巻八十三 列伝第八

唐書巻八十三

列伝第八

諸帝公主

世祖一女 高祖十九女 太宗二十一女 高宗三女 中宗八女 睿宗十一女 玄宗二十九女 粛宗七女 代宗十八女 徳宗十一女 順宗十一女 憲宗十八女 穆宗八女 敬宗三女 文宗四女 武宗七女 宣宗十一女 懿宗八女 僖宗二女 昭宗十一女



  世祖に一女があった。

  同安公主は、高祖の同母妹である。隋州刺史の王裕にとついだ。貞観年間(623-649)、尊属として大長公主に進んだ。にわかに病んだが、太宗みずから訪問し、縑(かとり)五百を賜い、乳母らには皆物を賜った。永徽年間(650-655)初頭、実戸三百を賜り、年八十六で薨去した。
  王裕は、隋の司徒の王柬の子で、開府儀同三司に終わった。


  高祖に十九女があった。

  長沙公主は、馮少師にとついだ。
  襄陽公主は、竇誕にとついだ。
  平陽昭公主は、太穆皇后から生まれ、柴紹にとついだ。かつて、高祖が兵を興したとき、公主は長安にいた。柴紹は、「あなたはまさに出兵して京師を鎮めようとしています。わたしも行きたいです。お願いですからお供できませんか、どうでしょうか」といった。公主は「あなたは行きなさい。わたしは自分のはかりごとを実行します」といった。柴紹は間道を抜けて并州に逃れ、公主は鄠に逃れて、家財を発して南山の亡命者を招き、数百人をえてに呼応した。ここにおいて大賊である何潘仁は司竹園を根拠として行人を殺して総管と称した。公主は家奴の馬三宝を遣わして説諭してこれを降伏させて、ともに鄠県を攻めた。また別の部賊の李仲文・向善志・丘師利らをそれぞれ所領をもって旗下につかせ、よって盩厔・武功・始平を攻略してこれを降伏させた。法の遵守を部衆に誓わせ掠奪を禁止したから、遠近みな服し、兵七万となり、威は関中に振るった。帝は黄河を渡ると柴紹は数百騎で南山に並んで迎えた。公主は精兵数万人を率いて秦王(太宗)と渭北に会した。柴紹と公主はならんで幕府を設置して京師の平定にあたり、娘子軍と号した。帝が即位すると、功績によって物を賜うこと果てがなかった。
  武徳六年(623)に薨去し、葬列の前後に羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。太常は議して「婦人の葬は古より鼓吹はありません」といったが、は従わず、「鼓吹は軍楽である。かつて公主は身に金鼓をとって、参軍して命をたすけた。古にこのようなことがあったか。だから用いるべきだ。」と言った。
  高密公主は、長孫孝政にとつぎ、また段綸にとついだ。段綸は、隋の兵部尚書の段文振の子で、工部尚書・杞国公となった。永徽六年(655)に公主は薨去し、「わたしが葬られるときは必ず墓を東向きにさせ、献陵を望むようにし、孝を忘れないように願いたい」と遺命した。
  長広公主は、始め桂陽公主に封ぜられた。趙慈景にとついだ。趙慈景は、隴西の人で、はその姿が美しいのとよしとし、そのため彼に娶せた。帝が決起すると、ある者は逃亡を勧めたが、答えて「母は私を命としている。どうして行こうとするのだろうか」と述べたが、官吏に捕縛されて獄に繋がれた。が京師を平定すると、開化郡公に封ぜられ、相国府文学となった。兵部侍郎に進み、華州刺史となった。堯君素に討たれて戦死し、秦州刺史を贈られ、謚を忠といった。
  公主はさらに楊師道にとついだ。聡明で詩作を得意とし、豪奢な生活を自らほしいままにしたが、晩年になってようやく節制した。長寿で薨去した。
  長沙公主は、始め万春公主に封ぜられた。豆盧寛の子の豆盧懐譲にとついだ。
  房陵公主は、始め永嘉公主に封ぜられた。竇奉節にとつぎ、また賀蘭僧伽にとついだ。
  九江公主は、執失思力にとついだ。
  廬陵公主は、喬師望にとつぎ、喬師望は同州刺史となった。
  南昌公主は、蘇勗にとついだ。
  安平公主は、楊思敬にとついだ。
  淮南公主は、封道言にとついだ。
  真定公主は、崔恭礼にとついだ。
  衡陽公主は、阿史那社尒にとついだ。
  丹陽公主は、薛万徹にとついだ。薛万徹は愚かなこと甚だしく、公主は羞じて、同席しないこと数月であった。太宗はこれを聞いて笑って、酒宴を開いて他の者と万徹を召喚して従容として語り、槍を握って試合して佩刀を賭け、偽って勝てないふりをし、遂に佩刀を解いて賜わった。公主は喜び、命により同じ車に載って帰った。
  臨海公主は、裴律師にとついだ。
  館陶公主は、崔宣慶にとついだ。
  安定公主は、始め千金公主に封ぜられた。温挺にとついだ。温挺が死ぬと、また鄭敬玄にとついだ。
  常楽公主趙瑰にとついだ。が生まれ、周王の妃となると、武后がこれを殺した。趙瑰は括州刺史に左遷され、寿州にうつされた。越王李貞がまさに挙兵しようとして、趙瑰に書を与えて教え導いた。趙瑰はこれに応じようとし、公主もまた使者に進んでいった。「私は王に感謝します。ともに進みますが、退くことはありません。もし諸王らが皆立派な男であるなら、長々と留まっていないでただちにここに来るでしょう。私は次のように聞いています。楊氏が北周を簒奪した時、尉遅迥は北周のために出兵し、なおよく突厥と連合して天下を震撼させましたと。ましてや諸王は国の親族なのですから、国家は託するところで、身を捨てずに大義をとろうなど、何をしようというのでしょうか。人臣は同じく国を憂うのを忠臣といい、憂えないのは逆臣といいます。王らは努めなければなりません。」 越王李貞は敗れ、周興の弾劾により趙瑰と公主は連座となり、みな殺された。

  太宗に二十一女があった。

  襄城公主は、蕭鋭にとついだ。性格は親孝行で温厚であり、その行動は規則を守った。帝(太宗)は諸公主に勅してみならうように命じた。役人が別第の造営を告げたとき、「婦人は舅・姑につかえることは父母のようにしなければなりません。宮を異にすれば、できなかったり欠けたりすることがあるでしょう」と述べた。そのため造営をやめて元の邸宅のままとし、門列には二つの戟があるのみであった。蕭鋭が亡くなると、さらに姜簡にとついだ。永徽二年(651)に薨去し、高宗は命婦朝堂にて挙哀し、工部侍郎の丘行淹を遣わして逓送して弔祭し、昭陵に陪葬した。喪列が故城にいたると、帝(高宗)は楼に登って望見し、泣いて柩を見送った。
  汝南公主は、早く薨去した。
  南平公主は、王敬直にとつぎ、王敬直が連座して嶺南に流されると、さらに劉玄意にとついだ。
  遂安公主は、竇逵にとついだ。竇逵が死ぬと、また王大礼にとついだ。
  長楽公主は、長孫沖にとついだ。長孫皇后から生まれたことから、勅によって役人に命令して、送別の金銭を、長公主の倍の額にしようとした。魏徴は言った、「昔、漢の明帝は諸王を封じた時、『朕の子は先帝の子と同じような領地を得られるだろうか』と言いました。ですから長公主というのは、公主で最も尊いものです。制には等差というものがあり、どうして越えることができましょうか」と。帝はに語り、后は言った「陛下が魏徴を厚遇する理由はわかりませんでしたが、今その言を聞ききましたが、公主を礼義上の内におさめるというのは、社稷の臣ならではの言です。妾は陛下との間は夫婦の交わりがありますが、それでも言わなければならないことがあれば、なおも顔色を伺うのです。ましてや臣下の情は特別の待遇をへだてて、あえて厳顔をおかして忠言を述べるのです。願わくはこれを許されて、天下にこれを公けにしてください」と。帝は大いによろこび、帛四百匹・銭四十万を魏徴の家に賜った。
  豫章公主は、唐義識にとついだ。
  比景公主は、始め巴陵公主に封ぜられた。柴令武にとつぎ、房遺愛の反乱計画にともに連座して、公主も同じく死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈され、墓に廟を立てられ、四時祭では少牢(羊と豚)をお供えした。
  普安公主は、史仁表にとついだ。
  東陽公主は、高履行にとついだ。高宗が即位すると、大長公主に進んだ。韋正矩が誅されると、公主は婚家に連座して、排斥されて集州に徙された。また章懐太子に連座して、邑封を剥奪された。長孫无忌の舅族であったから、武后に憎まれ、垂拱年間(685-688)、二子とともに巫州に徙し置かれた。

