さつき√、
巨大な秘匿技術を巡る複雑極まる陰謀劇の中で交わされてきた、
妖しき女スパイと、微笑の中に夢を抱く大企業社長との
関係が明かされる場面。
日本政府からの援護もまるで期待できなくなった、
EAを取り巻く不利極まりない状況。
社長室を訪れたチェシャはその現状を言葉で確認しながらも、
常と変わらず、底の見えない笑みを張り付かせたままの綾鷹の
答えを待っていた。
「僕は、恐い事が嫌いでね。何かをする時には、それがスムーズに進むようにと心を砕きながらいつも取り組んでいるんだよ。
きっと根のところでは臆病なのだろうと思う。保険も掛けるし罠も張る……
そうしないとゲームを安心して進められない質なのさ。間諜も、そういう人種だろう?」
その言葉が意味する通り――
チェシャは少し前まで米国CIAからIgelへと送り込まれたスパイだった。
目的は当然、EAという未知の技術の塊……そのシステムに関わるあらゆる情報を本国へと送るため。
大使館側と密に連絡を取る行為を間もなく看破した若社長は、彼女に
新たな契約を持ち掛ける。
――米国より、こちらに付かないか。報酬は望みの額を出すからと。
プログラムに関する膨大な知識、それを正しく運用できる技術。
いずれもEAシステムの広大な闇を解明するには必要なものだと、彼は説いた。
……君にはそれだけの価値がある。チェシャ側が提示した金額を、満足に聞く事もなく綾鷹はうなずいた。
吝嗇など、己の正義に背くことと同義。女の前で財布を開けないなど、唾棄すべき野暮であると。
結果として、縞猫は傅く。米国と通じていながらにして、藤堂綾鷹の懐刀……二重規範の存在となって、今も電子の海を揺蕩っている。
密約を交わし、謀を巡らす二人の男女は意味深な笑みを絶やさない。
「あなたには感謝しているんですよ、これでも。娼婦の如き献身をもって尽くしてもらった。
その目が見込み違いでないという事を、これから証明しなくてはならないね」
「んふふ……綾鷹くんは、そういう女がお好みだもんね。いいわよ。跪けっていうんならそうするわ。
どんな奉仕だって健気に頑張る。そう───あたしの全てを賭けてね」
褐色の美女の浮かべる淫蕩なその笑みは、綾鷹の心を心地よく擽った。
彼は決して娼婦が嫌いではない。その在り様は、生娘を演じるだけの薄汚い女よりも遥かに高潔というものだ。
ただ金が欲しい。よかろう、可愛いじゃないか。僕の元へ来い。虚飾の愛を誓わせてやる。
「その淫蕩ぶりは大国には勿体ないですよ、本当に」
───そして時は経ち、現在の彼女は忠誠を誓う兵士であり、男に尽くす女の貌。
交渉の結果として生まれた、節操のない絆。
「差し当たっての問題は猛禽の彼で、そこを抑える必要がある。
彼らは新たなウィルスを手に入れた。それを用いてIgelに圧力を掛けたい。つまり……」
「EA内が戦場になる、と。でも実際どうするの?
CIAの戦闘能力に比肩する人材は、世界中のどこを探したって見つからないわよ」
「はは、さっき言っただろう? 僕は臆病だって。
慌てることは何も無いさ。彼はもう、蜘蛛の巣の罠に嵌っているのだから」
そう嘯く若社長は暫しの間、愉悦の笑みを漏らすのだった。
最終更新:2021年11月17日 08:15