第七話
もうすぐ赤に替わる信号を、俺は急いで渡ろうとしていた。
ちょうどその時、暴走したトラックが俺にめがけて突っ込んでくる。
そして、姉貴の叫び声が聞こえた……。
薄いピンクの壁紙の部屋で俺は目覚めた。
俺の部屋じゃない。かと言って全く知らない部屋でもない。
ここは姉貴の部屋だ。
病院じゃないということは、さっきの事故は夢だったのか?
とりあえず俺はベッドから体を起こすことにした。
それにしてもなんだか体の感覚が変だ。特に、胸のあたり。
「……え?」
見下ろすと、薄い生地のパジャマに包まれて、はっきりとふたつのふくらみが見えた。
嫌な予感が頭をよぎる。
「まさか!」
慌てて股の間を探ると、やっぱりと言うか何と言うか、アレは無かった。
「な、な……!」
おおおお落ち着け俺!
とにかく部屋を見回してみよう。
机、俺の知ってるのとは違う。いつの間に替えたんだ?
電子オルガン、書きかけの楽譜が乗っている。
そして……鏡! 猛ダッシュで近寄って覗き込む。
鏡の中に映る人物を見て、俺はつばを飲み込んだ。
そこにあったのは、記憶の中より少し大人びた姉貴の姿だった。
本当に、どうなってるんだ?
俺は、表情を変えたり、顔を傾けたりしてみる。
すると鏡の中の姉貴も同じ行動を取る。
そんなことをしばらくやってると、突然、頭の中から声が聞こえてきた。
『メグル!』
それは音として聞こえたわけじゃない。しかし、不思議なことに、俺はその声を姉貴の声だと理解できた。
さらに、俺は逆に姉貴へ話しかける方法も自然と理解していた。
『姉貴、俺、どうなってるんだ?』
『うん、今から説明するよ。』
その話は、こんな世界でなければ到底信じられないようなものであった。
結論から言うと、目覚める前の光景は夢ではなかったようだ。
俺、
川端廻は、中学二年の夏、交通事故に遭い、死んだ……はずだった。
しかしその時、側にいた姉貴の身に変化が起きた。
当時まだ全く能力に目覚めていなかった姉貴は、俺の死を引き金に、昼夜両方の能力を手に入れたのだ。
その昼の能力こそが、姉貴の体を媒介に俺の魂を現世に繋ぎ止めるというもの。
俺はギリギリの所で姉貴に魂を拾われたのだ。
だが、事故のショックは大きかった。
その能力が今日の今日まで分からなかったのは、俺が三年もの間、姉貴の中で眠り続けていたからだ、と姉貴は語った。
(そうか、俺はもう……。)
やばい、なんだか泣いてしまいそうだ。
こらえるために拳をぎゅっと握る。
するとそこから無意識に淡い光が漏れる。
『廻、これだけは言っておくよ。』
俺は拳の光を強くしたり弱くしたりできることに気付いた。
間違いない。自分の体のどこからでも自由に白い光を放つ。
ライトと名付けた死ぬ前からの俺の能力だ。
『死者……幽霊はね、能力を使えないの。廻は世界から生者として認められてるんだよ。』
鏡の中の姉貴の顔がにっこりと微笑んだ。
『さ、着替えるから代わって。』
『へ?』
姉貴がそう言った途端、“奥”に引っ張られる感覚がした。
体の自由が利かない。いや、姉貴が動かしているのか。
姉貴は何の躊躇もなくパジャマを脱ぎ始めた。
『ちょ、ちょっと……!』
『何?』
『いや、その……。』
『もしかして、恥ずかしいの?』
俺は無言で頷く。実際に体が動かせるわけじゃないのだけど、そういうニュアンスも伝えることができるようだ。
『早く慣れないとダメだよ。』
そう言われても……。
つーか姉貴の方は俺がいるのに着替えるの平気なのかよ。
こういうのは女の方が順応が早いんだろうか。それとも単に歳の差なのか。
俺が悩んでいるうちに姉貴のスタイルの良い上半身があらわになる。って!