  臨川公主は、韋貴妃から生まれた。周道務にとついだ。公主は篆書・隷書にすぐれ、文章をよくした。高宗が即位すると、『孝徳頌』を奉り、から詔を下されて褒賞にあずかった。永徽初年(650)、長公主に進み、恩賞は他より秀でていた。永淳初年(682)に薨去した。
  周道務は、殿中大監・譙郡公周範の子である。はじめ周道務は乳幼児の時、功臣の子であるから宮中にて養われた。周範が卒すると、邸宅に戻り、喪に服して身が衰える様子は成人のようであった。再び宮中に戻り、十四歳の時に宮中を出た。営州都督、検校右驍衛将軍を歴任した。謚を襄という。
  清河公主は、名を敬、字を徳賢といい、程懐亮にとつぎ、麟徳年間(644-645)薨去し、昭陵に陪葬された。程懐亮は、程知節の子であり、寧遠将軍に終わった。
  蘭陵公主は、名を淑、字を麗貞といい、竇懐悊にとつぎ、顕慶年間(656-661)に薨去した。竇懐悊は官は兗州都督となり、太穆皇后の族子であった。
  晋安公主は、韋思安にとつぎ、また楊仁輅にとついだ。
  安康公主は、独孤諶にとついだ。
  新興公主は、長孫曦にとついだ。

  城陽公主は、杜荷にとつぎ、太子李承乾の事件に連座して杜荷が処刑されると、また薛瓘にとついだ。
  はじめ公主が結婚の時、は占わせた。占いには「二火みな食す。始めは同じく栄え、末は同じく悲しむ。昼の暗い時に請ずれば吉である」とあった。馬周は諫めて言った、「朝謁を朝にするのは、思相が戒だからです。講習を昼にするのは、思相が成だからです。宴会を暗くなってからするのは、思相が歓だからです。婚礼を夜にするのは、思相が親だからです。だから上下には成があり、内外には親があり、動いたり休んだりするのは時があり、吉凶には儀があります。今さきにその始めを乱すようなことはしてはなりません。占いというのは疑いや迷いを決するためであって、もし礼をけがして先に乱すというのは、聖人の用いないことです」と。よって帝は止めにした。
  麟徳年間(644-645)初頭、薛瓘は左奉宸衛将軍を歴任した。公主が巫蠱のことに連座したため、薛瓘も房州刺史に左遷され、公主も従った。咸亨年間(670-674)、公主は薨去して薛瓘もまた卒した。柩を並べて京師に帰った。
  子の薛顗は、河東県侯・済州刺史に封じられた。琅邪王李沖が挙兵すると、顗と弟の薛紹は所領の庸・調より兵士を募り、かつこれに応じた。琅邪王李沖が敗れると、都吏を殺して口封じしたが、事は露見し、獄に下されてともに死んだ。

  合浦公主は、始め高陽公主に封ぜられた。房玄齢の子の房遺愛にとついだ。公主はに愛され、そのため礼は他の婿とは異なっていた。公主愛されていたから驕りたかぶっていた。房遺直は嫡子であるから銀青光禄大夫となっていたが、弟の房遺愛に譲ろうとし、帝は許さなかった。房玄齢が卒し、公主は遺愛に財産を異にさせ、かえって罵った。房遺直は自ら申し出たため、帝は叱責して公主に譲らせたため、免れることができた。これよりよそよそしくなり、公主は心が晴れ晴れしなかった。たまたま御史が盜みを弾劾し、僧弁機が金宝神枕を得て、自ら公主より賜ったと言っていた。はじめ寺院の封地にて、公主と房遺愛が猟をし、これを見て喜び、その寺に隠れては乱交にふけった。さらに二女子を房遺愛に従わせ、食糧を横流しして私すること億を数えた。ここにいたって僧は死罪となり、奴婢十余人も殺された。公主はますますうらみ、帝が崩じても哀みの顔色もなかった。
  また僧智勗は迎合して禍福を占い、恵弘はよく鬼神を見、道士李晃が医術をよくし、みな密かに公主に侍った。公主は掖廷令の陳玄運をして宮省の禨祥をうかがい、星次を歩いた。永徽年間(650-651)、房遺愛と謀反し、死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈された。
  金山公主は、早く薨去した。
  晋陽公主は、字を明達、幼字を兕子といい、文徳皇后から生まれた。よろこびや難しげな顔色をみせず、は怒り叱責することがあるたびに、必ず公主の顔をみると徐々に怒りがとけたから、省中は多くその恩恵を蒙り、誉め愛されないということはなかった。后が崩じた時、公主はまだ乳幼児だったからこれを理解しなかったが、五歳になると、后と遊んだ地をみるたびに哀しみにたえなかった。帝の諸子のなかで、ただ晋王(後の高宗)と公主が最年少であったから、親しく遊び、晋王が邸宅を出るたびに公主は虔化門で見送って泣いて別れた。晋王が幼年となって、朝堂に班ぶと、公主は泣いて「お兄ちゃんは群臣と同じになっちゃって、宮中にはかえってこないの」と言った。帝もまた涙を流した。公主は帝の飛白書を臨模したが、下々の者にはどちらが帝か公主かわからなかった。薨じたとき年十二歳であった。帝はひと月の間食事もままならず、日に数十回悲しみ、そのためやせ衰えた。群臣は励ましたが、帝は「朕がどうして悲しむことが無意味だと知らないとでもいうのだろうか?それでも悲しみがやまないのだ。私もまたその理由がわからないのだ」と言った。よって役人に詔して公主の皇族領を記録させ、仏寺のに墓を営んだ。

  常山公主は、とつがないうちに、顕慶年間(656-661)に薨去した。
  新城公主は、晋陽公主の同母妹である。長孫詮にとつぎ、長孫詮は罪によって巂州に徙された。さらに韋正矩に嫁し、奉冕大夫となった。韋正矩は公主に会っては礼をもってせず、突然薨去した。高宗は三司に審判するよう詔し、韋正矩は弁解することができなかったから、誅殺された。皇后の礼をもって昭陵の旁らに葬られた。


