ゆにば 第06話
檜山ケイトが、喫茶ゆにばーさるに新人執事として勤務を開始してから七日目。
当初の見込みとはかなりズレの生じてしまった現在の状況に少なからず辟易しながらも、ケイトは日々を過ごしている。
元々は智世に諭されて、淋しい思いをさせてしまった結希と少しでも一緒の時間を増やすために始めたアルバイトであった。
自分の無頓着さゆえに、メールひとつも交わすことのなかった一ヶ月間。
それがどれだけ結希を落ち込ませ、淋しがらせてしまったか。せめてもの罪滅ぼしとして、結希が店長を務めるこの喫茶店で働こうと決意したケイトに、「予定外」のトラブルが発生したのである。
正直に言えば、ケイトはここでのアルバイトを甘く見ていたのだった。
彼の思惑では、アルバイト中にちょっとした合間を見つけては結希とお喋りしたり、彼女の仕事を手伝ったり、また彼女が仕事を手伝ってくれたりと、お互いの接し合う機会をたくさん作るつもりだったのである。そうやって、結希との時間を濃密なものにしていこう、もっと結希と触れ合おう、と―――そう目論んでいたのだった。
しかし。
ケイトは甘かった。ゆにばーさるの人気や集客力を甘く見すぎていたのである。要するに、こんなに忙しいとは考えてもみなかったという意味で、ケイトの考えは甘かったのだ。接客やメニュー運び、食器の上げ下げだけではなく、食材の運搬や買出しといった裏方の仕事もこなさなければならず、それだけでもかなりの重労働なのである。それに、慣れない接客でひどく神経をすり減らすこともあって、仕事中に結希の姿を見失ってしまうこともしばしばであった。
ケイト自身の忙しさに加えて、結希の時間がなかなか取れないことが、二人だけの時間を取れないもうひとつの大きな要因でもある。
やはり、メイド喫茶の花形はなんといっても「メイドさん」だ。
ただでさえ店長という立場の結希は、なんだかんだいって他の従業員以上に仕事が多い。さらに、ゆにばーさるにおける結希の人気は凄まじく、とにかく接客の対応に大忙しなのだ。彼女のどじっ娘ぶりが発揮されれば忙しさに拍車がかかり、自分で割ったカップや落とした食器の後始末などに追われて、ますます時間が取れないという悪循環。
さらに、よしんば結希に声をかけるチャンスに恵まれたとしても―――メイド喫茶という空間で、執事である自分が花形メイドの結希に親しげに声をかけることはお客様―――もとい、ご主人様方に好まれる行為ではないはずだった。
結希の立場もあるだろう。メイド喫茶としての建前もあるだろう。
だとすれば、自分が軽々しく結希に接することは慎まなければならない―――
つまり、ケイトは自重することを選択せざるを得なかったのである。かといって、自身の勤務が終わってからまだまだ忙しく働いている彼女の仕事終わりを待つというのも躊躇われた。自分が待っていることで結希を急かしても、それはそれで彼女に悪いことのように思える。だから、ケイトはきちんとした機会の訪れを、ゆっくり待つことにしたのであった。
自分もまだこの仕事に慣れていないから、上手く時間を見繕うことも出来ないだろう。変に急いで仕事をしくじってもいいことはない。そのことで結希を煩わせるようなことがあれば、それこそ本末転倒といえる。
一ヶ月前に比べれば進歩じゃないか。そう、自分に言い聞かせる。
少なくとも、同じ店舗内で同僚として働いて、顔が見られる距離、声が聞ける距離にお互いがいるのである。
それならば、いまは気を急ぐまい。いまはそのときを待ち、自分に与えられた仕事を全うするだけである。
今日も忙しくなる。そんな予感があった。隣の司に、脇腹を肘で小突かれる。慌てて顔を上げれば、テーブルについたお嬢様方がこちらに視線を配り、手を上げているではないか。
「は、はい、ただいま参ります、お嬢様方」
