菊花の約





 周囲は、赤白く浮かび上がる火袋の仄明かりでは見通せない程の闇に覆われていた。草履が地を掻く音は、まるで他人事のように足元から転がっていく。
 氷室霧絵は提灯を左右に翳した。敷き詰められた石畳が微かに朱に染まり、道沿いに並び立つ家屋の影が僅かに剥がれる。
 幅が七間ほどもある広い路だ。訳も分からずに歩いてきたが、どうやら目抜き通りの辺りまでやってきてしまったらしい。
 汗ばんだ髪を払い、ひとつ深呼吸する。これほど長い時間を歩き続けたのは初めてだ。気ばかりが焦るだけで、身体はついていかない。慣れていないために爪でも割れたか、足を踏みしめる度に刺すような痛みが走った。
 石畳の冷たくざらついた感触が草履越しに伝わり、霧絵は首を傾げた。こうした大路は土埃が酷いものだと聞いていたが、あれは"あの人"が自分を楽しませるための空言だったのだろうか。
 とうに木戸が閉まる刻限なのか、人通りはなく、道々に夜闇だけが溜まっている。寝静まった町に命の名残は感じられず、自ずと氷室家の惨状が重なってしまう。
 兇気が去り、己の仕出かした罪の大きさが身体を縛っていく心地がした。もう、自分の五体に縄は括りつけられていないというのに。
 吹いてくる風が涼やかな濤声を運んできた。まどろみを誘うような旋律は耳を通り抜けていく。
 "海"という言葉が浮かぶ。言葉でしか知りえなかった外の世界――そこに己の身があることが少しおかしかった。
 しばし、霧絵はその音色に聴き惚れた。と、そこに足音が混じっていることに気づいた。
 身体が強張っていくのを感じた。それは来訪者へのものと、場合によっては自分が侵してしまうかもしれない所業への惧れによるものだ。縄を握る手に力が籠る。
 息を潜め、霧絵は提灯を音の方へと向けた。曲がり角を照らす薄明の輪の中に、ぬぅっと大きな影が入り込んだ。

「きゃっ――」
「うわああぁぁぁあああっ!」

 地鳴りのような悲鳴が、霧絵のか細い悲鳴を押しつぶした。重苦しい音を立てて、影がひっくり返る。思わず己の手を見た。霧絵は――何もしていない。
 痛いほどに激しく脈打つ胸を抑え込み、霧絵は影の方へと提灯を向けた。
 身の丈六尺を優に超える偉丈夫が尻餅をついている。傍には鉄砲が転がっていた。
 大いに吃驚したらしく、男は目を剥いて霧絵を見上げた。まるで鬼か何かに遭遇したような形相だ。顔の造りが厳めしいため、当の本人が鬼のように見える。
 鬼の正体が年端もいかぬ小娘と分かり、男はばつが悪そうに視線を逸らした。男は立ち上がり、鉄砲を持っていない方の手で衣についた埃を払った。
 暗いせいだろうか。立ち上がると、天を衝くような巨体に見える。
 男はきゅうと巨躯を小さくすると、まるで叱られた子犬のような顔をした。

「取り乱してしまい、申し訳ないであります」
「い、いえ、お気になさらないでください」

 あっさりと詫びた男を、霧絵は観察する。
 男はおそらく武家の者だろう。身頃と袖を絞った風変わりな羽織、それと同色の軽衫といった出で立ちで、刀は佩いていない。
 月代が伸びているから、城下に増えていると聞く浪人というものだろうか。しかし、言動には実直さが滲み出ており、巌のような体躯を包む衣も清潔に見える。
 尻餅の際に下敷きにしてしまったらしい白い巾着を悲しそうに見つめている様も含めて、この浪人に危険はないように思えた。しかし、日野と名乗った青年のことが頭をよぎり、その己の判断を信じきることは出来ない。
 浪人は不可解そうに霧絵を見た。思えば、今身につけているのは神事に纏う白衣だ。このような時分に町をうろつけば、不審に見られてもおかしくない。
 浪人は一つ咳払いして、姿勢を正した。

「自分は小暮宗一郎という者です。こう見えて、警視庁警察史編纂室に勤務している巡査部長であります! 失礼でありますが、あなたは?」

 山鳴りのような声だ。耳慣れない言葉が続けられたが、要は役付きの藩士ということだろう。
 失礼な印象を持ってしまった己が恥ずかしかった。小暮は、伸びた月代や髷を手入れする時間が惜しいほどに忙しい職務に追われているのだ。

