恐怖を克服するには―― ◆Ok1sMSayUQ
守矢神社から連なる妖怪の山。
天狗を始めとする妖怪達の溜まり場であり、大小の神々のコロニーでもあるそこは、
青々とした木々が生い茂る天然の城塞でもあった。
木を隠すなら森に、という諺があるが、この山の深さなら隠すといっても神隠しに遭ってもおかしくはない。
そう思わせるだけの懐を抱えている。
山の、頂。そこから下界を睥睨する、小柄でオリーブ色のコートに身を包んだ
レミリア・スカーレットの姿があった。
外観よりも実用性を重視したのであろうコートはレミリアの趣味とは甚だ遠い。
汚れが目立ちにくく、自然の中に紛れることを前提とした彩色は薄汚さの一語。
布を人の形に合わせて切り取ったとしか言いようのない簡素すぎるデザインは、無粋そのもの。
そしてそのようなものに身を包み、自らの姿をこそこそと日光から隠している自分という存在は無様でしかない。
サイズが合わず、幽霊が纏うボロ布のような体裁になっているのも拍車をかけているに違いない。
そうとも、とレミリアは失笑した。
四季映姫に嘲笑を浴び、無様以外の何物でもないと一蹴された我が身は、確かに『屍鬼』なのだろう。
威厳も尊厳も否定され、心を腐らせ堕ちてしまった吸血鬼。それが屍鬼だ。
だが――四季映姫は知らない。吸血鬼が本来持ちえる貪欲さ。残酷性。執念。復讐心。支配者の妄執を。
支配者。その言葉が今までの情けない己を覆い隠し、ただ屈服させることを悦楽とする存在へと変えた。
私は全てを支配する。
敬慕される必要性はない。ただ自分の前に跪かせ、恐怖に慄けばいい。
好敵手と認識される必要もない。互いにあるのはただ敵愾心のみでいい。
友情は無益なものでしかない。支配するか、されるか。自分と他者の関係はそれだけだ。
幻想郷の持つ狂気、法という名の恐怖に否定されたのならば、自分が否定し返すしかない。
恐怖を克服するには自らが恐怖になるしかない。
そうして頂に立てば、もう何者も恐れることはない。それが、威厳を取り戻し矜持を取り戻す唯一の方法なのだから。
行わなければ……押し潰されるだけだ。
思惟の時間を終わりにしたレミリアは、笑うことも口上を告げることもなく、黙って木々の枝を跳ねていった。
それが彼女にとって、一番効率のいい移動方法だったからだ。
無駄を無駄としか断ぜず、余裕も幽雅も忘れ去ってしまった吸血鬼の、瞳の色は。
真っ赤……それも、どろどろとして粘つくような、血の赤だった。
レミリアが見定めるのはかつての居城、紅魔館。
支配するのは人間、妖怪、神々だけではない。
狙うのは幻想郷そのもの。レミリアさえも睥睨し、冷笑しているであろう城の主が持つ、この世界だ。
その手始めとして、逃げたと同然の紅魔館を奪い返す腹積もりだった。
誰かがいるのなら屈服させる。紅魔館が誰のものであるか、体の髄まで理解させてやる。
麓に降り立ち、素早い動作のまま走るレミリアの口元はにたりと歪んでいた。
* * *
いい天気だ、と晴れ渡った空をぼんやりと眺めながら、十六夜咲夜は風で揺れる髪をかき上げる。
こんな日はティーセットにバスケットでも持って、どこかの木陰に腰を下ろしてピクニックと洒落込みたいものだ。
無意識のうちにランチの献立、持ってゆく紅茶の種類、お茶請けのお菓子は何にするかと考えている自分がいることに気付いて、
咲夜は自らの暢気さに苦笑した。これでは博麗の巫女を笑えない。
ふと振り向くと、そこには毅然と佇む紅魔館の出で立ちがあって、咲夜はそんなに歩いていないことを思い出した。
主君であるレミリア・スカーレットを探すと言っておきながら、結局紅魔館から離れられない。
メイド長として暮らしてきた習い性がそうさせるのか、主君の帰還を信じてのことなのかは咲夜自身判断がつかない。
一つ言えるのは……門番も図書館の主も、地下の部屋の妹もいない紅魔館は、ひどく寂寥感を出しているということだ。
家を無人にしておくことはできないということなのだろうか。だとするなら、やはりメイド長の習い性かと感慨を結んだ咲夜は、
もう一度紅魔館に戻ることにした。騒霊の安否も気にならないではなかったが、それほど時間は経過していない。