  高宗に三女があった。

  義陽公主は、蕭淑妃から生まれ、権毅にとついだ。
  高安公主は、義陽公主の同母妹である。始め宣城公主に封ぜられた。潁州刺史の王勗にとついだ。天授年間(690-692)、王勗武后に処刑された。神龍年間(707-710)初頭、長公主に封ぜられ、実封千戸となり、府を開いて官属を設置された。睿宗が即位すると、さらに千戸を増封された。開元(713-741)の時に薨じた。玄宗暉政門にて哭し、鴻臚寺に持節を遣して弔問させ、京兆尹に鴻臚寺を率いさせて喪事を護衛した。

  太平公主は、則天武皇后から生まれ、武后は諸公女のうちことのほか彼女を愛した。栄国夫人(武后の母)が死ぬと、皇后は公主を道士にさせ、冥福を祈らせた。儀鳳年間(676-679)に吐蕃が公主を降嫁させることを要請したが、武后は夷狄に捨て去るようなことはしたくはなく、本当に宮を築いて、方士のように薰戒させ、和親の事を拒んだ。しばらくして公主は紫の衣を着て玉帯をつけ、折上巾(冠)をかぶり、白粉をつけての前で歌い舞った。帝と武后は大笑して「この子は武官になれなければ、いったいお前はどうするのかのか?」と言った。公主は「駙馬(公主の夫)を賜わればいいのでは?」といった。帝はその思いを知り、薛紹を娶せ、万年県を婚館とし、門には人が多く集まってしまい翟車を収容できなくなったから、役人は垣を壊して入れるようにし、興安門よりかがり火を設置したから道の並木は枯れてしまった。薛紹が死ぬと、さらに武承嗣に嫁したが、武承嗣が病気となったため、武后は武攸曁の妻を殺して、武攸曁を公主の配偶者とした。公主は額が四角く顎がひろく、陰謀を多くし、母の武后は常に「私に似ている」と言っており、公主と内に謀とともにし、外には恐れられたから、武后の世が終わるまで他に非難する者などいなかった。
  永淳年間(682-683)以前、親王は実戸八百をはみ、増えても千戸止まりであり、諸公主は三百を超えなかったが、太平公主はひとりさらに戸五十を加え、聖暦年間(698-700)には三千戸に及んだ。張易之張昌宗の誅殺に功績があり、鎮国の号を贈られ、相王(後の睿宗)とならんで五千となり、また婚家の薛・武の二家の娘もみな実封をはんだ。公主と相王・衛王・成王・長寧公主安楽公主はみな衛士を給せられ、邸宅の周囲は十歩を一区とし、兵を持って衛らせ、ひそかに宮省にあやかった。神龍年間(705-707)には長寧公主安楽公主宜城公主新都公主定安公主金城公主の七公主は、みな府を開いて官属を置いた。安楽公主は戸数は三千にいたり、長寧公主は二千五百、府を開いたが長史は設置しなかった。宜城公主・定安公主は韋后からの生まれではなかったから、戸は二千止まりであった。公主の三子の薛崇簡武崇敏武崇行はみな三品を叙位された。
  韋皇后上官昭容の変事に、謀は公主の所から出たため、功は公主に遠く及ばず、これを憚った。公主はまた自ら我慢して必ず勝てるようにしたから、ますます専横となった。ここに天下の士を推薦し、儒者は多くが貧しいからと言って、厚く金帛を持たせて謝礼とし、大議を動かしたから、遠近より多くの者が集まって靡いた。
  玄宗韋氏を誅殺しようとして、公主と秘計をともにし、公主は子の薛崇簡を遣わして従わせた。事が定まり、まさに相王(睿宗)が即位しようとしたとき、そのことを言い出そうとする者がいなかった。公主は温王(殤帝)とその子をかえりみて、おどすようにして功績をたてた。温王にまみえて、「天下の事は相王に帰した。玉座は子供が座っているようなところではない」といい、温王を助けて下り、乘輿と服をとって睿宗に進めた。睿宗は即位し、公主の権はこれによって天下を震わせ、実封を加えて一万戸にもいたり、三子は王に封じられ、他は皆祭酒・九卿となった。
  公主は奏事するごとに、漏刻(水時計)がしばしば時を刻んでからようやく退出したが、公主の申すところは皆従った。人物を論じて薦めると、ある者は寒門より順序を踏まず一足飛びに侍従となったから、将相はきびすをめぐらせて足を運んだ。朝廷の大政の事は関わり決しないことは下さず、謁見しない間、すなわち宰相は公主の邸宅に就いて咨判を請い、天子はほとんど裁可するだけであった。公主は武后に侍ること久しかったから、前後の策を公主が人にわずかに指示するだけで、先事はすべて適合し、あたらないことはなかった。田園はあまねく都近郊にあり、すべて肥沃な土地であった。呉・蜀・嶺嶠の市で器をつくらせて用い、州県に護送させ、道に向かい合うほどであった。天下の珍しい奇怪な物は家に満ち、宴会の歌妓は天子と等しかった。仕える侍児は白い細絹を引き摺っている者が数百、奴婢や老女が千人、隴右の牧馬は万匹を数えた。
  長安の僧慧範が蓄財すること千万、権力を持つものと仲が良く、もとより張易之と親しかった。張易之が誅されると、ある者は彼が陰謀に関与した言うものもあり、上庸公に封じられ、月々俸禄を給付された。公主の乳母と密通し、奏上により抜擢されて三品御史大夫となり、御史の魏伝弓がその悪事を弾劾したため四十万を贓ったが、死刑を求刑した。中宗は赦そうと思ったが、魏伝弓は「刑や賞というのは、国の大事であって、陛下は賞をすでに妄りに加えられています。また死刑を廃そうとするのは、天下になんと言い訳すればいいのでしょうか?」と奏進したから、はやむをえず、銀印青綬(三品御史大夫)の階を削った。大夫の薛謙光は慧範の不法を弾劾し、公主が申理をして、そのため薛謙光らはかえって罪を得た。
  玄宗が太子監国となり、宋王李憲・岐王李範に禁兵を統轄させた。公主は権力を分けられたのを恨み、乗輦(睿宗)が光範門に至ると、宰相を召喚して廃太子を申した。ここに宋璟姚元之は喜ばず、公主を東都より出すことを請うたが、は許さず、詔して公主を蒲州を居らさせた。公主は大いに望んだが、太子はおそれた。奏上して宋璟・姚元之を排斥し、これで恨みを収めた。監察御史の慕容珣がまた慧範の事を弾劾したが、帝は慕容珣が骨肉離間しようとしていると疑ったから、密州司馬に左遷した。公主が都より出ていること四箇月、太子が上表したから京師に帰った。
  当時の宰相の七人のうち、五人は公主の門下より出ていた。また左羽林大将軍の常元楷・知羽林軍の李慈は皆公主に私淑しており、公主は内心では太子の聡明さを嫌っていた。また宰相はみなその郎党であり、そのため逆謀した。先天二年(713)、尚書左僕射の竇懐貞・侍中の岑羲・中書令の蕭至忠崔湜・太子少保の薛稷・雍州長史の李晋・右散騎常侍昭文館学士の賈膺福・鴻臚卿の唐晙および常元楷李慈慧範らが廃太子をたくらみ、常元楷李慈をして羽林兵を挙兵させて武徳殿に突入させて太子を殺し、竇懐貞・岑羲・蕭至忠が南衙で挙兵して応じる、というものであった。すでに数日をへて、太子はそのたくらみを知って、岐王李範・薛王李業・兵部尚書の郭元振・将軍の王毛仲・殿中少監姜皎・中書侍郎の王琚・吏部侍郎の崔日用が計画を定めた。その前日、王毛仲が宮中の閑馬三百をとり、太僕少卿の李令問王守一・内侍の高力士・果毅都尉の李守徳が虔化門を叩き、常元楷・李慈を北闕の下に梟首し、賈膺福を内客省にて拘束し、岑羲・蕭至忠を朝堂で捕らえて斬った。よって天下に大赦した。公主は変を聞き、逃亡して南山に入ったが、三日して出て来て、自邸にて死を賜った。諸子および党派の死者は数十人におよんだ。その田畑・財産を記録すると、珍宝は山のようであり、子に監督して貸与させていたが、三年たっても尽きることはなかった。
  子の薛崇簡はもとより公主の謀を知っていたから諫めたが、公主は怒り、拷問して鞭打ったから、ここにいたって官爵を復し、氏は李姓を賜った。
  はじめ公主は観池として楽游原をつくり、人々が盛んに集まった。公主が敗れると、寧王李憲・申王成義・岐王李範・薛王李業の四王兄弟に賜り、都の人は歳末の祓にこの地で禊した。