「私は氷室家が娘、霧絵と申します。私こそ、小暮さまを驚かさせてしまい申し訳ありません」
「とんでもないであります。それに、"さま"なんて付けないで欲しいであります。自分は、そのような敬称を付けられるような者ではありません。ただの小暮で構わないであります」
「はあ……。されどそう申されましても、殿方をそのようにお呼びするのはどうにも……」

 見ず知らずの、それも武士を下男か婢のように呼ぶなど出来はしない。余程困った顔をしていたのか、小暮がたじろぐ様に身動きした。

「いやいや、呼び方なんぞに拘った自分が悪かったであります。お好きになさってください」

 道端ではなんだからと、小暮が近くの軒先を指差した。それに従い、揃って軒下に入る。

「ところで、氷室さんは怪しい男を見なかったでしょうか?」
「怪しい男、ですか……?」

 脳裏に浮かんだのは日野のことだ。殺生を童子の遊びのように愉しむ下種の顔がちらつき、胸中に苦いものが広がる。
 小暮は少し考えるように沈黙した後で、捜し人の特徴を述べた。

「胡麻頭の老人です。歳は七十ほど。背格好は中肉中背……と、まあそんな具合なのでありますが」
「いいえ、そのような方は存じ上げません。そのご老人は小暮さまとはどんな?」
「危険人物であります。突然、これを自分に向けて発砲してきました」

 小暮は霧絵に鉄砲を掲げて見せた。

「まあ……小暮さまに手落ちはないのに?」
「実に危ない所でありました。それで捕縛の必要ありと判断し、目下追跡中なのであります。とはいえ、遭遇していないのであれば、それに越したことはありません。ご無事で何よりであります」

 そう言って、小暮は表情を緩めた。霧絵がその老人に行き逢わなかったことに、心底安堵したように見えた。
 霧絵に向けられる、大型の獣を思わせる瞳には心からの善意が宿っていた。
 小暮は日野とは違う。見てくれは大きく違うが、"あの方"と同じ、信用するに足る人間だ。
 日野のことを話さなくてはと霧絵は思った。日野は狐狸の如く人を欺く男だ。実直を人の形にしたような小暮を誑かすのは、あの卑劣漢にとっては赤子の手を捻るよりも容易いことだろう。もし日野と小暮が出会えば、命を落とすのは小暮の方だ。
 そして、日野のことを伝えるのならば、己が行った呪いのことにも触れねばなるまい。誠意に対し、誠意で報いるのが道理だ。隠し事は許されない。
 小暮さまと、霧絵は切り出した。

「そのご老人ではありませんが、日野なる人でなしにお遭いいたしました」

 小暮が興味深そうに目を向けた。
 まずは、日野が殺生を好む兇徒であること。そして日野の持つ不可思議な箱から流れた言葉のこと。
 己でも理解していないため、所々で途切れ、要領を得にくい話しぶりであったのだが、小暮は我慢強く、そして真剣に聞いてくれた。

「殺し合い……とは穏やかではありませんな。以前、そんな小説が問題になったことがありましたが。それにサイレントヒルとは、自分が敬愛する刑事が向かった先であります。どういうことでありましょう?」
「私には見当もつきませぬ……まことに訳の分からないことばかりでして」
「……ううむ。額面通り受け取れば、ここがサイレントヒルということになりますが……散歩がてらに迷い着いてしまう場所ではないはずですからな。俄かには信じがたい話であります」

 小暮は顎に手を当てて唸った。さいれんとひるとは、それほどまでに遠い土地らしい。当然、氷室の屋敷がある土地はそんな名ではないはずだ。
 いつの間にか、さいれんとひるなる里へ屋敷が移築されてしまったというのだろうか。

「それに、日野でありますか。その外道に遭われたのは、しばらく前とのことでしたな。ならば、既にこの近辺にはいないと考えるのが自然でしょう。そういう手合いは一度の失敗でそうそう諦めるものではありません。にも関わらず、再度襲われることがなかったということは、日野は氷室さんを見失ったと判断してよいと思うであります」
「……その日野のことなのですが、ひとつ付け加えねばならないことがございます」

