着信アリ
「でも、大丈夫かな? こんなことして……」
得意げに語られていた怪談話を遮るように、落ち着いた風貌の少女が心配そうに首を傾げた。呟くような声は、微かな残響と共に廊下を抜けて行く。
凝った闇に包まれた旧校舎の廊下は、ほんの数時間前まで少年少女たちの嬌声が響いていた場所とは似て非なる空間へと見事に変貌を遂げていた。周囲は海底の岩礁の如く静まり返り、針の落ちる音すら聞き取れてしまいそうだ。
学校というものは、昼と夜、それぞれ違う二つの顔を使い分けているものらしい。
昼こそ人間はここの支配者だが、今は違う。校庭の木々は無責任な傍観者のように、天へ向けた枝々を撓らせて囃し立てている。
梅雨明けの湿り気を帯びた空気は日中の熱が残っていたものの、時折冷たいものが混じっていた。
「一緒に来といて何言ってんですか? だいたいあたし今日、逸島センパイ呼んでませんけどー?」
怪談話に水を差され、多少幼い容貌の少女が口をとがらせる。と、それを聞き咎めたように、懐中電灯を持つ大人びた少女が苛立ちまみれに息を吐いた。
「チサトはあたしが呼んだの! チサトだって先輩なんだから、ちょっとは気ィ使いなさいよね!」
そして踵を返し、大人びた少女は歩みを再開した。チサトと呼ばれた少女も、一括りにした髪を揺らしてそれに続く。残った少女は、二つの後姿を多少不満げに見つめていたが、すぐに愛くるしい表情に戻って踊るような足取りで二人に付いていった。
夜気には夏の匂いが満ちつつあった――。
岸井ミカは、愕然とした面持ちで手の中の携帯電話を見つめた。
確かに放置してきたはずだ。だけれども、今それは彼女の手の中にある。急性の記憶喪失になったわけでないのならば、これは携帯電話が独りでに戻ってきたということだ。
手に収まるプラスチックの手触りが酷くおぞましい物に感じられた。仄かに光る液晶画面は今は二十一時少し過ぎと知らせていた。
"死者"からの電話――。
遠くへと投げ捨ててしまいたい。もしくはアスファルトに叩きつけて壊してしまいたい。そんな衝動に駆られる。
冷えた外気のせいだけではない寒気が、全身を這うように包んでいた。
衝動を辛うじて留めるのは、電話の主のことだ。あの声は、逸島チサトのそれに似ていた。
似ていただけだ。すぐにミカは否定した。
まず、この携帯電話は己のものではない。なぜかディパックに入っていた代物だ。ミカ自身ですら知らない番号を、どうしてチサトが知っていたのか。
適当に番号を押して偶然繋がることはある。しかし、それがこれまた"偶然"にミカの持つ電話へと繋がるものだろうか。
ミカは一つ嘆息した。
テレビドラマだって、そんな陳腐な奇跡は起こさない。加えて、チサトはそういった悪戯をする性格ではない。
この電話の持ち主がチサトであるという場合はどうだろうか。人知れずディパックに放り込み、ミカを怖がらせようと一芝居打った。時計もチサトが細工したと考えれば、一応の理由は付く。
しかし、ミカすら知らない最新機種をチサトが持っているのは不自然だし、彼女はそういった類の悪ふざけを毛嫌いしている当人だ。何よりも、電話が勝手に戻ってきたことの理由にはならない。
いくら考えたところで、この電話の異常性を否定できない。
それでも、あれは死者からの電話ではない。もしくは、あの声はチサトではない。
ミカは自分を説得するように頷いた。
チサトは、声を聞きたかった人間の一人だ。しかし、電話の主が彼女であってはならないのだ。チサトだと認めてしまったら、それは同時に彼女が死んでいることを意味してしまう。
チサトが死んでいる。最も親しい人間の一人に、もう会うことが出来ない。そんなことを考えるだけでも嫌だった。自分でも驚くほどに怖いと感じた。
ミカは手の中の携帯電話を見つめた。時刻を示す数字が一つ増える。今は正常な動作をしているようだ。
液晶から発せられる光は存外に強く、ある程度周囲の闇を照らしてくれている。また、外に出たせいだろうか、圏外の文字は消えていた。
落ち着こうと、ミカは大きく深呼吸した。
例の騒動の後、ユカリが電話機を買い換えたという話は聞いていない。電話は異常なく使えているのだ。
死者からの電話の対応については、一先ず置いておこう。
