彼岸忌紅 ~Riverside Excruciating Crimson ◆CxB4Q1Bk8I
閉ざされた部屋。
外との繋がりを殆ど断たれた空間。
決して明るくはない、明滅を繰り返す照明。
視界を遮る白い靄。
規則的に繰り返す水の音。
彼女は一人、その中にいた。
死と常に近く在り、死者と戯れてきた。
今はそう、悲しい決意を胸に、その死までを心に定めて。
眼を閉じて物思いに耽る。
その長身を丸めて、膝を抱えるように腰掛けて、
全ての殻を剥がし、原初に還ったかのような姿で――
「うーん、極楽、極楽。
死なずに極楽行けるならこんなにいいことは無いね。燗があればなおいいけど、そいつは贅沢かねぇ」
木霊のような独り言の反響を耳に受けながら、小野塚小町は、湯船の縁に背を預けると大きく背伸びした。
衣服の拘束から放たれた彼女の体が、久々の開放感に身を震わせる。
普段は左右二つ結っている髪も、今は紐を解いて手拭いで纏めてある。
弱々しい照明が、壁に彼女の起伏の大きい身体の影を映し出していた。
古明地さとりと袂を別った後、小町は人里を中心に周辺の様子を調べていた。
博麗霊夢は、いつの間にか姿を消していた。
積極的には自分と関わらないようにしているのならば、それは構わないと、小町は彼女を自由にさせておくことにした。
小町は彼女を評価している。博麗の巫女として、という部分では、であるが。
凄まじいまでの幸運と直感で、彼女は独りでも生き延びるだろう。
小町は、人里で幾つかの死体を発見した他、八意永琳と霊烏路空、
チルノの交戦を遠目で確認した。
尤も、それについては介入する理由はないと判断し、その場をすぐに立ち去った。
八意永琳の死を以って状況が劇的に変化する可能性は考えたが、それに賭けるのは余りに分が悪いと判断したのだ。
派手な音と弾幕を撒き散らすそこから遠ざかる途中で、小町は“それ”の存在に気付いたのであった。
それは、銭湯であった。
人里の外れ、殊更目を引く煙突と共にそれは在った。
普段から多くの人が訪れたであろう、憩いと癒しの空間であり、人間には生活必需の施設。
建てられて長くそこに在ったのだろう、古びた外観には貫禄さえあった。
どういうからくりか不明だが――尤も、それを知る必要は全く無かったのだ――無人のまま、煙も出さずに機能し続けるそれに、
小町は、深く考えることも無く、日常のにおいに誘われて、欲求の赴くままに身体を休めることを是としたのだ。
「ん、ん~! あたいもトシかねぇ、なんてね。肩が凝るよ、全く」
軽口を叩きながらもう一伸びすると、小町は改めて浴室内をぐるりと見渡した。
石造りの古い建物で、幻想郷の妖怪達が本気を出せば容易く崩されるだろうという印象だ。
よくまぁ、ここまで古くなるまでは持ったものだと小町は感心した。
人里がもっと危険だった時代なら、あの高い煙突といい、“目立ちすぎる”として格好の攻撃目標になりそうなものだ。
浴室は広く、数十人は入れるだろう。浴槽と反対の壁際には、どういう原理かわからないが、捻ればお湯の出る栓と管が並んでいる。
大鏡が壁にかけられていた。曇らないように何か細工してあるのだろうが、それも小町にはわからない。
ここには、河童の手が入っていると聞いたことがある。
悔しいが、河童の持つ技術の進み方から、彼岸は一回り以上遅れているのが事実なのだ。
壁には、幻想郷に存在しないはずの“海”の絵が描いてあった。それは小町も、外の世界の有名な画家の絵だと聞いたことがある。
無限の距離を持つであろう水の行く末は、小野塚小町にとってある種の憧れのようなものもあった。
そして――ここは、“混浴”であった。
これだけ広い浴槽を作れたのは、建物を無駄に分割する必要が無かった、というのもあるのだろう。