『ブ、ブラ付けてないのっ?』
『寝るときは付けないでしょ?』
聞き返されても知りませんから!
本当は目も背けたいのだが、姉貴が体を動かしている間はできないみたいだ。
その上、視覚や聴覚だけでなく触覚まで共有しているせいで、着替えの感触がやけに生々しく伝わってくる。
これはそう簡単に慣れそうにないぞ。いや、むしろ慣れたくない。慣れたら何か大切なものを失う気がする。
朝の出来事を回想しているうちに、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。
興味も無いし話にもついていけない授業は退屈すぎた。かと言って真面目に聞いている姉貴に話しかけるわけにもいかない。
記憶の旅に出かけるのも仕方ないことだったのだ。
「おっすー!」
姉貴が声を掛けたのは東堂先輩と静岡先輩だった。
高校が一緒になったのは聞いていたが、まさか大学まで一緒だったとは。
「よう、今丹下先生がいつ手袋を外すのかについて話してたんだ。」
「なにそれ?」
「輪は丹下先生の授業取ってないんだっけ? なんでも食事中ですら手袋着けてるって噂だよ。」
「ふーん。」
姉貴にはあまり興味は無さそうだった。
「ところで、昼の能力が分かったんだって?」
東堂先輩が話題を変えてきた。
そういや、姉貴が今朝そんな内容のメールを二人に送っていたな。
「そうそう。じゃあ紹介します。我が弟、廻クンです!」
姉貴がそう言った途端、いきなり体を動かせるようになった。
「ちょ、ちょっと、姉貴!」
姉貴は“奥”でにやにやしている。
しょうがない。俺は今朝両親にやったように二人の前で能力を使ってみせた。
「本当に、廻なの?」
「事故の時からずっと眠ってたらしいです。そんな感覚はありませんが。」
その時、ずっと神妙な顔をしていた静岡先輩が口を開いた。
「なあ、お前がサッカー部のマネージャーに告白したのは……」
「な、なんで知ってるんですかっ!」
「……いつだったか聞こうとしたけどその反応で本当に廻だって分かったからいいや。」
「いや、こっちの質問に答えてくださいよ!」
「俺の能力、知ってるだろ。」
ああ知ってるよ知ってます。無意識に人の秘密を目撃する能力。でも何もここで言わなくても……。
『へー、そんなことがあったんだ、知らなかった。』
『フラれたから言わなかったんだよ……。』
くそ、この人達はまったく……。
「それより、さっさと先生の所行かないと昼休み終わっちゃうよ。」
トリオ唯一の良心、東堂先輩がこの場を治めてくれた。本当に、頭が上がりません。
「あ、衛さん!」
どういうわけか知らないが、たどり着いた研究室の中にいたのは、俺と同じくらいの女の子がふたりだけ。
「勉強はかどってる?」
「飲み込みが早くて助かるわ。それより、さすがに毎日来なくても……。」
「だって、食堂混み過ぎなんすよ。」
あの、みなさん、なんでそんなナチュラルに溶け込んでるんですか?
