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今一度、ガラスの靴を履いて



 冬木市は、冬という名を冠する割には温暖な気候なのだという。

 とはいえ、クリスマスも目前に迫ったこの時期に、よもや寒さと無縁でいられるはずもなく。
 高垣楓は、マンションの玄関から顔を出した瞬間に肌を刺した寒気と、積もった雪からの照り返しの眩しさに、一瞬目を細めた。
 思わず、ほう、とついた息が白い。
 十分に着込んではいるものの、冬の厳しさは否応なしにこの身を苛んでくる。
 見れば未だにちらほらと雪が降り続けているようだ。
 念のために傘を持って行った方がいいのかもしれないと思い、玄関の脇に手を伸ばす。

『――故郷の人々は、寒さの厳しい日には口々にこう言ったものです。
 こんなに外が寒いのは、ジャックフロストが悪さをしているからだ、とね』

 在りし日を懐かしむような声が、楓の頭の中に直接響いた。
 まだ若い男性の声だ。
 しかし、その語り口は永い年月を経た者だけが持つ落ち着きを含んでいるように聞こえる。
 声の主の名は、聖パトリキウス
 アイルランドを守護する聖人にして、高垣楓と契約したキャスターのサーヴァントだ。
 彼の存在、そして念話という非常識な手段で語りかけてくるこの状況は、楓が置かれた現実をこの上なく確かに証明していた。
 すなわち、聖杯戦争――万能の願望器を懸けた血の魔術儀式の当事者として、ここにいるということを。

「そのジャックさんというのも、妖精なんですか?」
『ジャック・オー・フロスト、縮めてジャックフロスト。ブリテンに伝わる寒気の精ですね。
 無邪気な性格ですが、人を氷漬けにするほどの力を持つ強力な妖精です。いずれ呼び出す機会もあるかもしれません』

 何気ない風を装って行われるこの会話自体が、本来の高垣楓にとっては非日常以外の何物でもない。
 楓はアイドルという世間一般からすれば珍しい仕事に就いてこそいるが、当然魔術師ではないし、儀式など耳にする機会もなかった。
 無論――人の死にも、血が流れるような事柄にも、一切の縁を持たない。
 少なくとも、高垣楓はそういう生き方をしてきた。
 これからもしていくつもりだった。
 ままならないものだと肩を落としてみたところで、何の解決にもならないのだけれども。

『そもそもにして、この国の人々が抱いている妖精のイメージは、エリン……つまりアイルランドやブリテンのものとは大きな隔たりがあります』

 パトリキウスの講釈は続く。

 そう長い時間を一緒に過ごしたわけではないが、彼について既に楓はいくつかのことを知っている。
 そのうちのひとつが、彼は意外と話が長い、ということだ。
 というよりも、説法に熱が入ると周りが見えなくなる性質というべきか。
 以前そのことを指摘したら、彼は「生前も話に夢中になって王の足を杖で突き刺してしまったことがある」と照れくさそうに言っていた。
 どうやら自覚はあるらしいが、だからといって生来の気質を改めることができるのかというのは別の話だ。
 ましてや彼は伝道者の英霊なのだから、きっとそういうものなのだろう。
 楓はひとりで納得して、玄関の鍵を閉めるとエレベーターホールへ歩き出した。

『妖精と聞くと、この国の人はピクシーやエルフのような、背中に羽を生やした小人を思い浮かべる。
 確かにそれも妖精のひとつの姿ですが、しかし全てではない。本来、妖精とはもっと多様なのです』

 ボタンを押して一分足らずで昇ってきたエレベーターは、早朝だからか他の階に止まることもなく、真っ直ぐに一階に到着した。
 外に出てみると、思ったよりも降っている。やはり傘を持ってきて正解だった。
 慣れた手つきで傘を広げると、ブーツで新雪を踏みしめながら歩き出す。
 いくつになっても、まっさらな雪の上に足跡を残していくのは心躍るものだ。
 非常時なのにこんな些細なことでうきうきしてしまっている自分が、楓は少しだけおかしかった。

『妖精、すなわちフェアリーとは本来、神と悪魔、そのいずれにも属さない超自然の存在すべてを指します。
 いうなれば幻想種の大半、あるいは竜種すらも定義上は妖精ということになる。もっとも私に竜種の使役能力はありませんが』

 キャスターの講義を聴きながら、朝の雪道を行く。
 目的地はそう遠くない。
 バスを使うまでもなく、雪の中だろうと徒歩で十分な距離だ。
 加えて言うなら、この時間ならばきっと急ぐ必要もないだろう。
 待ち合わせ場所は市内でも穴場中の穴場で、おそらく客は楓たちだけであるはずだ。
 念のために前もって席を取ってもらってはいるが、果たしてその必要があったのかは少し疑問ではある。
 もっともそこの店員は楓とは旧知の仲で、朝一番に行くと連絡した時は大いに喜んでくれたので、それだけでも電話の意味はあっただろう。

『我がスキルである妖精の秘蹟とは、それら自然を形作る妖精達に語りかけ、状況に応じた力を借りるというものです。
 既に述べた通り、妖精の能力は千差万別。家の主人が寝ている間に靴を仕立て上げるような平和なものばかりではありません」

 表通りを曲がると、途端に人通りが少なくなる。
 すでに学校はどこも冬休みに入っていて、行き交う人々には学生と思しき姿も混じっているが、それも表に限っての話だ。
 お目当ての店はこのすぐ先だが、休みの日なのにこうも人が少ないと、流石に心配になってしまう。
 ちゃんと彼女のお給金は出ているのだろうか。
 ……いや、店の給料で食べていくのは彼女にとって不本意だろうけど、それでも。

『人を化かすもの。惑わすもの。焼くもの、凍えさせるもの、呪毒で冒すもの。あるいは力でもって砕くものまで、様々です。
 これらを臨機応変に使い分けて初めて、私はマスターの十全たる守護者となりうる。その事実をマスターも十分に理解して――』
『キャスターさん』
『なんでしょう?』
『到着です』

 目的地である喫茶店の前で念話を送ると、返事代わりに咳払いが返ってきた。
 楓は小さく微笑んだ。
 この賢者には、どこか真面目すぎるが故の愛嬌があるように思える。

『ふふっ、大丈夫。話はちゃんと聞いていましたよ』
『いや、私の方もつい熱が入ってしまいました。続きはまた今度といたしましょう。
 ……何より、こちらも本来の役目に本腰を入れねばならなさそうです。では、また後ほど』