いまだに不慣れな執事言葉をかろうじて駆使しながら、ケイトは店内へと駆け出していく。
執事・檜山ケイトの多忙な一日は、まだ始まったばかりであった―――。
当初の見込みとはかなりズレの生じてしまった現在の状況に少なからず辟易しながらも、ケイトは日々を過ごしている。
元々は智世に諭されて、淋しい思いをさせてしまった結希と少しでも一緒の時間を増やすために始めたアルバイトであった。
自分の無頓着さゆえに、メールひとつも交わすことのなかった一ヶ月間。
それがどれだけ結希を落ち込ませ、淋しがらせてしまったか。せめてもの罪滅ぼしとして、結希が店長を務めるこの喫茶店で働こうと決意したケイトに、「予定外」のトラブルが発生したのである。
正直に言えば、ケイトはここでのアルバイトを甘く見ていたのだった。
彼の思惑では、アルバイト中にちょっとした合間を見つけては結希とお喋りしたり、彼女の仕事を手伝ったり、また彼女が仕事を手伝ってくれたりと、お互いの接し合う機会をたくさん作るつもりだったのである。そうやって、結希との時間を濃密なものにしていこう、もっと結希と触れ合おう、と―――そう目論んでいたのだった。
しかし。
ケイトは甘かった。ゆにばーさるの人気や集客力を甘く見すぎていたのである。要するに、こんなに忙しいとは考えてもみなかったという意味で、ケイトの考えは甘かったのだ。接客やメニュー運び、食器の上げ下げだけではなく、食材の運搬や買出しといった裏方の仕事もこなさなければならず、それだけでもかなりの重労働なのである。それに、慣れない接客でひどく神経をすり減らすこともあって、仕事中に結希の姿を見失ってしまうこともしばしばであった。
ケイト自身の忙しさに加えて、結希の時間がなかなか取れないことが、二人だけの時間を取れないもうひとつの大きな要因でもある。
やはり、メイド喫茶の花形はなんといっても「メイドさん」だ。
ただでさえ店長という立場の結希は、なんだかんだいって他の従業員以上に仕事が多い。さらに、ゆにばーさるにおける結希の人気は凄まじく、とにかく接客の対応に大忙しなのだ。彼女のどじっ娘ぶりが発揮されれば忙しさに拍車がかかり、自分で割ったカップや落とした食器の後始末などに追われて、ますます時間が取れないという悪循環。
さらに、よしんば結希に声をかけるチャンスに恵まれたとしても―――メイド喫茶という空間で、執事である自分が花形メイドの結希に親しげに声をかけることはお客様―――もとい、ご主人様方に好まれる行為ではないはずだった。
結希の立場もあるだろう。メイド喫茶としての建前もあるだろう。
だとすれば、自分が軽々しく結希に接することは慎まなければならない―――
つまり、ケイトは自重することを選択せざるを得なかったのである。かといって、自身の勤務が終わってからまだまだ忙しく働いている彼女の仕事終わりを待つというのも躊躇われた。自分が待っていることで結希を急かしても、それはそれで彼女に悪いことのように思える。だから、ケイトはきちんとした機会の訪れを、ゆっくり待つことにしたのであった。
自分もまだこの仕事に慣れていないから、上手く時間を見繕うことも出来ないだろう。変に急いで仕事をしくじってもいいことはない。そのことで結希を煩わせるようなことがあれば、それこそ本末転倒といえる。
一ヶ月前に比べれば進歩じゃないか。そう、自分に言い聞かせる。
少なくとも、同じ店舗内で同僚として働いて、顔が見られる距離、声が聞ける距離にお互いがいるのである。
それならば、いまは気を急ぐまい。いまはそのときを待ち、自分に与えられた仕事を全うするだけである。
今日も忙しくなる。そんな予感があった。隣の司に、脇腹を肘で小突かれる。慌てて顔を上げれば、テーブルについたお嬢様方がこちらに視線を配り、手を上げているではないか。