『えーっと、この状況は……。』
『金髪の方がナオミ先生ね。』
『え? だって……。』
『能力のおかげで天才少女、ってところかな。』
『はぁ……。』
社会は広いんだなぁ。
「えっと、はじめ……まして?」
「あら、川端さん、どうしたの?」
「いや違うんすよ。こいつ輪の弟で……。」
静岡先輩が説明すると、
「なるほど。よろしくね、川端君。」
先生はあっさり受け入れて、こちらに手を差し出してきた。
反射的にその手を握る。
その時の先生の微笑みに、胸がどきりとして、すぐに離してしまった。
『じゃああっちの子は?』
『かれんちゃんね。あの子は衛が拾ってきたの。』
『それは……。』
東堂先輩を見ると彼女と楽しそうに話している。
どうやら俺は東堂先輩に対する認識を改めなければならないみたいだ。
放課後、姉貴の入ってるピアノサークルのミーティングも終わり、姉貴はひとりで駅までの道を歩いていた。
なにやら楽譜を書いたノートに向かいながらうなっている。
「ここがAマイナーだから……。」
『なあ、歩きながらだと危ないぞ。』
「ちょっと黙ってて!」
と言われてもなぁ。前から足音が聞こえてくるんだけど。
『もうすぐぶつかるってば。』
「えっ?」
姉貴が顔を上げたのと同時に、誰かと肩がぶつかった。
「ああん?」
ああ、最悪の状況だ。
相手はいかにも柄の悪そうな三人組だった。
「なんだ姉ちゃん、やる気か?」
真っ先に中央のモヒカン男が口を開いた。
それをなだめるように隣の赤髪男が言う。
「違うだろ、こういう時はこう言うんだ。
こんにちは、お姉さん。今から俺達と一緒に遊びませんか?」
男たちが笑い合う。
逆に姉貴は怯えている。体が震えて声も出せないようだ。
『姉貴! 代われ!』
『えっ?』
『いいから!』
正直、俺だって怖いさ。こんな大男三人。でもな……、
「お前らは犬とでも遊んでろ!」
姉貴は俺が守る!
「な、なんだ?」
「目が、目がぁー!」
「お前ら落ち着け!」
俺の最大出力のフラッシュだ。さて、このうちに逃げるか。
「くそ、あのアマ!」
「俺達を怒らせるとどうなるか思い知らせてやる!」
「お、あそこにいるぞ!」
げっ、あいつら、もう追いついてきやがった。
女物の靴ってどうしてこう走りにくいんだよ。
ふと空を見上げると、夕日が沈んでいく。
俺は持てる力を振り絞って走り続けた。
次に気がついた時には、朝になっていて、また姉貴のベッドの上だった。
日が完全に沈んで、廻が強制的に眠りについた後。
輪は引き続き三人組から逃げ続けていた。
少しでも向こうの目をあざむこうと、むやみやたらと交差点を曲がり続ける。
そうやっていると突然、誰かに物陰に押さえ込まれた。
身の危険を感じてバッグを武器のように構える輪。
しかし、よく見るとその相手は幸広であった。
びっくりして声を出しそうになるが、幸広がその口を塞ぐ。
遠くから三人組のやたら大きい声が聞こえてくる。
「ちっ、見失ったか……。」
「おい、どこに消えた?」
「なあ、もういいんじゃねえか? これ以上は疲れるだけだぜ。」
「……名残惜しいが、それもそうだな。」
どうやら危機は去ったようだ。
輪は幸広に尋ねる。
「どうしてここが……。」
「偶然、な。駅まで送ってくよ。」
「うん。」
弟に見られなくてよかった。そう輪は思う。
幸広の夜の能力は、無意識に女性との間に恋愛のきっかけを作る、というもの。
今、幸広が輪を助けられたのもそれだ。
きっかけだけなので実際に好きになるとは限らない。
だが、そんな状況を何年も積み重ねてきた輪の場合は、幸広に友達以上の想いを抱いていた。
いつ頃からだったかは、覚えていない。
「幸広、あの……。」
「ん、どうした?」
輪はその想いをまだ打ち明けていなかった。
怖いのだ。
衛も含めて、今の三人の関係がどうなるのか分からない。
そうやってためらっているうちに、自分ひとりの体ではなくなってしまった。
「ううん、なんでもない。」
それでもやっぱり打ち明けられない。
会話は弾まないまま、二人は駅に着いた。
「ありがとう、また明日ね。」
「おう。」
電車は時刻表通りに輪を乗せて走り出した。
登場キャラクター
最終更新:2010年08月01日 20:44