第11話

ナビ



ずっと知らないままだったら良かったのに。会えない時は一刻も早く話がしたいのに、会うと口をつぐんでしまう。
「恋は切ないもの」なんて何百回も聞いて知ったつもりになっていたけれど、こんなにも重かったなんて。
「っん……。」
無意識のうちに手が下の方へ向かう。そして俺の『女』を刺激する。
「しょ……う……。」
このところ毎日だ。たしか海水浴の次に彼に会った日から。
目を閉じるとあの人が微笑んできた。それから、俺の体を優しく抱き寄せ……。
「嫌っ!」
はあ……、はあ……、いつも、いつもここで終わる。この先の領域に踏み込むと自分が自分でなくなってしまいそうで。
そうしてベッドの中でひとり自己嫌悪に陥るのだ。……キモチワルイ。そうだ、シャワー浴びてこよう。

髪を乾かしていると優子さんが帰ってきた。彼女はここ一週間ほどになっていきなり頻繁に外出し始めるようになった。
そろそろ気になってどうしてか聞こうとしていたところだ、その言葉を告げられたのは。
「私、もうすぐ帰らないといけないの。」
彼女は本来ここにいるべきではない人。その日が来るのは必然だった。
ずっといるような気がしたけれど、彼女には帰るべき場所がある。
「いつ、ですか?」
「明々後日の午後二時三十六分。」
「やけに細かいんですね。」
「地球の公転やらいろいろ条件が合わないといけないのよ。」
そうか、もう帰っちゃうんだ。
二か月か。いろいろあったな。明のこと、女体化前夜のこと、海水浴でのこと……。
思い返すと知らず知らずのうちに優子さんに導かれていた気がする。男から女へ、人生が百八十度変わったこの時期に、彼女の生き方が俺の進むべき道を指し示していた。

よし、決めた。
その夜、俺は布団の中で決意を固めた。優子さんが帰る前に、彼女に俺の選んだ道を見守ってほしい。
俺は明日、女になる。

「わざわざ駅まで迎えに来てもらわなくてもよかったのに。」
「うん……。」
話したいことがいっぱいあったはずなのに、全然思い出せない。
「どうしたの、うつむいて。」
「な、なんでもないよ。それより腹減ったからハンバーガーでも食べようぜ。」
とファーストフード店に入る。注文をとって席に座る。
ただこれだけのことでも話題は作り出せるはずだ、たとえば新作バーガーの話。でも、俺の開いた口はただ食欲を満たすためだけに費やされた。

とうとう一言も交わすことなくアパートに着いてしまった。彼のほうから話しかけてくることもなかったのは、合わせてくれたんだろう。心遣いが痛い。
「おかえり。」
優子さんはいつものように本を読んでいた。
「あら、翔君。上がってって。」
そう言って翔を強引に部屋に押し込み、俺を玄関の外に連れ出し肩を寄せてきた。
「頑張ってね。」
微笑みながら俺の肩をぽんぽんと叩く。勇気がわいてきた。俺は無言で力強くうなずく。
「それじゃあ私はちょっと出かけてくる。」
わざと中にも届くような声で告げると彼女は階下に消えていった。

再び部屋に入る。もう迷わない。
「飲み物いる?」
「うん、じゃあジュースで。」
コップを二本取り出しコーラを注ぎ、テーブルまで持っていく。
彼がそれを飲むのをしばらく眺めてから、自分のを半分まで一気に飲み干す。
「大事な話なんだ。」
足を正座に組みなおし彼を見据えて話し始める。重圧に押しつぶされそうになるけど、負けない。
彼も雰囲気を察して同じ姿勢をとる。
「男の頃からさ、お前のことカッコイイ奴だなと思ってたんだ。」
まっすぐな眼差し。
「それで、えーと……。」
頭の中が真っ白になる。もうすでに泣きそうになってきた。
昨日散々考えたのに。言葉が全部吹っ飛んでしまった。
頭をくしゃくしゃ掻いてみても冷静になれるわけなかった。
「もう、結論だけ言う! お前が好きだ!」
何秒か間が空いたような気がするが俺にとっては一瞬に感じた。だって次の彼の言葉が……、
「ごめん。」
だったから。
「俺、実は中学の時から付き合っている彼女がいるんだ。」
「そんなこと……。」
「うん、言ってなかった。必要ないと思ってたんだ、ごめんな。」
さっきまでの自分が馬鹿みたいだ。ひとりで勝手に一喜一憂して。そういえば翔の女体化を食い止めるなんて思ったこともあったっけ。消えてしまいたい。
「ああ、これじゃだめだ、ごめん。」
そんなに謝る必要ないのに。全部俺が盛り上がってただけなんだから。
って何の話だ?
「え……?」
「ごめん、彼女がいるなんて関係ない。これじゃお前の気持ちに対する答えになってない。」
俺にとっては「彼女がいる」だけで理由としては十分だ。なのにそこまで真剣に考えてくれて……。ちくしょう、ますます好きになっちゃうじゃないか。
「俺、お前のことは友達としてしか見れない。男とか女とか関係なく。」
「……えって……。」
「だからごめん。でも、こんなこと言うのも都合いいだけかもしれないけど、友達としては、」
「いいから帰って!」
三軒隣まで聞こえたんじゃないだろうか。怖くて彼の顔が見れない。
「あ、ごめ……、」
「そんなに謝んなよ! 俺が怒ってるみたいじゃねえか! いいから帰れよ!」
息が荒くなってきた。もう自分でも何を言っているのか分かっていない。
「……帰ってよ。泣いてる顔見られたくないんだよ。」
俺は地面に土下座のような形でうつぶせていた。こんなみっともない姿をこれ以上見られたくない。
「わかった、じゃあな。……また、遊ぼうな。」
「うん……。」
二度と会いたくない、という気持ちもあった。でも、友達としてでも必要としてくれているのは嬉しい。
かちゃり。扉が閉まる。

かちゃり。十秒もしないうちに再び扉が開いた。忘れるようなものなんて持ってきてなかったはずなのに。
恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは優子さんだった。
「うそつき!」
思わず肩に掴みかかった。別に彼女が何か嘘をついたわけではない。でもあんな表情をされたら失敗するなんて思わないじゃないか。
優子さんは悪くないなんて分かっている。でも責任を押し付けられずにはいられなかった。俺は拳を振り上げた。
だがその手は行き場を失った。頬に一筋の光を見つけたから。
「優子……さん……?」
それでも彼女は微笑んでいた。そうだ、彼女は全部知っていたんだ。彼が断ることも、俺のこの思いさえも。十年前に『自分が』実際に経験したんだ。
それなのに、俺を不安にさせないように、傷付けないように。玄関前のあの時点で『すでに』『全部』知っていたのに。
「う……うっ……、」
堤防は無残に破壊され、俺は彼女の胸にしがみついた。それを優しく抱きかかえる優子さん。
「……きっと、また、いい出会いがあるから。」
今度こそ信じていいのだろうか、それともまた励ましているだけなんだろうか。それは分からない。分からないのが未来なんだと当たり前のことを今更のように思う。
そういえば、優子さんに会った次の日、翔と何かあったのかという問いに彼女は「大したことじゃない」と答えたのを思い出した。確かに「大したことじゃな」かった。ただの、どこにでもある、失恋だったのだから……。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2008年09月06日 23:16
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。