ゆにば 第04話
無機質なスチールの扉の前で結希は待つ。
胸元で組み合わせた指をわしゃわしゃと忙しなく動かしながら、落ち着かなさげな様子を隠しもしない。
そわそわ。もじもじ。そして、またそわそわ。
扉の向こう側にはわずかに人の気配があって、ときおり衣擦れの音が聞こえてくる。
その音を聞いているうち、じっとしていられなくなったのであろうか。
結希はちまちまと、扉の前を行ったり来たりし始めた。
「ケイトさぁん、もういいですかぁ?」
呼びかける声に、
「ちょ、もう少し、あとネクタイだけだから」
戸惑ったようなケイトの声がそれに応じた。
扉上部に掲げられたプレートの文字が『男子更衣室』と読める。表向きは喫茶ゆにばーさるのウェイターとして、そして実際はUGNのイリーガルサポーターとして霧谷雄吾に招聘された形となったケイト。世を忍ぶ仮の姿であるウェイターのユニフォームは当然のことながら必須装備である。スタッフルームを退室したケイトは、結希の案内で更衣室に連れてこられ、さっそく衣装合わせを始めましょう、ということになったのである。
がさがさ、ごそごそ、と音がして―――
そして、静寂。
姿見で自分のウェイタースタイルをチェックしているのだろうか、と結希は想像する。
スタッフの更衣室には男女ともに等身大の姿見が置かれ、就業前には必ず身嗜みを各個人でチェックすること、という鈴木和美女史からのお達しがある。女性陣は言うに及ばず、それは男性スタッフも同様だ。接客業に従事する以上、それは最低限のマナーであることは言うまでもない。
しかし、女性スタッフはともかくとして、男性陣にそれが徹底されているかというと実は疑問があって、『やるからには、ウェイターであろうと執事であろうと完璧にこなして見せよう。フッ』などと、案外ノリノリな黒須左京以外の男子メンバーは、そういう面には案外と無頓着なのである。
(ケイトさん、ちゃんとしてくれてるかなぁ)
ケイトのウェイター姿が楽しみで仕方がない半面、ちょっぴり不安もないではない。
なんといっても、彼のフォーマルな姿といえば学校の制服ぐらいしか見たことがない結希である。普段のケイトのファッションといえば、地味な色のシャツかトレーナーにジーンズ姿、寒ければその上からだぼっとしたコートをなんとなく羽織るだけ、という実にお気楽お手軽なものなのである。学校の制服はブレザーだから、ネクタイに手こずっているというわけでもないであろうに、ケイトがそれから扉を開けて姿を現すまでには、実にもう五分という時間を経過しなければならなかった。
胸元で組み合わせた指をわしゃわしゃと忙しなく動かしながら、落ち着かなさげな様子を隠しもしない。
そわそわ。もじもじ。そして、またそわそわ。
扉の向こう側にはわずかに人の気配があって、ときおり衣擦れの音が聞こえてくる。
その音を聞いているうち、じっとしていられなくなったのであろうか。
結希はちまちまと、扉の前を行ったり来たりし始めた。
「ケイトさぁん、もういいですかぁ?」
呼びかける声に、
「ちょ、もう少し、あとネクタイだけだから」
戸惑ったようなケイトの声がそれに応じた。
扉上部に掲げられたプレートの文字が『男子更衣室』と読める。表向きは喫茶ゆにばーさるのウェイターとして、そして実際はUGNのイリーガルサポーターとして霧谷雄吾に招聘された形となったケイト。世を忍ぶ仮の姿であるウェイターのユニフォームは当然のことながら必須装備である。スタッフルームを退室したケイトは、結希の案内で更衣室に連れてこられ、さっそく衣装合わせを始めましょう、ということになったのである。
がさがさ、ごそごそ、と音がして―――
そして、静寂。
姿見で自分のウェイタースタイルをチェックしているのだろうか、と結希は想像する。