「は、はい、ただいま参ります、お嬢様方」
いまだに不慣れな執事言葉をかろうじて駆使しながら、ケイトは店内へと駆け出していく。
執事・檜山ケイトの多忙な一日は、まだ始まったばかりであった―――。
※
ケイトさんと一緒にお店に出るようになって、もう一週間かぁ………
喫茶ゆにばーさるのマスターメイド・薬王寺結希は、溜息混じりの呟きを漏らしていた。
午後一時を少し回った、ちょっぴり遅いお昼休み中。スタッフ専用の休憩室で、賄いのサンドイッチをはむはむとぱくつきながら、結希はいかにもつまらなそうにひとりきりの昼食を摂っていた。脚の長いスチールの椅子に腰掛けながら、メイド服のスカートから伸びる脚を子供のようにぷらぷらとさせているさまが、実に寂しそうである。
午後一時を少し回った、ちょっぴり遅いお昼休み中。スタッフ専用の休憩室で、賄いのサンドイッチをはむはむとぱくつきながら、結希はいかにもつまらなそうにひとりきりの昼食を摂っていた。脚の長いスチールの椅子に腰掛けながら、メイド服のスカートから伸びる脚を子供のようにぷらぷらとさせているさまが、実に寂しそうである。
これじゃ、一週間前となにも変わらないですよぅ………
と。そんなことを考えている。霧谷の要請で、ケイトをゆにばーさるへ迎えることが決まった日の翌日、さっそく出会えたケイトと面と向かって会話をしたのはほんの数分のことだった。でも、それでも構わない。だって明日からはケイトさんと一緒に働けるんだから。明日からはたくさん、ケイトさんと一緒の時間を過せるんだから―――と。
だけど。
現実は結希の思惑通りにはいかなかった。
仕事を頼むのにかこつけて声をかけようとしても、お客さんの呼び声ひとつ、挙手ひとつで、ケイトは風のように結希の前からいなくなってしまう。一緒にお昼御飯を食べようと思っても、片付いていない仕事があれば昼食の時間をずらしてでもやり抜こうとしてしまうという、ケイトの変な生真面目さが邪魔をする。おまけに、オーダーを取りに行くときや食事の上げ下げをするとき、ケイトがなかなかお客様のところから帰ってこないのである。
たとえばそれは昨日のこと―――
「あれ、まーたケイトのやつ捕まってやがる」
そのとき、半ば面白がるように、半ば呆れながら司が発した言葉に、結希は耳をピクリと動かした。
店内の様子を素早く盗み見た結希の視界に、女子大生風の二人連れに呼び止められたケイトの姿が眼に入る。
会話の内容まで詳しく聞き取ることはさすがにできないが、メニューリストを指差しあいながら、なにごとかを一生懸命ケイトが説明しているようであるということだけは見て取れた。おそらく、メニューの内容をあれこれ尋ねられ、詳しくはないまでも初心者なりにケイトがひとつひとつ丁寧に受け答えをしているのであろう。そのケイトの姿だけ見れば実に微笑ましい光景であるということができるのだが、結希が「むむっ!?(はんにゃ)」となってしまうのは、ケイトを同じように見つめるお客さんたちの視線が、妙に生温かいせいなのであった。
根は真面目。だけど、俯き加減で少し翳があり、なんとなくかまってあげたくなる。どこにでもいる、ちょっと気になる近所の可愛い男の子―――檜山ケイトはそんな少年である。同世代の少女よりも、年上のお姉さんに受けが良さそうなキャラクターといえようか。入店一週間にもかかわらず、まことしやかに囁かれるケイトの称号“年下系”。
ゆにばーさるにおける執事二強である、“クール系”黒須左京、“やんちゃ系”上月司に続いて、新たな『顔』になれる可能性は十分ね―――と。鈴木和美がそう漏らしていたのも知っている。
だけど。
現実は結希の思惑通りにはいかなかった。
