卓上ゲーム板作品スレ 保管庫

第01話

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takugess

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灯~Speak The Word ~ 第01話





 壁紙も。華も。
 飾るものなど何もない部屋で。
 色彩の乏しい。コンクリートの冷たい気配に包まれた。
 ひとりで過ごすにはあまりにも広すぎる無機質な部屋で。
 部屋の主は時折、思い出したように小さな机に向かう。
 一枚の便箋と万年筆を目の前に置き、ただただじっと、身じろぎひとつもせずに。
 真っ白な便箋は、まるでそこに文字が綴られるのを静かに待っているかのよう。
 ルビーの赤を思わせるような。燃え立つ炎を宿したような。
 そんな赤い瞳が、躊躇いがちに紙の上に落ちてから、どれだけの時間が経ったことだろう。
 手探りで辿るように、ほっそりとした繊手が万年筆をつまみあげる。
 百の言葉を、千の想いを、万の愛情を ――― 心の内に秘めた激情を書き綴ろうと、彼女が最初の一文字をそこに生み出したのは、置時計の長針が丁度一周し終えてからのことだった。

 『命』

 ただ、その一文字。
 それだけの文字を書いただけで、ぴたりとその手は止められてしまう。
 それは、ほとばしるほどの思いの丈を、綴ること叶わぬもどかしさのせいだろうか。
 手紙を書く、という単純なその行為。
 それで百の言葉を書くことはできる。千の想いを表す言葉を連ねることもできるだろう。
 もしかしたら、万の愛情を表現することだってできるかもしれない。
 でも。だけど。


 百や千や万どころか、それ以上 ――― そんな気持ちを伝えるにはどうしたらいいのか。
 それ以上の想いをぶつけるにはどうしたらいいのか。
 この部屋の主には、そのことだけがどうしてもわからなかった。
 このたった一枚の便箋の、なんと薄っぺらで頼りなく思えることか。
 まるでそう言いたげに眉をしかめる。
「………、っ………」
 便箋の上に押し付けられたままの万年筆。じわり、と黒いインキが滲み出し、紙の上に広がっていく。長い時間を経てようやく書かれた『命』の文字が、歪に汚れていく。
「………、あっ………」
 まるで、なにか取り返しのつかないことをしてしまったかのように、部屋の主は後悔のつぶやきを漏らした。その声に、足元の小さなフェレットが耳をぴくりと動かす。
 しなやかな白毛のフェレットは、一瞬気遣わしげに自分の主人を振り仰ぐと、机の前に正座するその腿に駆け上った。軽やかに身体を翻し、机の上へとよじ登る。
 まるで、それが主にとってなんであるのかを理解しているかのように、便箋を決して踏みつけることもなく。フェレットは、自らの主の、万年筆を握り締めたままの右手に身体を摺り寄せた。
 わずかな静寂。重たい沈黙。
 主の赤い瞳がゆっくりと、便箋の上の黒く滲んだ文字から離れ、フェレットのつぶらな瞳と視線を合わせた。
「なんでもない………平気。どんぺり」
 どんぺりと呼ばれた白いフェレットが、頷くように頭を上下させると、器用に主の腕を伝ってその肩へと駆け上った。その頬へと頭を擦りつける様子は、どこか彼女を慰めているようでもある。

 彼女の、無機質な硝子のような瞳がかすかに和む。
「ん………。今日は………ここまでにする」
 フェレットの飼い主。この殺風景な部屋の主。そして、絶滅社の誇るエージェントにして強化人間。赤い髪の少女、緋室灯は静かに万年筆をテーブルに置いた。
 元々乏しい表情の微細な変化。彼女をよく知るものでさえ、いまこのときの彼女の心情を果たして読み取ることができるかかどうか。

 憂い。

 灯の伏せた瞳に漂うのは、かすかな憂いの色だった ―――




 すべての発端は、灯が自身の定期メンテナンスのために、絶滅社の特別研究施設に赴いたある日のことである。
 調整槽に満たされた、ぬるま湯のような溶液から身を起こし、
「お疲れ様です、灯さん」
「検査結果、特に異常は見られません」
 と、口々に淡々と語る絶滅社の研究員たちの声を無感動に聞きながら、灯は黙々と大きなバスタオルで濡れた身体を拭いていた。もはや彼女にとっての日常の風景と化した“調整”は、灯になんの感慨も与えることはない。
 食事をするように、呼吸をするように。当たり前のスケジュールの一環として行われるこのメンテナンスに、灯がある種の精神の高揚を覚えることがあるとすれば。
 調整後の彼女が決まって訪れる、一室の病室 ――― ただそのことを想うときだけである。
 機械のように正確に、てきぱきと輝明学園の制服に着替えると、灯は愛用のスポーツバッグを手に持って、研究施設の扉をくぐった。
 白く冷たい壁に仕切られた長い廊下を歩き、幾つも角を曲がる。目指す一室が近づくにつれ、灯の歩幅がより大きく、歩みがより速くなることに気づくものはいるだろうか。