男女もさることがら、ここには人妖を隔てる壁も無い。
誰もが、それこそ暗黙のルールさえ保てば受け入れられる、数少ない場所であった。
湯に浸かり、心を安らげる――そのような場に、生きるか、死ぬかの日常を持ち込む者は人妖問わず幻想郷にはいなかったのだ。
小町は銭湯という場所は好きだった。
裸の付き合いとはよく言ったもので、そこでは人間達も饒舌になるし、自分の話に付き合わない者はいない。
こと小町については、そこに居るだけで男達の視線と興味を釘付けにしていたのだから当たり前といえばそうであったが――。
小町は、そういう関係が、好きだった。あの理想郷に、嫌いなものなど――無かったのだ。
「だから――かねぇ」
小町は、小さく呟く。
死神でありながら、小野塚小町は、幻想郷の死を、何よりも恐れている。
生きたいと願うもの達の命を刈り取る様は、正しく死神であると言うのに――。
死者を渡す仕事では、死と縁深くても、血生臭さとは無縁であった。
死者は語り、死神は相槌を打つ――そうであることが、本来の姿だとさえ思っていた。
それが許される世界が、小町には全てだった。だから、それを守るため、自らを柱として沈む覚悟をした。
冥界の管理者や
地霊殿の主、博麗の巫女と言葉を交わし、迷いながらも、この道を変える無いのだろうと、小町は思う。
それは決して、もう戻れないからではない。自分が血に汚れてしまったからでもない。
そこに自分の姿が無くとも構わない、守りたい世界。それだけが――小町の生への未練に勝るのだから。
小町の“生き残らせるに値する”人妖のうち、この人里では博麗霊夢と古明地さとりを確認したことになる。
そして――
四季映姫・ヤマザナドゥ。彼女とは確かに、あの場所で再会した。
だが小町は彼女を追うことを躊躇った。彼女を守ることは義務であり責任であったが、同時にそれは恐怖であった。
西行寺幽々子と別れた時と同じように、小町は守るべき対象に同行することのリスクを承知していた。
故に、可能な限り接触の無い形で、四季映姫――或いはその他の賢者達を、
ひとつきりの勝者の椅子に座らせるため、影の道を歩くことを選んだのだ。
小野塚小町は考える。
たとえば、この中で四季様を生かすことが出来たとしたら。
彼女が唯一人に与えられる勝者という栄誉を手に入れたとしたら。
彼女は幻想郷をどうするだろうか。
勝者の栄誉に酔うことも無く、この悲劇に悲嘆することも無く、ただ何事も無かったかのように日常へと回帰するのだろうか。
バランスを失った世界で、盛者必衰、滅び行くこともまた理として受け入れ、終わりゆく幻想郷をただ見守るだけだろうか。
それとも、――それは彼女らしくないと思いながらも――幻想郷を維持するべく彼女の明晰な頭脳をしてそれの保護に努めるのだろうか。
それは、決して小野塚小町が見ることは出来ない、このゲームの結末の先の先。
だから、彼女の選択が誤りであったかどうかは絶対にわかりえない。
おそらく、その結末がどうあったとしても、四季映姫は小野塚小町を“黒”とするだろう。
生きる為でなく他者を殺める事は、世の理――法に反することなのだ。
だから、最後、彼女と自分の二人が残ったならば――その手で裁かれることは当然だ。
そうであってこそ、小町が彼女を残す意味であり、彼女を勝たせる意味である筈なのだから。
小町はぶるぶると頭を振ると、両頬を二度叩いた。
「……湯船に浸かって一人だと、色々考えちゃっていけないね。
ちょいと話し相手でもほしいところ――」
がらり、と戸を引く音がした。
小町は、はっと身構える。
立ち上がった勢いで湯が飛び散る。胸まで湯に浸かっていた身体が、急に触れた空気の冷たさに震えた。
敵襲か。……敵? 自分の敵は一体誰だ。“幻想郷に仇なす者”か?