時間はいくらでもある。特に、自分にとっては……
「いや、私の時間は、お嬢様のものよね」
孤独で、ただ潰すだけでしかなかった時間を過ごす時間に変えてくれたのは他ならぬレミリアだ。
ならば自分の時間をどのように使うかはレミリアが決めることで、自分が無為に使っていいものではない。
自分だけでは、どうも昔から変わらず、十年一日時間を潰すことしか出来ないらしいと失笑した咲夜は、
だから紅魔館に戻るのだろうと結論して足を進めた。
咲夜自身はレミリアと会う以前の自分というものをよく覚えてはいなかった。
十六夜咲夜という名前でさえレミリアから与えられたものに過ぎず、元々何人であったのかもすら分からない。
ただ覚えているのは、ぼんやりと無為の時間を潰してきたこと。
自らの人生に意義も信念も見出せず、喜びも楽しみも見つけようとしないままに過ごしてきたらしいということを知っていた。
いつの間にか習得していたらしいナイフ投げの技能も、家事をそつなくこなす要領の良さも、やっているときには何も感じない。
淡々とこなしている自分を見つけるだけで感慨のひとつも結ばないことから、
咲夜は寂しい人間だったのだなとぼんやり想像するだけだった。
もっとも、今はそんなことはない。幻想郷の生活をそれなりに楽しんでいるし、派手好きな当主のお陰で飽きることもない。
妖怪はその長すぎる寿命から、最大の敵は暇、とさえ言われているくらいだ。
レミリアは特に無駄を好み、余裕を楽しむ人柄だったから何をしても遅々としていたが、過程がパターン化することもなかった。
常に変わり、空気の流れのように転じる毎日の生活は予測不能であって、苦労はすれども不平不満などありようはずもない。
きっとそれは繰り返される時間しか知らなかった自分が、
自らの頭で考えながら行動しなければならない状況というものを楽しんでいるからなのだろう、と思った。
だからメイド長であるのだし、レミリアに永劫変わらぬ忠誠を誓っている。
縛られている、とは思わなかった。レミリアが時間を使ってくれることこそが、自分の楽しみに繋がるのだから……
「ただいま、と言うべきなのかしらね」
内省の時間を終わりにした咲夜は紅魔館の門をくぐり、
そよ風に揺れるフラワーガーデンを横目にしながら紅魔館ロビーへ通じる大扉を開けた。
帰るべき家。自分の時間も空間も、全てはここにある。
自然にそう思うことができて、誇るべきものを見つけた気分になった咲夜の顔がほころびかけ……
同時に、ロビーの中央に立っている誰かがいることに気付いて霧散した。
小柄な背を覆うオリーブ色のオーバーコートらしき服。サイズが合っていないのかダブついているようにも見える後ろ背は、
子供が背伸びをしているように思えて微笑ましさすら覚えるくらいだったが、ゆらりと振り向いた顔を見た瞬間、
それは間違った認識なのだと気付かされた。
「久しいわね、咲夜」
レミリア・スカーレット。自分を射抜く視線に、自動的に直立不動の体勢となり居住まいを正す。
は……とメイド長の声で応じたレミリアの、コートの隙間から覗く顔が笑みの形に変わる。
いつもの笑い。唯我独尊の気を漂わせながらも気品を感じるレミリアの笑いは、しかしなぜか違和感を伴って咲夜の胸に落ちた。
レミリアらしくもない、派手さも可愛らしさもない服装の印象がそう思わせるのだろうか。
いやそうに違いないと断じて、咲夜は違和感の正体を探るのをやめた。いや、やめなければならない気がしたのだ。
そうしなければ気付いてはいけないことに気付いてしまいそうで、一種の悪寒を感じていたからなのかもしれなかった。
こつ、こつと音を立てながら一歩ずつ近づいてくるレミリアは、音以上の重たさを響かせているように思え、
直立不動から地面に片膝をつく姿勢へと変えた。なぜそうしたのか自分でも分からないまま、咲夜はレミリアの言葉を待つ。
「人間は、そうでなくてはな」
目と鼻の先にいるらしいレミリアの皮相な声が咲夜に投げかけられる。
自分が離れていたのを咎める声ではない。上に立つ者の声。自らの優位を信じて疑わない、傲慢さを漂わせる声――
