トキヲコエテとたくさんのレースを駆け抜けてきたある日のこと。
私は久々に机の引き出しの中を整理していた。
トレーナーとして日々を過ごしていると、どうしても資料や記録が増えていく。
過去のレース映像、トレーニングメニュー、彼女の成長記録、担当になったばかりの頃に書いたメモ。
一つひとつに思い出が詰まっている。
「これは……」
引き出しの奥から一枚の封筒が出てきた。
中を確認すると、そこにはペアの温泉旅行券が入っていた。
それを見た瞬間、私は思わず笑ってしまった。
そういえば、これはトキから預かったものだった。
正月のことだ。
福引で当てて、嬉しそうに私へ見せてきた。
『温泉旅行券ですよ!』
あの時の彼女の表情は今でも覚えている。
けれど、その後トキは少し考えるような仕草をして、こう言った。
「トレーナー、この券は大切に持っていてください」
「え? でもせっかく当たったんだから、トキが友達とかと行ってきてもいいんじゃない?」
そう返すと、彼女は首を横に振った。
「いえいえ。この券はトレーナーが持っていてください。必要となったら私の方から声をかけますから」
そして、少しだけ照れたように笑って、
「それに私、もしものもしも、行くのなら……トレーナーと一緒がいいです」
そう言った。
あの時は、いつものトキらしい冗談なのだと思っていた。
でも。
その言葉だけは、なぜかずっと心に残っていた。
「トレーナーと一緒がいい」
その一言を思い出すたび、不思議と胸の奥が温かくなった。
もちろん私はトレーナーだ。
担当ウマ娘であるトキのことを第一に考えるのは当然。
彼女が最高のパフォーマンスを発揮できるように支える。
それが私の役目だ。
……だけど。
正直に言えば、私自身もトキと一緒に行きたかった。
三年間。
短いようで、とても長い時間だった。
初めて担当になった日のこと。
思うような走りができず、悔しそうに俯いていた日。
大きなレースで勝利して、子どものように喜んでいた日。
怪我や不安と向き合いながら、それでも前を向いた日。
全部、隣にはトキがいた。
気が付けば、私は彼女の走りだけではなく、彼女自身を大切に思うようになっていた。
レースのない場所で。
トレーニングでもない時間で。
ただ一人の女の子としてのトキと、ゆっくり話してみたい。
そんな気持ちが、いつの間にか芽生えていた。
しかし、私はそれを簡単には認められなかった。
私はトレーナー。
彼女は担当ウマ娘。
その関係を越えてはいけないと思っていた。
だから、この旅行券も。
いつかトキ自身が「行きたい」と言う日まで、大切に保管しておこうと思っていた。
……でも。
封筒に書かれた有効期限を見る。
「あと二週間……」
思わず声が漏れた。
このままでは使えなくなる。
それは少し寂しい気がした。
トキが「トレーナーと一緒がいい」と言ってくれた気持ちを、無駄にしたくなかった。
私はしばらく考えた。
そして、気が付けばスマートフォンを手に取っていた。
宿泊施設を調べる。
せっかくなら、ただ温泉に入るだけではなく、彼女が心から休める場所がいい。
レースではいつも全力で走るトキ。
勝つために努力して、期待に応えようとして、誰よりも自分に厳しい彼女。
だからこそ、たまには何も考えずに過ごしてほしい。
トレーニングのことも。
次のレースのことも。
ウマ娘としての使命も。
全部忘れて。
ただ「トキヲコエテ」という一人の女の子でいてほしい。
そう思った。
最終的に、前半は私が個人的に予約した山頂の湖畔のホテル。
後半は旅行券を使った海沿いの旅館に決めた。
期間は4泊5日。
予定は細かく決めない。
その日の気分で、行きたい場所へ行く。
食べたいものを食べる。
見たい景色を見る。
そんな旅にしたかった。
もちろん、勝手に連れて行くわけにはいかない。
学校側への手続きも必要だ。
トキはまだ学生だ。
トレーニングとしての休養という形で公欠扱いにしてもらい、外泊届も提出する。
準備は万全にした。
あとは、本人に伝えるだけだった。
……とはいえ。
少しだけ、いたずら心もあった。
突然言ったら、どんな顔をするだろう。
きっと驚くだろうな。
でも、最後には笑ってくれる。
そんな姿が簡単に想像できた。
______
______
旅行前日。
いつも通り、私はトキのトレーニングを見ていた。
夕日を背に坂路を駆け上がる姿。
芦毛の髪と尻尾が風になびき、一歩一歩力強く地面を蹴る。
