1. 絨毯屋になる。
1988年3月初めての仕入れの旅でした。ふとした事でパキスタンの絨毯商と知り合い、若気の至りか1年勤めたダンボールの製作会社を辞め大学時代の友達と絨毯の仕事を始めて2年がすぎたころでした。軽い気持ち出始めたことだったせいか、ともだちとは仲たがいしてしまい、パキスタン人から預かった絨毯を的屋のように、貸し店を転々と廻りながらその日暮しの毎日でした。それでも何とかやっていけたのは、まさにバブル期の真っ只中だったからでしょう。デパートなどでも本店だけにもったいぶって飾ってあった時代です。
ペルシア絨毯パキスタン製などと宣伝しても誰も分からなかった頃で、道端の店などでは何故そんなに高いのか怒られることもしばしばでした。それでもデパートなどに比べると三分の一くらいの値段でしたから,玄関マットなどは良く売れました。
その時一番人気だったのが深紅の地色に8角形の象の足型のような文様の入った、仲間内で「赤いブカラ」と呼んでいたパキスタン製の絨毯でした。お客さんのこない時は,良く絨毯を眺めていましたが、そのときはその赤いブカラ というのが、
しかし、時々、パキスタンの絨毯商が、けた違いの値段で本物のイスファハン産のペルシア絨毯などを見せてくれることがあって、あまりの豪華さに時を忘れるほどでした。またコム産のオールシルクの絨毯なども、薄暗くした部屋で間接照明やろうそくの光で見ると、ひやっとしたものでした。 またごくまれに、ごつごつとした素朴な絨毯が混ざっていたのですが、重くて堅いし扱うのには苦労しましたが、妙に気になる絨毯で,接客の後などの一息つきたい時に何故かその絨毯を広げてしまうのでした。 後で聞いたらそれは、アフガニスタンの絨毯で、その落ち着いた色とお祈り用のデザインは今でも忘れません。
その時一番人気だったのが深紅の地色に8角形の象の足型のような文様の入った、仲間内で「赤いブカラ」と呼んでいたパキスタン製の絨毯でした。お客さんのこない時は,良く絨毯を眺めていましたが、そのときはその赤いブカラ というのが、
しかし、時々、パキスタンの絨毯商が、けた違いの値段で本物のイスファハン産のペルシア絨毯などを見せてくれることがあって、あまりの豪華さに時を忘れるほどでした。またコム産のオールシルクの絨毯なども、薄暗くした部屋で間接照明やろうそくの光で見ると、ひやっとしたものでした。 またごくまれに、ごつごつとした素朴な絨毯が混ざっていたのですが、重くて堅いし扱うのには苦労しましたが、妙に気になる絨毯で,接客の後などの一息つきたい時に何故かその絨毯を広げてしまうのでした。 後で聞いたらそれは、アフガニスタンの絨毯で、その落ち着いた色とお祈り用のデザインは今でも忘れません。
その頃、一緒に始めた友人はイラン人の絨毯商とよろしくやっていて、赤坂や地方都市の物産展でかなりの売上をあげていました。そのうちに彼がイランに行くというのでとても羨ましく思いました。やはりペルシア絨毯は素晴らしく、憧れの物でしたし、その本場へは一度は行かないと話になりません。 しかし当時はイランvsイラク戦争の最中で,海外経験の乏しい自分にとってはたいへんに不安でした。 ところが、展示会で知り合いになった「チャイハネ」(西アジア地域で多い茶店)というサロンを開いている方に、信頼の出来るイラン人を紹介して貰うことが出来て、幸運にもその人と同行する事が出来たのです。
「チャイハネ」のオーナーは、革命前のテヘランで日本人学校の先生として赴任されていた経験を持ち、パーレビ時代の華やかな最盛期のイラン文化にたっぷりと浸って帰られた方です。当時はまだ少なかったイランの人やユニークなキャリアを持つ方が多く集まっていました。
イランでは、その方の滞在先にお世話になることにして初めての仕入れの旅に出ることになったのです
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