自分が楽天的なことは否定しないが、突然の来訪者を無条件で味方だろうと思うほど小町の思考は微温湯に浸かってはいない。
だが、どのような形の奇襲もありえた以上、こうしていること自体が油断そのものなのかもしれなかった。
“安らぎを与える空間で惨劇は発生し得ない”とは誰一人として決めておらず、小町もそう思っていたわけではないのだが――。
ただ、この空間のすぐ外に誰かがいたというのに、踏み入れようとしてくるまで気付かなかったのだ、やはり気が緩んでいたのだろう。
弛緩しきった思考に喝を入れ、小町は次の一手を考える。
幸い、というよりは当然のことであったが、武器を入れたスキマ袋は手の届く壁際に濡れないように置いてある。
今の場所ならば、戸よりも内側に入らなければ相手の視界には入らない。
奇襲でない以上、小町には僅かの余裕がある。
相手を見極め、すぐに次の動きへと移れるよう、身構えていた。
だが、小町の想像した全ての危機的状況を覆すかのように、形だけの暖簾の向こう側から、小さな影がのそりと入ってきた。
それは、おおよそここで起きている惨劇とは無縁であるかのような空気を纏っていたように、小町には思えた。
未発達の――恐らく今後幾年が経とうとも発達することは無い――身体。
眩いほどの白い肌は、しかしその無垢さとは裏腹に細かく傷ついているのがわかった。
一糸纏わぬ姿、と最初に小町の思考は捉えたが、実際は金色の髪に結んだままのリボンが、その表現を不正確なものにしていた。
されど、それ以外には(場所を考えればそれは当然であるのだが)何も纏わず、そしてそれを恥じて隠すことも無く、
――尤も、小町も同様ではあったのだが――あっけらかんといった表情で訪問者はそこに立っていた。
小町の身体から滴り落ちる水音以外、音ひとつしない少しの時間が、向かい合った二人の間に流れる。
「あれ、他にお客さんいたんだー」
小町の思考よりさらに弛緩しきった、間延びした少女の声が反響するのを聞いて、小町の集めた筈の気力が再度四散していくのを感じていた。
◇
気の抜けるような邂逅の後、少女は
ルーミアと名乗って、屈託の無い笑顔を見せた。
小町が名乗ると、そーなのかー、と興味ないように返した。
湯船を指差し「入っていい?」と笑顔のまま聞くものだから、小町も「先に身体を洗ったらね」と答えざるを得なかった。
ルーミアはそれに笑顔で頷いて、よたよたと湯の出る栓のところまで歩くと、備え付けの石鹸で体中を丁寧に洗った。
小町は、その様子を観察する。微笑ましく子を見守る親の視線ではなく、獲物を見定める狩人の眼――死神の視線だ。
それには気付いた様子も無く、ルーミアは体を洗い終えると飛び込むように湯船に入ってきた。
不快な感じではなかった。彼女は日常をそのまま持ち込んでいた。
深く物事を考えず、在るがままで在る。
今、小町にはきっとそれは難しすぎる。嘗てそれに近くあったとはいえ、この舞台で自分に与えた役割はそれとは遠すぎるものだ。
それは、この妖怪には簡単なことなのだろうか。
そして、それこそが、彼女をここまで生き長らえさせたのかもしれない。
過度に敵を作らない――いつの時代も、生き残るための基本であった。
だが、無条件に相手を信じるな――それもまた掟であった筈ではなかろうか。
ルーミアは、小町が自分を殺そうとする可能性なんて、微塵も考えてないのかもしれない。
そして、自分もまた、既に、彼女が自分を殺そうとする可能性を薄らとも考えていないことに、気付いていた。
――
――
取るに足らない妖怪。
小町の感想は、そう結論付けられた。
無論、今小町の横で湯を掬っては流すを繰り返している、実年齢こそ不明だが外見だけならば年端も行かぬ、金髪の少女のことだ。
邂逅から僅かの間、少しの会話を交わしただけで、十分に彼女を把握できたと、小町は思う。
その間、参加させられているこのゲームの事について一切触れなかったが、彼女もまたそれに触れることは無かった。
小野塚小町にとって、それそのものの事や自身の抱く苦悩を、この小さな妖怪に話す気は当然無く、
