静かな丘のリトル・ジョン



口論の最中、堰を切ったように泣き出してしまった金髪の少年に、ヘザーと阿部はおろおろするしかなかった。
何も知らない子供から見れば、自分達が銃を持った不良少女とバールを振り回すチンピラにしか見えないことは、ヘザーと阿部も十分自覚していた。
この怪物が闊歩する血と錆びの街を彷徨い、いきなり不良娘とチンピラに遭遇すれば、まっとうな子供であれば泣いて当然である。
もっとも、当の何も知らない子供――の皮を被った殺人鬼から見ても、二人は立派な不良少女とチンピラにしか見えなかったのだが。

「おおおおい、どうすんだコレ。俺のせいか?俺のせいか?」
「あ、慌てないでよっ。それより泣き止ませなきゃ。早くしないと怪物が寄ってくる」
「そ、そうだな。よし、俺に任せろ!」

言うや否や、阿部は汚名返上・名誉挽回とばかりに意気揚々と少年の前に出てしゃがみ込んだ。
チンピラそのものの見た目からは想像できない自信満々な様子に、ヘザーは疑わしげに眉を寄せる。

「…大丈夫なの?悪化させないでよ?」
「心配すんな、こいつを見て笑わねーヤツはいねえ。おいボウズ、そのまま眼ェ閉じてろよ。1,2,3で俺を見るんだ、いいな!?」

いいなと聞きながらも少年の返事は待たず、宣言してすぐ阿部は俯いて両手で何やら顔をいじくり始めた。
ヘザーからは、角度の具合で何をやっているかはよく分からない。しかし見てはいけないような気がするので、無理に覗こうという気は起きない。
殺人鬼は、目の前でチンピラが何をしているのか少し気になりつつもそこは子供、嘘泣きの姿勢のままカウントを待つ。

「よし、いくぞ。1,2,3!」

3のカウントと共に阿部は手を添えたままの顔を少年に向け、少年もほぼ同時に指の隙間を広げて阿部を見た。
お互い目を合わせた二人の間に、一瞬の沈黙が通り過ぎ――

「…ゴホッ!」

少年が大きく咳き込んだかと思うと、弾かれたように阿部の隣に立つヘザーに縋り付いて再び泣き出した。

「あ、ありゃ?おっかしいな」

思ったような反応が得られず首を傾げる阿部に、ヘザーは「この馬鹿!やっぱり悪化したじゃない!」と殺気混じりの目を向けつつも、急いで銃をスカートのベルトに収め、恐慌状態の少年を宥めにかかった。

「ごめんね、怖かったね。もう大丈夫だから。あなたを怖がらせたかったわけじゃないの」

父――ハリーが幼い頃の自分にしてくれたことを切ない心地で思い出しながら、少年の柔らかい金髪の頭と未成熟な背中を優しくさする。

ヘザーの胸元で泣きじゃくる殺人鬼は、思惑通り自分を宥めにかかるヘザーにほくそ笑みつつ、彼女の母性本能をくすぐる“哀れなか弱い少年”を演じる。
まずは抱きしめられた際に体をびくりと震わせ、頭と背中を撫でられるうちに少しずつ警戒心が解けていくように見せるため、徐々に体の緊張を緩めていく。
そしてとどめの一撃に、そっと顔を上に向けて涙に濡れた瞳でヘザーをじっと見つめた。
殺人鬼は、自分の幼く美しい容姿が女性の庇護欲を引き出すことを本能的に知っていた。
そしてそれはヘザーも例外ではなく、彼女は殺人鬼の行動が全て計算尽くであることなど全く知らずに、ぎこちなく微笑んで見せた。

ヘザーを完全に取り込めたことを確信した殺人鬼は、再びヘザーの胸元に頬を寄せて考える。
――さっきのは危なかった。危うく吹き出すところだった。
殺人鬼といえども、まだまだカートゥーンで爆笑できる年齢である。それに阿部が見せたあの顔の衝撃ときたら――ああやばい、また吹き出しそうだ。
しかしあそこで笑ったら負けのような気がしたのだ。それに、本気で爆笑したらか弱いイメージが崩れるし。
猫被りのプライドもある殺人鬼エドワードは、思い出し笑いが治まるまでの間、ヘザーの懐にお世話になったのであった。


天使の容姿と真っ黒な腹を備えた少年が加わった一行は、ひとまず近くの建物の――周囲から丸見えの金網ではなく、赤黒い模様が生き物のように蠢くコンクリートの建物の――隙間に退避する。
阿部に周囲の警戒を任せ、ヘザーは身を屈めてエドワードの泣き腫らした顔を下から覗き込んだ。

「私はヘザー。さっきのおじさんはアベ。怖がらせてしまったけど、実際は噛み付いたりはしないから安心して。
 向こうの女の人はクローディア。この人も…まあ今は大丈夫。でも、何かあったらすぐ言って」

