にそのつもりがなくても私はそう感じたんだよ。
本当なら協力どころか関わりたくないと思うほどなんだけれどもあなたの熱意に負けたわ。だけど怖いからこの条件でお願いしたいの」
「怖い目に遭わせてしまったのは本当にごめんなさい。でもこの条件はあまりにも…」
「この条件でなければ私は絶対に協力しない。これだけは譲れないんだ」
 どうやら俺は早合点していたようだ。佐々木は混乱も動揺もしていなかった。今まで黙っていたのはこの事態を回避するためにずっと考えていたんだろう。
 考えると俺はこいつらのその場その場の反応に右往左往していたように思える。いつの間にか相手のペースに嵌っていたのかもしれない。
 しかし佐々木は相手に惑わされることなくしっかりと相手を突き詰めている。やはりお前はすごいやつだよ、佐々木。
 佐々木の発言の後暫く沈黙が場を包む。三人を見てみると橘は先ほどとは違い取り乱さなかったが焦りの表情を垣間見せ考え込んでいた。
 藤原は相変わらずどうでもよさそうに指でリズムを取っており、周防は授業中訪れた睡魔と死闘を繰り広げている様な顔をしている。
 先ほど会ったばかりだがこの三人の基本的な性格がなんとなく分かるな。
「…わかりました」
 沈黙を破ったのは橘だった。
「佐々木さんの条件を呑みます。あなたに協力してもらわないとあたし達は始まらないのですから…。
それにこちらが意図してないとはいえ佐々木さんとキョン君をひどい目に遭わせてしまったようです。
こちらはあなたに危害を加えたり目的の為に強引に協力をさせたりすることは望んでいません。
あくまでも好意的に協力してほしいだけなんです。だから先ほどのことを重ねてお詫びします、ごめんなさい」
 橘はそう言うと席を立ち頭を下げた。そして浮かない顔をして申し訳なさそうに、
「だけど先ほどの条件をそのまま受け入れることはちょっと難しいの。ほんのちょっとでいいの、譲歩してくれませんか?」
「譲歩というのはどの程度ですか?」
「まず一つ目の条件、これは先ほども言いましたが私達はお二人に危害を加えるつもりはありません。
この話が終わったらそのまま帰って頂くつもりでした。だからこれはこのままでいいです。
次に二つ目の条件ですがこれもその時にきちんと着てくださることを約束してくれるならこれでいいです。
ただし三つ目なんですがちょっとだけ変えさせてもらいたいの。お二人が拒んだら一切関わらないということは残念ですが無理矢理協力させるのはこちらとしても不本意です。
だけどこちらとしてもただ単に嫌だと言う理由だけで断られても非常に納得できないんです。だから断る時はしっかりとした理由がほしいんです。
あたし達を納得させる理由を…」
 成る程、一応筋は通ってるように聞こえる。向こうとしても本当は引き下がるつもりなんてさらさらないわけなんだが拒まれてはいそうですかと言いそうにないのは予想できる。
 俺がいろいろ考えてもいいんだがここは佐々木に任せたほうがよさそうだ。佐々木は暫く黙り込み俺の顔を見て橘に目線を移し、
「ええ、分かったわ。断る時は橘さんを納得させる理由をきちんと言う様にする。…それでいいかい、キョン?」
「俺はそれで構わん」
「ということだ。こちらはそれでいいよ」
 佐々木がそう言うと橘は少し控えめに微笑んだ。先ほどのように笑わないのは佐々木の出した条件のせいだろう。
 まぁなんとか話はまとまりそうだ。今日出来る話はこのくらいだろう。俺と佐々木は再び鞄を持ち席を立った。
「じゃあこれで僕たちは帰らせてもらおうか、キョン。さようなら、橘さん藤原君に周防さん。その時また会おう」
「はい。その時に良い結果になるように全力を尽くします」
 変な方向に全力を尽くされても困るんだがな。帰ろうとしたら突如出現した壁に阻まれたなんて事は二度と起こらないでほしいもんだ。
 佐々木も挨拶したし俺も一応挨拶しておくことにする。
「じゃあな。橘、周防…藤原」
 最後の奴の名前は呼びたくなかったんだが二人を呼んだ手前呼ばないわけにはいかない。
「今日はありがとう、キョン君」
「…ふん」
 橘も藤原も大体予想した反応を返してきたことを確認し、最後の周防は無言だろうと思って教室の入り口で待っている佐々木の後を追いかけようとした時、
「―――九曜」
「……え?」
 我ながら間抜けな声を出してしまった。まさか周防が何か言うとは思いもしなかった。
「ああ、名前はもう分かってる。周防九曜、だろ?」
「――――――」
 いくら俺の頭が悪いからといって先ほど自己紹介された人物の名前くらいは覚えてる。ましてやあれほどインパクトのある登場をした人物なんだ、忘れようがない。
「―――違う」