何度見ても、美しいと思う。
初めて出会った時から変わらない。
彼女は走ることが好きなのだ。
だからこそ、その好きなことをずっと続けられるように支えたい。
日が沈み、月が見え始めた頃。
トレーニングを終え、いつものように振り返りを行う。
「今日の坂路、かなり良かったよ」
「本当ですか?」
「うん。ただ、最後の部分だけ少し力が入りすぎていたかな」
「なるほど……次はそこを意識します!」
真剣に話を聞く姿。
その姿を見るたび、担当になれて良かったと思う。
帰り際。
「また明日」
そう言おうとした時、私は少し迷った。
そして、
「トキ、明日は6時くらいに起きて」
と伝えた。
「そのために今日は早く寝てね」
彼女は少し不思議そうな顔をした。
当然だ。
明日、何があるのか知らないのだから。
「……どういうことなんだろう」
そんな表情を浮かべるトキを見て、少し笑いそうになった。
ごめんね、トキ。
明日、きっと驚くと思う。
でも。
きっと喜んでくれると思うから。
私はそのまま彼女と別れた。
そして翌朝。
私は、彼女の知らない5日間の始まりを迎えることになる。
______
______
旅行当日。
私はいつもより早く目を覚ました。
時計を見ると午前6時。
普段ならまだ眠っている時間だが、不思議と眠気はなかった。
いや、正確には眠れなかったのだ。
今日から始まる5日間。
トキにとって良い時間になるだろうか。
突然旅行に行こうなんて言って、迷惑ではないだろうか。
そんなことを何度も考えていた。
もちろん準備はしてある。
学校への手続きも済ませた。
宿も予約した。
車の点検もしておいた。
あとは、トキ本人に伝えるだけ。
スマートフォンを手に取る。
電話をかける前に、一度深呼吸をした。
「……よし」
発信ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が聞こえた。
「もしもし、トレーナー?」
いつものトキの声。
それだけで少し緊張が和らいだ。
「おはよう、トキ」
「おはようございます。どうかしましたか?」
私は少し笑った。
きっと、今から言うことを聞いたらどんな顔をするのだろう。
驚くだろうな。
困惑するだろうな。
でも。
最後にはきっと笑ってくれる。
そう信じていた。
「今から5日間旅行に行こう」
一瞬、電話の向こうが静かになった。
「……え?」
やっぱり驚いている。
私は続ける。
「1時間後の7時に寮の前の道路に車を停めて待っている。事情は後で話すから準備して来て」
そして最後に少しいたずらっぽく付け加える。
「あ、スマホとかは持って来ないで。カメラはいいけど」
「えっ? あの……」
彼女が何か言う前に、私は電話を切った。
少しだけ悪いことをした気分になる。
でも。
たまにはこういう日があってもいいと思った。
いつも周囲の期待に応えようと頑張るトキ。
レースでは誰よりも速く走る。
でも、速く走るためには休むことも必要だ。
身体だけではない。
心も。
午前7時。
私は美浦寮の前で車を停めて待っていた。
しばらくすると、入り口からトキが姿を見せる。
大きな荷物を持っている。
きっと突然のことだったのに、ちゃんと準備してきたのだろう。
真面目なところは本当に彼女らしい。
「おはよう、トキ」
「おはようございます、トレーナー」
挨拶を交わす。
しかし、彼女の表情には明らかな疑問が浮かんでいた。
当然だ。
いきなり5日間旅行と言われて納得できる人の方が少ない。
車に荷物を積み込み、助手席に乗ってもらう。
そしてエンジンをかける。
しばらく走ったところで、私は事情を説明した。
「今回の旅行はね、トキの休養のため」
「休養……ですか?」
「うん」
私はハンドルを握りながら続けた。
「トキは今までたくさん頑張ってきたから」
彼女は黙って聞いている。
「もちろん、トレーニングも大切。でも、ずっと走り続けるだけじゃ疲れてしまう」
「だから、一度レースとかトレーニングとか全部忘れて、ゆっくりしてほしかった」
本当はそれだけではない。
私自身も、トキとゆっくり過ごしたかった。
でも、その気持ちはまだ胸の奥にしまっておく。
「授業とか外泊のことは大丈夫なんですか?」
トキらしい質問だった。
自分のことより、まず周囲への影響を考える。
「ちゃんと学校には話してあるよ」
「トレーニングとしての休養って形で公欠扱いにしてもらっているし、外泊届も提出済み」