先ほどはどうであれ、今は普通に動いているならば、この電話で助けが呼べるのではないだろうか。
逸る気持ちを抑え、ひとまずミカは携帯電話を振りまわして周囲を確認した。
ミカがいる場所は裏路地、それも袋小路のようだ。三方を見上げるほど高い壁に囲まれ、道幅も狭い。廃棄された段ボール箱やビラなどが無造作に散らばっていた。平時であっても、あまり足を踏み入れたい場所ではない。
左手に何かの店舗の裏口らしき扉を見つける。赤黒く朽ちた外壁と扉だが、どこか如何わしい雰囲気を放っていた。
周囲には、ボーリング場に居た様なお化けは勿論のこと、動くものは何もない。風の音が微かに聞こえる程度だ。エディーも、とうに何処かへ行ってしまったのだろう。
ミカは安堵の息を吐き、手近なダンボール箱の陰に身をひそめた。ちらちらと見通せるはずのない闇に眼を馳せながら、携帯電話の数字を叩いていく。
とりあえずは110番。入力し、通話ボタンを押して見ると数字が躍り出した。こうして相手にかけるらしい。
当然というべきか繋がらない。日本ではないのだから仕方ない。かといって、アメリカの警察の番号は見当もつかない。
適当にボタンを操作していると、着信履歴が出てきた。先ほどの電話の履歴が出る。しかし、時刻も番号も文字化けしていて全く読み取れない。
履歴はそれだけだった。この持ち主は友達がいないらしい。幾度か中央のボタンを押してみると、今度はリダイヤル画面が出てきた。
記録されている番号は4つ――5559400、0352293339、0366757283、5552368。
日付は、最後のものが三月だった。何処かに繋がれば、そこから助けを呼んで貰える。
一旦顔を挙げて周囲に何もいないことを確認してから、期待を込めて表示された番号を発信した。
僅かな沈黙の後、呼び出し音が聞こえた。繋がったと、ミカは顔を綻ばせた。しかし、誰も出ない。幾度も呼び出しを重ね、やがて切れた。数回かけ直したが、先と同じく呼び出し音が鳴るだけで何も起こらない。
失意にミカは表情を沈めたが、この電話が使えることを確認できただけでも成果はあると思い直した。何事も捉えようだ。物事には幸も不幸もないのだから。それを決めるのは、自分自身なのだから。
気を取り直し、ミカは次の番号に発信した。しかし今度は呼び出し音すらなく、不通を示す電子音だけが耳に届く。三つ目の番号も同じく不通だった。
残る番号は一つだけ――。ミカは生唾を飲み込んだ。
これも通じなければ、電話で打てる手はなくなる。最初の番号にかけ続けてみるか。それこそ運に任せて数字を押していくことも一興かもしれない。しかし、それよりもここから移動するのが先だろう。
意を決して通話ボタンに指が触れる直前、画面が切り替わった。ピリリリリと、電子音が路地に鳴り響く。その音の大きさに、思わずミカの身体が跳ねた。
画面には文字化けした数字が躍っている。液晶画面に映る時刻は零時に変わっていた。
"死者"からの電話だ
口の中が急速に乾き、鼓動が早鐘を打つように激しくなる。まだ対処法は思い出していない。ただ、間違えれば無事には済まないということだけは憶えている。
都市伝説では、まず電話に出てはいけないということだった。だが、ミカは既に一度受け取ってしまっている。その場合はどうなるのだったろうか。
出た方がいい。そう直感が告げるが、ミカの指は躊躇うように宙を滑った。
ここで出れば、疑念を確認することになってしまう。声の主がチサトかどうか、分かってしまう。チサトであって欲しくないが、それ以外であっても――それはそれで怖い。
呼び出し音は鳴り続く。
ミカは観念したように嘆息した。悩むのは性に合わない。出たとこ勝負だ。ミカは通話ボタンを押した。携帯電話を耳に押し当てる。
――あのね、あのね、あのね…………
肉声のようで、古いテープを再生しているかのように機械的な声。直接頭に語りかけてくるような響きを吟味するように、ミカは目を閉じた。
ミカちゃん――。
つい夕方に聞いた声と重ねる。
唇を舐めて湿らせ、ミカは口を開いた。最初は掠れて声にならず、息を吸い直して言い直す。
「……逸島、センパイ?」
絶え間なく続いていた声が止まった。息を殺して、ミカは返答を待つ。その沈黙は、酷く長く感じられた。