仕事を頼むのにかこつけて声をかけようとしても、お客さんの呼び声ひとつ、挙手ひとつで、ケイトは風のように結希の前からいなくなってしまう。一緒にお昼御飯を食べようと思っても、片付いていない仕事があれば昼食の時間をずらしてでもやり抜こうとしてしまうという、ケイトの変な生真面目さが邪魔をする。おまけに、オーダーを取りに行くときや食事の上げ下げをするとき、ケイトがなかなかお客様のところから帰ってこないのである。
たとえばそれは昨日のこと―――
「あれ、まーたケイトのやつ捕まってやがる」
そのとき、半ば面白がるように、半ば呆れながら司が発した言葉に、結希は耳をピクリと動かした。
店内の様子を素早く盗み見た結希の視界に、女子大生風の二人連れに呼び止められたケイトの姿が眼に入る。
会話の内容まで詳しく聞き取ることはさすがにできないが、メニューリストを指差しあいながら、なにごとかを一生懸命ケイトが説明しているようであるということだけは見て取れた。おそらく、メニューの内容をあれこれ尋ねられ、詳しくはないまでも初心者なりにケイトがひとつひとつ丁寧に受け答えをしているのであろう。そのケイトの姿だけ見れば実に微笑ましい光景であるということができるのだが、結希が「むむっ!?(はんにゃ)」となってしまうのは、ケイトを同じように見つめるお客さんたちの視線が、妙に生温かいせいなのであった。
根は真面目。だけど、俯き加減で少し翳があり、なんとなくかまってあげたくなる。どこにでもいる、ちょっと気になる近所の可愛い男の子―――檜山ケイトはそんな少年である。同世代の少女よりも、年上のお姉さんに受けが良さそうなキャラクターといえようか。入店一週間にもかかわらず、まことしやかに囁かれるケイトの称号“年下系”。
ゆにばーさるにおける執事二強である、“クール系”黒須左京、“やんちゃ系”上月司に続いて、新たな『顔』になれる可能性は十分ね―――と。鈴木和美がそう漏らしていたのも知っている。
なんだか、面白くない。
ケイトがみんなに好かれて、人気者になっていくのは嬉しいけど、それだって時と場合によるではないか。
なんで女の人にばかり人気なの。それもお姉さんばかりに受けちゃって。
「………どーせ、年下で子供で、良くないこいのぼりですよー………だ………」
思い出しているうちに、考えることがだんだん自虐的になってきて。サンドイッチを頬張りながら、ぐしぐしと赤くなった眼を擦る。
と、そのとき―――
「………失礼しますわ………結希さん」
声をかけるのを躊躇うように、小声で智世が呼びかけた。手には結希と同様に賄いのサンドイッチセットを捧げ持っている。彼女も遅めの休憩をこれから取るところのようであった。
「ぐすっ………あ、智世さん………はにゃ………ご、ごめんなさい私………」
泣きべそをかくところを見られて赤面しつつも、結希はやっぱり涙がこぼれてくるのを止めることができなくて。
「あ、あれ………や、やだ………どうしよ………この後、お店、なの、に………」
目を腫らしたままでメイドさんなんて出来ない。泣き顔のままご主人様を出迎えるなんてできはしない。だけど焦れば焦るほど、涙が堰を切ったように止まらなくなる。智世がすっ、と脇に立ち。そんな結希の肩に優しく手を置いた。
「結希さん………午後は、わたくしたちに任せて少しお休みしてください」
いたわるように、智世が言う。顔つきこそ優しいが、心の中で「あの××野郎………」とケイトを念じ殺す勢いであることは言うまでもなかった。
「でも、で、も………みなさんに、迷惑………」
「そんなことお気になさらずに。午後は狛江さんもいますし、二時を過ぎれば椿さんもシフトに入りますから。人手は十分足りていますよ。第一、そんなお顔でお店に出るわけにはいきませんでしょう?」
私なら、べそかいた結希さんに涙目でご主人様、と呼ばれてみたいですけど―――とはさすがに言わない。
「すいません………お言葉に、甘えちゃいます………」