主君を非難するような感想を抱いたことに咲夜自身信じられず、レミリアの表情を窺ってしまっていた。
見上げた先、咲夜を睥睨するレミリアの笑みは多大過ぎる自尊心に溢れながらも臣下を労る、気品に満ちたものではなかった。
嗜虐心。どろりとした真紅の瞳に感じられるのは自らを慰めるためだけの笑み。
これは一体誰だ、という疑問が持ち上がり、咲夜は目の前にいるレミリア・スカーレットが偽物ではないかとすら思った。
それほどまでに印象が異なっていた。皮相な声を発していた唇は、気味が悪いくらいに真一文字だった。
「あ、の。お嬢様」
あまりにも違いすぎるレミリアの姿に、咲夜は己の内がいけないと言っているにも関わらず尋ねる声を出してしまっていた。
それまでは無条件に従っていいと思えていた彼女の余裕は、一体どこへ行ってしまったのか。
攻撃的と言うにも足りない、絶対服従を強いるような、刺す瞳をなぜ向けているのか。
山ほど積もった疑問を投げかける前に「黙れ」と無表情に応じたレミリアの言葉が刺さった。
「人間風情が勝手に喋るな。私を同格だと思うな。咲夜は、ただ私に従っていればいい。分かっているな」
質問も会話も許さない、支配者の言葉に咲夜は逆らう意思もなく呆然とするしかなかった。
パチュリー・ノーレッジが亡くなったから? 親友を奪われた怒りがレミリアを変えたのだろうか?
そうではない、と『レミリア』を知る自分が言った。『レミリア』なら怒りを誇りに変え、ここまで自らを変えるわけもない。
もっとそれ以外のなにか――彼女を根本的に変えてしまうような、
重すぎる喪失があったことがレミリアを骨の髄、神経の末端に至るまでを変貌させてしまったのではないか。
そこまで彼女を狂わせてしまうなにかとは一体?
本能的に恐怖を感じた咲夜の顔が引き攣り、それを見たレミリアが陰惨な笑いを浮かべるのを見て取った咲夜は、
もう探ることも恐怖以外の感情も抱くことも許されなくなった立場を実感して慄然とした。
「立て」
命じるレミリアの声は冷淡以上の感情を含まない。
無言で応じて立ち上がった咲夜には、レミリアの顔を見ることも許されなくなった。
窓際のテラスで紅茶を啜りながら、面白いことを探して突拍子も無い提案を持ちかけてくるレミリア。
珍しいものに目を光らせ、無理難題を平然と言い渡してくるレミリア。
だが成功しようが失敗しようが笑って受け流し、結果よりも過程を重んじてそれこそが有意義な時間の使い方なのだと教えてくれたレミリア。
『貴女の時間は、つまらない』
『そんな時間を、私は認めない』
『だから使ってあげる』
『感謝しなさい。今から貴女の時間は、目まぐるしく動くのよ』
差し出された手。無警戒な手のひらに、何の抵抗もなく口付けした自分。
潰すしかなかった自分の時間を、笑いながら、時間を過ごすという運命に変えてくれたレミリア――
それまでの彼女がスッと遠のき、代わりに自らの支配者たらんとするレミリアが入ってくるのを感じた咲夜は、
ならば彼女こそが自分の主君、自らの時間を使う者だと断じて、疑問を差し挟もうとする自分を黙殺した。
冷えた思考が出した結論は、自分が考える必要はないということだった。
レミリアが変わったのならば自分が変わるのが臣下としての筋。主君が白だと言えば白。黒だと言えば黒。
要望に応じてみせ、自らに課せられた任務……いや、命令を遂行し、結果を残してみせることこそが支配者の抱く唯一の期待。
無駄も余裕も必要はない。彼女が望むがままに、自分はいる。それ以上の存在理由を、自分は持たない。
或いはそうしなければ狂ってしまうのではないか。変貌したレミリアの差異に取り残され、
また時間を潰すだけの現在が始まるのではないかと恐れた自分がそうさせたのかもしれなかった。
いや、だからこそ自分は恐怖を取り除いたのだと咲夜は結論する。
自らが恐れるもの、恐怖にさえなってしまえば、無為の時間を気に病む必要もない。
従うこと。レミリアに支配されること。それこそが恐怖を取り除く唯一の手段なのだと断じて、
咲夜は無表情になった顔を虚空へと走らせた。