  中宗に八女があった。

  新都公主は、武延暉にとついだ。
  宜城公主は、始め義安郡主に封ぜられた。裴巽にとついだ。裴巽には愛妾がおり、公主は怒って、耳をきり鼻をそぎ、かつ裴巽の髮を切った。は怒り、公主を排斥して県主とし、裴巽もまた左遷された。しばらくしてまた元通りに封ぜられた。神龍元年(705)、長寧公主新寧公主安楽公主新平公主とともにみな進封された。
  定安公主は、始め新寧郡主に封ぜられた。王同皎にとついだ。王同皎が罪をえると、神龍年間(705-707)、また韋濯にとついだ。韋濯韋皇后の従祖弟にあたり、衛尉少卿として処刑されると、さらに太府卿の崔銑にとついだ。公主は薨去し、王同皎の子は父とともに合葬されることを請うたが、給事中の夏侯銛は「公主は王家の廟と義絶しており、恩は崔家の室となっています。逝った者は知ったならば、王同皎はまさにあの世で拒むでしょう」と言った。崔銑があるときに訴えたから、そのことは沙汰止みとなったが、夏侯銛は連座して瀘州都督に左遷された。

  長寧公主は、韋庶人から生まれ、楊慎交にとついだ。東都(洛陽)に邸宅を造営し、楊務廉をして造営の総監督とした。邸宅が完成すると府の財はいくばくか枯渇し、楊務廉を抜擢して将作大匠に任命した。また西京(長安)の高士廉の邸宅と左金吾衛の故営を合わせて邸宅とし、右は都城に、左は大道にうつむき、三重の楼閣を立てて展望とし、山を築いて池を浚った。はしばしば臨幸し、酒を置いて詩を賦した。また坊の西の空き地に広大な蹴鞠場をつくった。
  東都が永昌県を廃すると、公主はその治を自身の府とするよう請願し、その地は洛陽に瀕しており、これに鄣(障壁か)を築き、崇台・蜚観を連ね、考えもせずに二十万もの大金を費やした。魏王李泰の旧邸は東西一坊、溜池は三百畝に及んだが、魏王李泰が薨去したため、民間に与えられた。ここによって公主は請うて魏王李泰の旧邸を得て、亭閣を築いて、偽って「西京を囲った柵」であるとした。内には母の愛をたより、寵愛は一朝を傾け、安楽公主宜城公主の二公主、韋后の妹の郕国夫人崇国夫人と争任の事をともにし、賄賂が飛び交った。東都の邸宅が落成したが、住むことがなく、韋后が敗亡すると、楊慎交は左遷されて絳州別駕となり、公主も共に赴き、東都の邸宅を景雲祠とすることを請い、西京の邸宅を売却したが、木石の値段の評価額は銭二十億万にも及んだ。
  開元十六年(728)、楊慎交が死ぬと、公主はさらに蘇彦伯に嫁した。楊務廉がついに数十万もの坐贓(受諾収賄罪)によって終身免職となった。

  永寿公主は、韋鐬にとついだ。早く薨去し、長安年間(701-705)初頭に追贈された。
  永泰公主は、郡主として武延基にとついだ。大足年間(701)、張易之にさからい、武后に殺された。が追贈し、礼をもって改葬し、墓を号して陵とした。

  安楽公主は、最も幼いむすめであった。が房陵に流罪となったときに公主は生まれ、衣をほどいて褓(おくるみ)としたから、名を裹児といった。眉目秀麗かつ聡明で、韋皇后が最も愛した子であった。武崇訓にとついだ。が復位すると、艶やかさは天下を動かし、侯王柄臣は多くその門より出た。かつて詔によって門前を塞ぐべく帝の裁可を請うたが、帝は笑って従った。また皇太女とするよう請うた。左僕射の魏元忠が諫めた。公主は「魏元忠は山東の無骨者で、カラスなんぞに国事を論ずるに足るでしょうか?武氏のお子がなお天子になったというのに、天子が女であることにいけないことなどありますか?」と言った。太平公主ら七公主とともに皆府を開いたが、安楽公主府の官属はむやみに多くいて、みな身分の低い者から出た。財産を納めた者に売官し、墨勅斜封をくだして授けた。そのため斜封官といった。
  公主は邸宅と安楽仏廬を造営し、その方式は宮省を模倣し、工事は精巧でこれ以上の物はなかった。かつて昆明池を自分の沼にするよう請うたが、は「先帝はいままで人に与えたことはなかった」といったから公主は不機嫌となり、自ら昆池を定めて開鑿し、広げ延ばすこと数里。定まってから言上し、抗うべくただした。司農卿の趙履温が修繕して、石を重ねて肖華山とし、階段・丸木橋をかけ、渕をめぐらすこと九度、石で噴水をつくった。また宝玉の火鉢をつくり、怪獣・神禽を彫刻し、その間を螺鈿・珊瑚で飾りたてるなど、言いつくすことができないほどであった。
  武崇訓が死ぬと、公主は平素より武延秀と不倫していたから、即時武延秀に嫁した。この日、后の車輅(天子の車)が宮より出て公主の邸宅に至り、韋皇后は安福門に御して臨観し、雍州長史の竇懐貞に詔して礼会使とし、弘文館学士に挨拶をし、相王(後の睿宗)は車をふさいだ。内帑して賜わった金帛は計り知れなかった。翌日、群臣と太極殿に会し、公主は翠服を着て出て、天子に向かって再拝した。南面して公卿に拝し、公卿は皆地に伏せて稽首した。武攸曁太平公主とともに舞って帝の寿を祝った。群臣に帛を数十万賜った。帝は承天門に出御し、大赦し、よって民に宴を賜うこと三日、内外の官に勲を賜い、礼官の属によって階・爵を兼任させた。臨川長公主の邸宅を奪って邸宅とし、その一方で民家を撤去し、怨嗟の声は傲然とした。邸宅が完成すると、宮中の金庫は尽きて空しくなり、臨時に一万もの騎仗をならべ、宮中に音楽を奏でて公主を邸宅に送り、天子は親ら行幸し、近臣と宴した。崇訓の子はわずか数歳で太常卿を拝命し、鎬国公に封ぜられ、実封は戸五百であった。公主の産後に帝と后は再度邸宅に行幸し、天下に大赦した。
  公主と長寧公主定安公主の三家の家奴は民間の子女を拉致して奴婢とし、左台侍御史の袁従一は逮捕して獄に下した。公主は入朝して訴え、は手ら詔して赦免した。袁従一は「陛下は公主の訴えをいれられましたが、ほしいままに家奴や平民をさらったら、どうやって天下を治めるというのでしょうか?臣は、家奴を釈放すれば禍を免れ、家奴を弾劾すれ公主は罪を得てしまうということをわかっていますが、だからといって陛下の法を曲げるには忍びないのです。私は恥を忍んで生き長らえるのです」と言ったが、受け入れられなかった。
  臨淄王隆基(後の玄宗)が庶人(韋皇后)を誅殺した時、公主はまさに鏡をみながら眉をつくっていた。乱を聞いて、逃走して右延明門に至ったが、兵に追いつかれ斬首された。追貶して「悖逆庶人」と称された。睿宗が即位すると、詔して二品の礼によって葬られた。
  趙履温は諂って公主に仕えかつて朝服をはいで、車を曳いたことがあった。庶人(安楽公主)が死ぬと、承天門で舞い踊って万歳と唱えたが、臨淄王隆基(後の玄宗)はこれを斬殺し、父子は同じく刑された。百姓は病気に効き目があるとして、その肉を割り取って行った。