 霧絵はひとつ呼吸を置いた。
 告げるには勇気が要った。これまでの話ぶりから、小暮は奉行所の人間だと想像できる。その彼に、己が人殺しであることを告げるのだ。
 死罪は免れまい。
 一度死した身だ。死を厭える身の上ではないが、己には使命がある。まだ、縛につくわけにはいかない。
 小暮は理解して、時間をくれるだろうか。小暮は好漢だが、職務に忠実のように見える。
 霧絵は握っていた縄を小暮に見せた。提灯の明かりがちらと揺れる。

「日野の起こすであろう凶事を赦すことができず、私は……彼にこの縄で死に至る呪いをかけてしまいました」
「の、呪いでありますか?」
「はい。私もまた、日野と同じ外道――人殺しでございます」
「……冗談を言っている、というわけではないようでありますな。しかし、人がそんな呪いをかけられるものでしょうか」
「それは……私が死人であったからに相違ありません」
「はあ…………え?」
「長い話になるかと思いますが、小暮さまにお伝えしておきとうございます」

 訥々と、霧絵は語った。
 氷室家に課された因業のこと。縄の巫女である己が担う使命のこと。怨霊となって犯した数々の罪のこと。甦った己と封じたはずの黄泉の門のこと。そして――これから己が為そうとしていること。
 知らぬ者には、読本に記されるような荒唐無稽な出来事と受け取られるであろう数々の事実。
 最初、小暮は難しい顔をしていたが、話が進むにつれて見る見る蒼褪めていった。ひょっとしたら、小暮は幽霊といった類が苦手なのかもしれない。いや、事実そうなのだろう。
 失礼な話だが、小暮の思わぬ愛嬌を見て、霧絵は可愛らしいと思った。
 語り終え、霧絵はふうと息を吐いた。思えば、こんな風に己のことを語ったのは初めてだ。“あの方”は己の想いを汲んでくれたが、彼女の話を聞いてくれたわけではない。
 吐息と共に、ずっと溜まっていた澱みが吐き出されていくのを感じた。ずっと、誰かに聞いてほしかったのだ。今になって、霧絵は自分の心情に気づいた。
 小暮はぶるりと身体を震わせ、霧絵よりも長く息を吐いた。幾分、立派な体躯が縮んだように感じる。

「……申し訳ありませんが、自分は幽霊といったものは信じない性質であります。呪いもまた同様です」
「……左様でございますか」
「ですが、氷室さんが嘘を吐いているとも思えないであります。少なくとも、それが氷室さんにとっての事実であることは疑いません」

 肩を落とした霧絵に、小暮の穏やかな声がかかる。

「自分は頭が悪いでありますから、小難しいことは分かりません。重要なのは、氷室さんがまだ日野を殺していないということであります。その呪いは効果が出るのに時間がかかるのでしたな。ならば、まだ罪を犯してはいないということであります。これから日野を捕え、呪いとやらを解けば済むことでありましょう」
「いいえ、私は既に科人でございます。死して我を失い、数多くの命を奪いました。無間地獄が相応しい亡者にございます」
「氷室さんは亡者などではないでありますよ。呼吸する幽霊など、聞いたことがありません。生きた人間です。加えて、幽霊の時分に起きたことなど知ったことではありません。自分は幽霊など信じませんから。これが、自分にとっての事実であります。何より自分は、百の証言よりも自分の目で見たものを信じたいであります」

 霧絵は小暮の顔を見上げた。まだ頬は蒼褪めていたが、瞳には力強い光が宿っている。

「氷室さんは、人を殺せるようには見えないでありますよ」

 温かい言葉に、涙が毀れそうになる。霧絵は俯いて、それを隠した。
 それに、と小暮は続けた。

「及ばずながら、自分は氷室さんに同行したいと思います。凶悪犯が少なくとも二人も潜んでいる街中に女性を放って置くなど、自分には出来かねますから。第一、日野の齎した情報が事実ならば、自分は氷室さんを含めた善良な市民を守らねばなりません。その過程で、件の捜し人も見つかりましょう」
「されど、私ではただの足手纏いとなってしまいます。小暮さまのお仕事に障りが……」
「そんなことはないであります! 自分はとても心強いであります!」

 ぶんぶんと首を振り、小暮が否定する。

「そういうことですから、仮に呪いが本当だとしても、氷室さんには今後そんなことは自分がさせません。そう約束します。自分たちの本分は市民を守ることでありますから。危険からは勿論、そうした汚れ役からも」