スタッフの更衣室には男女ともに等身大の姿見が置かれ、就業前には必ず身嗜みを各個人でチェックすること、という鈴木和美女史からのお達しがある。女性陣は言うに及ばず、それは男性スタッフも同様だ。接客業に従事する以上、それは最低限のマナーであることは言うまでもない。
しかし、女性スタッフはともかくとして、男性陣にそれが徹底されているかというと実は疑問があって、『やるからには、ウェイターであろうと執事であろうと完璧にこなして見せよう。フッ』などと、案外ノリノリな黒須左京以外の男子メンバーは、そういう面には案外と無頓着なのである。
(ケイトさん、ちゃんとしてくれてるかなぁ)
ケイトのウェイター姿が楽しみで仕方がない半面、ちょっぴり不安もないではない。
なんといっても、彼のフォーマルな姿といえば学校の制服ぐらいしか見たことがない結希である。普段のケイトのファッションといえば、地味な色のシャツかトレーナーにジーンズ姿、寒ければその上からだぼっとしたコートをなんとなく羽織るだけ、という実にお気楽お手軽なものなのである。学校の制服はブレザーだから、ネクタイに手こずっているというわけでもないであろうに、ケイトがそれから扉を開けて姿を現すまでには、実にもう五分という時間を経過しなければならなかった。
かちゃり。
躊躇いがちに扉が開かれ、ケイトがようやく結希の前にウェイター姿を披露する。
そこには―――黒を基調とした執事風のウェイター服に身を包んだ―――
そこには―――黒を基調とした執事風のウェイター服に身を包んだ―――
訂正。
執事風のウェイター服に“着られてしまっている”ケイトの姿があった。
第一印象で言うならば―――なんというか、『ピシッ』としていない。黒の制服自体は折り目正しいきちんとした下ろしたての新品なのであるが、ケイトが身につけた途端、まるで洗いざらしのTシャツのように―――そう、彼が普段着ている服と同じように―――着ていくそばから着崩れていく………そんな感じであった。
慣れない服装とはいえ、あんまりといえばあんまりである。結希は「はにゃっ」と言ったきりケイトの姿をまじまじと見つめ。
「ぷっ」
―――つい、噴き出してしまった。
「ひ、ひどいな、笑うことないじゃないか」
ちょっと傷ついた顔をするケイトを、結希は思わず可愛い、などと思ってしまう。
「ごめんなさい、ちょっといいですか?」
結希の浮かべた笑顔がひどく柔らかくて、ケイトは息を飲んで彼女の顔を見つめる。嬉しそうに目を細め、ちょっとだけ爪先立ちになった結希が、ケイトの肩に両手を置いた。さら、さらり、と。ケイトの肩の形に執事服を馴染ませていくように、優しく撫でていく。肩から腕、腕から袖口へと手が伸びていき、シャツの白い袖を静かにきゅきゅっ、と引っ張ると、丁寧にケイトの身嗜みを整える。シングルのベストのボタンが外れかけているのを見て、くすりと笑いかけ、「もう、ケイトさんったら」と結希がつぶやいた。
フロアにぺたん、と膝をついた結希が、為すがままのケイトのボタンをひとつひとつ付け直してやる。
ズボンの裾を伸ばし、小さな皺もきちんと直し。着崩れた制服をケイトの身体のサイズに合わせ直し終えると、
「はい、もういいですよ」
口元に指を当てて愉しそうに微笑み、結希が立ち上がった。
最後の仕上げというように、ケイトの首へと手を伸ばし、少し右に曲がったネクタイを直しつつ、
「ケイトさん、執事サンなんですから猫背はダメですよ」
人差し指を立てて、「めっ」と言った。
「く、癖なんだ」
結希の仕草が可愛らしすぎて(メイド服効果も相まって、だろう)、ケイトが顔を真っ赤にして言い訳をする。
根は真面目だが、同時にちょっと根の暗いケイトは、普段どうしても身体をかがめて地面を見ながら歩く癖があるのだ。
「癖でもダメです。お客様―――ご主人様やお嬢様には失礼のないようにしなきゃ、ですよ?」
「お、お嬢様………ああ、そうか。女の人が来たら『お、おかえりなさいませ、お嬢様』だっけ………」