 キャスターがそういうのと時を同じくして、店の奥からぱたぱたと快活な足音が聞こえてきた。
 駆け寄ってきた足音の主は楓の前で立ち止まると、元気よく頭の上のウサミミを揺らしながらお辞儀した。

「いらっしゃいませ、楓さん! 朝から誰もお客さん来ないから、ナナ、もう暇で暇で」
「ふふ、おはよう、菜々ちゃん。あまり大きな声だと店長さんに聞こえるわよ」

 楓がそう言うと、目の前の小柄な少女――安部菜々は慌てて口を押さえて店の奥を伺った。
 幸いというかなんというか、年老いた店長は店の奥のテレビで囲碁の中継に夢中になっている。
 街に物騒な噂が広がる中で平和を満喫するのはいいことだが、この店は本当に大丈夫なのだろうか。

「ところで、ほたるちゃんは?」
「まだ来てないですねぇ。ナナはほたるちゃんの連絡先知らないので、店に連絡が来ることはないと思いますけど」

 スマートフォンで待ち合わせの約束を確認すると、約束の時間までは少しだけ間があった。
 なら、別に焦ることはないだろう。
 ライブの打ち合わせまではまだ間があるし、本当に遅刻ならほたるは連絡を入れてくるはずだ。
 それに元々、高垣楓は気が長いたちなのだ。菜々も一緒なら、きっと退屈することはない。



                    ▼  ▼  ▼



 初めて行く店への道を一本間違え、気付いて動転した矢先に雪で滑って街路樹にぶつかって、枝の上からの落雪を頭から被り。
 その拍子にひっくり返ってお尻を打って、よろよろと涙目で起き上がった頃には、既に約束の時間は目前だった。

「……うぅ、朝からついてない……」

 白菊ほたるの溜息も、真っ白に染まって大気に溶けていく。
 ほたるは決して注意力散漫なわけでも、ことさらにドジなわけでもない。
 むしろ、物事には慎重をもって当たるタイプだ。
 しかし悲しいかな、こうして頑張りが裏目に出てしまうのは、そういう宿命だと納得するしかないのだろうか。

「あ、黒猫……」

 コートに付いた雪を払っている間に、目の前を真っ黒な猫が横切った。
 通りを横切ったところで立ち止まってこちらを見つめて、何か言いたげにニャアと鳴いている。
 ますます縁起がよろしくない。

『なんだか随分と頻繁に猫を見かけますね。この街には野良猫が多いのでしょうか』

 ほたると契約しているランサーのサーヴァント、ガレスがそんなことを言う。
 言われてみれば、今日に限っても黒猫に前を横切られたのは先ほどが初めてではないし、ここ数日を含めると相当だ。
 なんだか冬木という街に嫌われているような気がして、ほたるはまた陰鬱な気分になる。

「……駄目、せっかく楓さんが付き合ってくれるんだから、もっと前向きにならないと……」

 スマートフォンを確認。これでも楓との約束には、ぎりぎり間に合うはずだ。
 また転ばないように気をつけながら間違えた道をひとつ戻って、今度こそ正しい道を歩んでいく。

『そうですよ、ホタル。明日はせっかくの大舞台。アイドルとして修練を積み、一回り大きく成長するのです』

 毎日泣いてばかりいたほたるに、アイドル活動に専念してみてはどうかと提案したのはガレスだ。
 そうすれば、元の場所に戻った時により輝くことが出来るはずだと。

 ガレスにしてみれば、少しでも主の不安を紛らわすことが出来ればという配慮もあるのだろう。
 怯え続けて毎日を過ごすよりは遥かに気が晴れるのは確かで、ほたるは極力アイドルのことだけを考えようと努力してみた。

 だが、思うようにいかない。
 どうしても考えてしまう――聖杯戦争のことを。

 ガレスは戦争に関わることは全て自分に任せるようにと言ってくれているが、それだけで肩の荷が降りるわけもない。
 心の迷いはどうしても表面に出て、歌もダンスも精彩を欠いてばかり。
 このままでは袋小路に追い詰められることになってしまいそうで、思い切って相談の約束を取り付けてみたのだ。

 ちなみに相手に高垣楓を選んだのは、彼女が文句なしにトップクラスのアイドルなのも大きいが、何故か電話帳に連絡先が載っていたからだ。
 ほたるの「元の場所」ではそれほど親交があったわけではないはずだけれど、この冬木では「そういうこと」になっているのだろう。


「あら、ほたるちゃん。おはようございます。今日も雪が……降ってま、すのう。ふふっ」

 思案を巡らせている間に目的地の喫茶店に着いたようだ。
 楓はこんなに朝早く、華やかとは言い難いところにいてもなお、ハッとするようなオーラを放っていた。
 それでいて開口一番の挨拶は随分砕けたもので、こういうギャップがまた彼女の魅力の一つなのだろう。
 心に垂れ込めた暗雲が少しだけ晴れるのを感じながら、ほたるもおはようございますと努めて笑顔で挨拶した。
 ところで隣の女の子はカフェのウェイトレスさんだろうか。そう訪ねようとしたところで、

「おはようございます、ほたるちゃん! はじめましてじゃないはずですが、念のため!
 喫茶店のメイドさんは世を忍ぶ仮の姿! その実体は~歌って踊れる声優アイドル、安部菜々ですっ! キャハッ☆」

 決めゼリフ付きで挨拶されてしまい、気圧されてしまったほたるは曖昧な微笑みで応えた。
 言われてみると、見かけたことがあるようなないような。
 アイドル……同業者なのだろうか。
 少なくとも、クリスマスライブで同じステージに上がるわけではないはずだけれど。

「お、おはようございます……あの、どこかでお会いしたことが……?」
「えっ……」
「……?」
「あ……えーと、ほら、ほたるちゃんがゲストだったこの間の収録、ナナもひな壇の三段目の一番端に……」
「――ほらほら、二人とも。まずは一息入れましょう? 菜々ちゃん、私は熱燗、人肌でお願いね」
「あ、っ…………もー、楓さん! まだ朝ですしうちは居酒屋じゃありませんよう!」