「授業も普段のトキなら問題ないって判断してもらえた」
そう伝えると、彼女は少し安心したような顔をした。
「……よかったです」
その一言に、私は少し笑ってしまった。
普通なら突然旅行に誘われたことを怒ってもいいくらいなのに。
最初に心配するのは学校のこと。
本当にトキらしい。
「そういえば」
トキがこちらを見る。
「どうして今朝、突然だったんですか?」
私は少し迷った。
そして正直に答えることにした。
「……ドッキリ」
「え?」
「トキの反応を見てみたかった」
すると彼女は少し呆れたような顔をした。
でも、すぐに笑った。
「もう……トレーナーらしいですね」
その笑顔を見て、胸の奥が温かくなる。
よかった。
喜んでくれている。
それだけで、この旅行を計画して良かったと思えた。
午前8時半。
車を走らせて、街道沿いの店に入る。
「朝ごはん食べる時間なかったでしょ」
そう言うと、トキは少し申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、急だったので……」
「いいんだよ。今日はそういう日だから」
二人で朝食を食べる。
マフィンのハンバーガーとコーヒー。
特別高級なものではない。
でも。
普段とは違う場所で、普段とは違う時間に食べる。
それだけで特別になる。
トキが美味しそうに食べている姿を見る。
その瞬間、改めて思った。
この子には、こういう時間も必要なんだ。
勝利のためだけではなく。
一人の女の子として笑う時間が。
午前9時半。
再び車を走らせる。
カーラジオから流れる英語の音声。
昔の洋楽。
少し古い車内の雰囲気。
窓の外を流れる景色。
私は運転をしながら、助手席のトキを見る。
彼女は外の景色を眺めていた。
いつものレース場で見る真剣な表情とは違う。
穏やかな顔。
それを見て、少し安心した。
ホテルへ向かう道中。
トキとの会話は途切れることがなかった。
最近の友達との話題。
美浦寮での出来事。
授業で習ったこと。
好きな本の話。
本当に何気ない話ばかりだった。
でも、私はその時間が好きだった。
普段の私たちは、どうしてもトレーナーと担当ウマ娘という関係になる。
「次のレースに向けてどうするか」
「この走りの課題は何か」
「身体の状態はどうか」
もちろん、それは大切なことだ。
でも今日だけは違う。
私はトレーナーではなく、一人の人間としてトキと向き合っている気がした。
ホテルに到着すると、トキは目を輝かせた。
「素敵な場所ですね」
湖畔にある静かなホテル。
周囲には木々が広がり、都会の音はほとんど聞こえない。
ここなら、きっとゆっくり休める。
チェックインを済ませ、部屋へ向かう。
荷物を置いたあと、二人で窓の外を見る。
夕暮れの山。
オレンジ色に染まった空。
その景色を見ながら、トキが小さく呟いた。
「なんだか、不思議な感じがします」
「何が?」
「いつもなら、この時間はトレーニングの反省をしている時間ですから」
そう言われて、少し考えた。
確かにそうだ。
今まで何度も、夕日を見ながらトレーニングの話をしてきた。
でも今日は。
同じ夕日を見ながら、何も考えずに過ごしている。
「たまにはこういう日も必要だよ」
そう言うと、トキは笑った。
「はい」
その笑顔を見るだけで、来て良かったと思った。
夕食はホテルのレストランでコース料理をいただいた。
普段のトレーニング中なら、食事内容についても気を遣う。
何をどれくらい食べるか。
翌日の身体への影響。
それも私の仕事だ。
でも今日は。
「好きなものを食べていいよ」
そう伝えた。
もちろん限度はあるけれど。
今日くらいはいい。
トキは最初、少し迷っていた。
「本当にいいんですか?」
「うん。むしろ今日は食べてほしい」
そう言うと、彼女は嬉しそうに料理を口に運んだ。
その姿を見て思う。
この子は本当に頑張り屋だ。
自分のために何かを許すことが苦手なのだろう。
だからこそ、私が許してあげたい。
食後。
ホテルのバーへ向かった。
トキはまだ未成年なので、お酒は飲めない。
私はエスプレッソ・マティーニを一杯だけ注文する。
隣には、少し大人びた雰囲気のトキ。
不思議な感覚だった。
いつもは勝負服を着て、観客の前で走る彼女。
でも今は、ただ隣で笑っている女の子。
「トレーナー」
「ん?」
「こういう時間っていいですね」
「そうだね」
本当にそう思った。
部屋へ戻る。