  成安公主は、字を季姜といった。始め新平公主に封ぜられた。韋捷にとついだ。韋捷韋皇后の従子として処刑され、公主はのちに薨去した。


  睿宗に十一女があった。

  寿昌公主は、崔真にとついだ。
  安興昭懐公主は、早く薨去した。
  荊山公主は、薛伯陽にとついだ。
  淮陽公主は、王承慶にとついだ。
  代国公主は、名を華、字を華婉といい、劉皇后から生まれた。鄭万鈞にとついだ。
  涼国公主は、字を華荘といい、始め仙源県主に封ぜられた。薛伯陽にとついだ。
  薛国公主は、始め清陽公主に封ぜられた。王守一にとついだ。王守一が処刑されると、さらに裴巽にとついだ。
  鄎国公主は、崔貴妃から生まれた。三歳のとき貴妃が薨去すると、哭泣して三日食わず、成人のようであった。始め荊山公主に封ぜられた。薛儆にとつぎ、また鄭孝義にとついだ。開元年間(713-741)初頭、封邑が千四百戸にいたった。
  金仙公主は、始め西城県主に封ぜられた。景雲年間初頭(710-712)に進封された。太極元年(712)、玉真公主とともに道士となり、京師に道観を築き、方士の史崇玄を師とした。史崇玄はもとは寒人で、太平公主につかえて、禁中に出入りすることができ、鴻臚卿に任ぜられて、威光は重なり、道観を建造するにあたって、詔して史崇玄に監督させ、日に一万人を動員した。多くの仏僧がこれをねたみ、銭数十万で狂人の段謙を雇って承天門から乱入し、太極殿に昇って天子を自称させた。役人が逮捕すると、「崇玄をして我を来さしめた」といったが、詔して嶺南に流刑し、また僧・道士に勅して互いに争わないようにさせた。太平公主が敗れると、史崇玄は処刑された。
  玉真公主は、字を持盈といい、始め崇昌県主に封ぜられた。にわかに上清玄都大洞三景師の号を進った。天宝三載(744)、上言して、「先帝は私に家を捨てることを許されました。今、公主の邸宅・食租賦をむさぼっていますが、誠に願わくば公主の称号をお返しし、食邑司を止め、これを国庫に返したいです」と言った。玄宗は許なかった。また「私は高宗の孫で、睿宗の娘で、陛下の妹で、天下に卑しからざる者です。どうして公主の号や湯沐料で名をつなぐ必要がありましょうか。それがなければ貴いとされないのでしょうか?願わくは数百家の産を入れ、功徳で十年の命を延ばしたいのです」と言い、はその深厚なる心を知って、これを許した。宝応年間(762-763)に薨去した。
  霍国公主は、裴虚己にとついだ。


  玄宗に二十九女があった。

  永穆公主は、王繇にとついだ。
  常芬公主は、張去奢(張去盈の誤り)にとついだ。
  孝昌公主は、早く薨去した。
  唐昌公主は、薛鏽にとついだ。
  霊昌公主は、早く薨去した。
  常山公主は、薛譚にとつぎ、また竇沢にとついだ。
  万安公主は、天宝(742-756) のとき道士となった。

  開元の新制では、長公主は封戸二千、帝の妹は戸千、率は三丁を以て限とした。皇子王は戸二千、公主はその半分であった。事情によってさらに減じられた。玄宗は「百姓の租賦は朕のあるところではなく、士は万死の功によって、賞はようやく束帛をもらえるに過ぎない。女は何の功があって多大の封戸を受けるのであろうか?倹約することも知らしめるのは、またできないことではないのだろうか?」といい、これによって公主はほとんど車服を給付されなかった。後に咸宜公主は母の愛によって封を増加されて千戸に至り、諸公主もみな増加し、これより令に著されることとなった。公主で下嫁しないものは、また千戸を封ぜられ、有司に奴婢を給されることは令の通りであった。

  上仙公主は、早く薨去した。
  懐思公主は、早く薨去し、台を築いて葬られ、登真と号した。
  晋国公主は、始め高都公主に封ぜられた。崔恵童にとついだ。貞元元年(785)、宿国の九公主とともに同じく徙封された。
  新昌公主は、蕭衡にとついだ。
  臨晋公主は、皇甫淑妃から生まれた。郭潜曜にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。
  衛国公主は、始め建平公主に封ぜられた。豆盧建にとつぎ、また楊説にとついだ。貞元年間(785)に薨去した。
  真陽公主は、源清にとつぎ、また蘇震にとついだ。
  信成公主は、独孤明にとついだ。
  楚国公主は、始め寿春公主に封ぜられた。呉澄江にとついだ。上皇が西宮に居るとき、ひとり公主は入侍した。興元元年(784)、請うて道士となり、詔があって裁可され、名を上善と賜った。
  普康公主は、早く薨去した。咸通九年(868)に追封された。
  昌楽公主は、高才人から生まれた。竇鍔にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。
  永寧公主は、裴斉丘にとついだ。
  宋国公主は、始め平昌公主に封ぜられた。温西華にとつぎ、また楊徽にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。
  斉国公主は、始め興信公主に封ぜられ、寧親公主に徙封された。張垍にとつぎ、また裴潁にとつぎ、最後には楊敷にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。
  咸宜公主は、貞順皇后から生まれた。楊洄にとつぎ、また崔嵩にとついだ。興元年間(784)に薨去した。
  宜春公主は、早く薨去した。
  広寧公主は、董芳儀から生まれた。程昌胤にとつぎ、また蘇克貞にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。
  万春公主は、杜美人から生まれた。楊朏にとつぎ、また楊錡にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。
  太華公主は、貞順皇后から生まれた。楊錡にとついだ。天宝年間(742-756)に薨去した。
  寿光公主は、郭液にとついだ。
  楽城公主は、薛履謙にとつぎ、嗣岐王李珍の事件に連座して処刑された。
  新平公主は、常才人から生まれた。幼いころより聡明で、習って図訓を知り、は賢いとした。裴玪にとつぎ、また姜慶初にとついだ。姜慶初は罪を得て、公主も禁中に幽閉された。大暦年間(766-779)に薨去した。
  寿安公主は、曹野那姫から生まれた。妊娠九か月で生まれ、はこれを嫌って、詔して道士が着る衣羽服を与えた。代宗が広平王の時に入謁したが、帝は名前で公主を呼んで、「蟲娘よ、お前には後で名前を与えるべきだ。広平王は霊州にいるから封を願いなさい」と言った。蘇発にとついだ。