 一瞬妙な空気になったものの、二人のやりとりに緊張していた表情がほぐれたところで、勧められるままに席に座る。
 と、これまで沈黙を保っていたガレスが、ささやき声の念話で語りかけてきた。

『では、しばらく私は席を外しましょう。きっとアイドル同士でしか出来ない話もあるでしょうしね。
 いざという時は迷わず令呪で呼んでください。我が槍は、いつでもホタルの傍らにあることを忘れないで』
『あの……どこか行っちゃうんですか……?』
『ふふっ、ただの散歩です。そうですね、さっきの猫でも追いかけに行きましょうか』

 霊体化していたガレスの気配が遠ざかった。
 まさか本当に猫を追っていったわけではないだろう。多分。

 菜々に尋ねられて(メイドさんは仮の姿ではなかったようだ)、甘めのカフェオレを注文する。
 既に楓は普通に紅茶を注文し、テーブルの向こう側で微笑みながらほたるの顔を見つめていた。

(……うん、勇気を出さなきゃ……聞いてもらいたいこと、たくさんあるんだから……)

 今さら怖気づいてはいられない。
 震える心の、震えるその理由を聞いてもらうために、ほたるはこうして会いに来たのだ。
 明日のステージのこと。アイドルのこと。それだけでなく、もっと深刻な、それでいて取りとめのないこと。
 自分の立っている場所が分からなくて、毎日が、怖くて怖くてたまらないことを。
 上手く伝えられるだろうか。ほたるはぽつぽつと、自分の言葉を口にし始めた。



                    ▼  ▼  ▼



 結論から言うと、ガレスは本当に猫を追っていた。

「この……思ったよりも素早いですね……!」

 路地裏を走り抜け、石塀の上に飛び乗って、屋根伝いに家から家へ。
 既に霊体化は解いている。
 霊的な感知能力だけでなく五感の全てをもって、先をひた走る黒猫を見失わないように注力するためだ。

 日中に街なかで姿を晒すことの危険性は承知しているが、ガレスにはライネット夫人に賜った真名秘匿の指輪がある。
 現に今もガレスの服装は刻一刻と変化を続けていた。
 仮に遠くから目視した者がいたとして、その特徴を細部まで捉えることは困難を極めるだろう。

「あっ、また立った!」

 信じがたいものを見て、ガレスは疾駆しながら憤慨した。
 サーヴァントの脚力を試すように走り続ける黒猫が、方向転換の時に二本足で立ち上がったのだ。
 それも今が初めてではない。器用に四本足と二本足を使い分け、ちょこまかと逃げ回っている。

 見ようによっては愛嬌があるし、平時であればガレスも可愛らしいと思ったかもしれない。
 だが、今は明らかにそういう状況ではない。
 あの猫は、完全にガレスを誘っている。
 ついでにいうと、間違いなくこちらをからかってもいる。なんて猫だ。

(それにしても、聖杯戦争はじまって初めての冒険が、よりにもよって猫との追いかけっことは)

 ガレスは口元に笑みを浮かべた。
 それは自嘲であると同時に、ちょっとした期待が含まれた微笑みだった。
 思い返せば生前、ガレスにとって待ち焦がれた王都キャメロットでの生活は、陽の当たらない厨房から始まったのだ。
 それを思えば、どんなにぱっとない始まりであっても、そこから始まる冒険までもつまらないものだとは限らない。
 あの猫を追った先にあるものが想像通りなら――なおさらだ。


 それに、とガレスは思う。今は、冒険譚が必要だ、と。


 円卓の誰よりも清き騎士であるガレス。
 一方で彼女には冒険を愛し、栄光を夢に見、未知へと心を躍らせる純粋さがある。
 しかし今、彼女が冒険譚を求めるのは、己の探究心だけによるものではない。

 ガレスは己の主、白菊ほたるのことを考える。
 毎夜のように彼女の頬に残っていた、涙の痕を思い出す。

 彼女には支えが必要だ。
 支えがなければ、ほたるの優しすぎる心は過酷な現実に押し潰されてしまう。
 ほたるに対してアイドルとしての生活に励み、知人を頼るよう助言したのはガレスだ。
 それは同時に、ガレス自身が真の意味でほたるの心の支えになれていないことの自覚の表れでもある。

 だからこそ、必要なのだ。
 口先だけの誓いではない、ガレスがほたるを護る槍であることの証明が。
 自分のことを信じてほしい。自分のことを頼ってほしい。
 不安を、恐怖を、自分に対して打ち明けてほしい。
 そのためには、ガレス自身が打ち克つ必要がある。
 打ち克つ、何に?
 言うまでもない。
 ほたるをおびやかす、この世界の全てにだ。

「いつまで追いかけっこを続けるつもりです! 私を試すつもりならば、姿を現しなさい!」

 打ちっぱなしのコンクリートの屋上で、黒猫に向かって声を張る。
 いや、正確には猫の向こうにいるはずの者へと。
 言葉を聞き届けたか、黒猫が立ち止まった。
 もはや隠そうともせず、二本足で立ち上がってこちらを見定めている。
 ガレスは一刻だけ、足を止めた。
 止めてから、意を決して一歩、近づいた。

 その一歩で、世界がぐるりと一変した。



                    ▼  ▼  ▼




 ゲール語で『シー(Sidhe)』とは妖精を指すが、語源を辿れば本来は『丘に棲むもの』を意味していた。

 これは、妖精達が遥かに臨む小高い丘のような、人の世界にごく近く、それでいて少しだけ遠くの場所に暮らしていたことを示唆している。

 ゆえにその境界を越えようとする者は気をつけなければならない。

 妖精の国は遥か遠く、それでいて容易く踏み込むことができるほど近くにあるのだから。




                    ▼  ▼  ▼





 ――踏み出せば、匂い立つ緑の世界。

 立ち並ぶ曲がりくねったブナの巨木。
 地には絨毯のように敷き詰められたカタバミに混じって、ブルーベルの青い花が揺れる。
 足元の感触すら、コンクリートの硬さから積もる落ち葉の柔らかさへと変化している。
 冬木の住宅街の一角にて、ガレスは『森』の只中へと迷いこんでいた。

 それも、尋常なるものではない。
 匂いが違う。
 空気が違う。
 気配が違う。 
 ここは、人ならざるものの森である。

(サーヴァントの攻撃?)