スタッフルームで霧谷から受けた教え、メイド喫茶の執事としての心得の基本を思い出し、ケイトが口ごもりながらも復唱する。ケイトの初々しさと困惑ぶりがなんとも可笑しい。
「そうそう。その調子です」
頷いた結希が、そのときなにかに気がついたようにケイトの顔を見遣る。
「なに?」
「えと、ケイトさん、ちょっとしゃがんでくれますか………あ、腰を少し落とすだけでいいですから」
「?」
言葉どおりに身をかがめたケイトの髪に、結希の手が触れる。
エプロンのポケットから携帯用のヘアスプレーとブラシを取り出した結希が、
「―――寝癖、ついてますよ?」
と、ケイトの髪を直してくれた。鼻腔をくすぐる柑橘系の香り。普段着でいたときは気がつかなくても、こういう『いかにも』な服装をしてしまうと、ほんのちょっとの見栄えの良し悪しがひどく目立つのに違いなく、結希は随分と長い事、ケイトの髪を整えるのに時間を割いていた。
「………やっぱり、女の子はこういうのいつも持ち歩いているものなの?」
なんとなく間が持たなくなって、ついつい切り出した取りとめもない会話。ブラッシングを続けながら「うーん」と首を傾げた結希からは『人によるんじゃないでしょうか』という差し障りのない答えが返ってきた。
「ここでは私だけかも、です。椿さんとか狛江さんは、あまりこういうの好きじゃないみたいで。智世さんとか和美さんは、もっと大人の―――香水とか、使ってるみたいです。綾ちゃんは、和美さんが面白がっていろいろ試させてるんですよ。二人、同じ香りがするときありますもん」
なにげない返答に、場を持たせるためのケイトの繋ぎの言葉―――これがまた秀逸で。
言ったのがケイトでなかったら、どこの色男が言ったかと思わせるような台詞―――。
第一印象で言うならば―――なんというか、『ピシッ』としていない。黒の制服自体は折り目正しいきちんとした下ろしたての新品なのであるが、ケイトが身につけた途端、まるで洗いざらしのTシャツのように―――そう、彼が普段着ている服と同じように―――着ていくそばから着崩れていく………そんな感じであった。
慣れない服装とはいえ、あんまりといえばあんまりである。結希は「はにゃっ」と言ったきりケイトの姿をまじまじと見つめ。
「ぷっ」
―――つい、噴き出してしまった。
「ひ、ひどいな、笑うことないじゃないか」
ちょっと傷ついた顔をするケイトを、結希は思わず可愛い、などと思ってしまう。
「ごめんなさい、ちょっといいですか?」
結希の浮かべた笑顔がひどく柔らかくて、ケイトは息を飲んで彼女の顔を見つめる。嬉しそうに目を細め、ちょっとだけ爪先立ちになった結希が、ケイトの肩に両手を置いた。さら、さらり、と。ケイトの肩の形に執事服を馴染ませていくように、優しく撫でていく。肩から腕、腕から袖口へと手が伸びていき、シャツの白い袖を静かにきゅきゅっ、と引っ張ると、丁寧にケイトの身嗜みを整える。シングルのベストのボタンが外れかけているのを見て、くすりと笑いかけ、「もう、ケイトさんったら」と結希がつぶやいた。
フロアにぺたん、と膝をついた結希が、為すがままのケイトのボタンをひとつひとつ付け直してやる。
ズボンの裾を伸ばし、小さな皺もきちんと直し。着崩れた制服をケイトの身体のサイズに合わせ直し終えると、
「はい、もういいですよ」
口元に指を当てて愉しそうに微笑み、結希が立ち上がった。
最後の仕上げというように、ケイトの首へと手を伸ばし、少し右に曲がったネクタイを直しつつ、
「ケイトさん、執事サンなんですから猫背はダメですよ」
人差し指を立てて、「めっ」と言った。
「く、癖なんだ」
結希の仕草が可愛らしすぎて(メイド服効果も相まって、だろう)、ケイトが顔を真っ赤にして言い訳をする。
根は真面目だが、同時にちょっと根の暗いケイトは、普段どうしても身体をかがめて地面を見ながら歩く癖があるのだ。
