白い小さな手の中の小さな端末だけが、殆ど視界の効かない暗闇の中で仄暗い光を放っていた。
その微かな光は、端末を持つ少女が流す涙で反射して、頬に一筋ずつの白いラインを描いていた。
荒れ狂った殺人者がこのボウリング場から出て行き、どの位の時間が経ったのか。
少女はあれから何をするわけでもなく、今も全く変わらぬ姿勢で蹲っていた。
危害を加える者はもういない。殺人者も怪物も近くにはもういない。
それは、耳がどうにかなってしまったのかと思える程の静寂が伝えてくれている。
なのに、涙は未だに止まらず流れ続けている。心臓は早鐘の如く響き続けている。
動けない。全身の震えが止まらない。思考を巡らす事すらままならない。
生まれて初めて浴びせかけられた悪意と殺意の衝撃で、少女の精神は完全に恐怖に掌握されていた。
それはまるで、呪縛のよう。
少女は呪縛に抗う事が出来ず、ただ歯を打ち鳴らし、蹲っている事しか出来なかった。
だが間もなく、だ。間もなく少女はその呪縛から解き放たれるだろう。
その呪縛から少女を解き放つ存在が、すぐそこまでやってきている。
殺人者や怪物。そういったモノとは全く別のベクトルの存在が、すぐそこまで――――――――。
テレホンコール
ピリリリリリリリリリリリリリリ
「ひっ!」
前触れもなく鳴り出し、虫の羽音の様な音を立てて震え始めた手の中の端末に驚き、
岸井ミカの心臓は大きく跳ね上がった。
手から滑り落ちた端末はカンッと床にぶつかり、より強まった光で赤く錆びた金属を照らし出し、
落下のショックで壊れるような様子も見せず、電子音を鳴らし続けていた。
今まで恐怖に縛られ、動く事すら忘れていた少女に訪れた切っ掛け。
振動する度に床とぶつかり合い、余計に騒々しく“がなり立てている”端末に向かい、
ミカは荒くなっていた呼吸を整えながら、恐る恐る手を伸ばした。
「表示……ケ……ケン、ガイ? ……着信中……?」
小さなモニターを覗き込み、確認出来た短い単語を目に映ったままに呟いた。
数瞬の間を置いて、ミカはハッとする。刺激が走り、ゆっくりと頭が回り始めた。
そう、これは、携帯電話だった。
このおかしな街に来てから自分が探そうとしていたものが、今自分の手の中にあるのだ。
ミカの知っている携帯電話やPHSはもっと細長く、二つに折り畳む事など出来ない代物。
それらとは少々形が異なるが、これが電話機である事は間違いないようだ。
それも着信中。今現在、誰かから電話がかかってきている。
「ヤバっ! 待って待って!」
怯え、固まっていた事が嘘であったかのように、
ミカは手の甲で涙を拭い、携帯電話の上に素早く視線を巡らせた。
助けを求めなくては。
反射的に考えた事はそれだ。電話に出て、助けを求めなくては。
今、この電話は何回目のコールをしていただろうか。
数えてはいないが、鳴り始めてから結構な時間が経っていた気がしていた。
早く出なければ、切れてしまう――――その思いがミカを焦らせていた。
幸い電話機の仕様は一般家庭に普及している電話の子機と大して変わりはない様子。
使用方法は何となく分かる。通話ボタンを押せば通話は繋がる。そのはずだ。
携帯電話から照射しているライトで浮かび上がっているいくつものボタン。
滲む視界では見難かったが、受話器の外れている電話のマークが目に止まった。
ミカは迷わずそのボタンを押し、電話を耳に押し当てた。
「もしもし、だれ?! あ、ううん、だれとかじゃなくて、違うの!
あのー、アレ! よくワカンナイんだけど、とにかく助けてください!
センパイ……じゃなくて、110番に―――― …………?」
早口でまくしたてた。
必死さ故、ミカの声は要領をまるで得ない叫びとして口から飛び出していた。
助けを求めなくては。電話の相手が誰だか分からないが、兎に角その一心を伝えたかった。
だが、電話口の向こう――――聞こえてくる向こう側の音声に一つの違和感、
そして不気味さを抱き、ミカはいつの間にか口を閉ざしていた。
(……なに、この人?)
音声は、ミカの様子には何も反応する事はなく、ただ一つの単語を繰り返しているのだ。
時折混じるノイズと共に、ただ一つの単語を、何度も、何度も繰り返している。
あのね あのね あのね あのね あのね
――――と。
「あ、あのねじゃなくて。ヤバイんですよ!」
あのね あのね あのね あのね あのね
「人が殺されたの! 人殺しがいるの! ここに!」
あのね あのね あのね あのね あのね
「ちょっと、ホントにヤバイんだって! お願いだからケーサツ呼んでよ!」
あのね あのね あのね あのね あのね
思わず語気を荒げていたが、何を言っても相手は聞いてくれない。
「なんなのこいつ!」ミカはそう苛立って電話を耳から外し、
電話口の相手を見据えたしかめっ面で携帯電話の画面を睨みつけた。
そして何気なく、その画面に映し出されていた時刻に目を向けてしまった時、
連鎖的に甦った記憶で、ミカの全身は冷水をかけられたかのような寒気に包まれた。
(ッ!? ウソ……もしかしてこれ、センパイが言ってたやつ……!?)