 僅かに逡巡……そして、否定。

(いえ、違う。これは『惑わし』の秘蹟……私は『似たもの』を知っている)

 ガレス自身がかつてキャメロットにて目の当たりにした夢幻の魔術。
 円卓に名を連ねる者ならば誰もが知る『花の魔術師』。
 彼の使う魔術と、この森は同じではない。この森は彼のものではない。
 だが――性質が近い。
 魔術の方向性だけではない。
 この森が含む魔力はあの時代のブリテンのものに近いと、ガレスは直感した。

「――縁ある土地、近しき時代の魔術師とお見受けします!」

 指輪による変装を解き、燦然と輝ける銀の鎧を纏い、ガレスは問うた。
 木漏れ日を浴びて、彼女の金髪が燐光を放つがごとく輝いた。

「街中に放った妖精猫にこうして案内をさせ、森のまやかしで私を試すのはいかなる理由あってのことですか!」

 威風堂々。
 敵地においてなお勇ましく立つ姿は、まさしく誉れ高き円卓の騎士の一人のものである。

「聖杯戦争の理ゆえに名は明かせませんが、この槍に懸けて逃げも隠れもしないと誓いましょう。さあ、お答えを!」

 魔術に対して策を弄するなどという考えは頭から捨てている。
 常に正々堂々、誇りある行いを為せ。それが英霊ガレスの誓いであるがゆえに。
 敵の術中にあるからといってこの信念を曲げるぐらいならば、そもそも彼女はこの地に召喚されてはいない。
 ガレスの正道は、今もこの迷いなき眼差しと共にあった。


「――――佳い目をしている」


 しばらくの間の後、返ってきた声は若く落ち着いた男のものだった。

「この“惑わしの術(グラマー)”を見抜いた上で、いささかも動揺することないその眼差し。
 喜ぶべき立場ではありませんが、しかし喜ばしい。最初に出会えた英霊があなたであることに感謝すべきでしょうね、ランサー」

 声の主は、はじめからそこにいたかのように、一面の緑に溶け込んで座っていた。
 身に纏う緑の衣が、まるで森の一部であるかのような錯覚をガレスに与える。
 木々の間を吹き抜ける穏やかな風が、彼の長髪をゆるやかになびかせる。
 緑衣のサーヴァントは、慈しみの籠もった眼差しでもって、ガレスに相対していた。

「貴方が、この森の主――この結界を張った、魔術師ですね」
「さて、どうでしょうね。確かに私はキャスターですが、私が自ら魔術師を名乗ってしまえば、都合が悪く感じる者がこの世には大勢いる。
 加えて言えば、私は少しだけ力を借りているだけです……クラス名のキャスターと呼ぶぶんには、止めはしませんが」

 長髪のサーヴァント、キャスターはその穏やかな態度を崩そうとしない。

「そして先ほどの問いに答えましょう。ランサー、私は我が『妖精猫(ケットシー)』に気付いた貴方と話がしたかった。
 もっとも、元々そのために放った妖精というわけではありませんが――ランサー、『乾いた獣の使い魔』はご存知ですか?」
「……いえ。恥ずかしながら、使い魔を見かけたのは貴方の猫が初めてです」
「ならば用心なさい。『乾いた者ども』は私が動くよりも先に、この街を探っていた。うまく尻尾を掴みたいものですが、さて」

 キャスターがかぶりを振るのを見、ガレスはこの話は本題ではないようだと判断した。

「忠告には感謝しましょう、キャスター。しかし、私と話をしたかったというその理由をまだ聞いてはいません」
「そちらの答えは単純です。ランサー、あなたは『討伐令』をどう見ます?」
「どう見ます、とは?」
「乗るか降りるか、と言い換えてもいい。私はあなたとあなたのマスターの意向を確かめたい。ただそれだけです」
「…………」

 ガレスは口をつぐみ、答えあぐねた。

 討伐令とは言うまでもなく、この街で殺戮を繰り返しているという二組の主従に対してのもの。 
 サーヴァントは共にバーサーカー。既に多くの者が殺され、センタービルの爆破事件もこの片割れの仕業と聞く。
 ガレス個人の考えだけで答えるならば、許せるはずがない。
 騎士道どころか人の道にもとる所業、一刻も早く成敗すべき――と、ガレスはそう考える。

 だが、しかし。

「……私達は……」

 ガレスは戦うべきだと考える。しかし、ほたるは。
 ほたるはそうは考えない――いや、考えようがない。

 主に余計な心労をかけまいと、討伐令はほたるの目に届かぬようにガレスが懐にしまい込んでしまっている。
 ゆえに、ほたるは何も知らない。
 自分もまた、市内で頻発するおぞましき事件の当事者であることを。

 知らないほうがいい。知らないままであるべきだ。
 そう思いやった上での行いが、果たして本当に正しいのかは――まだ、胸を張ってはいえないが。

「……葛藤があると見えますね。事情に踏み込むような真似をしたことは、謝罪しましょう」

 先に詫びの言葉を発したのはキャスターだった。
 葛藤があるのは事実であるだけに、ガレスは口を挟めない。

「ならば先に私の考えを明らかにしましょう。私も彼らの非道は見過ごせない。無辜の民の犠牲を強いるなど、断じて許せない。
 しかし――我がクラスはキャスター。バーサーカー二騎を正面から仕留める力は持ち得ず――また、主を危険に晒したくもない」

 都合のいいことを言っているという自嘲が、キャスターの顔に陰となって落ちた。

「ゆえに、我らの代わりに邪悪に立ち向かう勇気ある者を探していたのです。虫のいい願いだと笑っても構わない。
 だが、災いは除かれねばなりません。報酬の令呪など不要。心に正義を持つ者になら、私は迷いなく手を貸しましょう」
「…………」
「そして、あなたと巡り合った。ゆえに、問わねばなりますまい」

 ガレスの瞳を、キャスターの視線が正面から射抜いた。
 それは意志の宿る視線だった。
 生涯を苦難の道に捧げ、それを信念のみでもって乗り越えた者だけが持つ、意志の力の眼差しだった。

「麗しき騎士、清廉なるランサーよ。あなたは、何のために槍を執るのか。
 その鎧に相応しい、太陽のように輝く心をもってあなたは槍を振るうのか、と」

 頭のなかで、木霊のようにその問いを反響させてから。
 ガレスは、深く森の空気を吸い込んだ。
 より一層強く、かつてのブリテンのものと近しい、懐かしい何かを感じた。