「癖でもダメです。お客様―――ご主人様やお嬢様には失礼のないようにしなきゃ、ですよ?」
「お、お嬢様………ああ、そうか。女の人が来たら『お、おかえりなさいませ、お嬢様』だっけ………」
スタッフルームで霧谷から受けた教え、メイド喫茶の執事としての心得の基本を思い出し、ケイトが口ごもりながらも復唱する。ケイトの初々しさと困惑ぶりがなんとも可笑しい。
「そうそう。その調子です」
頷いた結希が、そのときなにかに気がついたようにケイトの顔を見遣る。
「なに?」
「えと、ケイトさん、ちょっとしゃがんでくれますか………あ、腰を少し落とすだけでいいですから」
「?」
言葉どおりに身をかがめたケイトの髪に、結希の手が触れる。
エプロンのポケットから携帯用のヘアスプレーとブラシを取り出した結希が、
「―――寝癖、ついてますよ?」
と、ケイトの髪を直してくれた。鼻腔をくすぐる柑橘系の香り。普段着でいたときは気がつかなくても、こういう『いかにも』な服装をしてしまうと、ほんのちょっとの見栄えの良し悪しがひどく目立つのに違いなく、結希は随分と長い事、ケイトの髪を整えるのに時間を割いていた。
「………やっぱり、女の子はこういうのいつも持ち歩いているものなの?」
なんとなく間が持たなくなって、ついつい切り出した取りとめもない会話。ブラッシングを続けながら「うーん」と首を傾げた結希からは『人によるんじゃないでしょうか』という差し障りのない答えが返ってきた。
「ここでは私だけかも、です。椿さんとか狛江さんは、あまりこういうの好きじゃないみたいで。智世さんとか和美さんは、もっと大人の―――香水とか、使ってるみたいです。綾ちゃんは、和美さんが面白がっていろいろ試させてるんですよ。二人、同じ香りがするときありますもん」
なにげない返答に、場を持たせるためのケイトの繋ぎの言葉―――これがまた秀逸で。
言ったのがケイトでなかったら、どこの色男が言ったかと思わせるような台詞―――。
「そっか。それじゃ、いまの僕は―――結希と同じ香りなんだね」
「――――――は、はにゃっ!?」
「――――――は、はにゃっ!?」
特有の“あの”鳴き声を上げて、結希の顔がゆでだこのように真っ赤になった。
結希の突然の赤面にいぶかしげな顔をしていたケイトが、慌てて自分の口を押さえる。
結希の突然の赤面にいぶかしげな顔をしていたケイトが、慌てて自分の口を押さえる。
オイオイ、ボクハイマナンテハズカシイコトヲイイマシタカ………
「ご、ごめん! いま、変なこと言った! わ、忘れてくれると助かる………っ!」
「い、いえ、そんな………」
とかなんとか言いながら、結希の表情はまんざらでもないようで。上目遣いでケイトを見上げる視線は熱を帯び。
潤んだ瞳が、なにかを期待するようにケイトの顔を映している。
「そんな………むしろ嬉しいです―――私とケイトさんが、同じ香り………って―――」
「い、いえ、そんな………」
とかなんとか言いながら、結希の表情はまんざらでもないようで。上目遣いでケイトを見上げる視線は熱を帯び。
潤んだ瞳が、なにかを期待するようにケイトの顔を映している。
「そんな………むしろ嬉しいです―――私とケイトさんが、同じ香り………って―――」
なんてことを言うのか、この中学生。
「ゆ、結希………」
「………………はにゃ………」
それっきり二人は黙りこくる。だけど、この沈黙は決して不快なものじゃない。
なんていうか、いま二人は通じ合ってる。僕らは、いまきっと同じ想いでお互いを見つめている。
ゆっくり、ひどくゆっくりと流れる時間がケイトと結希の間を通り過ぎていき―――二人は、背後に近寄る人影にも気づかない。
「………おーい、そろそろいいかー?」
そこには。呆れ顔をした司が二人を生温かい視線で見守っていた。
「はにゃっ!?」
「ちちちちがうんだつかちゃんっ!?」