  粛宗に七女があった。

  宿国公主は、始め長楽公主に封ぜられた。豆盧湛にとついだ。
  蕭国公主は、始め寧国公主に封ぜられた。鄭巽にとつぎ、また薛康衡にとついだ。乾元元年(758)、回紇(ウイグル)の英武威遠可汗に降嫁し、公主府を設置した。乾元二年(759)、帰朝した。貞元年間(785)、府属を譲ったが、さらに邑司を設置された。

  和政公主は、章敬太后から生まれた。生まれて三歳、は崩じ、韋妃に養育された。性格は聡明で、妃につかえて孝ありと称された。柳潭にとついだ。安禄山が京師を陥落させると、寧国公主(蕭国公主)は寡婦で暮らしていたから、公主は自身の三子を捨て、夫柳潭の馬を奪って寧国公主を乗せ、自身は柳潭とともに歩くこと日に百里、柳潭は水薪を背負い、公主は竈を背負い、寧国公主を守った。
  それより以前、柳潭の兄の柳澄の妻は、楊貴妃の姉(秦国夫人)であり、勢いは国政を傾けるほどであったが、公主はいまだかつて私事で助けを求めたことがなかった。夫人が死ぬと、その子供を撫育することは自身が産んだ子のようであった。玄宗に従って蜀に至り、始め封を受け、柳潭も駙馬都尉に任じられた。郭千仞が反乱すると、玄宗は玄英楼に御して諭して降伏させようとしたが、聞かなかったため、柳潭は折衝の張義童らを率いてとくに死闘し、公主も弓を射当てて柳潭をたすけ、柳潭は手ずから賊を斬ること五十人で、これを平定した。
  粛宗が病となると、公主はその左右に侍って看病に励んだから、詔して田を賜ったが、妹の宝章公主)がいまだに賜っていないことを理由に、固く譲ってあえて受けなかった。阿布思の妻が後宮に入れられ、が宴すると緑の衣を着て歌わされていた。公主は諫めて「阿布思は本当の逆人で、妻を至尊にお近くに入れてはなりません。罪なくして大勢とともに歌わせていいのでしょうか」と。帝はそのため許して宮中より出した。自ら兵を養い、財を用立てて費やし、公主は貿易によって得た利益千万をとって軍をうごかした。帝の山陵の造営するに及んでは、また食邑を奉って千万を入れた。
  代宗が即位すると、しばしば人間の利病・国家の盛衰の事をのべ、天子は受け入れた。吐蕃が京師に侵入すると、公主は避難して南に逃げ、商於にいたると群盜に遭遇し、公主は禍福を諭したから、皆ひざまずいて奴となることを願った。代宗は公主が貧しいから、諸節度使に詔して贈物させたが、公主はすべて受け取らなかった。自ら裳衣の綻びを縫い合わせ、諸子にも練り絹や細かい葛の服を着せなかった。広徳年間(763-764)、吐蕃が再び入寇したとき、公主は妊娠中で、入朝して辺境への備えの計略を語ろうとし、柳潭は強くとめたが、公主は「あなただけはお兄さんがいないというのですか?」といい、内殿に入った。翌日、出産して薨去した。

  郯国公主は、始め大寧公主に封ぜられた。張清にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。
  紀国公主は、始め宜寧公主に封ぜられた。鄭沛にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。
  永和公主は、韋妃から生まれた。始め宝章公主に封ぜられた。王詮にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。
  郜国公主は、始め延光公主に封ぜられた。裴徽にとつぎ、また蕭升にとついだ。蕭升が亡くなると、公主と彭州司馬の李万は乱倫にふけり、しかも蜀州別駕の蕭鼎・澧陽令の韋惲・太子詹事の李衛はみな公主の家に私侍した。しばらくして不祥事を聞いて徳宗は怒り、公主を他邸に幽閉し、李万を杖殺し、蕭鼎・韋惲・李衛を嶺表に流した。貞元四年(788)、また巫蠱での呪詛で廃された。貞元六年(790)に薨去した。子の蕭位は巫蠱の呪詛に連座し、端州に幽閉され、蕭佩・蕭儒・蕭偲は房州に捕らえらた。前夫の間に産んだ子の駙馬都尉の裴液は錦州にとらえられた。公主のは皇太子妃となり、は妃の怨みを恐れ、まさに殺そうとしたが、発覚する前にたまたま公主は薨去したから、太子(順宗)が病となっているすきに、妃を殺して災いを除いた。諡を恵といった。


  代宗に十八女があった。

  霊仙公主は、早く薨去し、追封された。
  真定公主は、早く薨去した。追封された。
  永清公主は、裴倣にとついだ。
  斉国昭懿公主は、崔貴妃から生まれた。始め升平公主に封ぜられた。郭曖にとついだ。大暦年間(766-779)末年、寰内の民が涇水が磑壅(水車)のために灌漑田ができないことを訴え、京兆尹の黎幹が奏請した。詔して磑を撤去して水を民に与えた。当時公主および郭曖の家ではみな磑(うす)があり、残置を請うたが、は「私が民草のためか、もしくは諸親戚の訴えのためにすべきなのか」といって、即日毀し、これによって廃するところは八十所に及んだ。憲宗が即位すると、女伎を献じた。帝は「太上皇(順宗)は献を受けなかったが、朕はどうして敢えて違うというのか?」といい、返却した。元和年間(806-820)に薨去した。虢国公主と追贈し、諡を賜った。穆宗が即位するとまた贈封した。
  華陽公主は、貞懿皇后から生まれた。聡明なこと人より秀で、はこれを愛した。帝が喜ぶところを見ると、必ずよろこんだ。嫌うところがあれば曲げても迎合した。大暦七年(772)、病のため請願して道士となり、瓊華真人と号した。病が重く、帝は指を噛んで傷けた。薨去し、追封された。
  玉清公主は、早く薨去し、追封された。
  嘉豊公主は、高怡にとついだ。普寧公主とともに同時に降嫁し、役人はともに光順門で冊礼したが、雨のためにできず、中止した。建中年間(780-783)に薨去した。
  長林公主は、衛尉少卿の沈明にとついだ。貞元二年(786)冊礼したが、徳宗は正殿に御さず、音楽も設けず、遂にこれが故事となった。元和年間(806-820)に薨去した。
  太和公主は、早く薨去し、追封された。
  趙国荘懿公主は、始め武清公主に封ぜられた。貞元元年(785)、嘉誠公主に徙封された。魏博節度使の田緒にとつぎ、徳宗望春亭に行幸して餞とした。厭翟車(公主の車)が破れて乗ることができなかったため、金根車(皇后の車)で代用した。公主が出降すると金根車に乗る慣例は、公主のときより始まった。元和年間(806-820)に薨去し、贈封と諡があった。
  玉虚公主は、早く薨去した。
  普寧公主は、呉士広にとついだ。
  晋陽公主は、太常少卿の裴液にとついだ。大和年間(827-835)に薨去した。
  義清公主は、秘書少監の柳杲にとついだ。
  寿昌公主は、光禄少卿の竇克良にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。
  新都公主は、貞元十二年(796)に田華にとつぎ、光順門で礼し、令で定められた五礼はこれによって廃止された。
  西平公主は、早く薨去した。
  章寧公主は、早く薨去した。