食べ残したサンドイッチを包みにしまい、結希はすくっと立ち上がる。
「向こうの部屋、使わせてもらいますね………」
「みなさんには、ちょっと具合が悪そうなので仮眠室でお休みされています、とでも言っておきますわ」
智世の言葉にごめんなさい、ありがとうございます、と言い残し。結希が休憩室に隣接した仮眠室へと姿を消す。
パタン、とドアが閉められて。一分が経ち、二分が経つ。息を潜めながら昼食を摂る智世の耳に聞こえてきたのは―――
なんで女の人にばかり人気なの。それもお姉さんばかりに受けちゃって。
「………どーせ、年下で子供で、良くないこいのぼりですよー………だ………」
思い出しているうちに、考えることがだんだん自虐的になってきて。サンドイッチを頬張りながら、ぐしぐしと赤くなった眼を擦る。
と、そのとき―――
「………失礼しますわ………結希さん」
声をかけるのを躊躇うように、小声で智世が呼びかけた。手には結希と同様に賄いのサンドイッチセットを捧げ持っている。彼女も遅めの休憩をこれから取るところのようであった。
「ぐすっ………あ、智世さん………はにゃ………ご、ごめんなさい私………」
泣きべそをかくところを見られて赤面しつつも、結希はやっぱり涙がこぼれてくるのを止めることができなくて。
「あ、あれ………や、やだ………どうしよ………この後、お店、なの、に………」
目を腫らしたままでメイドさんなんて出来ない。泣き顔のままご主人様を出迎えるなんてできはしない。だけど焦れば焦るほど、涙が堰を切ったように止まらなくなる。智世がすっ、と脇に立ち。そんな結希の肩に優しく手を置いた。
「結希さん………午後は、わたくしたちに任せて少しお休みしてください」
いたわるように、智世が言う。顔つきこそ優しいが、心の中で「あの××野郎………」とケイトを念じ殺す勢いであることは言うまでもなかった。
「でも、で、も………みなさんに、迷惑………」
「そんなことお気になさらずに。午後は狛江さんもいますし、二時を過ぎれば椿さんもシフトに入りますから。人手は十分足りていますよ。第一、そんなお顔でお店に出るわけにはいきませんでしょう?」
私なら、べそかいた結希さんに涙目でご主人様、と呼ばれてみたいですけど―――とはさすがに言わない。
「すいません………お言葉に、甘えちゃいます………」
食べ残したサンドイッチを包みにしまい、結希はすくっと立ち上がる。
「向こうの部屋、使わせてもらいますね………」
「みなさんには、ちょっと具合が悪そうなので仮眠室でお休みされています、とでも言っておきますわ」
智世の言葉にごめんなさい、ありがとうございます、と言い残し。結希が休憩室に隣接した仮眠室へと姿を消す。
パタン、とドアが閉められて。一分が経ち、二分が経つ。息を潜めながら昼食を摂る智世の耳に聞こえてきたのは―――
『………ケイト………さぁん………ふ………ふみゅ~~~………』
押し殺そうとして殺しきれない、結希の愛しい人を呼ぶ声と泣き声だった。
傷ましげに眉をひそめながらも、智世の背中に紅蓮の炎が吹き上がる。結希さんを泣かせた罪は万死に値しますわよ、ケイトさん。彼女の流した涙ひと雫ごとに、血の一滴を搾り出してやりますわ―――そんな危ないことを考えている。
急いで昼食を食べ終え、店内へと。
時間は午後一時三十五分。結希がいないことと、時間がお昼時であることを考慮して休憩を早めに切り上げた智世であったがどうやらそれは杞憂に終わったらしい。この時間帯にしては珍しく、店内の人はまばらであり、厨房もそれほど慌しくはなさそうであった。この隙に執事たちは買出しに出かけたらしく、店内には狛江と、少し早めに店に顔を出してくれたウェイター姿の玉野椿の二人きりがいるだけであった。なんだ、もしもケイトさんがいたなら、これ見よがしに『結希さん、具合が悪くてお休みですわよ』と言ってやりましたのに―――と智世は思う。