また彼女がどう考えているのかということも、小町には何の意味も為さない事だと思っていた。
そもそも、ここまで、彼女が生き残ってきたこと自体がまるで奇跡だと思う。
妖力も大したことはなく、警戒心も邪気も無く、無防備だ。頭が回るとも思えない。
一人でここにいるということは、誰かの庇護の下にいたわけでもないのだろうというのに。
賢者達はおろか、今生存する人妖の中では最も力の弱い部類に入る妖怪で、――幻想郷にとって存在意義の最も無い妖怪。
生かす意味は無い、と小町は結論付ける一方で、しかしそれをすぐには実行に移さなかった。
“ここ”で“彼女”を殺すことに、小町は躊躇いを抱いていた。
この場所を、小町は知っているから。
彼女も、自分も無防備になって、いられる場所。
戦場や煩わしいものとは一線を隔した、安寧と自由の場所。
心のどこかで、ここを、そう思ってしまったから。
一瞬なれど、日常に戻ってしまっていたのだから。
自分だけがそれを振り切って、無警戒な日常に浸ったままの彼女を殺す――それを、本心で、嫌だと、思ってしまった。
自分は甘い。博麗霊夢ならば、この場で表情ひとつ変えずに両の手で彼女の息の根を止めるくらいならばしただろう。
しかし、自分は自分に言い訳を探す。
そう、結果は変わらない。
彼女を殺すことそのものに、躊躇うわけではない。そう、小町は心の中で繰り返した。
「あんたが羨ましいよ」
暫しの観察の後、小町はルーミアに語りかける。
端から小町に対して警戒もしていないルーミアは、顎まで浸かっていた顔をようやく小町に向けた。
「んー?」
首を傾げる仕草は、どこか仔猫のように見えた。
「羨ましいのさ。お前さんは、悩んでるようにも、恐れているようにも見えない。本当にそうなら、きっと幸せだろうね」
小町は、本心からそう言う。羨ましさはあった。それと同じものになるつもりは、まるで無かったけれども。
「えー、でも私も悩んだりするよ。怖いものもあるし」
「そうかい。うんまぁ、そりゃそうだよね」
小町は手拭い越しに頭を掻く。
「でも、自分が正しいのわかったし、間違ってるのはみんななんだよね。
だから上手くいくこともあるわけだし。迷っても大丈夫、悪いことじゃないわー」
自慢げに話すルーミアの言葉の意味は、よくわからなかったが、小町の耳に心地よく入っていった。
「あとね、私、お風呂は好きなの。
それに今はお腹一杯だもの。やっぱり、幸せかもしれない、のかなぁ?」
にこりと笑ったルーミアを見て、小町は思わず目を逸らした。
「そ、っか。なら言うことないね」
素っ気無く返す小野塚小町は、しかしその実、動揺していた。
純に生き、純な幸せを享受する彼女を、見ていることができなかった。
重りを背負い、幸せを半ば放棄した自分から見れば、それの持つ日常の匂いはまるで死に至る――。
天井を見上げる。無機質で古めかしい灰色は、幻想とはかけ離れている。
小町の世界はそれよりももっと、暗い色をした、行き止まりの――。
「お姉さん、美味しそうだよねぇ」
耳元に、吐息がかかる。
鳥肌が立つ。あわてて振り向けば、ルーミアがすぐ脇に居た。
不気味な色気のある紅い眼を輝かせ――涎すら垂らしそうな表情で、小町を見ていた。
彼女の視線に、ある種の悪寒を覚え――小町は後ずさる。
「あは、冗談きついねぇ」
だが、そのような視線は、小町には経験があった。
小町はルーミアの視線を追う。
その先は――肩よりもやや下、
――自身の、肉付きの最もよい部分に、その視線は注がれていた。
「……ああ」
なるほど。小町の全身から力が抜ける。
人間の男達と、同じだ。尤も、欲求とは無関係にただ興味があるだけなのだろうが。
「そんなに凝視しないでほしいねぇ。あたいにゃそんな趣味ないわ」
「そんな趣味? どんな趣味?」
まったく、と小町は頭を掻く。恐らく邪気も何も無いのだろう。
それでも、心に不気味な悪寒を残したあの視線が、霧のように纏わりついてくるのを感じた。
種明かしは終わったのに、違和感が頭の端で燻る。
「ま、とにかく、そんな眼で見たって何も起こらないからね」
それを振り払うように、小町はルーミアから視線を外す。