 小暮は腰を屈め、霧絵を見つめた。

「だから、氷室さんもそんなものは決して使わないと約束してください。人を呪うなど、若い女性がなさってはいけないであります」
「……承知いたしました」

 自然と笑みが毀れた。笑うのも、本当に久方ぶりだ。約束の証として、縄は懐に仕舞った。
 真剣な面持ちだった小暮は慌てたように腰を上げた。

「……そうと決まれば善は急げでありますな。誰か犠牲者が出てからでは遅いですから」
「はい」

 霧絵は頷いた。小暮に倣って足を踏み出すと、忘れていた痛みが鋭く牙を剥いた。

「……怪我でもされているのでありますか?」

 声には出さなかったが、挙動には表れていたらしい。

「……はい。面目ないことですが、実は足を少々痛めておりまして」

 見せてくれとの言葉に従い、霧絵は腰を折って、提灯を足に近付けた。白い足袋の先が朱に染まっている。
 足袋を脱ごうとしたが、衣が傷に触って思わず苦鳴が漏れた。
 目にしてしまったせいか、何もせずとも指先は響くような痛みを訴え始めていた。
 歩くことが出来ないほどのものではないが、歩みは一層遅くなるだろう。
 小暮の申し出と言葉は嬉しかったが、やはり固辞するべきだ。

「小暮さま。やはり、私は御一緒できません。どうか、他の民草のために先へ行ってくださいませ」

 提灯を差し出した霧絵に、小暮は首を振って断った。
 そしてちらちらと霧絵と前方の闇を交互に見やりながら唸った。何かを言いだそうかどうか、迷ってるように見える。
 やがて決心がついたのか、遠慮がちに小暮は口を開いた。

「……氷室さんがご不快でなければでありますが、自分が背負っていくのはどうでしょうか?」
「そんな、そこまでお世話にはなれません」
「そう言われてもですなあ……。提灯とこれの両方持つのは難しいのであります。だから、氷室さんが背後から自分の行く先を照らしてくれると実に助かるのでありますが」

 鉄砲を掲げ、小暮は困った顔をして見せた。そんなはずはないだろうが、これが小暮なりの気遣いなのだろう。
 思わず微笑んで、霧絵はその優しさに甘んじることにした。

「それでは……お願い致します」

 ではと、小暮はしゃがんで背を霧絵に向けた。
 霧絵は脱いだ草履の鼻緒を指で引っかけ、失礼しますと断ってから小暮の背に身を委ねた。小暮の丸太のような首に両腕を回し、腰を彼の左腕の上に乗せて安定させる。
 小暮の広い背中はごつごつとしていたが、大木の根元に身を寄せたような安心感があった。

「重くありませんか?」
「いえ! そんなことは決してないであります!」

 右手に持った提灯を、小暮が熱くないように位置を調整する。

「お足許まで届いておりますか?」
「はっ。見えているであります。では、参りましょうか」
「はい」

 闇の中で、提灯の明かりがぼうと揺れた。


【C-3/一日目夜中】
【小暮宗一郎@流行り神】
 [状態]:満腹、霧絵を背負っている
 [装備]:二十二年式村田連発銃(志村晃の猟銃)[6/8]@SIREN、氷室霧絵@零~zero~
 [道具]:潰れた唐揚げ弁当大盛り(@流行り神シリーズ)、ビニール紐@現実世界(全て同じコンビニの袋に入ってます)
 [思考・状況]
 基本行動方針:目下、凶悪犯の逮捕と一般市民の保護。
 1:一般市民の捜索と保護。
 2:日野と老人を逮捕する。
 3:警視庁へ戻って、報告と犬童警部への言い訳。
 4:何かが起こっている気がしなくもないが……あまり考えたくはない。
 ※霧絵から「零~zero~」で起こったあらましを聞きましたが、信じたくありません。
 ※ここでのルールを知りましたが、信じたくありません。


【氷室霧絵@零~zero~】
[状態]使命感、足の爪に損傷(歩行に支障あり)、疲労(中)、小暮に背負われている
[装備]白衣、提灯@現実
[道具]童話の切れ端@オリジナル、裂き縄@零~zero~
[思考・状況]
 基本行動方針:雛咲真冬を捜しつつ、縄の巫女の使命を全うする。裂き縄の呪いは使わない。
 1:小暮と共に人を捜し、霊及び日野の危険性を伝える
 2:真冬の情報を集める
 3:黄泉の門の封印を完ぺきにする方法を捜す



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最終更新:2012年06月22日 23:39