休憩終了と結希のことを伝えようと、一歩足を踏み出した智世がぴたりと動きを止める。
狛江と椿、彼女たち二人の会話が耳に入ったからだ。
会話の内容は―――なんと、檜山ケイトのことである。
「あたしがファルスハーツにいたころ、噂、何度か聞いたことあるけどさー。なんか、実物見たら全然そんな感じしなくてさー」
狛江が言う。
「やっぱり有名だったの? “ソニックブレード”」
勤務中のお喋りなどしたこともないはずの椿が、わずかに好奇心をそそられたように狛江に応じる。
“ソニックブレード”―――檜山ケイトのコードネームである。
「うん。あっちにいたとき、研究員とかエージェントの人が話してるの聞いたー。なんかね、すごく大きな戦いを何度もしたことのある要注意イリーガルで、いくつかは組織内でもトップシークレット扱いの資料に名前載ってるんだって」
ぺらぺらととんでもないことを喋る狛江。こんなときでもなかったら、駆けていってその口を塞いでやりたいところだ。
エージェントだの組織だの、トップシークレットだの。メイドさんが口にする単語ではないだろうに。とはいえ、話しているのが檜山ケイトのことであれば話は別だ。“敵”の情報は多いに越したことはない。
「この前久しぶりに伊織と電話で話したとき、そのことをちょっと聞いてみたけど………伊織、すごく驚いてた。あのソニックブレードがゆにばーさるで? って。やっぱり、有名なんだね、彼」
椿が、どこか感嘆したように溜息を吐く。当然、椿同様UGチルドレンである智世も、檜山ケイトの素性は知っていた。しかし、彼に関しては『コードネーム』と『過去、いくつかの戦いで重要な役割を果たした』ということ以外の詳しい情報はあまり知られていない。というより、自分たちのような下っ端のペーペーには、あえて秘匿されているらしいいくつかの情報があるらしいことは、なんとなく智世にもわかるのだ。
「うん、有名、有名。だけどさー、なにが、なんで有名なのかは私も知らないんだよねー。司さんとか永斗さんとかは詳しいわけでしょー? だからあたし、聞いてみたことあるんだけど―――」
「―――私も結希さんにそれとなく………だけど、上手くはぐらかされた」
二人揃って、オーヴァードとしての檜山ケイトには興味をそそられていたようだった。狛江はともかく椿までとは思わなかったが、やはりチルドレンとして、またあの生真面目すぎる性格上、『ソニックブレード・檜山ケイト』は避けて通れぬ存在なのだろう。
二人の会話は続く。
「―――司さんには、『あまり聞いてやるなよ』って言われちゃった。永斗さんは、『知らないほうがいい。世界の秘密に触れることになっちまうぜ』とかって、いつになく真面目な顔してたっけなー」
「………世界の、秘密………」
真面目な表情で椿が考え込んだ。情報ソースがあの永斗とはいえ、妄言ばかりの彼が見せた普段にない深刻な表情というのは気になるところであろう。
「なんか、カッコいいよねー、そういうのー」
頬を上気させ、うっとりした表情の狛江。
「か、カッコいい………って………」
「だってカッコいいじゃんっ!? トップシークレットで世界の秘密だよっ!? あー、なんか憧れるなー」
狛江の台詞に、背後で硬直する智世であった。
いま、あの娘はなんて言った―――?
「か、カッコいいかどうかはともかく………でも、あの仕事ぶりには頭が下がるかも。真面目で一生懸命なのよくわかるし………好感は―――持てる。うちの“怠け者”に比べれば断然」
たぶんパートナーの高崎隼人と比べての発言であろう。とはいえ、狛江と椿両者の発言に、智世のなかでなにかよくないものがざわめいた。
(悪くない―――女性陣の評判、悪くない―――?)