――ミカちゃん。あのね、私……――
記憶に残る声と同じものが耳音で響いた。無感情なのに、それでも温かみを感じさせる声色。鼻の奥が痛くなり、嗚咽が漏れそうになる。ミカは甲で目元を拭うと、わざと明るい声で捲し立てた。
「もう怖がらせないでくださいよー。マジで、チョービビったんですからねー? けど、いきなり性格マルくなりましたね。チョットした進歩、いや進化ですって、コレは――」
なんとなく、チサトに言葉を発する隙を与えたくなかった。本当は助けを求めたいのに、そうするのが怖ろしい。
知りたくないことまで、チサトから告げられてしまう予感がある。いや、確信と言ってもいい。
だから、ミカはとりとめもないことをしゃべり続ける。
けれども、息は続かない。やがて、言葉が途切れた。
――ミカちゃん。私、もう死んでるの……。
チサトがぽつりと告げた。
狙っていたのか。、もしかしたら、ミカが喋っている間、ずっと繰り返していたのかもしれない。
しかし、思っていたよりも驚きは少なかった。やっぱりかと、胸に重い鉛が詰まった様な気分になっただけだ。
本当は、ミカ自身も分かっていたのだ。これが一番筋の通る答えだったのだから。
それでも、視界がまた歪んで見えにくくなる。
「……ジョーダンきついなー、本当……夢の中でだって、センパイに死んでほしく、ないのに」
幾ばくかの願望も込めて、ミカは零した。後半は殆ど言葉にならなかったが。
――ごめんね。ミカちゃんは、この街で死んだら駄目だよ。
「センパイも、ここにいたの……?」
――……うん。この街にはね、沢山の人たちの想いが囚われてる。苦しい、哀しい――そんな気持ちだけになってしまって、大きな澱みを作っている。私も、もう少ししたらその一部になるの。だから……ミカちゃんは私みたいにならないで。ミカちゃんは、ミカちゃんでいて。
抑揚などないのに、チサトの声は優しかった。目を閉じれば、すぐ傍でチサトの体温すら感じられそうな気がした。
だが、もうそんなことはない。控え目な笑顔も、演歌を熱唱する姿も、もう見られない。
悲しいというよりも、とても寂しいとミカは思った。図書室の娘と同じだ。チサトもまた、あの娘と同じように自分を置いていってしまう。
「自分にも無理だったことを、カンタンに言うんだもんな……あたし、一人なんですけど」
――一人なんかじゃないよ。ミカちゃんと同じように頑張っている人たちがいるよ。強くて眩しい気持ちを幾つも感じるの。ミカちゃん、その人たちを助けてあげて。
無理だ。と、胸中で呟く。
他に人がいるのは確かだろう。少なくともエディーはいるのだから。
しかし、ミカ自身にそんな力も勇気もない。学校の中でうまく立ち回れるのとこれは全然別のことだ。
ミカが怪異に巻き込まれても平気だったのは、ユカリやチサトが一緒に居てくれたからだ。懸命に、自分を助けてくれたからだ。
ミカは周りを包む夜闇を見つめた。
ユカリたちと初めて冒険をした、あの夏の日。この纏わりつくような闇は、あの日のものととてもよく似ているように思えた。
だが、違うのだ。あの夏と同じものは戻ってこない。一人は今傍に居ないし、もう一人は永遠に失われてしまった。声は聞こえるが、もう会えない。
近いものすら――二度と作れない。
永遠に続くと思っていたのに、終わりはこんなにも早い。
泣き出しそうになるのを、ミカは大きく息を吸って堪える。
――無理だなんて思ったら駄目だよ。
ミカの胸の内を覗いたかのように、チサトが続けた。
――この街は現実だけど、本物でもない。紛い物だから、本物のミカちゃんたちには元々勝てや、しないの。実体があるってことは、それだけで、凄く強い、んだから。
「あたし、弱いですよ……」
――ミカちゃんは、強い、よ。だって、眩しい、もの。こんなにも、温かいもの。こんな街、なんかに、負けて、やらないで。
チサトの声が段々と細く、遠くなっていく。
別れが近い。
ミカにも、それぐらいは分かる。
「逸島センパイ! そんなの――!」
――ユカリちゃんも、いる、の。感じるの。助けて、あげて……。ユカリちゃんは、寂しがり、屋、だか……っている、でし……う? 会えな……ど、私た……ものように、一緒……だ……んだね。