 この空気を全身に行き渡らせていると、あの頃の記憶が甦るようだ。
 誇りを胸に馬を駆り、穢れなき風のように生き抜いた我が生涯の記憶が。
 後悔はない。迷いもない。
 いかなる最期を迎えようとも、良い一生であったと胸を張って誇れる。
 ならば、問いへの答えもまた、誇りと共にあるはずだ。

「私はこの二度目の命を、我がマスターのために使い切ると決めた。
 そのために必要となるのならば、迷わず槍を振るいましょう」

 その言葉は揺るぎなく、白き輝きをもって森に響いた。

「ゆえに我が槍は――“己が栄光の為でなく”」

 キャスターは頷いた。
 そして、この答えを聞けただけで満足だというように微笑んだ。

「――結構。何かお困りのことがあれば、先ほどのように猫を探しなさい。
 あなたがその輝ける誓いを胸に抱く限り、私は可能な限りあなたの力となりましょう」
「それは貴方がたの陣営が、我々と手を組むということですか?」
「さて。これは取引ではないし、私は損得ではなく正邪をもってあなたと向き合っただけのこと。
 力を借りるつもりはないと言うならそれもよし。無論、戦いを挑んでくるならば受けて立ちますよ」

 ガレスは金髪を揺らして小首をかしげた。

「……おかしなサーヴァントもいたものですね」
「全くです」

 そういって二人は同時に、小さな笑い声をあげた。

「それと、キャスター。私を太陽に喩えるのはやめてくださいね。その呼び名にはもっと相応しい人がいます」
「おや、失礼。ならば次からは気をつけましょう、清き騎士よ」
「ええ。次があることを祈ります、緑の賢者」

 ふと気づけば、森が、次第に輪郭を無くしていく。
 話したいことを語り終え、キャスターが術を解いたのだろう。
 そして森の結界とともにキャスターの姿もまたぼんやりと揺らぎ始めた。

「それでは、しばしの別れを。直接語り合える時を楽しみにしています」

 そう言い残すと、キャスターは――いや、キャスターの幻影は、数百の蝶に分かれて飛び去った。
 時を置かずして、森の結界も完全に解除され、世界は元の姿を取り戻した。
 妖精猫もいつの間にか姿を消し、コンクリートの屋上にガレスはただ一人立っていた。

「……本当に不思議なサーヴァントでしたね」

 果たしてほたるの心を癒せる土産話になるかどうかを考えながら、ガレスは屋上から跳び去った。
 主の元へ向かいながら、自分が太陽に擬えられたのを思い出し、少しだけ誇らしげに笑った。 



                    ▼  ▼  ▼



 これから戻りますとの報告をガレスから念話で受け取った頃には、ほたるは自分の持ち得る勇気を使い果たす寸前だった。

 最初はライブについての相談をしていた、と思う。
 一生懸命練習してきたこと、だけど本当に結果がついてくるのか不安で仕方ないこと。
 アイドルならば誰もが抱える、だけどアイドルにしか真に理解してもらえないような悩みを、ほたるは楓へと打ち明けていた。
 隣の菜々が神妙な顔をして俯いていたが、その理由を考えられるような余裕は、その時のほたるにはなかった。

 だけど、途中から話の風向きが変わってきた。
 というよりは、ほたるにとってライブの不安はあくまで表向きで、話しているうちに奥底から本当の不安が浮かび上がってきた。
 それは不幸という言葉でくくれるほどに簡単なものではなく。
 そして当事者ではない楓や菜々には伝えられるはずもなく。
 ほたるが一人で「抱え込まなければならない」類の不安だった。

 ――それを直接触れないように言葉にしたから、ひどく取り留めのない話になってしまったように思える。
 聖杯戦争などという殺し合いに巻き込まれてしまいました、助けてください……なんて、とても言えるはずがなかったから。

 それでも話して、話して、話して……しまいには涙を浮かべながら、ほたるは話した。
 恐ろしさの原因は最近冬木で起こっている事件だとかに置き換えたけれど、心の痛みはそのまま伝えてしまった。
 楓はただ黙って耳を傾けていてくれた。
 そして、ほたるの言葉が途切れたところで、辛かったのね、と声をかけてくれた。

「……ねえ、ほたるちゃん。今、この街にはほたるちゃんみたいに、怖い思いをしている人が大勢いるわね」

 その言葉に少しだけ鼓動が早くなったが、楓は聖杯戦争の話をしているのではないはずだ。
 この冬木では今も恐ろしい事件がたくさん起こっていて、そういう人達のことを言っているのだろう。

「そんな人達のために、私達アイドルは何が出来ると思う?」
「それは……」

 言うべき答えと自分の心があまりにかけ離れていて、一瞬ほたるは言い淀んでしまう。

「私達の歌で……不安な人達の心に、勇気とか温かさを、届けて……。
 ……でも、私、今の私には、そんなこと……。誰かにあげられる勇気なんて、ありません……」

 最後の方は、まるで絞り出したような声だった。
 少なくとも、冬木に来る前の自分なら、もっと自信を持って答えられたはずだと思う。
 自分はアイドルだと、トップアイドルを目指しているのだと、胸を張って。

 でも、どのみち、今のほたるは八方塞がりなのだ。
 ガレスが何と言って励ましてくれようとも、戦うことの出来ない自分が、もう一度ステージで輝けるイメージが浮かばない。
 まるで「元の世界」でプロデューサーに出会う前の、真っ暗闇の底なし沼に沈み込んでいくような感覚。

 藻掻いても藻掻いても、明日が見えない。
 願っても願っても、未来が見えない。
 こんな自分に、誰かの心を救うなんて大それたことができるわけがないのではないか。

 どうしても、そう思ってしまって――。
 ――だけど、高垣楓は、そんなほたるに手を差し伸べた。

「……それじゃ、こういうのはどうかしら。私が、私のステージでほたるちゃんに勇気をあげる。
 ほたるちゃんは、それをファンのみんなに分けてあげて。ほたるちゃんのステージを楽しみにしている、みんなに」

 思わず顔を上げると、楓は変わらぬ微笑みを、真っ直ぐにほたるへと向けていた。
 何かを決意している人の目だ。
 そして今回のステージは必ず成功すると、いや必ず成功させると、確信している人にしか出来ない表情をしている。