「うん、今はわからないのは仕方ないわー。
だから後で試させてね?」
「後でも先でも、何も無いったら無いさ。おっと、触るのもダメ」
相変わらず意味のわからないルーミアの言葉と伸びてくる手を、小町は遮った。
その言葉、仕草の一つ一つが、最初とは違う、絡みつくような蠢きを以って小町ににじり寄ってくるような感覚があった。
その理由がわからないことが、小町を少しだけ苛立たせた。
しかし、それはただ、自分が彼女を殺そうとしているから――
在りもしない彼女の抵抗を、自分の意識の中でその中に押し込んでいるだけなのだろうと、思った。
小町は、立ち上がる。
この少女が命を終える瞬間を、自らの手で訪れさせるため、小野塚小町は長くここにいるわけにはいかない。
情の湧くことは許されないし、殺し損ねることもあってはならない。
ただこの僅かな日常の香りだけを血で穢さない事――それが最後の妥協点なのだ。
「もうあがるの?」
「あんまり長くいると、のぼせちゃうからね」
「そうだねー。じゃあねー。頑張ってね」
頑張ってね、とその言葉は、酷くノイズがかかったように聞こえた。
スキマ袋を手に取ると、小野塚小町は見送る少女に手を振った。
手を振り返す姿は、しかし、決して小町の心を明るくはしなかった。
戸の外に、更衣用のスペースがある。
荷物を入れる棚が設置されているが、この平和な人里だ、盗難防止用の鍵など無いし、入れてあるものを隠すものも無い。
他者と自分の荷物が混じらないように、個々に区切られた枠があるだけだ。
小町は左側の一番上の段に脱いだ服を入れていた。
これは小町の習慣であり、長身である小町にとっては日常的な気遣いでもあった。
この非日常の中でも、無意識のうちにそうしていたのだろう。
尤も、全てスキマ袋にでも入れておけばよかったのだと、今更気付いた。
その二つ下、下から二段目の欄にルーミアは荷物を入れているようだった。
スキマ袋と、その横に畳まれた青色の服が目に入る。
見たところ、人里の人間の服のようだった。
彼女の元の服は脱いでスキマ袋にでもしまったのだろうか。なんとなく、青色の服は彼女には似合わない気がした。
それよりも、スキマ袋を置いたままとは、無用心にもほどがあると苦笑する。
武器を持っていないだけなのかもしれないが、よく生き残ったものだと、再び感心のような感想を抱いた。
小町は、身体を拭くと、服を着る。
ルーミアは着替えを用意していたようだが、小町はこの服を替えるつもりは無い。
これが正装であり、死装束であると、小町は決めていた。
血と魂の重みを背負い――それはいずれ動けなくなるほどになるだろう。
その重みこそが自分を迷いから脱却させるのだ。
着替え終わると、小町はスキマ袋を取る。
武器のマシンガンを抜き出すと、それらしく装置を確認し、再度仕舞った。
髪を乾かしている時間は無い。軽く櫛を通すと、いつものようには結わずに、肩へと流す。
出立の準備は整った。小町は、ちらりとルーミアの荷物へ視線を投げた。
小町は思わず頭を掻く。どうにも、ルーミアと会ってからその仕草が多い気がした。
この袋をどうするか――小町はそれを、全く考えてなかったのだ。
最初は持って行こうと思ったが、流石のルーミアでもこれがなくなったら気付くだろう。
最後まで、彼女に警戒心を与えない方がいい。
彼女を殺すにも勿論だが――出来ることならば、彼女も幸せなまま死んだ方がいい。
それは余りに自己満足に過ぎることを自覚していたが、結局小町はそちらを選んだ。
無警戒のルーミアは恐らく、着替えた後には正面の戸から外に出るだろう。
それまで、正面の民家に小町は身を潜める。
ルーミアが出てきたら、手持ちの銃でその命を狩る。――単純に言えば、待ち伏せだ。
三つ目の命を刈り取ることに、躊躇は無い。そう自分に言い聞かせる。
今すぐこの戸の奥に踏み込んで彼女を撃ち殺さないのは、自分の感情のせいではあるが、
それもまた、必ず彼女を殺せると確信しているから許されるのだ、と。
小町はルーミアのいる戸の向こうに背を向けた。
日常に手を振って、非日常へと歩を進め――