どこかで見たような展開、どこかで聞いたようなやり取りであった。
「なんつーか………声かけるタイミングつかめないっての? ………あんまり二人が帰ってこないからさぁ………」
にやにや。にやにや。
そんな擬音が聞こえてきそうな司の意地の悪い笑み。
上月司―――かつて北の街S市において繰り広げられた、世界の命運をかけた戦いにおいて、兄・永斗と共にケイトたちに協力したオーヴァードであり、現在はやはり喫茶ゆにばーさるのウェイターとして働く一人である。
霧谷の提示した好条件のアルバイトに、赤貧に耐え兼ね食いついた―――とのことであるが、当の本人は黙して多くを語ることは決してない。
「さて、さっそくで悪いけどさ。もう三時回ってるから店のほう顔出してくれよ? 学校帰りの学生もそろそろ増えてくっからさ」
五時過ぎりゃサラリーマンやらOLも押し寄せてくるだろうしな、とぼやく司。
なかなか帰ってこない二人を案じてというよりは、大量の客を捌ききれなくなって自分が大変な思いをしたくないから、わざわざケイトたちを迎えに来たといったところであろうか。
「はにゃっ!? ご、ごめんなさい司さんっ、えと、あの、それじゃ私お先に言ってますからっ」
こっぱずかしいケイトとのだだ甘な会話を盗み聞きされ、軽いパニックに陥った結希がぱたぱたと店のほうへ走って逃げる。どたん、がしゃん、ぱりーん、はにゃー、と立て続けに聞こえてきた騒音を、ケイトも司も聞かなかったことにした。おいおい、大丈夫かよ支部長………司が誰に言うわけでもなくそう言って、ケイトのほうをくるりと向き直った。にかっ、と今度はその吊り上がり気味の猫のような目を愛嬌のある笑いの形に変えて、
「また、一緒だな、ケイト」
どことなく弾んだ声でそう言った。熾烈な戦いを共に駆け抜けた旧知の友だ。時間が経ち、また再び同じ場所で働くことになったことが、やはり少しは嬉しいようだった。
「うん、よろしく。つかちゃん」
自然と右手が上がり、司に握手を求めるケイト。その手を握る司の掌から、なにか固いものの感触が伝わる。
二人の手と手が離れ、ケイトは司と握手したときに感じた違和感の正体を知った。
「………………はにゃ………」
それっきり二人は黙りこくる。だけど、この沈黙は決して不快なものじゃない。
なんていうか、いま二人は通じ合ってる。僕らは、いまきっと同じ想いでお互いを見つめている。
ゆっくり、ひどくゆっくりと流れる時間がケイトと結希の間を通り過ぎていき―――二人は、背後に近寄る人影にも気づかない。
「………おーい、そろそろいいかー?」
そこには。呆れ顔をした司が二人を生温かい視線で見守っていた。
「はにゃっ!?」
「ちちちちがうんだつかちゃんっ!?」
どこかで見たような展開、どこかで聞いたようなやり取りであった。
「なんつーか………声かけるタイミングつかめないっての? ………あんまり二人が帰ってこないからさぁ………」
にやにや。にやにや。
そんな擬音が聞こえてきそうな司の意地の悪い笑み。
上月司―――かつて北の街S市において繰り広げられた、世界の命運をかけた戦いにおいて、兄・永斗と共にケイトたちに協力したオーヴァードであり、現在はやはり喫茶ゆにばーさるのウェイターとして働く一人である。
霧谷の提示した好条件のアルバイトに、赤貧に耐え兼ね食いついた―――とのことであるが、当の本人は黙して多くを語ることは決してない。
「さて、さっそくで悪いけどさ。もう三時回ってるから店のほう顔出してくれよ? 学校帰りの学生もそろそろ増えてくっからさ」
五時過ぎりゃサラリーマンやらOLも押し寄せてくるだろうしな、とぼやく司。
なかなか帰ってこない二人を案じてというよりは、大量の客を捌ききれなくなって自分が大変な思いをしたくないから、わざわざケイトたちを迎えに来たといったところであろうか。