 どうしてそんなに強く在れるのだろうか。
 聖杯戦争のことを何も知らないからだろうとまず思い、それからそんなことを考えてしまった自分を恥ずかしく思った。
 楓は他の誰よりも、ファンの皆のことを大事に思っているのだろう。
 ほたるには、そんなことを考えている余裕がなかった。
 本当は、アイドルならば真っ先に考えないといけないことだったのに。

「……ありがとうございます、楓さん……ライブ、頑張りますね」

 人を殺すのも、殺されるのも嫌。
 聖杯戦争への覚悟なんて、決められるはずもない。
 でも、ほんの少しだけ前向きになれたら……何かが、変わるだろうか。
 ライブを乗り越えて、もしも「もっと輝きたい」って思えたら、この真っ暗闇から抜け出すことも出来るだろうか?
 分からない。何も分からないけれど、せめて。
 今できることだけはやってみよう。ただ、それだけを。

「――そうですよ、ほたるちゃん……ナナも、応援しちゃいます! ハートウェーブ注入、ですよ!」

 声の方に視線を向けると、隣の菜々がぐっと両手を握りしめていた。
 その手が、それに声もどこか震えているような気がしたのは、ほたるの気のせいだったろうか。

「菜々さんも、ありがとうございます」
「いえいえっ! ナナ、ライブの成功をウサミン星からお祈りしてますよ!」

 いや、やっぱり気のせいだったのかもしれない。
 真っ直ぐに応援してくれる彼女のその心には決して嘘はなくて、それがほたるには無性に嬉しい。
 菜々と楓に繰り返しお礼を言いながら、ガレスが戻ってきたら彼女にもありがとうって言いたいなと、ほたるは思った。



                    ▼  ▼  ▼



 ――キャスター、聖パトリキウスは思い返す。

 マスターである高垣楓が討伐令の封書を読んだ、今朝のことだ。
 パトリキウスもその内容を確認し、大いに義憤に駆られ、同時にやり切れなさを覚えていた。
 サーヴァントとしてのパトリキウスは基本的に防性のサーヴァントである。
 自分の陣地に相手を誘い込んで初めて互角以上に戦える、キャスターらしいキャスターだ。
 ゆえに、何の計画性もなく被害を撒き散らすバーサーカーの相手をするのは困難を極める。
 悔しいが、この件に関してパトリキウスに出来ることはないだろう。
 他に正義の心を持ったサーヴァントが召喚されていることを祈り、楓にもそう告げようと口を開きかけた。

「……ライブ。大丈夫でしょうか。中止になったりはしないでしょうか」

 そんな矢先に楓の口から飛び出した言葉は、パトリキウスを一瞬呆けさせるに十分だった。
 討伐令を見てクリスマスライブの開催を心配しているマスター。
 もともと掴みどころのない女性だとは思っていたが、流石に危機感が無さすぎるのではないか。
 死者も大勢出ている。何より、楓自身がターゲットにならない保証はどこにもない。
 いや、それどころか、マスターであることが割れれば真っ先に狙われるだろう。
 ライブどころではない。
 パトリキウスはそう説き、しかし、楓の視線に続く言葉を留められた。

「キャスターさん。大勢の人が亡くなったと言いましたね。そしてもっと沢山の人が、今も不安を感じていると」

 その通りだ。だからこその討伐令。
 もはや魔術儀式としての隠蔽が困難になったがゆえの緊急措置。
 本来はルーラー自身が直接事に当たるべきではないかという忸怩たる思いはあるが、しかし現実として対処は必要だ。
 彼らが野放しになっていること自体が、この街にとっての恐怖なのだ。

「でしたら、これはもう、私の戦いです」

 パトリキウスには楓の言う意味が分からず、重ねて問うた。
 楓は何でもない事のように微笑み、さも当たり前のことを言うように、唇を開いた。

「街中の人々が不安がっているのなら、そんな人々に勇気と希望を与えるのは、アイドルの仕事です。
 そして、高垣楓はアイドルですから。この街を脅かすものがいるのなら、私は私にしか出来ないやり方で戦わないと」

 パトリキウスは呆然とした。
 しかしそれは先ほどのものとは全く理由を異にした一瞬の放心だった。
 そして我を取り戻した彼が真っ先に感じたのは、己の認識への羞恥だった。 

 つまるところ、パトリキウスは今この瞬間まで、マスターである楓のことを内心で軽んじていた。
 軽蔑していたのではない。ひとりの女性として敬意を払っていた。
 だが、マスター足りうる存在ではなく、庇護しなければならない無力な女性だと、どこかで考えていた。

 それが今、覆された。
 楓はただの無力な女性ではなかった。
 彼女にはアイドルとしての矜持があり、彼女にとっての戦場はステージの上だった、というだけのこと。

 高垣楓は今、命を懸ける覚悟を持ってここにいる。

「――マスター。貴女もまた、ひとりの“伝道者”なのですね」

 どうして自分が楓に召喚されたのか、ようやくパトリキウスは得心した。
 聖パトリキウスは伝道者の英霊だ。
 自分から青春を奪い、奴隷として虐げたエリンの民に、しかし愛と慈しみを伝える為に文字通り生涯を捧げた。
 なまじサーヴァントなどという枠に囚われたばかりに、その生涯と彼女との相似に気付けずにいたとは。
 生前の自分の戦いは、人々に慈愛を伝えるためのものであり、武器を携えてのものではなかったではないか。

 ゆえに、誓おう。
 キャスターのサーヴァント。真名はパトリキウス。不屈の伝道をもって、聖人に列せられる者。
 その持てる力の全てを懸けて、楓の戦いの場は自分が護ると。
 恐らくこの冬木最大のイベントを、数多の主従が『利用』しようとするだろう。
 だが、そうはさせるものか。
 必ずライブは成功させる――それがアイドル高垣楓の戦いであり、パトリキウスが命を賭す理由である。
 聖人たる誇りにかけて、無辜なる人々の心を救うための行いを、誰にも踏みにじらせはしない。


 そして今。
 楓からほたるの話を聞いた緑の賢者は、その思いを一層強くしながら、一足先にライブ会場へと向かった。
 あの騎士のサーヴァントがバーサーカー達を討ってくれるのが一番だが、そう楽観視も出来ないだろう。
 それに――

