盧彦威 ろげんい
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唐末の群雄。義昌軍節度使(滄景節度使)の牙将で、徳州刺史となったが、光啓元年(885)七月、義昌軍節度使の
楊全玫を追放し、自ら留後となり、節度使の地位を求めたが朝廷は許さず、大順元年(890)
王鎔・
羅弘信が軍事威圧を行って追認を求めたから、義昌軍節度使に任じられた。乾寧元年(894)盧龍軍節度使の
李匡籌が
李存審に敗れて長安に逃亡する最中に景城に立ち寄ると、これを襲撃して殺害、車・馬・召使・妓女を掠奪した。光化元年(898)
劉守文に滄州を襲撃され、城を棄てて逃亡し、
朱全忠のもとに逃れた。左金吾上将軍となり、天祐二年(905)左威衛上将軍に任じられた。
本紀・列伝・史料
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最終更新:2025年01月26日 23:21