 ぴたり。

 規則的な足音が止むと、灯が立ち止まったのは、やはりなんの変哲もない白い扉の前である。
 ただ他の病室と違うのは、扉にかかったネームプレートに、彼女にとって特別な人の名前が書かれていることだった。

 真行寺命 様

 灯の瞳がその文字を何度も何度も追っていた。それは、まるで「確かにここに彼がいるのだ」ということを確認するかのような、どこか真摯で、どこか必死にも見える仕草である。
 灯の右手が扉に触れる。かすかに空気の抜けるような音と共に、白い扉が開かれた。
 病室へ、一歩。わずかに一歩だけ踏み出すと、さほど広くはない部屋の中央へと視線を注ぐ。
 清潔に保たれたベッドに横たわる少年の、まるでただ眠っているかのように見える顔。
 本当に、声をかければ今にも欠伸をしながら起き上がってきそうなほどに、少年 ――― 命の顔は安らかな眠りの中にあるようだった。


 しかし。しかし、命が目を覚ますことはない。
 深い昏睡状態が続く中、どれほどの治療を続けてもなかなか芳しい反応が見られない、と医療班のスタッフが躊躇いがちに灯に告げたことを、彼女は思い出す。
 現状、命の治療に関わっているのは、実は絶滅社の研究スタッフだけではない。
 密かにアンゼロットが送り込んでくれたロンギヌスの医療チームが少なからぬサポートをしてくれていることも、灯は知っている。それでも。だけれども。
 命が長い眠りから回復できる目途は、残念ながらいまだ立っていないのである。
 だから、いまは単純な生命活動の維持だけが、命に対して出来うることのすべてと言えた。
 ただ、それだけのことににしたところで、莫大な費用と人員を割いていることは言うまでもないのだが。

「………」

 灯は、無言。なぜかベッドに近寄ることすらしなかった。
 距離を置いて、遠目に命を見つめるだけ。それがいつもの彼女の見舞いなのだった。
 わずかに灯の唇が動く。呼びかけるように、語りかけるように、ほんのかすかに開かれた唇は、しかしすぐに閉じられてしまう。
 紡ぎ出されようとした言葉を飲み込んで、灯はきびすを返す。わずか十秒に満たない邂逅は、いつもこんな形で締めくくられてしまうのである。
 振り返った灯の表情は、すでに彼女が普段見せている無表情に戻っていた。
 彼女の肩に乗せているどんぺりが、灯の頬に鼻を摺り寄せる。その小さな頭を指先で撫でてやろうと手を伸ばしたとき、灯は自分に向けられた視線と、その気配に気がついた。
「………?」
 長く続く廊下の向こう。こちらを遠慮がちに伺う視線の主は ――― 白衣の“魔法使い”のひとりのようだった。
 目が合ってしまったことで向こうも踏ん切りがついたのか、ツカツカと靴音を鳴らしながら灯に歩み寄る。灯に見覚えはないが、確かに絶滅社の研究員のひとりであるらしかった。
 どうやら自分に用事があるらしい ――― そう見定めて動きを止める。二人の距離が、声の届くほどまでに近づくと、研究員は灯に向かってぺこりと軽く頭を下げた。
 女性である。年齢は二十台後半であろうか。


「緋室………灯さん、ですよね」
 わずかな逡巡の後、確認するようにかけた言葉に灯は頷いた。
 彼女との出会いと短い会話が、灯が慣れない直筆の手紙を書く努力をすることになった原因なのであった ―――




 東の空から射す光に目を覚ます。
 開け放たれたカーテンは陽の光をさえぎることなく、窓際で眠る灯の閉じられた瞼を優しく照らし、毎朝のように彼女を浅い眠りから覚ますのだ。
 薄く開いた赤い瞳に最初に飛び込んできたのは、彼女の枕元で丸くなって眠るどんぺりの白い背中である。
 灯は静かに、フェレットを起こしてしまうことを怖れるかのように、ゆっくりと身体を起こす。
 ベッドの上に座ったまま、ぐるりと室内を見渡す灯の目が、ある一点で止められた。
 屑篭。それはそれは見事なまでに、こんもりと大量の紙屑で一杯になった屑篭である。
 ほとんどすべてが、白紙に近い形でぐしゃぐしゃに丸めて捨てられた便箋だった。それらの一枚一枚を拡げてみれば、九割がた『命』という一文字しか書かれていないことが分かるだろう。
 ひどいものになると、万年筆でただ黒い点を打っただけという、書きかけとも呼べないような状態で捨てられているものも何枚かある。
 これは、灯が昨夜、便箋相手に奮闘していたことの空しい惨敗の結果である。
 手紙を書こうとして結局書けず、無駄に時間と紙を消費し続けたことを雄弁に物語るのが、この屑篭きの中身なのであった。