窓を開けると、山の冷たい空気が入ってくる。
トキはしばらく外を眺めていた。
「星、綺麗ですね」
「うん」
その横顔を見ながら、私は思った。
この景色よりも。
今隣にいる彼女の方がずっと綺麗だ。
……なんて。
そんなことを思っている自分に少し驚いた。
以前なら、絶対に考えなかったことだ。
私は彼女の担当トレーナーなのだから。
そう言い聞かせていたはずなのに。
______
______
翌朝。
目覚ましより少し早く目が覚めた。
隣を見る。
トキはまだ眠っている。
いつもの練習中の姿とは違う。
力の抜けた、安心した表情。
その顔を見て、少し安心した。
最近のトキは頑張りすぎていた。
勝つため。
期待に応えるため。
自分自身を越えるため。
常に前を向いていた。
でも。
こうして眠っている姿を見ると、改めて思う。
この子にも休む時間が必要なんだ。
私は音を立てないように起き上がった。
朝食を済ませた後、二人で近くの山へ向かった。
目的は登山。
といっても、本格的なものではない。
ゆっくり景色を楽しむための散歩に近い。
「トキ、疲れたら言ってね」
「大丈夫ですよ! 私、ウマ娘ですよ?」
そう言って笑う。
その自信は頼もしい。
でも私は知っている。
トキは大丈夫と言いながら、無理をすることがある。
だから、何度も彼女の様子を見る。
歩幅。
呼吸。
表情。
小さな変化も見逃さない。
それが私の役目だから。
頂上。
小さな祠があった。
トキは静かに手を合わせる。
私は少し離れた場所で彼女を見る。
何を願っているのだろう。
きっと、自分のことではない。
家族。
仲間。
周りの人。
いつも誰かの幸せを願う子だから。
私も祠の前に立つ。
そして目を閉じた。
願ったことは一つ。
これから先も。
トキが笑顔でいられますように。
ウマ娘として。
一人の女の子として。
幸せな人生を歩めますように。
そして……
もし許されるなら。
その隣に、私がいられますように。
目を開ける。
隣を見ると、トキがこちらを見ていた。
「何をお願いしたんですか?」
そう聞かれた。
私は少し笑った。
「秘密」
本当のことを言うには、まだ少し勇気が足りなかった。
でも。
いつか言える日が来る気がした。
山を下りた後、ホテルへ戻る。
午後は部屋でゆっくり過ごした。
トキは窓際の椅子に座り、本を読んでいる。
私はベッドで横になりながら、その姿を眺めていた。
何もしない時間。
それなのに。
今までのどんな忙しい日よりも、満たされている気がした。
夜。
外へ食事に出た。
二人とも意外と庶民的なものが好きだった。
高級料理もいい。
でも、温かい料理を二人で囲む時間の方が楽しい。
「美味しいですね」
「うん、美味しい」
そんな会話だけで幸せだった。
ホテルへ戻り、露天風呂へ向かう。
冷たい夜空。
温かい湯。
静かな山。
風呂上がり。
トキが牛乳と最中アイスを手に取る。
普段なら身体づくりのために控えているもの。
「今日だけだからね」
そう言うと、
「はい!」
と満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、思わず笑ってしまう。
レースで勝った時よりも。
この瞬間の方が、彼女は幸せそうに見えた。
そして私は気付いた。
私はもう。
ただトキの成長を見守りたいだけではない。
この子と一緒にいる時間そのものを、大切に思っている。
その気持ちを、まだ認めるのが怖かった。
______
______
三日目の朝。
山のホテルを出発する日。
朝食を食べながら、私は少しだけ寂しさを感じていた。
まだ旅行は終わっていない。
これから海沿いの旅館へ向かう。
でも、山で過ごした二日間はあまりにも穏やかで、あっという間だった。
トキも同じことを考えていたのか、窓の外を眺めながら言った。
「もう移動なんですね」
「そうだね」
「少し寂しいです」
その言葉に、私は嬉しくなった。
この場所を気に入ってくれたということだから。
「でも、次の場所もきっと楽しいよ」
そう言うと、トキは笑った。
「はい!」
その笑顔を見て、また一つ思う。
この旅行を計画して本当に良かった。
海沿いの旅館へ向かう道中。
山道を抜けると、目の前に広い海が広がった。
トキは窓の外を見て、少し身を乗り出す。
「海ですね」
「ああ、綺麗だね」
彼女が楽しそうにしている。
それだけで、運転している疲れなんて感じなかった。
旅館に到着し、荷物を置いた後。