(あの森の結界には、ランサーと私の幻影以外に、『何か』がいるような違和感があった。
 使い魔か、アサシンか。盗み聞きの可能性がある以上あまり思い切ったことが言えなかったのが心残りですが、さて……)

 もっとも、相手が誰であれ、今の自分にできることはただ護ることだけだ。
 守護聖人パトリキウス。
 英霊となってはアイルランドの地を護り、今はただひとりの女性の願いを護る。



                    ▼  ▼  ▼



 ――ほたると楓が別れて立ち去り、マスターが店の奥に引っ込んでしまったので、自分たち以外に誰もいなくなった喫茶店で。


「バレないように後を追ったつもりが、気付いた時には森の中。もう面食らったのなんのって」

 黒のドレスに着替え直したランサー、中村長兵衛は、この数刻の偵察の結果をマスターである安部菜々に報告していた。
 テーブルの上に腰掛けるその姿はお世辞にも上品なものではなかったが、不思議と様になるのが彼女の魅力である。

 あの時、楓とほたるが喫茶店で合流したのとほぼ時を同じくして。
 喫茶店から僅かに離れた時点でサーヴァントの気配――パトリキウスのケットシーを追い実体化したガレス――に気付いた長兵衛は、
 可能な限り気配を殺しながらそのサーヴァントの後を追跡していた。

 長兵衛はアサシンとしての適性を持つこともあり、こと相手に気取られないことに関してはガレスの遥か上を行く。
 気配遮断スキルこそ持っていないが、風景の一部として溶け込むスキルはある意味では気配を完全に殺すよりも強力だ。
 結果、ガレスが猫に気を取られていたこともあり、共に結界に進入することに成功したのである。

「いい男に会えればとは思ってたが、あの男か女か分かんない騎士サマも、もう一人の澄まし顔の優男も好みじゃなくてねえ。
 サクッと突き殺してやろうかとも考えたけど、あいにくあたしは不意討ち上等。一人殺ったところでもう一人と正面からってのは勘弁でね」

 結果、長兵衛は攻撃態勢を取ることなく(それが幸いして二人に完全に気取られることはなかった)、情報だけを回収して戻ってきた。
 とはいえ得られた情報といえば、既に街中に使い魔を放っているキャスターが少なくとも二騎はいるということ。
 それに加えて、裁定者からの討伐令は確かに他の主従の方針に影響を与え、動かしつつあるということぐらいだ。
 確かに討伐令の報酬は魅力的だ。
 特に基礎能力に不安の残る長兵衛にとっては、瞬間的なブーストや奇襲に活用できる令呪は喉から手が出るほど欲しい。

「でも、あいつらと組むってのは無しだね。お二人ともご立派な信念をお持ちのようだが、あたしにとってはお上品に過ぎる。
 誇りだの信念だので戦うのは否定しないし、やりたいやつが好きにやりゃあいい。
 そういう連中のおかげで、あたしらみたいなヤツにも機会ってのが巡ってくるんだ。
 それでも流石に、自分が肩を並べるところを想像するとゾッとするねえ。おサムライの流儀とはなるだけ無縁でいたいもんだ」

 気だるげな口調でそこまで話し終え、長兵衛はちらりと視線を下に落とした。
 菜々は長兵衛が腰掛けているテーブルに突っ伏し、ぴくりとも動かない。

「……まあ、あたしのほうの話はこれで終わりかな。で、さ」

 わざとらしく大袈裟な溜息をついてみせ、長兵衛は力なく垂れている菜々のウサミミを指先でつついた。

「あんたのほうはいったい何があったのさ。……というか、いい加減泣き止んだ?」

 顔を上げた菜々は、本物のウサギみたいに真っ赤な目をしていた。
 目元をぐしぐしと拭ってから小さく鼻をすするのを見て、長兵衛はやれやれと頭を振った。
 何があったのかは分からなくても、菜々が何を感じたのかは嫌でも分かってしまう。

「アイドルの知り合いと会ってたんだろ。そのぶんだと……あんまり楽しい話じゃなかったみたいだね」
「……楽しい話でしたよ、とっても」

 無理に笑おうとする姿が、痛々しい。
 その知り合いとやらと一緒の時も、無理をして笑っていたのだろうか。
 菜々はそのぎこちない笑顔のまま、ぽつぽつと話し始めた。

「楓さんも、ほたるちゃんも。一生懸命でした」
「そうかい」

「明日のライブ、絶対に成功させようって。意気込みがナナにも伝わってくるくらい」
「なるほどね」

「凄いんですよ、二人とも。ステージに立ってなくても、輝きをこう、内側に秘めてるっていうか」
「大したもんだ」

「ほんとです。だからナナにも分かります。明日のライブは、きっと最高の舞台になるって」
「だろうね」

「だって、楓さんも、ほたるちゃんも、アイドルなんですから。キラキラ輝く、最高の」
「…………」

「きっとたくさんの人が見に来て、二人や他のみんなから笑顔をもらうんです」
「マスター」

「夢のような時間でしょうね。まさにシンデレラの舞踏会。アイドルだったら、誰もが夢見る……」
「あんたさ」

「アイドルだったら……誰もが……誰も……っ」

 何でもない風を装って始まった言葉は、だけど、次第にか細い声に変わっていって。
 そして――最後には、ほとんど無理やり絞り出したように、切々として。
 菜々は、どうしようもないその気持ちを、ただ吐露することしか出来ずに。

「どうして…………どうしてナナも、そっち側にいられなかったんですかね……?
 何がいけなくて、ナナは『頑張って』って、『応援してる』って、そう言う側になっちゃったんですかね?
 みんながキラキラしてるのは嬉しくて、応援してるのも本当で、だけど……本当は、ナナも、ナナだって……っ!」

 それ以上言えずに菜々はまたテーブルに突っ伏し、長兵衛はその頭を手のひらでぽんぽんと叩いた。
 叩くたびにウサギの耳が揺れ、長兵衛は菜々が落ち着くまでそうしていた。

 その間、彼女は何の言葉も掛けなかった。
 励ましも、気休めも、何の足しにもならないことは、他ならぬ彼女自身が何よりも知っていた。
 菜々が抱える理不尽の正体を誰よりも分かっていたから、長兵衛はただ黙って、そばにいた。