この時間も、レミリアがそうしろと命じたが故の時間。無駄でも無為でもない、彼女の期待に応えた時間。
殺し合いに戻る以前のレミリアの顔を完全に消し去った咲夜は、次の言葉を待つ機械と化した。
まるでそうなるのを待っていたかのようにレミリアが歩き出し、その後ろに咲夜が続いた。
「咲夜。ここにいるということは、貴女はここでのことを何か知っているのかしら」
「いえ、私もそんなに深くは存じ上げません。ただ」
「ただ?」
「
リリカ・プリズムリバーとこの近くで会いました」
そこから先は続ける必要はなかった。案内しろ、という風に顎をしゃくりあげたレミリアに、咲夜は黙って頷いた。
外では、未だ変わらない蒼天が広がっている。
けれども咲夜にとっての紅魔館は大きく姿を変えた。
もはやそこは帰るべき家などではなく。誇るべき場所でもなく。
ただの、建築物と化していた。
紅魔館へと振り返った咲夜の視線には、もう何の感情も込められてはいなかった。
* * *
リリカ・プリズムリバーは薄暗い物置の中を徘徊しては使えそうな物を手に取り、眺めていた。
東洋西洋問わない代物が納められた品の数々は到底リリカには理解し難いものばかりであり、
古臭い骨董品だとしか思えない、というのが正直な感想だった。
事実、埃を被ってかつての輝きなどとうに失ってしまった陶磁器や装飾品のみすぼらしさや、
錆が広がって使い物にならない鉄製品、腐った匂いを発する正体不明の液体が入ったビンなどをこれでもかと目にしていたからだ。
ここはまるで道具の墓場だ、とリリカは思った。幻想郷でも忘れ去られ、真の意味で死に往く名前もない道具達……
だから自分はここに吸い寄せられたのかもしれない。
二人の姉を失い、音を失って疲れ果てた精神が死の臭気を発するこの世界に誘われた。
そうしてのこのこ入り込んでいったところを、待ち構えていた姉達に怒鳴り返され今ここにいるというわけだ。
御伽噺にするには冗談が利き過ぎた話だとリリカは苦笑する。
それほどまでに追い詰められていたには違いない。正気を取り戻したとはいえ、未だ自らの心に潜む虚無の存在もリリカは忘れなかった。
一人でライブを続けるには、この幻想郷はあまりにも広すぎる。
三人揃ってこそのプリズムリバー楽団というのは疑いようのない事実であり、姉妹の誰もが認めるところであった。
だから自分は、何の確証も持てずにここにいる。死にたくないという確固たる意思は持ちながらもそれをどこに向ければいいのか、
誰のために、何をすべきなのかという目的が見つけられずに途方に暮れている。
今までその役割を果たしてくれた姉達はもうなく、それもこの一日で失ってしまったとことは、あまりにも重い。
姉――ルナサもメルランも心の中にいるといえば、確かにそうだ。だからこそ自分が立っていられることも分かる。
しかしそれは自分の中に押し込めた事実でしかなく、自らの存在の証左とはならない。
『誰か』が欲しかった。そのためになら命だって賭けられるような、何の抵抗もなく音楽を聞かせてもいいと思える誰かが。
今すぐ見つけろというにはあまりにも酷な話だと思いながら、リリカはガラス張りの戸棚を開け、本の一冊一冊を探ってみる。
あるのはやはり、文字も読めない書物ばかりで、西洋も東洋も関係なく一緒くたになった戸棚の中身に、
リリカはもう少しマシなものはないのかと辟易した。
音楽の譜面ならまだしも、魔法使いでもないと喜びそうにない代物を渡されてもどうしようもない。
せめて霧雨魔理沙のような魔法使いでもいれば役に立つものかどうか判別もつきそうなものだが。
手土産に持って行こうにもこれだけ数があると一々スキマ袋に入れるのも億劫で、
それまでと同じように本を棚に出しては戻す作業が続けられた。
何度目かの溜息を吐き出したリリカが次の本を取り出す。と、戸棚の奥に何かが鎮座しているのが見つかる。
本に飽き飽きしていたリリカはそちらの方に興味をそそられ、周囲の本をどかして中にあったものを引っ張り出す。
紐で括られていたらしいそれは、リリカにも見覚えがあるものだった。
「これ……あの巫女のお札?」
恐らくは東洋の文字で記された、赤を基調とした紙製の札の束がリリカの手の中にある。