私たちは海辺を散歩することにした。
冬の海。
冷たい風。
空は夕日で赤く照らされていた。
波の音を聞きながら歩く。
普段のトレーニングコースとは全く違う道。
それなのに、隣にいるのはいつものトキだった。
突然。
「えいっ」
「……え?」
冷たい感触。
トキが笑いながら、私に海水をかけていた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「トキ?」
彼女はいたずらっぽく笑っている。
「ふふ」
その表情を見て、私は思わず笑った。
「こーらー! そんなことしていいのかな?」
そう言いながら、私も海水を返す。
「えっ!? トレーナーさん!」
二人で笑う。
気が付けば、冬の寒さなんて忘れていた。
本当に子どもみたいだった。
でも。
私はこの時間が好きだった。
レースでも。
トレーニングでも。
勝利でもない。
ただ、トキと笑っている時間。
夕食後。
露天風呂に行き、旅館のお土産コーナーをのぞいた時だった。
トキが一つの商品をじっと見つめていた。
木刀。
私は思わず笑った。
「木刀かー」
「?」
「修学旅行の時に買ったなぁ」
そこから自然と昔話になる。
「しおりのお土産一覧に載っていたのに、自分以外誰も買ってなくてさ」
「聞きましたよ、それ!」
トキも笑う。
「でも、木刀って思い出の品になりますよね」
「そうなんだよ」
「買った時は少し恥ずかしくても、後から見るとその時の記憶が蘇るんだよね」
そう話しながら店内を見る。
結局、木刀ではなく二人で食べるお菓子を買った。
部屋へ戻る。
布団を並べて横になる。
隣から聞こえるトキの寝息。
私は天井を見ながら考えていた。
この距離感は、以前とは違う。
でも。
私はまだ、その答えを出せずにいた。
______
______
四日目。
朝食を終えた後、街を散策した。
特別な目的地は決めていなかった。
気になる店に入る。
工芸品を見る。
綺麗な景色を眺める。
それだけ。
でも、楽しかった。
「凄いですね」
「本当に綺麗」
そんな何気ない会話が続く。
昼食は海鮮丼の店に入った。
トキが言う。
「トレーナー、ビール飲んだらどうですか?」
少し驚いた。
「いいの?」
「はい。せっかくの旅行ですから」
その言葉に甘えて、一杯注文する。
彼女は美味しそうに料理を食べながら、私を見て笑っていた。
その笑顔を見ていると、不思議な気持ちになる。
まるで恋人同士のような時間。
……いや。
そう思ってしまうこと自体が、少し怖かった。
午後。
私たちは一度別行動をすることにした。
その時、ふと思った。
夜、二人で何か飲みながら話したい。
もちろん私はビールが飲みたい。
でも、トキはまだ未成年。
だから。
旅館へ戻る途中、高級なりんごサイダーを買った。
お酒ではない。
でも、特別な夜にはちょうどいいと思った。
冷蔵庫に入れる。
トキには内緒。
少しだけ楽しみだった。
待ち合わせ場所へ向かう途中。
団子を買った。
何種類か選ぶ。
「これ、トキ好きそうだな」
自然とそう考えている自分に気付いた。
いつからだろう。
何かを選ぶ時、最初に彼女の顔が浮かぶようになったのは。
トキと合流する。
海の中へ伸びる細い防波堤。
「歩いてみませんか?」
そう言われ、二人で進む。
波の音。
夕方の海。
静かな時間。
その瞬間だった。
「うわ!」
声が聞こえた。
反射的に身体が動いた。
「トキ!」
私はすぐに彼女の下へ入り込み、支えた。
幸い、大きな怪我はなかった。
でも。
心臓が止まるかと思った。
もし間に合わなかったら。
そんな考えが一瞬頭をよぎった。
「よそ見しちゃダメでしょ! 前をちゃんと見て!」
思わず強い口調になる。
怒っているように聞こえたかもしれない。
でも、本当は違った。
怖かった。
彼女を失うことが。
その時。
口から言葉が出た。
「トキ」
「私はトキの身と幸せを守るためなら、なんだってするから」
彼女を見る。
そして。
「私、トキのためなら死んでもいいよ」
言ってしまった。
一瞬、後悔した。
これはトレーナーとして言うべき言葉なのか。
もっと冷静でいるべきだったのではないか。
でも。
嘘ではなかった。
レースで勝たせたい。
夢を叶えたい。
笑顔でいてほしい。
ずっとそう思ってきた。
でも今は、それだけではない。
この子が傷つくところを見たくない。
この子が悲しむところを見たくない。
ただ、それだけだった。
