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夢を見ていた。産まれる前の夢。
十数年も記憶の奥深くに刻まれていたのか、それとも想像によるものなのかは知らない。
とにかく俺は胎内にいた。夢の中では多少おかしなことでも夢だと気付かないことがよくある。俺は自分が胎児だと思い込んだ。
母のぬくもりに包まれて、俺は安らかに眠っていた。
やがて時が過ぎ、外の世界に旅立つ時がやってきた。
産道は狭く苦しかった。たった数センチの距離が無限に長く感じられた。
最後の力を振り絞ると、まだ薄いまぶた越しに、初めての、まぶしすぎる光を感じた。
これが俺がこれから生きていく世界……。
どこからか、声が聞こえる。
『かわいい女の子ですよ!』
「おはよう。」
母さん……?
数回瞬きをする。徐々に今の状況を思い出してきた。それと引き換えについさっきまで確かに見ていたはずの夢の内容が思い出せなくなっていた。まあいい、どうせつまらない夢だろう。
「シャワー浴びてくるね。」
昨日はあのまま知らぬ間に寝てしまっていたようだ。優子さんも俺も全裸である。そして……。
「結局なっちゃった……。」
ふたつの控えめな膨らみを支えながらつぶやく。その声も若干高くなったように感じる。
特に男に固執していたわけではないがやはり喪失感はある。昨夜の優子さんの言葉を、ほんの米粒ほどだが分かったような気がする。
しかしそれと同時に、まだ実感としては『異性の体』が自分のものとなっている。興味を抱かずにはいられない。手は自然と下のほうに伸びていった。
「あっ……!」
一番前にあった小さな膨らみに触った瞬間、昨日の優子さんの手や舌の感触が生々しく思い起こされた。怖くなって慌てて手を引っ込める。
そこにちょうど優子さんが上がってきた。
「あら、お邪魔しちゃった?」
「い、いえ……。」
なんでそんなに平然としてるんですか、余計に恥ずかしくなるじゃないですか。しかも昨日の今日で。
「優太も入ってきなよ。」
「はい……。」
鏡の中にはショートカットの優子さん縮小版がいた。俺だ、って言われれば確かに俺かもしれない。
不思議なのは、優子さんと昨日までの俺の顔は全然違っているはずだったということ。今鏡の中でぎこちなくこちらを見つめている顔は、なのに九分九厘彼女のようでいて、男の頃の面影を残している。
さて、このままじっと鏡を見つめていてもしょうがないので蛇口をひねる。お湯が良い加減になったところで頭の上から浴びる。
水の流れ方がいつもと違ってなんだかくすぐったい。このまま続けると変な気が起きそうなので、ちょっと早いけどもう上がろう。
あ、体拭かなきゃまずいよな……。
最初から裸だったためうかつにも着替えをすっかり忘れていた。
バスタオルを巻いて部屋のほうまでいく。このシチュエーション……。何かにつけて昨夜のことを思い出してしまう。
「早かったね。着替えこっちにあるわよ。持って行こうと思ったけど間に合わなかったの。」
そう言って渡されたのは新品のTシャツとジーンズ。着やすいように選んでくれたんだろう。でも……。
「あの……。」
「何? 別のが着たいの? もっと可愛いのもあるわよ。」
どこからか紙袋を取り出す。あの時選んでたのは俺に着せるためだったのか。
「いや、遠慮しときます。それよりその……やっぱり着けないと……。」
そう、ご丁寧にブラジャーとショーツまで用意されていたのだ。ちなみに色は白。ちょっとでも恥ずかしくないようにという気遣いなんだろう。
「早いうちに慣れておかないと、後で困るわよ。」
と言われましても、着け方も分からないし……。
「ほら、教えてあげるから貸して!」
え? ちょっ……。
「はい、手上げて。」
あーれー。
「どう、気分は?」
「恥ずかしい……。」
「見えやしないわよ。」
見えるか見えないかじゃなくて、『女物の下着を着けてる』と肌の感触から常に意識させられるのが恥ずかしい。
「それにしてもサイズぴったり……。」
「自分のサイズくらい覚えてないと大変だからね。」
「今とじゃサイズ違うんじゃ……。」
「それでも最初ずっとドキドキしながら買いに行ってた時のは忘れないわよ。」
ああ、やっぱりしばらくはこの恥ずかしさに付きまとわれるのか。だが慣れたら慣れたでそれも嫌な気がする。
「さて、今日のご予定は?」
そうだ、いつまでも下着のことばかり気にしていられない。
「まずは報告……かな。」
番号を押す手が震える。どんな反応をされるんだろう。怒られるかな、まさか勘当……。思考が悪い方に悪い方にいって最後のひとつを押せない。
「えいっ。」
「あ……。」
見かねた優子さんが横から手を伸ばした。呼び出し音が響く。
数秒後。
「もしもし、優太?」
優子さんに文句を言ってやろうと思って口を開いた直後だった。
「どうしたの? こんな朝早くに。」
「母さん……。」
思わず漏れた声の違いに気付いたかもしれない。意を決するしかなかった。
「女に……なってしまいました。」
少しの間が空いて、
「そう。」
と一言だけ。そのまままた五秒くらい開けて、
「名前は……、」
「あなたの好きなようにしなさい。」
「ありがとう。『優子』でいいかな、単純だけど。」
もう他に考えようがなかった。
「じゃあ優子、今度はいつ帰れるの?」
「うん、夏休みには帰る。」
「分かった。それじゃあ気をつけてね。」
「うん。」
新しい名前がこんなにあっさり決まるとは思ってなかった。母さん、少し泣いてたような……。
その後学校へも連絡したが、上の空でその時の内容はまったく思い出せない。
俺達は市役所に来ていた。
「どうしたの、もじもじして。」
「えと、トイレ……。」
「ひとりで行ってきなさいよ、子供じゃないんだから。」
それくらい分かってる。でもやっぱり恥ずかしい。
「早く行きなさい。女の子はあんまり我慢できないのよ。」
うう、どうやら限界みたいだ。
「うん……。」
「男子の方入っちゃダメよ。」
聞き終わらないうちに猛ダッシュしていた。どこに力をこめたら耐えられるのか分からない。
何とか間に合って、便座に座って一息つく。ここでもやはり体の違いに戸惑う。『出している』というよりも『勝手に流れ出ている』という感覚だ。
もうそろそろ終わったかな、と思い立ち上がろうとすると雫が垂れる。そうか、拭かなきゃならないのか……。
手を洗ってさっさと外に出る。自分が女だと感じさせる場所から一刻も早く離れたかった。でももう一生逃げられないんだよなあ。
戻るとちょうど名前を呼ばれたところだった。
「ではここに新しいお名前で署名をお願いします。」
『優』の字まで来ていったん手を止める。この手続きを終えると名実ともに女の子というわけだ。今さら躊躇したってしょうがないが。
再び用紙に向き直って、俺は『子』の文字を書き込んだ。
帰り際に優子さんが一言。
「もう優太って呼べなくなっちゃったね。」
途中で寄り道をしたりしつつ、制服を換えてもらって家に着くころには日が傾いていた。
「制服屋さんって赤字にならないのかな。」
男子用の制服を渡せば差額だけで女子の制服が手に入る。渡した制服は当然中古なので売値が落ちてしまうはず。
「世の中うまく出来てるのよ。」
多分知らないであろう適当な答えをもらう。
「さて、あとは水着だけね。」
しまった、すっかり忘れていた、明日から水泳の授業があることを。
いきなり優子さんが立ち止まった。そして俺に力強くひとこと言い放った。
「これからが、本番よ。」
最終更新:2008年09月06日 23:13