何故こんなところに、と思わないではなかったが、古今東西の骨董品がある倉庫のこと、これくらいのものがあっても不思議ではなかった。
騒霊、つまり幽霊の自分にとっては不吉そのものを体現したような札だが、道具は使いようだ。
そうでなければ幻想の楽器であるキーボードなど使いこなせるわけがないのだから。
使い方さえ知っていれば、どんな道具でも使ってみようとするのがリリカの柔軟さであった。
「ええと、確かあの巫女は投げて使ってたわね。変な呪文もなかったし」
札の一枚を取り出し、以前、春雪異変の時に戦った博麗霊夢の姿を思い出しながらリリカは適当に札を投げつけてみた。
……が、札は情けないぺちっという音を立てて壁に張り付いただけだった。
張り付く理由は分からなかったが、それだけであるらしいと認識したリリカは深く落胆して札を取りに行こうとした。
「っ!?」
だが近づいた瞬間、眩い光を発した札が自分を跳ね飛ばした。いきなりのことに受け身も取れず、ごろごろと無様に転がり、
無造作に置かれていた古い甲冑に頭からぶつかって、「みぎゃ!」と見苦しい悲鳴を上げてしまう。
どうやら投げたところに張り付き、近づく者があれば吹き飛ばす設置型の『霊撃札』であることは判明した。
頭をぶつけるという代価は払ったものの。
打ち付けた部分をさすりながらリリカはそう考え、服についた埃を払った。
とりあえず使えるものは確保した。数えてみたところ霊撃札は残り24枚。先程一枚使ったから、元は25枚。
大きく弾き飛ばす性能と発光するという性質から、罠として使うよりも警戒装置として使う方が良さそうだった。
それに、傷つけずに済むという部分も今のリリカにはありがたいものだった。
黒谷ヤマメがそうであったように、ふとした気の緩みで誰かを死なせてしまうことは、もうしたくなかった。
殺傷する武器は自分には荷が重過ぎる。そんなことを考え、
しかしそれはヤマメの死んだ意味から逃げているのではないか、と頭の片隅が警告した。
死にたくはない。戦いたくもない。ならば彼女が死んだ意味は何だったのか。
姉達に任せきりで、自らは物事を考えずに逃避してきた事実が圧力となって圧し掛かるのを自覚したが、
自分が整理し、納得できる事柄があまりにも少なすぎた。
平和だった暮らしを叩き壊され、大きすぎる負債を抱え込み、
踏み倒すことなく前進するという行為は、リリカにとって難題でありすぎた。
ゆえにリリカはヤマメのことを頭から押し退けた。逃避であったとしても、そうしなければならなかった。
頼れる誰かもなく、解決することなんで不可能にも等しかったから……
霊撃札をスキマ袋に押し込むと、リリカは物置から退散するようにして出て行った。
物は手に入れたのだし、まずは味方を探しに行かなければならない。
霧雨魔理沙はどこにいるだろうか。異変を解決する彼女なら、必然的に人の集まる場所にいるはずだが。
候補を選別しつつロビーへと通じる廊下に出る。
まだ落ち着ききっていなかったからか。それとも考え事をしながら歩いていたからか。
リリカは自らを睥睨する悪魔と、その従者の存在に気付く事が出来なかった。
「咲夜」
幼い声の調子とは不釣合いの、醒めた声にリリカが振り向いた瞬間、目の前を銀髪が横切った。
ひらひらと揺らめくメイド服に呆気に取られた瞬間、足払いされて体勢を崩される。
仰向けに倒れたところで慌てて霊撃札を取り出そうとしたが、スキマ袋ごと蹴り飛ばされた。
しまったと思う間もなく、リリカの首筋にナイフの冷たい刃が突きつけられた。
動くなという警告を鋭い視線の中に含ませながら、十六夜咲夜が体に圧し掛かり、馬乗りの体勢になっていた。
霊撃札を準備しておかなかった迂闊さを悔やむより、あの時助けてくれた咲夜がなぜこんなことをしているのかという疑問の方が先立った。
無表情を装うのはあの時も今も違いがない。しかし決定的に違うのは……温度。
余裕も温情もない、リリカをただ対象物としてしか見ていない、徹底的な冷たさは一体何だというのか。
息も乱さず、一言も発しない彼女は、本当に人間なのか……?
