『サンセットボーダーライン』


 午後四時三十分、手をつないでいる。
 公園の乾燥した空気が頬をさする。
 どこへ行くでもなく彼女を連れ出して、ただ歩いている。
 リップクリームあったかな。……そんな、どうでもいいことを考えながら。

 手袋を脱いでしまうとポケットの中でも手の甲が冷たい。
 少しだけさすろうとしたら、握り合った手を外された。

梓「あ……」

 でも間髪置かずに私の手の甲は暖かい掌に包まれる。
 手の汗が乾いた肌を溶かすように染み込んでいくのが、少し心地よい。

憂「ふふ。手、つめたいね」

 少し不思議そうに笑った憂のほほえみが、秋の陽差しにさらされる。
 逆光で目を細めた私の瞳にその笑顔が焼き付いてしまう。
 照れくさくなって、無理やり地面に視線を落とす。
 わざとらしく手を引いてしまう。

梓「……なんでもないったら」

憂「うん」

 分かったようにほほえむ憂がまぶしかった。
 抱きしめてみたくなる。キス、してみたくなる。
 続きを求めてみたくなる。夢を見る。悪夢。
 ……壊してしまいたくなる。

 今日も唇を触れ合わせるだけのキスを終えて帰るんだろうか。
 一昨日の夜の感触が脳裏をよぎる。灯りかけた熱をあわてて吹き消す。
 こんな気持ち、言えるわけない。
 好きすぎて、ひどいことをしたくなるなんて。

  ◆  ◆  ◆

 梓ちゃんは私から離れたがるように、そそくさと歩きます。
 でもつないだ手はぎゅっと握ったままだから離れそうにありません。
 こんな風にあの人はよく矛盾した態度を取ります。
 でもそこが愛おしいのです。

梓「……けほっ、こほっ」

憂「お茶のむ?」

梓「うん。……ありがと憂。向こう行こっか」

 梓ちゃんはそれとなく隅のベンチへ誘いました。
 一昨日の夜を思い出して、胸の奥が高鳴ってしまいます。
 聞こえないかな。……そんなわけないよね。

 カバンの中から暖めたお茶の水筒を取り出します。

憂「――っ!」

 思ったより熱かったので指を引っ込めてしまいました。
 梓ちゃんがすっと振り向きます。驚いたような顔。
 自然に伸びた手がそっと私の手に重なって、

梓「大丈夫?」

憂「平気だよ……ごめんね」

梓「ううん、飲んでいい?」

 なんでもないことのように私のお茶に手を伸ばしました。
 そうして水筒のカップに少し注ぎ、息を吹きかけ冷ましながら一口飲みます。
 梓ちゃんは嘘をつくのが下手で、猫舌で、とても優しい人です。
 だからこそ――時々あの人が引っ込める手に、あこがれてしまうのです。

梓「うん……あったまるなあ」

 この手が私の元まで伸びてほしいだなんて。
 ……とてもとても、言えないのですが。

 陽は傾き、友達に戻る時間が近づいてきました。
 枯れた木々の隙間に夕陽の絵の具が差し込まれます。
 私たちが本当の気持ちを溶かし合えるのは、二人きりの時間だけです。
 学校では、私たちは仲のいい友達です。
 時々、どうしようもなく求めてしまいたくなるのですが。

梓「……帰ろっか。冷えちゃうし」

憂「うん」

 未練がましい気持ちを断ち切ってくれるのは、いつも梓ちゃんの方でした。
 私の手をそっと引っ張ってベンチから立たせてくれます。
 ふと。
 その手が私をどこかへ引きずり込んでほしい、だなんて考えてしまいました。

梓「……どしたの」

憂「えっ、ううん。なんでもないよ!」

 白い目を向けられてしまいました。
 私の心の奥底まで見通されるようで、たまらない気持ちになってしまいます。
 みなさん、私のことを軽蔑しますか。そうですよね。


梓「……スーパー寄って帰るから、裏道行くね」

憂「えっ、うん」

 なぜか梓ちゃんはいつもと違う道で帰ろうとします。
 裏道の陸橋下の方を通って帰るみたいです。
 ベンチの向こう、テニスコートの裏側の道に入ると夕陽の光は途切れてしまいます。
 木々の隙間に紺色の空が見えました。
 星が消えてしまいそうなほど小さく瞬いています。

 陸橋下のトンネルに入ったとき。
 薄暗いトンネルの向こう側から、ようやく赤い光が少し射し込んできました。
 赤は、梓ちゃんの色です。
 けれどトンネル内の薄暗い電灯の光がそれをぼやかしてしまいます。

梓「……どうしたの?」

 思わず立ち止まってしまって、変な目を向けられてしまいます。
 なにか返さなきゃ。変な子だと思われちゃう。
 そうは思うのですが、気持ちがうまく言葉になってくれません。
 言葉をベンチに落としてきてしまった私は、たまらなくなって梓ちゃんの手を握りしめます。

 そのとき。

 梓ちゃんの腕が不意に伸びて、私はトンネルの壁に押さえつけられました。
 思わず抵抗しようとした腕を押さえられます。
 目を合わせた途端に彼女の大きな瞳に射抜かれてしまいました。
 有無をいわさずに唇を押しつけられ、柔らかい舌を押し込まれます。
 熱くて、くらくらしてしまいそうでした。
 背中の壁は私の体温を奪っていく一方だったのに。
 このまま壊されてしまいたい。だめにされてしまいたい。
 強い力で押さえつけられながら、音を立ててキスを交わしながら、そんなことをぼんやり思っていました。

 神様。私はだめな子になってしまいそうです。

  ◆  ◆  ◆

 重ねた唇を引き剥がした途端、目が覚めたような冷気に襲われた。
 もうとっくに陽が落ちている。濃紺の空にわずかな星が瞬く。
 電灯の冷たい光が目に沁みてしまう。

 憂を、襲ってしまった。

 押さえつけていた手をそっと離す。
 にじんだ汗が冷たい夜風に晒され、震えてしまう。
 なんてことをしてしまったんだろう。
 私はもう、憂から離れなきゃいけないんだ。
 そんな言葉が頭の中を渦巻く。

梓「……ごめん」

憂「……謝らないで」

 けれども、憂はそう言った。
 私は初めて顔を上げ、憂の顔を見る。
 少し潤んだ瞳は細められ、濡れた唇は笑みを作っていた。
 ……だめだってば。
 そんな顔されたら、受け入れてくれるって思っちゃうよ。

憂「梓ちゃん……すきだよ」

 それなのに、憂はそんなことを言うんだ。


憂「……もうちょっとだけ、一緒にいても、いい、かな」

 途切れ途切れな言葉が私を不器用に誘う。
 さっきまで子供みたいな笑顔を浮かべていたくせに。
 私が、彼女の笑顔の意味を変えてしまったんだろうか。

梓「……ねえ憂、ちょっとだけ、うち……寄ってく?」

 憂は黙って私の手を繋ぎなおした。
 掌にはまださっきの熱が冷えずに残っている。
 戻るなら今だ。これ以上は――そんな耳鳴りを聞き流して、私は歩き出す。

 午後五時三十分。
 トンネルの出口を、二人で踏み越えた。
 思い出したくもない夜がこれから始まってしまう。
 これから私は憂を、傷つける。


おわり。
最終更新:2011年02月17日 00:42