二人のことだから、その言葉に他意はない。狛江は純粋に、ケイトの秘密めいた素性に言葉通りの憧れを抱いているだけで、なんというか子供がヒーローを好きだというのと同じ意味合いでの好感であろう。椿もただ、ケイトの働く姿を見ての単純な評価を下しているに過ぎず、好感が持てるという言葉の真意はそれ以上でもそれ以下でもないはずだ。第一、色恋の「い」の字も知らないようなあの二人に、そういった意味での心配をするだけ無駄なのだ。
しかし、あの二人はそうじゃないとしても、他の女の子はどうなのだろう。
年上の女性にだけ受けがいいと思われていたケイト。しかし彼に対する同世代の少女たちの好意的な評価は、その前提を大いにぐらつかせるものではないか。
秘密や翳があってカッコいいからといって、狛江がケイトを好きになることはないだろう。
真面目で一生懸命だからと言って、椿がケイトに惚れることもないだろう。
では、彼女たち以外の同年代の少女たちはどうだ?
秘密のヴェールに包まれた神秘。翳りを帯びた伏目がちの少年。真面目で、基本的には大切な少女一筋の純情な男の子。
それが、どれだけ女性にたいしてアピールできる要素なのか、結希しか眼中にない(普通の女の子とは違う)智世にはわからない。だが、しかし。それでもやっぱり、檜山ケイトの持つスペックは。認めるのは悔しいが―――只者ではないのではないか。
傷ましげに眉をひそめながらも、智世の背中に紅蓮の炎が吹き上がる。結希さんを泣かせた罪は万死に値しますわよ、ケイトさん。彼女の流した涙ひと雫ごとに、血の一滴を搾り出してやりますわ―――そんな危ないことを考えている。
急いで昼食を食べ終え、店内へと。
時間は午後一時三十五分。結希がいないことと、時間がお昼時であることを考慮して休憩を早めに切り上げた智世であったがどうやらそれは杞憂に終わったらしい。この時間帯にしては珍しく、店内の人はまばらであり、厨房もそれほど慌しくはなさそうであった。この隙に執事たちは買出しに出かけたらしく、店内には狛江と、少し早めに店に顔を出してくれたウェイター姿の玉野椿の二人きりがいるだけであった。なんだ、もしもケイトさんがいたなら、これ見よがしに『結希さん、具合が悪くてお休みですわよ』と言ってやりましたのに―――と智世は思う。
休憩終了と結希のことを伝えようと、一歩足を踏み出した智世がぴたりと動きを止める。
狛江と椿、彼女たち二人の会話が耳に入ったからだ。
会話の内容は―――なんと、檜山ケイトのことである。
「あたしがファルスハーツにいたころ、噂、何度か聞いたことあるけどさー。なんか、実物見たら全然そんな感じしなくてさー」
狛江が言う。
「やっぱり有名だったの? “ソニックブレード”」
勤務中のお喋りなどしたこともないはずの椿が、わずかに好奇心をそそられたように狛江に応じる。
“ソニックブレード”―――檜山ケイトのコードネームである。
「うん。あっちにいたとき、研究員とかエージェントの人が話してるの聞いたー。なんかね、すごく大きな戦いを何度もしたことのある要注意イリーガルで、いくつかは組織内でもトップシークレット扱いの資料に名前載ってるんだって」
ぺらぺらととんでもないことを喋る狛江。こんなときでもなかったら、駆けていってその口を塞いでやりたいところだ。
エージェントだの組織だの、トップシークレットだの。メイドさんが口にする単語ではないだろうに。とはいえ、話しているのが檜山ケイトのことであれば話は別だ。“敵”の情報は多いに越したことはない。
「この前久しぶりに伊織と電話で話したとき、そのことをちょっと聞いてみたけど………伊織、すごく驚いてた。あのソニックブレードがゆにばーさるで? って。やっぱり、有名なんだね、彼」