尽きない疑問は、「無様だな」と嘲るように発せられた頭上からの声に打ち消された。
「相も変わらず、何も見てやしない。ここなら安全だとでも、思ったの?」
「レミリア・スカーレット……」
以前紅魔館に一緒に立て篭もった、紅い瞳の悪魔。傲岸不遜を絵に描いたような彼女は、しかし今は驚くほど印象を異にしていた。
オリーブ色のコートに身を包み、二階廊下の手すりに座ってリリカを見下ろすレミリアにはただ侮蔑の色だけがあった。
それはリリカに対するものではなく、自分以外の全てに対して。
絶対の優位者であると言って恥じない、厚顔無恥とでも言うべき横暴さが今のレミリアにはあった。
リリカがこうされているのは、レミリアが逃げ出した自分に対して恨みを持っていたからだと思ったが、違うと感じた。
そんな些細なものではない。個人というレベルに留まらず、この場にあるもの全てを敵対視し、排除するのも厭わない残忍さ。
本能的に恐怖を感じた体が震える。それをレミリアは見逃さなかったようで、にぃ、と口元を歪めた。
「っ、に、逃げてたんじゃないわよ! 確かに、あの時はそうだったかもしれないけど……
姉さん達が死んだのを認めたくなかったけど……でも、今は違う! 私は音楽を奏でる。
私『達』の音楽を待ってくれてる、誰かのために……!」
レミリアの笑い方に負けてはいけないと咄嗟に思ったのと、退いたら負けだという思いが込み上がり、リリカは精一杯叫んでいた。
嘲笑が消えた代わりに、それがどうした、と虫を見るような視線がリリカを射抜いた。
「今度は自己満足に走っただけね。狂うのと何も変わりはしない。結局貴様は、逃げることしかできない」
「なにを……!」
「そんなに、死にたくないか」
一際ドスを増した声は、明らかに自分への憎悪を増していた。リリカは自分の認識が誤りであったのを再度確認した。
世界を憎む代わりに自分を憎まなくなったのではない。自分を始めとして、レミリアは等しく何をも憎んでいる。
そうしなければ、何も取り戻すことも出来ないというように。
殺されるという直感がリリカを貫いたが、ここまで明確に殺意を向けられていると寧ろ何もかも吹っ切れた感覚で、
リリカは「そうよ!」と言い返してやった。
「私は死ぬわけにはいかないのよ! なんでかって? 姉さん達がもういないからよ!
プリズムリバー楽団のみんなが死んじゃったら、誰が幻想郷のちんどん屋をやるっていうのよっ!」
その瞬間には恐怖も迷いも吹っ切った、感情を丸出しにした言葉がプリズムリバー邸を震わせた。
多少はレミリアに嫌悪感でも味わわせてやれたかと思ったが、レミリアは不快に思うどころか、笑った。
まるで出し物でも見ているかのような、滑稽さを目の前にしたときの笑い方だった。
「家族のために生きるっていうわけね? 下らない。そんなものが理由になどなるものか。
それで尊厳が保たれるとでも思ったら大間違いだ。薄っぺらい誇りで、私は動じない」
姉に対する想いを一蹴され、リリカは怒りの感情が沸き立つのを感じた。
家族を馬鹿にするってんなら、いくらでも喧嘩してやろうじゃないの――
口を開きかけたリリカの気概は、「教えてやる」と遮ったレミリアの言葉に挫かれた。
「結局のところ尊厳を取り戻すのも奪うのも、力だ。恐怖でしか誰も、何も取り戻せない」
言い放ったレミリアの目は力に固執する、意地のようなものが窺えた。
だがそれがひどく悲しい理論のように思われ、わけもなく対抗心が消えたリリカが感じたものは、それは違うという否定だった。
しかし違うという理由を説明できる自信はなく、ただ見返したリリカを、再びレミリアが嗤う。
「咲夜、指を折りなさい」
「どの指でしょうか」
「好きなのを一本」
当たり前のように交わされたやりとりに、呆気に取られたのも一瞬、ごきりという感触と共に激痛が右手から這い上がってきた。
人差し指を折られたのだと認識し、焼けるような感触にリリカは悲鳴を上げた。
「ほら。これだけで貴様はもう楽器も演奏できない」