トキは黙っていた。
申し訳なさそうな顔。
でも、どこか嬉しそうな顔。
きっと。
私の言葉の意味を理解してしまったのだろう。
安全な場所へ戻るため、自然と手を繋いだ。
その手は小さかった。
でも。
三年間、私が守ってきた手でもある。
その後、昨日の砂浜を二人で走った。
子どものように笑うトキ。
その姿を見て思った。
私はこの子の笑顔を、これからも守りたい。
夕食は海沿いの居酒屋。
私はトキに合わせてウーロン茶を注文した。
……が。
「本当は飲みたいんですよね?」
見抜かれていた。
「そんなに分かりやすい?」
「はい」
結局、二杯目はビールになった。
二人で笑う。
本当に不思議だった。
トレーナーと担当ウマ娘。
その関係のはずなのに。
心の距離は、もうそれだけでは説明できなくなっていた。
食後。
海沿いを歩く。
月が綺麗だった。
すると、トキが言った。
「月が綺麗ですね」
私は空を見上げる。
そして答えた。
「ほんとだ。凄く綺麗だね」
その言葉に込められた意味。
きっと彼女も知っている。
そして。
私も。
旅館へ戻る。
露天風呂に入りながら、私は静かに夜空を眺めていた。
湯船に浸かり、冷たい空気を感じる。
普段なら、この時間は翌日の予定やトレーニングのことを考えている。
しかし今日は違った。
頭の中に浮かぶのは、トキのことばかりだった。
海で笑っていた姿。
防波堤で支えた時の表情。
月を見上げながら「綺麗ですね」と言った声。
全部が鮮明に残っている。
そして、私は気付いてしまった。
もう誤魔化せない。
私は、トキのことが好きだ。
もちろん、ずっと前から特別な存在だった。
小学校で初めて会った頃。
担当になったばかりの頃。
まだ互いに距離があった頃。
私は彼女を「担当ウマ娘」として見ていた。
才能がある子。
努力家な子。
不思議な魅力を持った子。
でも、トレーナーと担当ウマ娘として三年間一緒に過ごす中で、その気持ちは少しずつ変わっていった。
勝った時に一緒に喜びたい。
負けた時に一番近くで支えたい。
何か嬉しいことがあった時、一番最初に報告してほしい。
気付けば、そんなことを思うようになっていた。
でも。
私はトレーナーだった。
それが大きな壁だった。
彼女は私を信頼してくれている。
尊敬してくれている。
その気持ちを、自分勝手な感情で壊してはいけない。
そう思っていた。
だから何度も、自分に言い聞かせた。
これは親愛だ。
これは担当への責任感だ。
これは家族のような気持ちだ。
そう思おうとした。
でも。
彼女が笑うと嬉しい。
彼女が誰かと楽しそうに話していると、少し寂しい。
彼女の未来を考える時、その隣に自分がいたらいいと思ってしまう。
もう答えは出ていた。
風呂から戻り、私は思い出したかのように備え付けの冷蔵庫から先ほど買ったりんごサイダーを取り出した。
「それは……一体?」
「りんごのサイダー。トキと一緒に飲みたくてさっき個別行動していた時に買っちゃった!もちろんアルコールは入ってないけど……雰囲気だけでもどう?」
「いいですね!そこの広縁で飲みません?」
「お、いいね」
二人で広縁の椅子にそっと腰かける。
「用意してくださっていたんですか?」
「うん。せっかくだから」
本当は、もっと前から考えていた。
二人でこの旅行を振り返りながら、ゆっくり話したかった。
お酒ではない。
でも、今の私たちにはこれで十分だった。
グラスを二つ用意する。
窓の外には静かな海。
部屋の明かり。
そして、向かいにはトキ。
「「乾杯」」
声が重なる。
グラスが触れ合う音。
サイダーの甘い味。
トキは嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、胸が締め付けられる。
綺麗だと思った。
走っている時の凛々しい姿とは違う。
一人の女の子としての表情。
この時間を、ずっと続けたいと思った。
しばらく二人で話した。
旅行のこと。
今までのレースのこと。
これからのこと。
トキは楽しそうに話していた。
私はそんな彼女を見ながら思った。
もし。
もしも許されるなら。
これからもずっと、こうして隣にいたい。
寝る時間になった。
布団を並べる。
少しだけ距離が近い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ安心した。
しばらく沈黙が続く。
波の音だけが聞こえる。
その時。
