それから数ヶ月が過ぎた。
相も変わらず信長は帰蝶に見向きもせず、帰蝶も漸くそれに慣れた頃だった。
そんなある日のこと。
シュッと部屋の襖が開け放たれ、信長が帰蝶の部屋へとやってきた。
「か、上総介様…お呼びでしたら帰蝶が行きますものを」
戸惑い交じりにそう言えば、信長は珍しく言い淀む様子を見せた。
どうしたのか、と小首を傾げる帰蝶に背を向けると、
「…着いてこい」
そう小さくぼそりと呟き、足早に廊下を進んでいく。
呆気にとられた帰蝶は暫くその背中を見送っていたが、ふと我に返ると慌ててその背中を追った。
暫く廊下を歩けば、綺麗に手入れの施された庭が目の前に広がる。
信長はその庭に足を下ろし、足袋のまま進んでいく。
足袋が汚れてしまう、とか何をするつもりなのか、と不安げに帰蝶が見守る中、
信長は庭の一角にしゃがみ込むと何かをし始め、再び立ち上がった。
振り向いたその手に何かが握られているのを見て、帰蝶の不安は好奇心へと変わった。
微かに吹く風と歩く信長の動きに合わせて揺れる紫。
凛と可憐に咲く、桔梗の花。
しかしその花を持っているのが信長、というありえない光景に思わず目を瞬かせる。
そうこうしている内に信長は帰蝶の前へと立つ。
俯き気味の顔が微かに紅くなっているのは気のせいだろうか。
「…帰蝶、手を出せ」
初めて信長が帰蝶の名を呼んだ。
一瞬反応に遅れた帰蝶が慌てて手を差し出すと、やや乱暴に、それでも優しくその手に桔梗の花を握らせた。
「これは…」
「受け取れ」
ぶっきらぼうに言うと、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
その耳が微かに紅くなっているのを見て、
今まで信長に感じていた寂しさやら不安が一気に嬉しさや愛おしさに変わり、
帰蝶は驚きに見開かれた目からぽろぽろと透明な涙を零した。
「……っ」
「な、何を泣いておるか!」
急に泣き出した帰蝶に、信長が慌て出す。
初めて見る心底焦ったような信長の様子に、帰蝶は抱きしめるように桔梗を抱えたまま頭を左右に激しく振った。
「いいえ…っいいえ…!帰蝶は嬉しいのです、上総介様…!」
泣きながら、それでも嬉しそうに、幸せそうに笑う帰蝶に信長は照れたように頬を掻く。
そして帰蝶のほっそりとした身体に手を伸ばすと、壊れ物を扱うかのように優しく抱き寄せた。
「貴様は今日から濃…、『濃姫』と名乗れ」
「濃…で御座いますか?」
信長が一つ頷く。
「美濃から来た貴様には似合いの名であろう。…文句はあるまいぞ?」
「文句など…あるわけございませぬ…っ」
文句なんてあるわけない。
ただ、嬉しくて仕方がなかった。
世界でたった一つの名前を、世界で一番愛しい者から貰ったのだ。
これほどの幸せが他にあろうか。
「我はこの尾張から天下を統べる。濃よ、我についてこい」
「はい…はい…っ、上総介様…!」
強く抱きしめられる腕に応えるかのように、帰蝶は信長の背へ腕を伸ばした。
この人となら、何処へでも、どんな地獄へも行ける。
いや、行ってみせる。
そう「帰蝶」、「濃姫」は心に強く誓った。
相も変わらず信長は帰蝶に見向きもせず、帰蝶も漸くそれに慣れた頃だった。
そんなある日のこと。
シュッと部屋の襖が開け放たれ、信長が帰蝶の部屋へとやってきた。
「か、上総介様…お呼びでしたら帰蝶が行きますものを」
戸惑い交じりにそう言えば、信長は珍しく言い淀む様子を見せた。
どうしたのか、と小首を傾げる帰蝶に背を向けると、
「…着いてこい」
そう小さくぼそりと呟き、足早に廊下を進んでいく。
呆気にとられた帰蝶は暫くその背中を見送っていたが、ふと我に返ると慌ててその背中を追った。
暫く廊下を歩けば、綺麗に手入れの施された庭が目の前に広がる。
信長はその庭に足を下ろし、足袋のまま進んでいく。
足袋が汚れてしまう、とか何をするつもりなのか、と不安げに帰蝶が見守る中、
信長は庭の一角にしゃがみ込むと何かをし始め、再び立ち上がった。
振り向いたその手に何かが握られているのを見て、帰蝶の不安は好奇心へと変わった。
微かに吹く風と歩く信長の動きに合わせて揺れる紫。
凛と可憐に咲く、桔梗の花。
しかしその花を持っているのが信長、というありえない光景に思わず目を瞬かせる。
そうこうしている内に信長は帰蝶の前へと立つ。
俯き気味の顔が微かに紅くなっているのは気のせいだろうか。
「…帰蝶、手を出せ」
初めて信長が帰蝶の名を呼んだ。
一瞬反応に遅れた帰蝶が慌てて手を差し出すと、やや乱暴に、それでも優しくその手に桔梗の花を握らせた。
「これは…」
「受け取れ」
ぶっきらぼうに言うと、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
その耳が微かに紅くなっているのを見て、
今まで信長に感じていた寂しさやら不安が一気に嬉しさや愛おしさに変わり、
帰蝶は驚きに見開かれた目からぽろぽろと透明な涙を零した。
「……っ」
「な、何を泣いておるか!」
急に泣き出した帰蝶に、信長が慌て出す。
初めて見る心底焦ったような信長の様子に、帰蝶は抱きしめるように桔梗を抱えたまま頭を左右に激しく振った。
「いいえ…っいいえ…!帰蝶は嬉しいのです、上総介様…!」
泣きながら、それでも嬉しそうに、幸せそうに笑う帰蝶に信長は照れたように頬を掻く。
そして帰蝶のほっそりとした身体に手を伸ばすと、壊れ物を扱うかのように優しく抱き寄せた。
「貴様は今日から濃…、『濃姫』と名乗れ」
「濃…で御座いますか?」
信長が一つ頷く。
「美濃から来た貴様には似合いの名であろう。…文句はあるまいぞ?」
「文句など…あるわけございませぬ…っ」
文句なんてあるわけない。
ただ、嬉しくて仕方がなかった。
世界でたった一つの名前を、世界で一番愛しい者から貰ったのだ。
これほどの幸せが他にあろうか。
「我はこの尾張から天下を統べる。濃よ、我についてこい」
「はい…はい…っ、上総介様…!」
強く抱きしめられる腕に応えるかのように、帰蝶は信長の背へ腕を伸ばした。
この人となら、何処へでも、どんな地獄へも行ける。
いや、行ってみせる。
そう「帰蝶」、「濃姫」は心に強く誓った。