「はにゃっ!? ご、ごめんなさい司さんっ、えと、あの、それじゃ私お先に言ってますからっ」
こっぱずかしいケイトとのだだ甘な会話を盗み聞きされ、軽いパニックに陥った結希がぱたぱたと店のほうへ走って逃げる。どたん、がしゃん、ぱりーん、はにゃー、と立て続けに聞こえてきた騒音を、ケイトも司も聞かなかったことにした。おいおい、大丈夫かよ支部長………司が誰に言うわけでもなくそう言って、ケイトのほうをくるりと向き直った。にかっ、と今度はその吊り上がり気味の猫のような目を愛嬌のある笑いの形に変えて、
「また、一緒だな、ケイト」
どことなく弾んだ声でそう言った。熾烈な戦いを共に駆け抜けた旧知の友だ。時間が経ち、また再び同じ場所で働くことになったことが、やはり少しは嬉しいようだった。
「うん、よろしく。つかちゃん」
自然と右手が上がり、司に握手を求めるケイト。その手を握る司の掌から、なにか固いものの感触が伝わる。
二人の手と手が離れ、ケイトは司と握手したときに感じた違和感の正体を知った。
「けいと」―――そう書かれた真新しい丸いネームプレートが、ケイトの手に握られていた。
こちらこそよろしくな、ケイト―――司が言う。
喫茶ゆにばーさる見習い執事・檜山ケイト誕生の瞬間であった。
喫茶ゆにばーさる見習い執事・檜山ケイト誕生の瞬間であった。
※
アキハバラ、午後六時。
雑多な人並みの中に。街の灯りで駆逐しきれぬ闇の中に―――その男はいた。
近くのコンビニで買い込んだペットボトルの紅茶と菓子パンをぱくつきながら、行きかう人々の交わすざわめきに耳を澄ます。男には時間がない。時間があっても、それで足りるということがない。職務に没頭し、邁進するものは、だから極力時間の無駄を減らそうとする。
食事を摂るならレストランなど使わない。ファーストフードですらも、時間の無駄だからだ。
コンビニで買うにしても、弁当惣菜の類いには目もくれない。レンジでチン、の時間が無駄だからだ。
だから、パンやおにぎり。調理要らずの買ってすぐ食べられる食材を、栄養補給源として好むのだ。
午後六時という少し早めの夕食も、だから戸外で食べる。食事と同時に街中での情報収集―――マーケティングリサーチやその他諸々の噂話を、肌で感じる。古代の為政者は、市井のものへと身をやつして雑踏の中に立ち、流れる言葉や噂を聞いたというが、男の行動原理もそれに近かった。街を飛び交う煩雑な生の噂。これが存外、馬鹿にできないものなのだ。
一個目のアンドーナツを紅茶で流し込む。ふと、なにかに気がついたように男は呟いた。
「そういえば………最後にまともな食事をしたのはいつだったか………?」
すぐさま、自分の漏らした発言の馬鹿馬鹿しさに、苦笑しながら男は首を振る。
そんなことを考えることは無意味だ。
自分が与えられた職務、これを遂行することがまず第一。たとえいま、満足のいかない境遇であろうと、不満のある仕事であろうと、それをこなさなければいけない。いや、それすらこなせないものに、自分が望む大きな仕事などそもそもできるはずがないのである。最近は、そう自分に言い聞かすようにしている。
気を取り直す。
気を取り直して、二つ目のアンドーナツをつまみ上げる。
耳をそばだてながら。一言も、街の噂を聞き漏らすまいと注意を払いながら。
そんなとき。男の耳に聞き捨てならない単語が聞こえてきた。
雑多な人並みの中に。街の灯りで駆逐しきれぬ闇の中に―――その男はいた。
近くのコンビニで買い込んだペットボトルの紅茶と菓子パンをぱくつきながら、行きかう人々の交わすざわめきに耳を澄ます。男には時間がない。時間があっても、それで足りるということがない。職務に没頭し、邁進するものは、だから極力時間の無駄を減らそうとする。
食事を摂るならレストランなど使わない。ファーストフードですらも、時間の無駄だからだ。