椿が、どこか感嘆したように溜息を吐く。当然、椿同様UGチルドレンである智世も、檜山ケイトの素性は知っていた。しかし、彼に関しては『コードネーム』と『過去、いくつかの戦いで重要な役割を果たした』ということ以外の詳しい情報はあまり知られていない。というより、自分たちのような下っ端のペーペーには、あえて秘匿されているらしいいくつかの情報があるらしいことは、なんとなく智世にもわかるのだ。
「うん、有名、有名。だけどさー、なにが、なんで有名なのかは私も知らないんだよねー。司さんとか永斗さんとかは詳しいわけでしょー? だからあたし、聞いてみたことあるんだけど―――」
「―――私も結希さんにそれとなく………だけど、上手くはぐらかされた」
二人揃って、オーヴァードとしての檜山ケイトには興味をそそられていたようだった。狛江はともかく椿までとは思わなかったが、やはりチルドレンとして、またあの生真面目すぎる性格上、『ソニックブレード・檜山ケイト』は避けて通れぬ存在なのだろう。
二人の会話は続く。
「―――司さんには、『あまり聞いてやるなよ』って言われちゃった。永斗さんは、『知らないほうがいい。世界の秘密に触れることになっちまうぜ』とかって、いつになく真面目な顔してたっけなー」
「………世界の、秘密………」
真面目な表情で椿が考え込んだ。情報ソースがあの永斗とはいえ、妄言ばかりの彼が見せた普段にない深刻な表情というのは気になるところであろう。
「なんか、カッコいいよねー、そういうのー」
頬を上気させ、うっとりした表情の狛江。
「か、カッコいい………って………」
「だってカッコいいじゃんっ!? トップシークレットで世界の秘密だよっ!? あー、なんか憧れるなー」
狛江の台詞に、背後で硬直する智世であった。
いま、あの娘はなんて言った―――?
「か、カッコいいかどうかはともかく………でも、あの仕事ぶりには頭が下がるかも。真面目で一生懸命なのよくわかるし………好感は―――持てる。うちの“怠け者”に比べれば断然」
たぶんパートナーの高崎隼人と比べての発言であろう。とはいえ、狛江と椿両者の発言に、智世のなかでなにかよくないものがざわめいた。
(悪くない―――女性陣の評判、悪くない―――?)
二人のことだから、その言葉に他意はない。狛江は純粋に、ケイトの秘密めいた素性に言葉通りの憧れを抱いているだけで、なんというか子供がヒーローを好きだというのと同じ意味合いでの好感であろう。椿もただ、ケイトの働く姿を見ての単純な評価を下しているに過ぎず、好感が持てるという言葉の真意はそれ以上でもそれ以下でもないはずだ。第一、色恋の「い」の字も知らないようなあの二人に、そういった意味での心配をするだけ無駄なのだ。
しかし、あの二人はそうじゃないとしても、他の女の子はどうなのだろう。
年上の女性にだけ受けがいいと思われていたケイト。しかし彼に対する同世代の少女たちの好意的な評価は、その前提を大いにぐらつかせるものではないか。
秘密や翳があってカッコいいからといって、狛江がケイトを好きになることはないだろう。
真面目で一生懸命だからと言って、椿がケイトに惚れることもないだろう。
では、彼女たち以外の同年代の少女たちはどうだ?
秘密のヴェールに包まれた神秘。翳りを帯びた伏目がちの少年。真面目で、基本的には大切な少女一筋の純情な男の子。
それが、どれだけ女性にたいしてアピールできる要素なのか、結希しか眼中にない(普通の女の子とは違う)智世にはわからない。だが、しかし。それでもやっぱり、檜山ケイトの持つスペックは。認めるのは悔しいが―――只者ではないのではないか。
敵は―――結希さんの敵は、お姉さまたちだけではなかったか………
結希の懊悩を思い、智世は大いに同情する。
(買出しから戻ってきたら………もう一度ケイトさんには、懇々と教え諭して差し上げなければいけないようですわね………)
智世の瞳が、猛禽類のごとく獰猛な、危険な光を帯びていた。
(買出しから戻ってきたら………もう一度ケイトさんには、懇々と教え諭して差し上げなければいけないようですわね………)
智世の瞳が、猛禽類のごとく獰猛な、危険な光を帯びていた。