「トレーナーさん」
トキの声。
「どうしたの?」
振り向く。
彼女は少し俯いていた。
緊張している。
何かを決意したような表情。
その瞬間、なぜか分かった。
彼女は今から、大切なことを伝えようとしている。
「あの……その……」
言葉に詰まるトキ。
私は急かさなかった。
待つ。
彼女が自分の言葉で伝えられるまで。
「トレーナーさん、私……」
そして。
彼女は涙を流しながら言った。
「私、トレーナーさんのこと愛しています」
時間が止まったようだった。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
いや。
理解したくなかったのかもしれない。
嬉しすぎて。
夢ではないかと思った。
「担当としてトレーナーさんへの尊敬もあるんですけど……」
「それ以上に……恋、愛というか……」
「パートナーとして、大好きなんです」
「ずっと一緒にいたいんです」
「生涯を共にしたいんです」
彼女は泣いていた。
きっと、ものすごく勇気が必要だったのだろう。
私も同じだったから分かる。
言ってしまったら、今までの関係が変わってしまうかもしれない。
怖かったはずだ。
それでも。
彼女は伝えてくれた。
胸の奥がいっぱいになった。
ありがとう。
嬉しい。
大好き。
いろんな言葉が溢れてくる。
私は気付けば、彼女を抱きしめていた。
「うん……うん、トキ」
「教えてくれてありがとう」
「よしよし……」
頭を撫でる。
いつもなら、彼女を支える側の私が。
今は、彼女の気持ちに支えられていた。
「実はね」
私はゆっくり話し始めた。
「私もずっと言えなかった」
「トキのこと、愛してる」
彼女の目が大きく開く。
「もちろん、担当としてじゃなくて」
「一人のパートナーとして」
「一緒にいるうちに、少しずつそういう気持ちになっていった」
「でも怖かった」
「トレーナーと担当だったから」
「もし告白して、嫌われたらどうしようって」
「今まで築いてきたものが壊れたらどうしようって」
正直に伝える。
すると、トキは泣きながら笑った。
「嬉しい、嬉しいです……。私も心が軽くなりましたよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸にあった不安が全部消えた。
十二年間。
ずっと隠していた気持ち。
誰にも言えなかった想い。
それが、今ようやく届いた。
私たちはしばらく抱き合ったまま泣いた。
嬉しくて。
安心して。
幸せで。
「トレーナーさん……」
「トキ……」
顔を見合わせる。
何も言葉はいらなかった。
自然と距離が縮まる。
唇が触れる。
温かかった。
少しだけ涙の味がした。
でも、それすら幸せだった。
もう一度、互いを確かめるように近づく。
その後のことは、あまり覚えていない。
ただ。
気が付けば、隣にトキがいた。
そして私は思った。
この瞬間を、一生忘れない。
______
______
翌朝。
目を覚ますと、最初に感じたのは静かな波の音だった。
そして、もう一つ。
「……ん?」
首筋に、少しだけ痛みを感じた。
寝違えたのだろうか。
そう思いながらゆっくり身体を起こす。
その時、自分の帯が少し緩んでいることに気付いた。
「……あれ?」
昨夜のことを思い出そうとする。
トキと話をして。
お互いの気持ちを伝えて。
泣いて。
抱きしめて。
そして……。
そこから先は、どうにも記憶が曖昧だった。
私は緩んだ帯を結び直す。
……昨日のことを思い出し、少し顔が熱くなる。
どうか。
ただ寝相が悪かっただけでありますように。
そんなことを考えている自分がおかしくて、少し笑ってしまった。
部屋を見回す。
トキは先に起きていた。
広縁の椅子に座り、外を眺めている。
朝焼けの海。
静かな空。
その姿を見て、一瞬見惚れてしまった。
「……おはよう、トキ」
声をかけると、彼女は振り返った。
「おはようございます、トレーナーさん」
その笑顔。
昨日までと同じはずなのに。
どこか少しだけ照れたように見えた。
私も少し恥ずかしくなりながら、彼女の隣の椅子に腰を下ろした。
昨日までと同じ部屋。
同じ距離。
同じ彼女。
なのに。
私たちの関係は、もう昨日までとは違っていた。
ふと、空を見る。
その時。
明けの明星が目に入った。
「あ、見て!」
指を差す。
「明けの明星だ……綺麗……」
トキも空を見る。
そして、優しく笑った。