表示されていた時刻は『00:00』。
今はまだそんな時間ではないはずだ。
だが、ミカは知っている。
母ミナヨから聞いた『00:00』にかかってくる電話の話を。
センパイである長谷川ユカリが実際に体験したという、あの『死者からの電話』の話を。
あのね あのね あのね あのね あのね
次第に、通話口からの音量が大きくなってきた気がした。
「やだ……ちょっと待ってよ……」
或いは錯覚なのかもしれない。だが、ミカには聞こえている。
繰り返される声。徐々に大きくなる声。
あのね あのね あのね あのね あのね
ミカは知っている。この電話から逃れる方法は知っているのだ。
「待って……待ってったらぁ!」
だが、今のミカの頭は、恐怖で埋め尽くされていた。
殺人者への恐怖。怪物への恐怖。
そして更に、新たにじわじわと膨らみ出していた、この電話への恐怖で。
あのね あのね あのね あのね あのね
頭が回らない。思い出せない。
ミカは、立ち上がっていた。電話が再び手から滑り落ちた。
足元に転がった電話機から、声は止む事なく繰り返されている。
何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
あのね あのね あのね あのね あのね
声は、電話を通していないのではないかと思える程に大きくなっていた。
まるで、すぐ側に声の主がいるかのように。そう、すぐ側に――――――――。
「いやぁッ!」
ミカは、恐怖をこらえ切れず、逃げ出した。
暗いボウリング場の中を、殆ど手探りで。
何度も躓きながらも、エディーが開け放していた扉から外に出て、
兎に角この声から離れようと、場所も方向も考えずに走り出した。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……ハァ…………」
入り込んだ小道は、一本道の袋小路だった。
已む無くそこで足を止めたミカは、前屈みになり深呼吸を繰り返して呼吸を整えていた。
「なんなんだよ……チクショー……」
気付けば、声は聞こえなくなっていた。
逃げ切ったのだろうか。いや、何か違う気がしていた。
あの電話には確かルールがあった。それが何だったか、思い出さねば大変な事になる。
そこまでは分かっているのだが――――。
「……………………あ、れ?」
何か頭に過ぎったものがあった。
あの電話の声。あの声はどこかで聞いた事があったような気がする。
その事に今、不意に思い当たった。
(だれだっけ? 身近なヤツの声だったような……キミカじゃないし、ミホじゃないし……)
思い出せそうで思い出せない、不快な感覚。
だが、すぐにミカは該当する人物を思い浮かべる。
そして、驚いたように顔を上げた。
「逸島、センパイ……? 逸島センパイの声に……似てた……?」
いや、とミカは頭を振った。
さっきの現象は、死者からの電話のはず。
死んでもいないチサトからかかってくるなんて、そんな訳がない。
「…………気のせいだよね、きっと」
自信無さ気な呟きを漏らし、ミカは来た道を戻ろうと身体を捻った。
そして――――ふと、スカートのポケットの中の違和感に気付いた。
何も入れていないはずのポケットに、何かが入っている感触があるのだ。
何となく嫌な予感を感じつつも、ミカはポケットに手を入れた。
「なんで……?! なんで、これが入ってんのっ?!」
震える声で叫ぶミカの、震える手の中にあるのは、先程の携帯電話だった。
【B-5ヘブンスナイト裏口付近/一日目夜中】
【岸井ミカ@トワイライトシンドローム】
[状態]:腕に掠り傷、極度の精神疲労、電話に対する恐怖
[装備]:特になし
[道具]:黄色いディバッグ、筆記用具、小物ポーチ、三種の神器(カメラ、ポケベル、MDウォークマン)
黒革の手帳、書き込みのある観光地図、携帯電話、オカルト雑誌『月刊Mo』最新号
[思考・状況]
基本行動方針:センパイ達に連絡を取る。
1:なんで電話がここに!
2:逸島センパイの声に似てた気がするけど……
3:どうしよう、誰か助けて!
※90年代の人間であるため、携帯電話の使い方は殆ど知りません。
※電話は怪奇現象でミカについてくるようです。
※次に電話がいつ鳴り出すかは不明です。
テレホンコール@トワイライト・シンドローム
本来は深夜0時丁度にかかってくる、亡くなった人間からの電話。
電話をかけてくる死者は対象の人間に対して好意を抱いている場合が殆どで、
対象者に何かしらの『伝えたい事』や『約束事』があって連絡をしてくる。
もしもこの死者からの電話を切ったり、コールを無視し続けて出なかったりすると、
死者の好意は悪意へと変わり、対象者を『連れ』に来てしまう。
この死者からの連絡があると、解決するまで対象者の周辺では、
電話の回線が全く別の場所に繋がる。
電話のある空間に外界からの音が届かない。
時計の時刻が00:00に固定されて強制的に奇妙な電話がかかってくる。
などといった怪奇現象が起こる場合もある。