「……長さん」

 不意に菜々が口を開いた。

「聖杯の、ことなんですけど」
「……やる気になった?」
「いえ……ナナ、夢を叶えるために聖杯を使うのは、なんだか違うなって思ってて。
 そんなことをしたら、ナナのこれまでの努力も、時間も、全部裏切っちゃう気がして」
「あんたね……」

 この期に及んで何を、なんて言うわけにもいかず、そのまま長兵衛は次の言葉を待つ。

「でも、でもですよ? もしも、聖杯の奇跡が、ほんのちょっとだけ、きっかけをくれたら……。
 ほんのちょっとのチャンスでいいんです。それで、もし、ナナが、ここから一歩を踏み出せたら……」

 踏ん切りが付かないのか少しだけ躊躇ってから、菜々は続けた。

「そしたら……ナナも……幸せになれますかねぇ……?」

 それだけを言って、そのまま顔を伏せたままの菜々にも伝わるように、長兵衛はあえて笑ってみせた。

「……あんたの言ってたその、シンデレラってのも、カボチャの馬車は魔法で出してもらったんだろ。
 幸せは自分で掴むとしても――それくらいの奇跡は、願ってもバチは当たらないんじゃないかね」

 それを聞いて、菜々はようやくおずおずと顔を起こした。
 彼女が真っ赤な目のまま決まり悪そうな顔をしているのを見て、長兵衛は重ねて笑い返した。

「ははっ。マスターの顔、今ひどいことになってるよ。アイドルの自覚あんならさ、すぐにメイク直してきな」
「は、はいっ」

 誤魔化し半分だろうか、わざとらしく跳ねるように立ち上がった菜々がロッカールームに駆け込んでいく。
 それを見届けてから、長兵衛は勢いをつけてテーブルから飛び降り、大きく伸びをした。

 これで菜々の心が聖杯戦争へと向けて定まった……というわけではないだろう。
 戦いへの覚悟とは、そんなに生易しいものではない。
 こんな僅かな時間で無理やり固めたような意志ならば、むしろ無い方がマシなくらいだ。

 それでも、彼女は今、自分の願いを自覚した。
 ほんのちっぽけな、つまらない、吹けば飛ぶような願いを。

「……少しは、忙しくなりそうかねぇ」

 落ち武者狩りの中村長兵衛。
 藪の中こそ我が王道。
 森で見たあの騎士のような誇りなどなく、あの賢者のような慈愛もない。
 だからこそ、長兵衛は思うのだ。
 そんな英霊だからこそ、つまらない願いのために命を賭すも悪くない、と。






                    ▼  ▼  ▼





 今一度、ガラスの靴を履いて。彼女達、それぞれにとっての聖杯戦争が、ここから始まる。





                    ▼  ▼  ▼




【深山町 商店街/1日目 早朝】



【高垣 楓@アイドルマスターシンデレラガールズ】
[状態]健康
[令呪]残り3画
[装備]なし
[道具]財布や携帯電話などの日用品
[所持金]生活に不自由の無い程度
[思考・状況]
基本行動方針:アイドルとして、ライブを通じて人々を勇気づける。
1.必ずクリスマスライブを成功させる。
2.聖杯戦争についてはキャスター(パトリキウス)の判断を尊重する。 
3.他のアイドルに対しても気を配る。
[備考]
※442プロ所属のアイドルとは相互に面識があります。
 また、菜々ともアイドルとしての親交があります。


【キャスター(パトリキウス)@史実(5世紀アイルランド)】
[状態]健康、魔力潤沢
[令呪]
[装備]シャムロックの杖
[道具]
[思考・状況]
基本行動方針:楓の信念を尊重する。
1.楓よりも先にライブ会場を訪れ、可能ならば陣地を作成する。
2.妖精を使い魔として情報を収集。
3.乾いた使い魔を使うサーヴァント(アヌビス)を警戒。
[備考]
※ケットシー(妖精猫)をはじめとする妖精を使い魔として街中に放っています。
 またガレスを認め、討伐令に参加する場合は力を貸すつもりでいます。


【白菊 ほたる@アイドルマスターシンデレラガールズ】
[状態]健康、精神的憔悴(小)
[令呪]残り3画
[装備]なし
[道具]財布や携帯電話などの日用品
[所持金]一般的な学生並
[思考・状況]
基本行動方針:殺したくないし、殺されたくない。
1. 今はライブのことを考えよう……。
2. 聖杯戦争については、まだ考えることすら怖い。
[備考]
※442プロ所属のアイドルとは相互に面識がありますが、菜々のことはよく知りません。
※ガレスがあえて伝えなかったため、討伐令の内容を知りません。


【ランサー(ガレス)@アーサー王伝説】
[状態]健康、魔力潤沢
[令呪]
[装備]無銘・馬上槍
[道具]ライネット婦人の指輪
[思考・状況]
基本行動方針:騎士の誇りにかけてほたるを護る。
1.ほたるの安全が最優先。
2.状況によっては、キャスター(パトリキウス)へと連絡を取ることも考える……?
[備考]
※ケットシーを通じてキャスター(パトリキウス)に連絡を取れるようになりました。
 またパトリキウスに対し、地理的・時代的に近い英霊であると直感しています。


【安部菜々@アイドルマスターシンデレラガールズ】
[状態]健康、精神的ダメージ
[令呪]残り3画
[装備]なし
[道具]メイド服、財布や携帯電話などの日用品
[所持金]あまり余裕はない
[思考・状況]
基本行動方針:迷い。
1. 奇跡を願っても、いいんですか……?
[備考]
※アイドルですが442プロ所属ではなく、当然クリスマスライブの出演者でもありません。
 冬木市内における知名度も、442プロのアイドルには遠く及びません。


【ランサー(中村長兵衛)@史実(16世紀日本)】
[状態]健康、魔力潤沢
[令呪]
[装備]無銘・竹槍
[道具] 黒のドレス(菜々の私物)
[思考・状況]
基本行動方針:どんな卑怯な手を使ってでも勝ち残る。
1. ひとまずは菜々が決意を固めるまで見守る。
[備考]
※ランサー(ガレス)とキャスター(パトリキウス)の会話を聞いています。

時系列順


投下順


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:WINter soldiers 高垣 楓 :[[]]
キャスター(パトリキウス)

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:WINter soldiers 白菊 ほたる :[[]]
ランサー(ガレス)

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:WINter soldiers 安部菜々 :硝子狩
ランサー(中村長兵衛)

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最終更新:2017年03月26日 12:52