コンビニで買うにしても、弁当惣菜の類いには目もくれない。レンジでチン、の時間が無駄だからだ。
だから、パンやおにぎり。調理要らずの買ってすぐ食べられる食材を、栄養補給源として好むのだ。
午後六時という少し早めの夕食も、だから戸外で食べる。食事と同時に街中での情報収集―――マーケティングリサーチやその他諸々の噂話を、肌で感じる。古代の為政者は、市井のものへと身をやつして雑踏の中に立ち、流れる言葉や噂を聞いたというが、男の行動原理もそれに近かった。街を飛び交う煩雑な生の噂。これが存外、馬鹿にできないものなのだ。
一個目のアンドーナツを紅茶で流し込む。ふと、なにかに気がついたように男は呟いた。
「そういえば………最後にまともな食事をしたのはいつだったか………?」
すぐさま、自分の漏らした発言の馬鹿馬鹿しさに、苦笑しながら男は首を振る。
そんなことを考えることは無意味だ。
自分が与えられた職務、これを遂行することがまず第一。たとえいま、満足のいかない境遇であろうと、不満のある仕事であろうと、それをこなさなければいけない。いや、それすらこなせないものに、自分が望む大きな仕事などそもそもできるはずがないのである。最近は、そう自分に言い聞かすようにしている。
気を取り直す。
気を取り直して、二つ目のアンドーナツをつまみ上げる。
耳をそばだてながら。一言も、街の噂を聞き漏らすまいと注意を払いながら。
そんなとき。男の耳に聞き捨てならない単語が聞こえてきた。
「今日見た“ゆにば”の新人クン、よかったよね~」
「うんうん、ちょっとキョドってるのが初々しいっていうか可愛いっていうか~」
「うんうん、ちょっとキョドってるのが初々しいっていうか可愛いっていうか~」
男のセンサーは、確かに『ゆにば』という単語を耳に捉えた。
このアキハバラでゆにばといえば、喫茶ゆにばーさる―――メイド喫茶という仮の姿に隠れてはいたが、れっきとしたUGNの支部である。それも、各支部選りすぐりの精鋭たちが集まる、目下、もっとも精強な支部と目される要注意スポットだ。そこに、新人が配属されたということは―――
「ここへきての戦力増強、だと………?」
シリアスに呟き、男は近くのゴミ箱に夕食のパンの包みを放り投げる。
銀縁眼鏡の奥の神経質そうな目がギラリと光った。
こうしてはいられない、とばかりにきびすを返すと、目に痛いくらい鮮やかなオレンジ色のハッピが風にひるがえる。
おでこには、鉢巻。くっきりと黒字で、『売上倍増活動強化中』と文字が書かれているそれも、ド派手な蛍光オレンジである。そして―――
身体をわなわなと震わせ、男は叫んだ。
このアキハバラでゆにばといえば、喫茶ゆにばーさる―――メイド喫茶という仮の姿に隠れてはいたが、れっきとしたUGNの支部である。それも、各支部選りすぐりの精鋭たちが集まる、目下、もっとも精強な支部と目される要注意スポットだ。そこに、新人が配属されたということは―――
「ここへきての戦力増強、だと………?」
シリアスに呟き、男は近くのゴミ箱に夕食のパンの包みを放り投げる。
銀縁眼鏡の奥の神経質そうな目がギラリと光った。
こうしてはいられない、とばかりにきびすを返すと、目に痛いくらい鮮やかなオレンジ色のハッピが風にひるがえる。
おでこには、鉢巻。くっきりと黒字で、『売上倍増活動強化中』と文字が書かれているそれも、ド派手な蛍光オレンジである。そして―――
身体をわなわなと震わせ、男は叫んだ。
「おのれ――――っ! どいつもこいつも私の邪魔ばかりしおって――――っ!」
シリアスな雰囲気が途端に台無しになった。
ファルスハーツのエリートエージェント改め、ファイナルハーツ家電販売員、春日恭二。
シリアスな雰囲気が途端に台無しになった。
ファルスハーツのエリートエージェント改め、ファイナルハーツ家電販売員、春日恭二。
―――表舞台に、またひとり騒がしい役者が躍り出た瞬間であった。