「とても綺麗に輝いているね。まるで私たちみたい」
「ふふ、確かに私とトレーナーさんみたいですね」
明けの明星。
かつては堕天使を意味しながらも、同時に夜明けを告げる光でもある星。
不思議な存在。
私たちにも少し似ていると思った。
トレーナーと担当ウマ娘。
本来なら、越えてはいけない線があった。
でも。
私たちは、その線を越えてしまった。
それでも。
後悔はなかった。
なぜなら。
そこにあったのは、互いを大切に思う気持ちだったから。
朝食を済ませ、チェックアウトをする。
荷物を車に積み込む。
旅館を出る時、少しだけ名残惜しく感じた。
たった数日。
でも。
人生の中で忘れられない時間になった。
帰り道。
私はいつも以上に慎重に運転した。
助手席には、誰よりも大切な存在がいる。
以前から安全運転を心掛けていた。
でも今は、その意味が違う。
この子の未来を。
この子の笑顔を。
絶対に守りたい。
そんな想いでハンドルを握っていた。
途中のサービスエリアで昼食を取る。
食事を終え、車内で少し休憩することにした。
疲れていたのだろう。
気付けば眠っていた。
……その時。
何かが口元に触れたような気がした。
柔らかくて、温かいもの。
目を開けようとしたが、眠気に負けた。
夢だったのかもしれない。
でも。
なぜか幸せな気持ちになった。
美浦寮へ到着する。
「一旦荷物を部屋に置いてくるよ」
そう言うと、トキは頷いた。
「はい。また後で」
「うん。また後で」
その言葉が、とても嬉しかった。
以前なら。
「また明日」
という言葉は、ただの挨拶だった。
でも今は違う。
また会える約束。
また隣にいられる約束。
そんな意味を持っていた。
部屋へ戻り、荷物を片付ける。
ふと、旅行中の写真を見る。
海。
山。
食事。
笑っているトキ。
どの写真にも、彼女の幸せそうな表情が残っている。
この旅行をして良かった。
心からそう思った。
夜。
約束通り、トキと待ち合わせる。
向かった先は焼肉店。
高級な店ではない。
でも、私たちらしい場所だった。
店内には学校帰りの学生。
家族連れ。
普通の日常が広がっている。
そんな場所で。
私たちはいつも通りの時間を過ごした。
「無事に旅行出来ました、乾杯!」
「乾杯!」
私はビール。
トキはウーロン茶。
グラスを合わせる。
旅行の成功を祝う乾杯。
でも。
本当は別の意味もあった。
新しい関係になった私たちの。
最初の乾杯。
焼肉を食べ始める。
そこで、私はあることに気付く。
やっぱり。
私たちは似ている。
どちらも肉を焼きたい。
どちらも焼き加減にこだわる。
結果。
二人とも忙しい。
「ねえ、トキ」
「はい?」
「私たち、焼肉奉行二人いるから全然休めないね」
「ですね」
二人で笑う。
こんなくだらないことで笑える時間が好きだった。
帰り道。
近くの公園へ寄った。
周囲に人がいないことを確認する。
そして。
自然と抱き合った。
「トキ」
「はい」
言葉にしなくても分かる。
互いを大切に思っている。
そっと口付けを交わす。
短い時間。
でも、十分だった。
寮の前。
別れの時間。
「おやすみなさい、トレーナーさん」
「おやすみ、トキ」
少し間を置く。
「また明日ね」
「はい。また明日」
その言葉を聞いて、私は部屋へ戻った。
風呂に入り、ベッドへ横になる。
しかし。
眠れない。
目を閉じると、トキの笑顔が浮かぶ。
嬉しい。
幸せだ。
でも。
同時に、少しだけ怖い。
これからどうなるのだろう。
トレーナーと担当ウマ娘。
簡単な道ではない。
周囲にどう説明するか。
どんな形で歩んでいくか。
考えなければならないことはたくさんある。
でも。
一つだけ確かなことがある。
私は、トキを一人にしたくない。
彼女が走り続ける限り。
夢を追い続ける限り。
その隣にいたい。
この5日間。
旅行券から始まった小さな旅。
でも、私にとっては人生を変える旅になった。
トキヲコエテ。
時を越える名前を持つ彼女と。
私はこれからも、一緒に未来へ進んでいく。
「明日も、トキに会おう」
そう思いながら、ゆっくり目を閉じた。
おやすみなさい。
心から愛する人。
また明日、会おう。
トキヲコエテとの間に生まれた絆は、
レースの勝敗や記録では測れない。
レースの勝敗や記録では測れない。
かけがえのないものだった。
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