ああ、えーと、こっちは見覚えある。誰だっけ?と、元親は目の前の壮年の男性を見て考えた。
そしてすぐ思い至る。夕餉の時に、元就の一番近くにいた男だ。
彼女と内緒話をして、ちらりとこの地獄耳に届いたのは確かに自分の名だった。
「毛利ならここに来てないぜ?まだ風呂だと思うけど。」
「そ、そうでありましたか。失礼いたした…」
と、やっと声を出せたといった様に唇を震わせて応えたのは見覚えのない若い方の男だった。
そろそろ毛利も帰ってくるだろう頃だが、さすがに予想される彼女の服装を思えば悪いがさっさとお帰り願いたい。
「なんか渡すもん?それとも伝言か?俺が受けといてやるよ」
そしてすぐ思い至る。夕餉の時に、元就の一番近くにいた男だ。
彼女と内緒話をして、ちらりとこの地獄耳に届いたのは確かに自分の名だった。
「毛利ならここに来てないぜ?まだ風呂だと思うけど。」
「そ、そうでありましたか。失礼いたした…」
と、やっと声を出せたといった様に唇を震わせて応えたのは見覚えのない若い方の男だった。
そろそろ毛利も帰ってくるだろう頃だが、さすがに予想される彼女の服装を思えば悪いがさっさとお帰り願いたい。
「なんか渡すもん?それとも伝言か?俺が受けといてやるよ」
必要以上に明るい笑顔を見せる元親に清水はどちらも苦い顔になる。
だからとっとと帰れ。我らの主君と二人きりにさせろ、とやはりあからさまな態度だ。
元就に父のような所思を持ち、かつ堅い性格の宗治は頭痛を覚える。
最初、主の元就から世継ぎの計画を聴かされた時には耳を疑った。
確かに後継者問題は重要な事柄であるのだし、元服もとうの昔に終えた城主がいまだ未婚というのも体裁が悪い。
しかしだからと言って年頃の女性にはあまりに酷な策ではなかろうか、と宗治は思う。
もし彼女が生まれもってどこかしら冷めた性格ならば或いはそういった提案も手放しで飲み込んだろう。
けれど宗治は知っている。本体の元就は非常に情の豊かな性分なのだ。
春に生まれたからか、幼少の頃の元就は芽吹き、色とりどりに咲き誇る花のように表情の動く少女であった。
それがいつの頃が初めか、徐々に自制が強過ぎる人格に形成されてゆき、
宗治にとっては二番目の主君・興元が若すぎる死を迎え、その子の後見人になった辺りから、
『氷の君』と評されるような人物になった。
年の頃は十七、八。周りの娘らも、彼女の妹姫さえ若さを謳歌し美しく着飾って笑っているというのに。
だからとっとと帰れ。我らの主君と二人きりにさせろ、とやはりあからさまな態度だ。
元就に父のような所思を持ち、かつ堅い性格の宗治は頭痛を覚える。
最初、主の元就から世継ぎの計画を聴かされた時には耳を疑った。
確かに後継者問題は重要な事柄であるのだし、元服もとうの昔に終えた城主がいまだ未婚というのも体裁が悪い。
しかしだからと言って年頃の女性にはあまりに酷な策ではなかろうか、と宗治は思う。
もし彼女が生まれもってどこかしら冷めた性格ならば或いはそういった提案も手放しで飲み込んだろう。
けれど宗治は知っている。本体の元就は非常に情の豊かな性分なのだ。
春に生まれたからか、幼少の頃の元就は芽吹き、色とりどりに咲き誇る花のように表情の動く少女であった。
それがいつの頃が初めか、徐々に自制が強過ぎる人格に形成されてゆき、
宗治にとっては二番目の主君・興元が若すぎる死を迎え、その子の後見人になった辺りから、
『氷の君』と評されるような人物になった。
年の頃は十七、八。周りの娘らも、彼女の妹姫さえ若さを謳歌し美しく着飾って笑っているというのに。
思えば、元就は幼少の頃から家臣を含め大人の前では決して弱みを見せぬ子供であった。
普段から共に遊んでいる息子らによれば、それでも子等の仲ではそれなりにへこたれた素振りを見せるそうなのだが、
普段から共に遊んでいる息子らによれば、それでも子等の仲ではそれなりにへこたれた素振りを見せるそうなのだが、
泣き顔だけはやはり見せなかったという。
酷く転んで怪我をしても、可愛がっていた飼い猫が死んだときも、人前では決して泣かなかった。
心から愛していただろう兄の死の淵でさえ、元就は動揺を見せなかった。
「我がうろたえれば、ぬしら家臣もまたうろたえる。」そう言って。
興元の葬式の数日後、宗治は妻からこんな話を聞いた。
「元就様が、わたくしに白粉をお借りにおいでなされたわよ」と。
通常は涼やかな目元を真っ赤に腫れ上がらせて、これを隠すために何とかしたいと妻に頼んだという。
それは、宗治が知る唯一の元就が化粧に触れた事実であった。
涙の跡を隠すためだけに。それも年頃の美しい娘が。
酷く転んで怪我をしても、可愛がっていた飼い猫が死んだときも、人前では決して泣かなかった。
心から愛していただろう兄の死の淵でさえ、元就は動揺を見せなかった。
「我がうろたえれば、ぬしら家臣もまたうろたえる。」そう言って。
興元の葬式の数日後、宗治は妻からこんな話を聞いた。
「元就様が、わたくしに白粉をお借りにおいでなされたわよ」と。
通常は涼やかな目元を真っ赤に腫れ上がらせて、これを隠すために何とかしたいと妻に頼んだという。
それは、宗治が知る唯一の元就が化粧に触れた事実であった。
涙の跡を隠すためだけに。それも年頃の美しい娘が。
中国地方の一豪族に過ぎなかった毛利家を、周囲の大勢力を押しのけ大きく育て上げた元就には
どれだけ払っても払いつくせぬほどの感謝と敬意を宗治は持っている。
最低限の兵の犠牲でそれ以上の効果をもたらす元就の策は、けれど彼女の冷たい物言い一つで非道と誹りを受ける。
それすら人心を掌握する術と言いのける彼女を宗治は悲しく思う。
元就の強すぎる情愛は滅私奉公の形となって表れ、元就自身をすり減らしてゆくではないか。
ただ家のため国のため、人に心を許さず身を尽くす主君が、
今度は跡継ぎのためよくも知らぬ男に体を許そうかと言い出した。
他に道はいくらでもあるだろうに、何故この方は自らを追い込む方向ばかり選ぶのか。
しかし、だからと言って宗治にも他の者にもそれ以上の案はついぞ出せなかった。
毛利の血を持つ者は、いまや元就ただ一人だけなのだ。
どれだけ払っても払いつくせぬほどの感謝と敬意を宗治は持っている。
最低限の兵の犠牲でそれ以上の効果をもたらす元就の策は、けれど彼女の冷たい物言い一つで非道と誹りを受ける。
それすら人心を掌握する術と言いのける彼女を宗治は悲しく思う。
元就の強すぎる情愛は滅私奉公の形となって表れ、元就自身をすり減らしてゆくではないか。
ただ家のため国のため、人に心を許さず身を尽くす主君が、
今度は跡継ぎのためよくも知らぬ男に体を許そうかと言い出した。
他に道はいくらでもあるだろうに、何故この方は自らを追い込む方向ばかり選ぶのか。
しかし、だからと言って宗治にも他の者にもそれ以上の案はついぞ出せなかった。
毛利の血を持つ者は、いまや元就ただ一人だけなのだ。