小町が外へと出ようとするとき、ぽたり、と背後で音がした。
ただの水音であった。普段なら小町がそれを気にすることもないし、聞こえてすらいなかったのかもしれない。
だが、小野塚小町は、気付いてしまった。
水の中に一滴の着色液を垂らした時のような、真白な雪景色の中に一本の向日葵が咲いているかのような、
それが空間、世界の在る姿の全てを塗り替えてしまうような、圧倒的な存在感と違和感を持つ何かが、今、ここに現れたのだと。
小町は振り返る。おおよそ、彼女の性格から考えるに相応しくないほどの、不安感が過る。
ルーミアのスキマ袋、半ば棚から出ているその口から、赤い液体が、ぽたり、ともう一度、落ちたのが見えた。
簀子の板目に、紅が流れる。木に染み込んで赤黒い染みを作る。
ぽたり、ぽたり、とその間隔は短くなっていく。
それは、血だ。小町はそれを、最初に理解していた。
火照った身体が急激に冷めていく。
はっとする。小町は、武器を取り落としそうになっていた。
駆け寄る。一瞬躊躇う。それは悪魔の手招きか。小町は、紅い涎を垂らし続ける、袋の口に手を突っ込んだ。
最初に掴んだのは、布のようだった。
構わず、それを引っ張り出す。
紅い手拭いであった。
――否、白い手拭いが、その白の大部分を紅に塗り替えられていた。
紅に浸された、というよりは、紅に染まった何かを拭き取ったような、跡があった。
所々、白い脂分のようなものが付着して――小町は思わず眼を背けた。
拒絶するかのように、それを投げ捨る。
若干躊躇った後、再度袋に手を入れた。
次に掴んだのも布であり、小町はそれが何かを見る前から理解した。
引っ張り出すと、漆黒の衣服であった。だがその大部分に、未だ乾かずぬめりとした光沢を放つ、紅い液体が付着していた。
小町は、半ばヒステリックに、袋を逆さにすると中のものを全て吐き出させた。
その予感を否定するものを、その願いを肯定するものを、その中に見つけなければならなかった、から。
――なんだ、これは。
世界中の色が反転したと思うほうが、自然なような気さえする。
ここが惨劇の舞台であったことは、忘れたつもりはなかった。
だが、確かに湯船に浸かり、小町は、その空気の支配する日常と平和に侵されていたのだ。
そして、それが終わるのは、ただこの現実を見ればそれだけで――。
視界が紅に、染まる。
着替えたばかりの小町の服に、紅い液体が飛び散った。
ぬるりと手が滑る。乾ききっていない足もまた、生温い液体を感じていた。
そして――人と同じように造られていた筈の、“身体だったもの”が、小町の視線を捉えて離さなかった。
袋から転がり出る、首、胴体、切り取られた四肢。水気の多い野菜を潰すような、粘着性の音を立てて落ちる内臓の数々。
袋の持ち主にとっては、天からの恵み――それを食することを許された“ご馳走”。
小野塚小町が最初に悟った想像は、最も望まぬことであり、紛れも無く真実でもあった。
最初に転がり出た首の“持ち主”を、小町は誰よりも知っていた。
「四季様、ですかい」
問いかけるように、震える声で言った。
返事に期待などしていなかった。
それが言葉を返したならば、それこそ世の理に反する事だと理解していた。
ああ、死んだのか。
あの四季様が。
言葉にすればそれだけを把握した。
守るべき存在のひとつが失われた。
元上司がその原型さえ留めずにここに在る。
それだけを。
精神が逆流していく。
色だけでなく世界そのものが反転して再構成されていく。
死は終わりではない。重くもない。
頭も身体もそういう世界に在った筈なのに、今目の前にあるものが先の無い終焉を表していることがわかってしまう。
自分の目的のひとつが失われた。
自分に最も近しかった存在の命が奪われた。
そのどちらが重かったのだろう。それは――明らかであったが、それはわからないことにした。
ともかく、小野塚小町は――死神は、呆然として、そして、衝動的な感覚に襲われた。
殺さなくては。
幻想郷の正義のためだ。死神は思った。
殺さなくては。
四季映姫の死体を持ち歩いていた、ルーミアを。
四季映姫をその手で殺害したかもわからない、ルーミアを?