  徳宗に十一女があった。

  韓国貞穆公主は、昭徳皇后から生まれた。幼くして親孝行につとめ、はこれを愛した。始め唐安公主に封ぜられた。秘書少監の韋宥にとつぐところだったが、朱泚の乱のためかなわず、このため城固にいたって薨去し、加封と謚があった。
  魏国憲穆公主は、始め義陽公主に封ぜられた。王士平にとついだ。公主は勝手な振舞いで法をおかし、は公主を禁中に幽閉した。王士平を邸宅に禁錮した。しばらくして安州刺史を拝したが、民間との交わりで連座して、賀州司戸参軍に左遷された。門下客の蔡南史・独孤申叔が公主のために「団雪散雪の辞」をつくり離別の思いの手紙とした。帝は聞いて怒り、南史らを捕らえて放逐し、しばらくして進士科を廃止した。薨去し、追封と諡があった。
  鄭国荘穆公主は、始め義章公主に封ぜられた。張孝忠の子の張茂宗にとついだ。薨去し、加贈と諡があった。
  臨真公主は、秘書少監の薛釗にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。
  永陽公主は、殿中少監の崔諲にとついだ。
  普寧公主は、早く薨去した。
  文安公主は、求めて道士となった。大和年間(827-835)に薨去した。
  燕国襄穆公主は、始め咸安公主に封ぜられた。回紇の武義成功可汗にとつぎ、公主府を設置した。元和年間(806-820)に薨去し、追封と諡があった。
  義川公主は、早く薨去した。
  宜都公主は、殿中少監の柳昱にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。
  晋平公主は、早くに薨去した。


  順宗に十一女があった。

  漢陽公主は、名を暢といい、荘憲皇后から生まれた。始め徳陽郡主に封じられた。郭鏦にとついだ。辞して邸宅に帰るとき、涕泣してどうすることもできなかった。徳宗は「お前に足りないことでもあるか」と聞くと、答えて「離れることを思ってで、ほかに恨みはありません」と言った。もまた泣いて太子をかえりみて「ほんとうの子だな」と言った。
  永貞元年(805)、諸公主とともに皆進封された。時に外戚や近臣はあらそって傲慢大言したが、公主はひとり倹約し、常に鉄の簪、壁画を用い、田租を記して入れた。文宗は最も世の中が奢侈に流れるのを憎み、よって公主を入朝させ問うた、「叔母上が着ている服は、何年のものか。今の弊害は何代にしてそうなったのだろうか?」と。公主は「私は貞元年間(785-805)の時に宮を辞してより、服するところはみな当時賜ったもので、いまだかつてあえて変えていません。元和の後、しばしば兵を用いましたが、ことごとく禁蔵の纖麗物を出して戦士の賞としました、これによって民間に流出し、内外は互いに自慢しあったので、慣れてこのような風潮となったのです。もし陛下がよしとするところを天下にお示しあれば、誰があえて変えようとするでしょうか?」と答えた。は喜び、宮人に詔して公主の衣の広狭のつくりをみせ、ひとえに諸公主を諭し、かつ京兆尹に勅して華美を禁じた。公主はかつて諸皇女を戒めて「亡き姑(昇平公主)が申していましたが、私もお前もみな帝の子である。えらそうにして貴顕であることを奢れば、戒めなくてはならなくても頼みとはしてくれないだろうと」と言った。開成五年(840)に薨去した。

  梁国恭靖公主は、漢陽公主と母を同じく生まれた。始め咸寧郡主に封ぜられ、普安に徙封された。鄭何にとついだ。薨去し、追封と謚があった。
  東陽公主は、始め信安郡主に封ぜられた。崔杞にとついだ。
  西河公主は、始め武陵郡主に封ぜられた。沈翬にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。
  雲安公主は、また漢陽公主と同じく生まれた。劉士涇にとついだ。
  襄陽公主は、始め晋康県主に封ぜられた。張孝忠の子の張克礼にとついだ。公主は雄健奔放で、常に市や里にお忍びで行った。薛枢薛渾李元本はみな密通して侍ったが、薛渾を最も愛し、薛渾の母に会うと姑のようであった。役人は難詰しようとしたから、多くの金を与え、暴かれないようにさせたが発覚し、夫の張克礼は奏上して、穆宗は公主を禁中に幽閉した。李元本は功臣李惟簡の子であるから、死を免じて象州に流刑とし、薛枢・薛渾は崖州に流刑とした。
  潯陽公主は、崔昭儀から生まれた。大和三年(829)、平恩公主邵陽公主の二公主とともにそろって道士となり、一年に封物七百匹を賜った。
  臨汝公主は、崔昭訓から生まれた。早く薨去した。
  虢国公主は、始め清源郡主に封ぜられ、陽安に徙封された。王承系にとついだ。薨去し、追封された。
  平恩公主は、早く薨去した。
  邵陽公主は、早く薨去した。


  憲宗に十八女があった。

  梁国恵康公主は、始め普寧公主に封ぜられた。は特に彼女を愛した。于季友にとついだ。元和年間(806-820)に永昌にうつった。薨去し、詔により追封と諡があった。葬られるときに、度支使(財賦の調達と出納を担当した使職)が義陽公主義章公主の葬儀に銭四千万が用いられたと上奏したので、詔によって銭千万を減らされた。
  永嘉公主は、道士となった。
  衡陽公主は、早く薨去した。
  宣城公主は、沈𥫃にとついだ。
  鄭国温儀公主は、始め汾陽公主に封ぜられた。韋譲にとついだ。薨去し、追封と諡があった。
  岐陽荘淑公主は、懿安皇后から生まれた。杜悰にとつぎ、は公主のために正殿に御して臨遣し、西より朝堂を出て、再び延喜門に御し、公主の車を止め、大いに賓客・従者に金銭を賜った。邸宅を昌化里に建造し、龍首池から水を水路で引き入れて沼とした。懿安皇后の家は尚父(郭子儀)で、大通里の亭を公主の別館とした。貴きことは当世を震わせた。しかし公主が舅姑に仕えることは礼を以て聞き、賜わった奴婢は自由のびのびとさせ、皆上に返却し、直接請うて自ら市場に出かけた。杜悰は澧州刺史となり、公主は共に任地に赴き、従者は二十婢を超えなかった。驢馬に乗り、肉食せず、州県には必要な事柄がそなわっているから、それ以外の物は拒んで受けなかった。姑が病となって寝たきりとなると、公主は着替えもせず、薬は自分で嘗めて確認しなければすすめなかった。開成年間(836-841)、杜悰は忠武軍より入朝したが、公主は病に侵されており、「願わくは興慶宮に入朝できれば、道に死すといえども恨みません」と言い、途中で薨去した。
  陳留公主は、裴損にとついだ。裴損は太子諭徳となった。
  真寧公主は、薛翃にとついだ。
  南康公主は、沈汾にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。
  臨真公主は、始め襄城公主に封ぜられた。衛洙にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。
  普康公主は、早くに薨去した。
  真源公主は、始め安陵公主に封ぜられた。杜中立にとついだ。
  永順公主は、劉弘景にとついだ。
  安平公主は、劉異にとついだ。宣宗が即位すると、宰相は劉異を平盧節度使にしようとしたが、は「朕のただひとりの妹であり、会いたい時に彼女と会いたいのだ」といった。そこで中止した。後に異居外への赴任に従ったが、歳時には駱駝に乗って入朝することとなった。乾符年間(874-879)に薨去した。
  永安公主は、長慶年間(821-825)初頭、回鶻の保義可汗に降嫁されることとなったが、たまたま可汗が死んだため、中止して行かなかった。大和年間(827-835)、求めて道士となり、詔して邑印を賜ることは、尋陽公主の故事の通りであり、かつ婚資に帰した。
  義寧公主は、とつがないうちに薨去した。

