社会革命党(しゃかいかくめいとう、ロシア語: Партия социалистов-революционеров、略称SR、エスエル)は、20世紀初頭のロシア帝国で活動した主要な革命政党であり、ナロードニキの伝統を継承して農民を基盤とした社会主義を掲げ、土地の社会化とテロリズムを手段とする急進的な闘争で知られた。
概要
1901年から1902年にかけて設立され、ヴィクトル・チェルノフやエカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤらが創設に関与したが、特に戦闘組織(ボエヴァヤ・オルガニザツィヤ)の活動を通じて帝政要人の暗殺を繰り返し、ボリス・サヴィンコフはその中心人物として名を馳せた。サヴィンコフは1879年生まれの革命家・小説家で、1903年に社会革命党に入党後、戦闘組織のリーダーとして活躍した。1904年のヴャチェスラフ・プレヴェ内務大臣暗殺や1905年のセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公暗殺を主導し、帝政ロシアの恐怖の象徴となった。党のテロ戦略は農民や労働者の支持を集めつつ、内部に二重スパイ(エフゎ・アゼフ)の問題を抱え、1908年頃に戦闘組織は解散を余儀なくされた。サヴィンコフは革命運動のかたわら小説『蒼白き馬』を執筆し、テロリストの心理を描写して文学的評価も得た。1917年の二月革命後、社会革命党は一時的に勢力を拡大し、アレクサンドル・ケレンスキーが党に移籍して臨時政府首相に就任した。しかし党は左派(ボリシェヴィキとの協力派)と右派(穏健派)に分裂し、サヴィンコフは右派寄りで臨時政府の戦争副大臣に任命され、コルニーロフ事件に関与して失脚した。十月革命後、サヴィンコフは反ボリシェヴィキ運動に転じ、1918年のヤロスラヴリ反乱や「祖国と自由防衛同盟」の組織化を主導し、白軍や外国勢力と連携して地下活動を続けたが、1924年にソ連の罠に落ちて逮捕され、1925年に獄死した(自殺説もある)。一方、内戦期の社会革命党のもう一つの重要な遺産は、1920年から1921年にかけてのタンボフ反乱である。この反乱はボリシェヴィキの余剰徴発政策に対する農民の抵抗として爆発し、アレクサンドル・アントーノフ(1889-1922)が指導した。アントーノフは元社会革命党員(左派寄り)で、かつての党の農民支持基盤を背景に数万の農民軍を組織し、「労働農民軍」を名乗って赤軍と激しく戦った。反乱は党の公式支援を受けつつも地方的な性格が強く、社会革命党のイデオロギーが農村で根強く残っていたことを示した。赤軍のトゥハチェフスキー指揮による毒ガス使用を含む苛烈な鎮圧で1921年に壊滅し、アントーノフ自身は1922年に射殺された。社会革命党は十月革命後の左派の離反と右派の弾圧により急速に衰退し、1922年頃には主要指導者が逮捕・追放され、事実上解体された。サヴィンコフとアントーノフはそれぞれ党のテロリズムと農民反乱の側面を体現する人物として、帝政打倒からボリシェヴィキ権力への抵抗まで、社会革命党の劇的な軌跡を象徴している。党の遺産はロシア革命史において、ボリシェヴィキとは異なる農民社会主義の道を模索した試みとして位置づけられる。