否、幻想郷において残すべき人妖で無いから、それだけだ――。
死神は、銃を手に“決して惨劇の発生しないであろう空間”に振り向いた。
そこに血を流すことを、今の彼女は躊躇わない。
無表情――感情の欠片も感じさせない表情で、“日常”の戸を開けた。
少女は、頭を洗っていた。
大鏡の前で、俯いて、眼をぎゅっと閉じて。
頭髪用の石鹸の泡で、金色の髪は真白に見えた。ただ純白の穢れなき存在がそこにいるように見えた。
赤いリボンだけが外されないままで、それは奇妙な感じであった。
彼女が一歩、そちらに歩を進めると、ルーミアは動きをぴたりと止めた。
「お姉さん、どうしたの?」
「――いや、ちょいとね」
「私に、用なの?」
「……そうかもしれないね」
「じゃあ、待っててね」
彼女の小さな手が、湯を出す栓を探そうと周囲を弄る。
その様子を見ながら、死神は無言で銃を構える。
真白な、背中に銃口を向ける。
妖しげな色気さえ感じるうなじ、猫背気味に丸まった背中、僅かに突起の見える背骨、椅子に乗った小さな臀部――それを無感情に見つめる。
怒りも、殺気も湧かない。哀悼の念も、ない。
全てを、義務、役目という言葉に集約して、小野塚小町の感情を無に封じ込めることが出来たのだろうか。
例えそれが仮初だとしても。
死神は、日常を、小野塚小町という個を、麻痺させて、ここに立っていた。
そうしなければ、“こうすること”の理由に、自分が狂ってしまいそうだから。
「悪く思わないで、くれよ――」
ルーミアは振り返らない。まだ栓を探している。
銃口は彼女の頭部を捉えていた。
彼女もまた、ここはそれと無縁の場所だと、思ってしまっていたのだろうか。
束の間の幸福感が、それを麻痺させてしまっていたのだろうか。
彼女の野性を以ってしても、その殺意に気付かないのは、
小野塚小町だけが、ここにあった日常が幻想であったと気付いてしまったから――
――
――
金色の髪が、紅の池に沈む。
死神は、頭を撃ち抜かれた、少女だったものを眺め、立ち尽くしていた。
全てが終わったような、どうしようもない喪失感に襲われた。
いっそ微塵にしてやろうか。一瞬抱いたそんな感情は、掻き消した。
むしろ、その身を砕いて消化しかかった四季映姫の身体が出てこようものなら、自分が正気を失ってしまうかもしれないのを知っていた。
「う、う」
呻く様な声が出た。
叫びたかった。
何も得ることは出来ない。
義務感は自己満足であり、それがために自身を殺し、しかし最も望んだ結末は得ることは出来ないのだ。
死神は――小野塚小町は、慟哭した。
◇
「四季様――」
番台の上、首が鎮座していた。
鎮座、という表現は首には似つかわしくないかもしれないが――
少なくとも小町は、彼女がそこに威厳を保ったまま居て小町を見下ろしているのだと思った。
眼を閉じて、深い物思いに耽っているような表情。
血に汚れた首を洗い、表情を整えたのは、当然ながら小野塚小町だ。
四季映姫の首と向かい合うようにして胡坐をかく。
上司の目前、最初、ではないが、最後の無礼だ。笑って許してくれるとは、思っていないが。
「よいしょ、と。さてと……。
そういや、こうやって向かい合って話するの随分久々な気がしますねぇ。
……四季様。三途の向こう側も、今は違って見えますかね」
見上げるようにして、小町は語りかける。
「あっちへの渡し守はあたいみたいんじゃなくて、真面目で仕事熱心なヤツだといいですね。
幻想郷担当の船頭がここにいるんじゃ、きっと誰かが代わりにやってくれると思いますよ。
そうだ、何なら紹介しますよ。四季様とは気が合いそうなのがいましてね。真面目で働き者の死神なんて変わってるでしょう。
まぁ、あたいみたいなサボり魔ほど変わり者じゃないですがね……。
――四季様。今まで色々と迷惑かけましたね。クビにもなりかけたし。ありゃさすがに参っちゃいましたよ。
いや、もっと参ってたのは四季様ですかね、あはは。よくまぁ、説教だけで済んだと思うくらいですよ。
あの時は、説教も勘弁してくれーって思ってましたけどね。今思えばぬる過ぎましたかね。
――四季様。あたいもね、もう一度くらいなら、説教くらってもいいかなって思ってるんですよ。
まぁ、今回のことはそれこそ説教じゃ済まないでしょうがねぇ……。