『緋室………灯さん、ですよね』

 昨日の定期調整の日。
 すべての検査とメンテナンスを終え、命の病室を見舞った灯を呼び止めた絶滅社の女性スタッフの言葉が甦る。灯は彼女を知らなかったが、彼女のほうでは灯のことをよく知っているらしかった。
 彼女はまず、簡単な自己紹介と、突然声をかけた非礼を丁寧に詫びると、彼へのお見舞いはいつもこんな風に済ませられるのですか、とわずかに悲しげな瞳をして灯に尋ねたのであった。

 その問いかけに頷いてみせる灯に、お節介は重々承知していますがと断った上で、

『もっと近くで、もっと長く、彼に話しかけてあげるといいですよ』

 まるで灯自身をいたわるような口調でそう言った。
 彼女は、灯と命のおおよその関係や、命が長い昏睡から目覚めることが出来ないでいることをも熟知しているようである。訊けば、どうやら彼女は命担当の医療スタッフの一員であるらしい。
 命に対する医療スタッフの懸命な治療行為も、そしてそれがなかなか結果を出せないことも、だから詳しく知っており、同時に結果が出せないことへのもどかしさや悔しさも感じているようだった。

『親しい人の声や、呼びかける言葉が、患者さんご本人の力になることもありますから』

 そう言って柔らかく笑う彼女の表情は、彼女自身も命の回復を心から望んでいるのだという優しさが垣間見えるようである。
「話す………? なにを………?」
 灯の赤い瞳が戸惑うようにかすかにぶれた。
 灯はもともと口数の多いほうではない。いや、どちらかというと無口なほうだ。
 必要なこと以外はほとんど喋らないし、それが必要なことであったとしても、喋らないことで大した支障がないとしたら、それすらも口にしない灯である。
 病床の物言わぬ命に話しかけろと言われても、普段の会話以上にどんなことを言えばいいのか分からない。そもそも、灯が命への見舞いをこんなに離れた距離からするのも、言葉一つかけずにきびすを返すのも、かける言葉が見つからないからこそなのである。
 女性スタッフは、そんな灯の特質や性格をもよく知っているようで、その場ですぐに話すことなんてやっぱり難しいですよね、と笑って言った。
 言われるがままに、灯は頷くことしかできない。
 それは彼女の言うことが正しかったからだ。戸惑うような灯に助け舟を出すように、

『手紙を書いてみたらいいんじゃないかしら?』

 彼女はそんなことを、灯に告げたのである。




 その場で突然喋るように言われても。
 いきなり話すことを見つけろと言われても。
 それは、実は、思いのほか難しいことである。普通の人間だって、唐突にそんなことを言われたら気の利いた言葉など言えやしない。これが普段無口な灯であればなおさらであろう。
 だから落ち着いて、ゆっくり出来る場所で、命にかけたい言葉や話したいことを『手紙』という形でまとめてみたらいいのではないだろうか。
 彼女は控え目な助言をすると、最後に、余計なことを言ったのならばごめんなさい、と丁寧な謝罪をして言葉を締めくくると、その場を立ち去っていった。
 思うに。
 灯と命のことをよく知っている、と言っていた彼女は、二人の不器用な邂逅と短すぎる見舞いの様子を、胸を痛めながら見守っていたのではあるまいか。
 唐突な出会いと、彼女が言うところの余計なお節介は、こうして行われたに違いなかった。
 彼女と別れた後、ふと思い立ってコンビニに立ち寄り、便箋と封筒を一揃い買い求め。
 その勢いで文房具屋にも、普段使うことのない少し高価な万年筆まで購入してしまい。
 助言どおりに命への手紙を書き綴ろうとして ―――

 いとも容易く灯は挫折したのである。

 言葉を綴ろうとすればするほど、溢れる想いは濁流となって。
 灯の右手は、とめどない想いの奔流を受け止めきれずに硬直してしまう。
 『命』と呼びかける最初のただ一文字を紙の上に書いただけで、すべての便箋を、万年筆の中のすべてのインクを使っても、彼女の中の気持ちを上手くまとめることが出来ないのである。
 しばし不動の姿勢で身じろぎもせず。
 灯はベッドに半身を起こしたままの姿勢で、彼女にしては珍しい深い溜息をついた。

 屑篭の縁から ―――

 丸めた便箋のひとつが乾いた音を立てて、フローリングの床にぽろりと落ちた ―――


(続く)

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