何がだ。
「―――九曜―――…そう呼んで」
 流石に変な奴とはいえ初対面の女子生徒の名前を呼ぶのは抵抗があるんだが…周防と呼ばれることが嫌なんだろうか。
 俺なんてキョンだぜ?ただでさえあまり気の乗らないニックネームなのに妹さえこう呼ぶのはなんとかならないもんかね。
 今や俺の名前をまともに呼んでくれるのは親くらいなもんだ。
 まぁ俺も名前に関してはかなり悩みがあるし本人がこう言ってるんだ、そう呼んでやるか。
「わかったよ、またな…九曜」
「――――――」
 沈黙する九曜に背を向け俺は佐々木の元に向かった。


 学校の帰り道、俺は佐々木と二人で歩いていた。学校の校門を出るまで此処から無事に出れるかとか、
 今も物陰からいきなり何かでてきやしないかと警戒していたが杞憂に終わりそうだ。
 行きはいくら急ぎたくてもそれを止める様な勢いの上り坂も、
 帰りはその分を埋め合わせるかのように歩くスピードを急かす程の勾配になっており、
 狭い道の割りにそこそこ通行人や車が通っていた。
 日も大分傾き小一時間もすれば薄暗くなってくるだろう。
 うちの近所の公園の近くの桜はもう一週間前ほどに散ってしまったが、
 高地にあるためか通学路の桜の木は花を咲かせまさに今が旬といったところだ。
 時折風が吹き桜の花びらが剥がれ落ち、見せる桜吹雪は風情や趣なんて言葉には無縁の俺にすら心地よいものに感じた。
 北高の校門を出て2.3分ほど歩き、待たなくてもそのまま渡れそうな交差点の信号待ちをしていると、
 ふと今朝佐々木が遅咲きの桜を楽しみながら話をしてもいいと言っていたのを思い出した。
「佐々木」
「なんだい?」
「さっきのあれなんだと思う?」
 俺と違い教科書がしっかり入った鞄を左手に持ち、
 下り坂に身を任せることなく歩く佐々木は俺の左横顔を見ながら口に笑みを含ませた。
「あの場で答えた通りさ。理解できるが信じられないの一言だね」
 たしか分子の構造から全く別のものにしちまう、か。
 確かに物の存在自体を全く違うものに変えちまうなんて話はファンタジーやSFの世界の話にしか思えない。
「おや、キミには理解しやすい話だと思ったんだがね。中学校の頃キミはいつもこんなことばかり言ってたじゃないか」
「中学の時はな」
 少しは大人になったってことさ。他人から見て平凡で夢見がちな中学生が後3年ほどすれば自分自身でも痛々しいと思えるような考えは中学で卒業したんだ。
 だが今日一日でその卒業証書が本物かどうか怪しいものになろうとしているのは何とも言えない心境である。
 確かお前とこういう話になったとき俺に架空の病名を告げたことがあったな。
 佐々木は右手の親指の付け根を口にあてるような仕草でくつくつと声を立て、
「エンターテインメイト症候群の話かい?ずいぶんと懐かしいじゃないか。
非現実的な現象に直面し快適とは言い難い状況に置かれ、
隠された秘力や意図せざる能力を得て、現状の打破を図らんとすることはフィクションの世界でしか有り得ないという説だったね。
そう、現実では確固たる法則によって支えられてるからこんなことは起こり得ない。
だけど先ほど僕達が置かれた状況は正にこの説を一刀両断するものだったと言えるんじゃないかな。
今度は隠された能力でも目覚めるんだろうか、ねぇキョン?」
 直接巻き込まれたのはお前だから目覚めるとすればお前じゃないのか?
 もしそうなったら俺は喜んで横でサポートする役割をさせてもらうさ。
「僕一人だけそんな事態に直面するようなことは勿体無い。サポートなんて遠慮せずに僕と一緒に当事者になろうじゃないか」
「勘弁してくれ、俺は脇役で充分だ。」
 確かに俺は超能力を使い謎の組織と戦うような物語の登場人物になりたいと思っていた。
 だが本当に自分がそんなキャラになってしまうとなると話は別だ。
 そうなってしまうことがどれほど不安なことか、誰もが同じ立場に立つとそう思うだろう。
 さて…お互い客観的に他人事の様に話してきたがそろそろ限界がきたようだ。
 信号が赤から青に変わり歩き始めようとした時、佐々木は2.3歩前に俺の前を歩き振り返った。
 僅かに微笑んではいるが真剣な表情をして、
「さて、そろそろ冗談を交えるのはやめようか。ちょっと話せる時間はあるかい?」
 端正な顔が夕日を浴び一層映える二つの黒い瞳が真直ぐ俺を見つめていた。


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最終更新:2007年11月24日 14:03
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