「あん、た……!」
痛みの余り、歯を食い縛りながら睨んだ自分の表情は、恐らく鬼気迫るようなものなのだろう。
レミリアもそうと解釈したようで、くく、と冷笑を寄越した。
思い通りになったという顔。自分の論理が正しいと勝手に納得するレミリアに、リリカは寧ろそちらの方に反発心を覚えた。
「ガキのくせに……!」
分かったようなこと言ってんじゃないわよ、と続けようとしたリリカの声は激痛によって中断される。
悔しさを感じながらのたうつリリカを眺めながら「そうでなくてはね」と言ったレミリアが、次の指令を下す。
「その折った指、もう切り落としなさい。どうせ使い物にならないんだもの、いっそすっきりさせてあげるわ」
「な……!」
絶句したと同時、首筋にあったナイフの刃が折れた指に突き立った。
先程の痛みが優しく思えるほどの激痛がリリカを襲う。
焼けた棒で傷口を直接抉られる感覚。指の神経を攪拌され、
リリカは暴れまわったが馬乗りになる咲夜の膂力は見た目以上であり、
手足をばたつかせるだけで咲夜はビクともしなかった。
支配されている。圧倒的な暴力で、何もかもを根こそぎ破壊されている。
そんな想像に陥った直後、ごっ、という音と共に何かが千切れる感覚があった。
完全に指を切られた。キーボードを叩けなくなったという絶望感がリリカを駆け抜け、我知らず涙が流れていた。
哄笑を続けるレミリアへの反発心もどこか遠くなり、どうしよう、という言葉だけがリリカを覆っていた。
「これが、貴様への第一の罰よ。貴様は支配してやる。骨の髄、神経の末端に至るまでな。
復讐したいのならば、いつでもかかってきなさい。その時は……もっと強い恐怖で支配してやる」
いつの間にか目と鼻の先までにあったレミリアの顔を凝視する間もなく、リリカは顔を逸らした。
激痛と途方に暮れた心で一杯だったリリカには、反撃するという考えさえもなかった。
行くわよ、咲夜。その声を最後に、レミリアと咲夜の気配は掻き消えるようにプリズムリバー邸からいなくなった。
切られた指から流れ出す血が、じわりじわりと広がってゆく。
リリカには、それが希望の残滓にも、絶望の侵食のようにも思えた。
どうしよう。
意識を朦朧とさせるリリカの頭に浮かんでいたのは、やはりその一語だった。
【C-2 西部 プリズムリバー邸ロビー・一日目 真昼】
【リリカ・プリズムリバー】
[状態]腹部に刺傷(大よそ完治)、右手人差し指切断、意識朦朧
[装備]なし
[道具]支給品一式、オレンジのバトン、蓬莱人形、霊撃札(24枚)
[思考・状況]生き延びて姉達の遺言を果たす
[行動方針]
1.どうしよう……
2.霧雨魔理沙を探しその動向が脱出であれば協力する。
3.出来るならば姉達とヤマメを弔いたい。
【十六夜咲夜】
[状態]健康
[装備]NRS ナイフ型消音拳銃(1/1)
[道具]支給品一式、出店で蒐集した物、フラッシュバン(残り2個)、死神の鎌
NRSナイフ型消音拳銃予備弾薬17 食事用ナイフ・フォーク(各*5)
[思考・状況]お嬢様に従っていればいい
[行動方針]
1.お嬢様に従うことこそ、時間を潰さずにいられる手段だ
※出店で蒐集した物の中に、刃物や特殊な効果がある道具などはない。
※食事用ナイフ・フォークは愛用銀ナイフの様な切断用には使えません、思い切り投げれば刺さる可能性は有
【レミリア・スカーレット】
[状態]腕に深い切り傷(治療済)、背中に銃創あり(治療済)
[装備]霧雨の剣、戦闘雨具、キスメの遺体
[道具]支給品一式
[思考・状況]基本方針:威厳を回復するために支配者となる。もう誰とも組むつもりはない。
最終的に城を落とす
1.キスメの桶を探す。
2.映姫・リリカの両名を最終的に、踏み躙って殺害する
3.咲夜は、道具だ
※名簿を確認していません
※霧雨の剣による天下統一は封印されています。
※紅魔館レミリア・スカーレットの部屋は『物置』状態です
最終更新:2010年05月28日 23:38