チサトが消えてしまう。まだ話したいことがあるのに。もっと居てほしいのに。
行かないで。ごめんなさい。ありがとう。ずっと楽しかった。チサトに出会えて本当によかった。
伝えたい言葉が次々に浮かんでは消えていく。
言うべきは、感謝の言葉でも、謝罪の言葉でもない。ミカは送り出すのだから、チサトに想い残させてはいけない。
もう彼女に甘えることは出来ないのだから。
こんな別れは二度目だ。初めての痛みじゃない。我慢できる――はずだ。
ミカは目元を指で拭うと、大げさに笑って見せた。
「もう、仕方ないセンパイですねー。ま、あたしに任せてくださーい。長谷川センパイなんて、ちょちょいのちょいと助けちゃいますから。だから――」
安心してください。
懸命に喉を震わせて、ミカは告げた。
嘘でも、そう言わなければならない。思いを残せば、チサトはサクラやタタラといった宙ぶらりんな存在になってしまうだろう。
そんなことは嫌だった。
電話の向こうで、チサトが笑みをこぼしたような気がした。
――ありが……う……さよなら、ミカちゃ……――
声は掠れて、風の音のようになり――やがて消えた。ぷつと音を立て、電話が切れる。
液晶画面は零時から、通常の時刻に戻っていた。
電源ボタンを押し、通話を終了する。
「バイバイ……逸島センパイ……」
ぽつりと独りごちた後、ミカはハンカチで目元を覆った。一頻り肩を震わせた後でハンカチを仕舞い、残っていた番号に電話をかける。
ほどなくして、ミカは電話を切った。結局、最後の番号も繋がりはしなかった。
しかし、ミカの面に然程落胆の色はない。電話は役に立たなかったが、ただそれだけだ。
誰だか分からないが、"相手"がそういうつもりならば受けて立つ。
本音ではなくとも、ユカリを助けるとチサトに約束したのだ。
今は嘘でも、これから本当のことにすればいい。ユカリと会って、チサトの言う他の人たちと共にこんな街からおさらばする。
そして、ユカリと一緒に思い切り泣いてやるのだ。
ミカは携帯電話を閉じ、人知れず上空を睨みつけた。星一つない真っ暗闇で何も見えないが、気にもせずにミカは鼻で笑った。
「ニッポンの女子高生ナメるなよ。来年は十七歳になるんだぞ。一番アブない年頃なんだからね」
と、そう啖呵を切ったミカの鼻先を何かが横切り、風が髪を撫でていった。そして、ミカの背後でどたりと音がした。
恐る恐る振り返り、開いた携帯電話の液晶画面を向け――ミカは一目散に逃げ出した。
見たのは一瞬だが、充分だった。
腐った肉のような肌、大きな両翼、触手の蠢く爬虫類のような頭部。
背後で、キィッという鋭い声がした。
【B-5ヘブンスナイト裏口付近/一日目夜中】
【岸井ミカ@トワイライトシンドローム】
[状態]:腕に掠り傷、極度の精神疲労、挫け気味の決意
[装備]:携帯電話
[道具]:黄色いディバッグ、筆記用具、小物ポーチ、三種の神器(カメラ、ポケベル、MDウォークマン)
黒革の手帳、書き込みのある観光地図、オカルト雑誌『月刊Mo』最新号
[思考・状況]
基本行動方針:長谷川ユカリを優先的に、生存者を探す。
0:ナニあれ!? ナニあれ!? 何なのアレ!?
1:逃げる。
2:生存者を捜す。
※90年代の人間であるため、携帯電話の使い方は殆ど知りません。
※ミカが「ヘヴンズナイト」へ逃げたのか、はたまた裏路地の出口の方へ逃げたのかは次の方にお任せします。
※唯一繋がった番号≪555-9400≫はアルケミラ病院のもの(出典元:サイレントヒル・シャッタードメモリーズ)です。このサイレントヒル内の施設にならば電話が通じる場合があるようです。
【クリーチャ基本設定】
ナイト・フラッター
出典:『サイレントヒル』シリーズ
形態:複数存在
外見:人間のような体格をした翼竜。頭部らしき部分には複数の触手が蠢いている。
武器:牙と爪
能力:翼で飛行し、上空から急降下して噛みついたり、すれ違いざまに爪で攻撃を仕掛けてくる。
攻撃力:★★☆☆☆
生命力:★★★☆☆
敏捷性:★★★☆☆
行動パターン:普段は上空を飛行している。光に集まってくる習性を持つ。
備考:エア・スクリーマーの裏世界における姿と言ってもよい存在。飛行時よりも歩行時の噛みつきの方が威力が高い。