侍になるために――江戸へ旅立つ一人の少年が、悲しむ大切な幼なじみに誓った、己の原点であり譲れなかった『約束』。
十六夜村の年貢米の刈り入れが終わった秋の頃……
十五歳となった隼人は、村外れの水車小屋に幼なじみである澪を呼び出し、ある決意を告げていた。
――生まれ育ったこの村を出て、江戸で本格的に剣術の修行を積むという事を。
隼人の決意表明に、淋しさを隠すようわざと大笑いしてみせた少女は――一転して真顔で彼をにらみ上げた。
「いい加減にしなさいよ。あたしたち、もう大人なんだよ?いつまで子供みたいな夢を見てるのよ。
侍になんてなれるわけがないって、毎日のようにいろんな人から言われてきたでしょ?どうしてまだ諦めてないのよ!」
自分を置いて出ていくなんて許さない。隼人がいなくなったら寂しいよ、だから行かないで、お願い。
そんな叫び出したいほどの本音を秘め隠したまま、澪は説得を続けるも、隼人は譲らず侍となる可能性を熱く語るばかり。
昔の隼人は、こんなじゃなかった……
ずっと自分だけを見て、自分だけを追いかけてくれたあの日々が、もう遠くなってしまったように思えて。
切なさと、言葉が届かない苛立ちが募る中、澪は一計を案じてみせる。
「言っておくけど、あたしあんたをずっと待ってあげたりはしないからね?」
「あんたが剣術なんかにかまけてる間に、誰かのお嫁さんになっちゃうかもしれないってことよ。
父さんからもう、それとなく聞いてるしね。水戸の大きな商家の若旦那が、あたしを見初めて是非にって話が来てるみたい」
「あたし、もう十六よ?嫁入りして子供がいたって、全然おかしくないわ。あんただってそうよ」
縁談に応じるつもりはなかったが、わざと迷っている素振りを見せる少女に、隼人の勢いが目に見えて萎んでいく。
そうして、優しく諭す言葉を澪はかけようとするが―――
「……でも、俺は」
「それでも、侍にならなきゃいけないんだ」
頑なに、それだけは譲れないと。泣き出しそうな顔で語る少年を前に、澪の感情の堰が溢れ出す。
あたしを―――
「……この村を捨てるつもりなの?」
「村を出ていったまま、もう帰ってこないつもりなんでしょう? あた――みんなと暮らすのが嫌になったから!」
「違う!」
「何年経とうと、俺は必ず侍になってここへ帰ってくる! だから、待っていてくれ!」
返ってきた答えに、澪は理解してしまう。“もう隼人はどんな言葉でも止められない”
ならばと、少女は少年の腕を掴み、強引に自分の身体へと触れさせる。
どんなことをしてでも、隼人の気持ちを繋ぎ止めたい一念で。
慌てて手を少女の身体から引きはがした隼人は、「好いているのなら、戻ってくるのならば、証が欲しい」と涙目で縋る澪へ告げた。
……もう、大切な少女をこれ以上悲しませまいと。不器用な、愛を伝えたいと願って。
「……六兵衛の爺ちゃんが言っていた。侍とは、約束を果たすものだって」
そう語る幼なじみが、突然大人びたような風格すら、澪には感じられた。
初めて見た、男の貌に。心臓の鼓動が勝手に高鳴っていく。
「だから今、侍として約束する。俺は、この村を───澪を、絶対に忘れたりなんかしない」
今までの夢見がちにも聞こえる憧れとは異なる、無二と信じる神聖なものとして、
彼は『侍』という言葉を口にしているのだと強く感じられた。
「もしもこの先、おまえに何かあったら……何処にいようと駆けつけて、必ず助けに戻ってくる。
そしていつか、立派な侍になれた時……おまえを、必ず迎えに来るから」
「だから……それまで待っていろって?」
「ああ」
隼人の変化に当てられたように、いつの間にか澪は胸の裡の悲しみを忘れていた。
目元を拭った彼女は、問いを重ねてみせる。
「なによ。そんなの、ただの口約束じゃない。何の形も保証もないのに、信じろって言うの?」
「そうだ。ただの口約束に……形のない信念に命を懸けられるのが、侍なんだよ」
もっともらしいその言葉も、老人の受け売りかもしれない。
けれど、自分の涙を止める……そのためだけにそう言ってくれたのかもしれないと、そう思えた事が荒れた澪の心を鎮めていた。
「……きっとよ。信じてるから」
―――そう告げて……溜息まじりに、澪は瞼を閉じて顔をそっと上げてみせる。
男女としての口付けを求められていることに、隼人は息を呑みつつも……
男は女の背に手を回し、優しく唇を重ね合わせていくのだった。
最終更新:2024年10月27日 14:57