きっと四季様は、あたいを黒だと言うんでしょうね。
もう三人になります。この手で殺してるんですよ。
浄玻璃の鏡を覗けば、わかるでしょうけどね。
気ままに歌ってた夜雀。守りたいものがあった神様。そして――邪気無き妖怪。
情状酌量の余地無しでしょうよ。幻想郷のためとか言っても、あたいのやった事が変わるわけじゃないんです。
……四季様。あたい、黒ですよね。
実は最初に、生き残るに値する者だけを生かさなければと考えたとき、真っ先に出てきたのは四季様でした。
幻想郷のためだとか、本当にそれだけならば、八雲紫が最初に出てくるべきじゃないですかね。
結局、自分やそれに近いものほど大事なんだ。嘘の中の魂魄妖夢と何が違うんです。
どんな大言壮語を吐いたところであたいも俗な存在だ。
――四季様、あたいは身勝手でしょう」
やや長い沈黙。
ルーミアの袋から撒かれた、四季映姫――或いは他の誰かの身体の大部分が、今も近くに転がっている。
小野塚小町は、そちらには目もくれず、四季映姫の首、そしてその閉じた瞳だけに視線を送る。
「話が出来るのもこれで、最後でしょうよ。
あたいは極楽なんかへは行けませんからね――だから、これを最後の機会と思って。
――四季様。あたいを叱って下さいよ。
情けないと。しっかりしろと。だらしないと。間違ってると。
あたいはこの道を変えるつもりはありませんけど――四季様。あたいも迷いが無いわけじゃなかったんです。
四季様と道を違えることになる。恐ろしかったんです。
きっと今までに無いくらいの説教が、あたいを待ってるってね。あはは。
それが今では、むしろ待ち遠しいくらいです。
もし四季様と生きているうちに会っていたなら、あたいは四季様の説教と、裁きを受けて、そこで終わりだった筈です。
この殺し合いの最後で、そうなったなら、それこそあたいの願いの叶う瞬間だったんです。
それが、ひたすら待ち遠しかったんです。
四季様――。
どうして、先に逝ってしまったんですか」
――
――
「長く、話しすぎちまいましたかね」
小町は立ち上がる。
不敵な笑みを浮かべて、余裕のある表情を作った。
これが、四季映姫に、自分が最も多く見せた表情だと、小町は思う。
恐らく彼女が、小野塚小町はこういう存在だ、と思い描いたとき、こういう表情が浮かぶのだろう。
苦笑する。小野塚小町は、この期に及んで未だ、そんなことを考えているのだと。
しかし、それも終わりだ。
ちょっとだけ出かけるときのような軽さで、笑いかけると、別れの言葉をかけた。
「まだ、一仕事……いや、たっぷりと仕事が残ってるんで、行ってきます。
説教がないと、サボりがいもないですからね」
銃を手に取り、小野塚小町は安らぎの空間を後にする。
幻想郷を救う――そんな偽善の為、彼女は独り、喪失を越えて戦場へと歩を進める。
表情に、笑顔は消えていた。
妥協は無い。安寧を求めることも、自分の欲求の叶うことだけを願うことも無い。
それが死者への手向けであり、自分の意志を保つために必要なことだ。
四季映姫の首に見送られた。小野塚小町は振り返ることは無かった。
【D-4北部 銭湯 一日目・真夜中】
【小野塚小町】
[状態]万全
[装備]トンプソンM1A1改(41/50)
[道具]支給品一式、64式小銃用弾倉×2 、M1A1用ドラムマガジン×5、
銃器カスタムセット
[基本行動方針]生き残るべきでない人妖を排除する。脱出は頭の片隅に考える程度
[思考・状況]
1.生き残るべきでない人妖を排除する
2.再会できたら霊夢と共に行動。重要度は高いが、絶対守るべき存在でもない
蒼い空を漂うように、ふよふよと、少女は進む。
次の獲物を探して。
彼女の、意味を満たすために。
そこは、暗闇にも、紅霧にも包まれていない世界。
一面の蒼。どこまでも透き通っていた水のよう。
――この向こうには何があるんだろう。
ルーミアは、小さく小さく呟いた。
【ルーミア 死亡】
【残り16人】
※D-4の銭湯に以下の道具が落ちています。
鋸、リボルバー式拳銃【S&W コンバットマグナム】0/6
基本支給品(懐中電灯を除く)、357マグナム弾残り6発、
フランドール・スカーレットの誕生日ケーキ(咲夜製)、
妖夢の体のパーツ、四季映姫の身体の大部分
最終更新:2011年10月13日 19:53