  定安公主は、始め太和公主に封ぜられた。回鶻の崇徳可汗にとついだ。会昌三年(843)来帰し、宗正卿の李仍叔・秘書監の李践方らに詔して景陵に報告させた。公主は次いで太原に奉ぜられ、詔して使の労をいたわり、黠衛斯(キルギス)が献ずるところの白貂皮・玉の指環をもって往賜した。京師に至り、百官に詔して迎謁再拝させた。邑司の官が命を受けて答拝する故事にならった。役人は議して「邑司の官は身分が低く、該当させるべきではない」と言った。群臣は公主の左右の上媵(おつき)に鬢の帛をつけて承拝することを請い、両襠(うちかけ)をつけて待命させた。また神策軍四百に行列させて、群臣に列班迎接させた。公主は輅(くるま)に乗って憲・穆の二廟室に謁し、涙を流してすすり泣き、退いて光順門に詣り、服をかえ、冠の宝鈿をはぎ、待罪し、自ら和親を申して書面にはしなかった。は中人を遣わして慰労させ、また冠の宝鈿をつけて入朝し、群臣は天子に祝賀を申し述べた。また興慶宮に詣でた。翌日、公主は太皇太后に謁し、長公主に進封し、ついに太和公主府は廃止となった。公主が始めて至った時、宣城公主以下、七公主は出迎えしなかった。武宗は怒り、絹で贖罪させた。宰相が「礼の始まりは宮中の女房部屋で、天下に行われ、王化の美です。願わくば史書に載せ、後世に示してください」と建言し、詔して裁可された。
  貴郷公主は、早くに薨去した。


  穆宗に八女があった。

  義豊公主は、武貴妃から生まれた。韋処仁にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。
  淮陽公主は、張昭儀から生まれた。柳正元にとついだ。
  延安公主は、竇澣にとついだ。
  金堂公主は、始め晋陵公主に封ぜられた。郭仲恭にとついだ。乾符年間(874-879)に薨去した。
  清源公主は、大和年間(827-835)に薨去した。
  饒陽公主は、郭仲詞にとついだ。
  義昌公主は、道士となった。咸通年間(860-874)に薨去した。
  安康公主は、道士となった。乾符四年(877)、公主が在外のためすこぶる人を騒がせるから、詔して永興公主天長公主寧国公主興唐公主らとともに南内(興慶宮)に帰還させた。


  敬宗に三女があった。

  永興公主
  天長公主
  寧国公主は、広明年間(880-881)に薨去した。


  文宗に四女があった。

  興唐公主
  西平公主
  朗寧公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。
  光化公主は、広明年間(880-881)に薨去した。


  武宗に七女があった。

  昌楽公主
  寿春公主
  長寧公主は、大中年間(847-860)に薨去した。
  延慶公主
  静楽公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。
  楽温公主
  永清公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。


  宣宗に十一女があった。

  万寿公主は、鄭顥にとついだ。公主はの愛するところで、これより先に詔を下して、「先王の制礼は、貴賎がこれを共にした。万寿公主は舅姑に奉り、よろしく士人の法に従うべし」と。旧制では車輿は金銀の釦飾であった。帝は「朕は倹約をもって天下に率先しており、身近なところから始めて、金銀を銅に変える」とした。公主は進見するごとに、帝は必ず篤行を教えさとし、「田舎者の家なく、懺悔する時もなし」といい、また「太平公主安楽公主の禍は戒めを忘れてはならない!」といった。そのため諸公主はただ恐れ、争って喜事をしようとした。帝はついに「夫婦は教化の一端である。公主・県主に子があって寡婦となった場合、再嫁してはならない」と詔した。
  永福公主
  斉国恭懐公主は、始め西華公主に封ぜられた。厳祁にとついだ。厳祁は刑部侍郎となった。公主は大中年間(847-860)に薨去し、追贈と諡があった。


  広徳公主は、于琮にとついだ。かつて于琮に永福公主を娶せようと、とともに食事をした際に、永福公主が怒って匙や箸を折ったから、帝は「こいつは士人の妻にして大丈夫か」といい、あらためて于琮と広徳公主を娶せた。于琮が黄巣に殺害されると公主は泣いて、「今日まで誼みがあって一人では生きられない、賊め、私を殺せ!」と言ったが黄巣は許可しなかったから、部屋で自縊死した。
  公主は家をおさめるのに礼法があり、かつて于琮が韶州に左遷されるのに従った際、侍者はわずかに数人、州県の公主への贈物をも退けた。すべて内外の冠婚葬祭は、公主がすべて自ら答労したので、親しい者もそうでない者もみな感心し、世間で賢妻として知られた。

  義和公主
  饒安公主
  盛唐公主
  平原公主は、咸通年間(860-874)に薨去し、追封された。
  唐陽公主
  許昌荘粛公主は、柳陟にとついだ。中和年間(881-885)に薨去した。
  豊陽公主


  懿宗に八女があった。
  衛国文懿公主は、郭淑妃から生まれた。始め同昌公主に封ぜられた。韋保衡にとついだ。咸通十年(869)に薨去した。はすでにもとより愛するところであり、自ら挽歌をつくり、群臣に唱和させた。また百官に許可して祭儀物として金貝・寓車・廞服をつくり、これを火中に投じたから、民が争って燃えかすから宝を取り出した。葬におよんで、帝は妃とともに延興門に座って、柩が通過するのをみて哭泣し、仗衛の列は数十里にもおよび、金を加工して俑をつくり、宝物は千を数え、実際の墓中に乳母とともに埋葬した。追封と謚があった。
  安化公主
  普康公主
  昌元公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。
  昌寧公主
  金華公主
  仁寿公主
  永寿公主


  僖宗に二女があった。

  唐興公主
  永平公主

  昭宗に十一女があった。

  新安公主
  平原公主は、積善皇后から生まれた。は鳳翔府の李茂貞のもとにあるとき、公主を李茂貞の子の李継侃に降嫁させたが、は不可とした。帝は「そうでなければ、私にやすんずるところがないではないか!」といい、この日、内殿で宴し、李茂貞は帝の東南に座り、公主は殿上に拝した。李継侃の族兄弟はみな西向に立ち、公主と李継侃はこれを拝した。帝が長安に帰還すると、朱全忠は李茂貞に書を送り、公主を取り返して京師に帰還させた。
  信都公主
  益昌公主
  唐興公主
  徳清公主
  太康公主
  永明公主は、早くに薨去した。
  新興公主
  普安公主
  楽平公主


 賛にいわく、婦人は内は夫家にあるから、天子の姫という高貴な身分であっても、史官はなお外にあるから詳細はわからなかった。また僖宗・昭宗の時の大乱のため、文書は散逸消滅し、そのため諸帝の公主が降日・薨年は、大体その概略は得たが、失われて不十分であったから書かなかった。


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最終更新:2024年11月04日 10:48
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