ヘザーは指で阿部とクローディアを示しながら軽く説明する。
その指に従ってクローディアと呼ばれた銀髪の女を見た瞬間、エドワードの青い目が大きく見開かれた。
この女の中で、未知の“力”が密かに胎動している。
量はいささか物足りないものの、質の点においては、病院で遊んだ女から奪ったあの宝石に勝るとも劣らない魅力がある。
宝石の魔力と併せてこの女の中にいる“力”を喰ってしまえば、赤い水で失った力を完全に取り戻すことができるだろう。
エドワードはクローディアという女が、今後の活動において無視できない存在であることを瞬時に理解した。
庇護者候補と共に現れた上質な栄養源に、心の中で歓迎の拍手を叩き鳴らしながら唇を舐める。
しかし、今優先すべきは身の回りを固めることである。エドワードはクローディアを怖がる振りをして、ヘザーの体にそっと身を寄せた。

「あなたは?」
「…エドワード」

エドワードは消え入りそうな声でそう名乗った。
会話の成り立つところまで少年が沈静化したことに安堵したヘザーは、「よろしくね」と努めて穏やかに微笑んだ。
阿部は周囲を警戒しつつも黙したまま事の成り行きを見守り、クローディアは、相変わらず何を考えているのか分からない目でエドワードをじっと観察している。

「エドワード。今まで一人だったの?」
「ううん。病院で知らないおじさんと、お姉さんと遊んでた」
「…おじさん?」

ヘザーの目の色が変わる。
もしやこの少年は、ハリーかもしくはダグラスと遭遇していたのではないか、そんな期待が湧き上がる。

「そのおじさんって、ハリーかダグラスって名前?」
「…分からない。名前、聞かなかったから」
「そっか…」

ヘザーの期待はエドワードの返答でにわかに崩れかけるが、しかし消滅には至らなかった。
前回ここに来た時の記憶や、アレッサであった頃の記憶を掘り起こしながら、この街で病院といえばブルックヘブン病院かアルケミラ病院くらいであろうかと見当をつける。
そこで遊んでいたということは、今行けばひょっとするとどちらかに会える可能性がある。
よしんば既にいなかったとしても、父はライターという職業柄、何かと几帳面にメモをとっておく習慣があるし、ダグラスもひょっとしたら何か痕跡を残しているかもしれない。

しかしそんな僅かな希望も、エドワードが暗い面持ちで続けた言葉によって、あっさり裂壊することとなる。

「でもおじさんはどこかへ逃げちゃったし、お姉さんは死んじゃった」
「…そう、可哀想に」

よく見れば、エドワードの人形のごとく整った顔やショートパンツから伸びるほっそりした太ももには小さな掠り傷が付いており、どこかの名門校の制服と思しき青いジャケットには血痕が付着している。
ヘザーは彼が怪物との戦闘に巻き込まれ、命からがら逃げてきたのだろうと解釈し、俯くエドワードの金髪を労るように撫でた。
そうしながら、彼が遭遇した『おじさん』は、父でもダグラスでもない可能性が高いと考え直す。
エドワードと一緒の現場にいたわけではないので、実際に何が起こったのかは想像の域を出ないが、少なくとも、二人はそれまで遊んでいた子供を放り出して逃げ出すような人間ではないことは知っている。
あくまで経験に基づく勘でしかないのだが、とにかく病院へ行くという選択肢はヘザーの中からすっぱりと切り捨てられた。

一方、ヘザーに頭を撫でられるエドワードの瑞々しい唇は、僅かに弧を描いていた。
それは彼女の優しさに対してではなく、何も知らず殺人鬼に慈悲を傾ける無防備さに対しての嘲笑であった。
――本当はね、ヘザー。おじさんはお化けからじゃなくて、僕から逃げたんだよ。
それにね、お姉さんは死んだんじゃなくて、僕が殺して食べちゃったんだよ。
いずれ力を取り戻したら、ヘザーの服が真っ赤になるまでお腹も頭もたくさんチョキチョキしてあげるからね。
リトル・ジョンのお友達みたいに!

いかにして少女を真っ赤に染め上げるか構想する殺人鬼の内心など知る由もなく、ヘザーはエドワードに名簿を見せようと、ポケットから地図を取り出す。
しかし地図を裏返した瞬間、名簿の変貌ぶりに目を見開いた。後ろから名簿を覗き込んだ阿部も「うお、なんだコリャ!?」と驚きの声を漏らす。
前回確認したきりの名簿には、いつの間にか赤い訂正線が増えていた。
もちろんヘザーは何もやっていないし、阿部やクローディアに至っては触ってすらいない。
だが、ここは怪現象のテーマパークであることを思い出し、ヘザーはすぐに冷静さを取り戻す。

この場にいる者の名前には何もない。
最初はあまり気にしていなかったが、今改めてこの街を支配しているゲームの趣旨から推察してみるに、この訂正線は――死亡者を表していると思われる。
阿部もそれに気がついたようで、恐る恐るヘザーに話しかける。

「…これってよォ、アレだよな…」
「…気が利いてる。有り難くて涙が出てきそう」

気丈に悪趣味なサービスを皮肉るヘザーだったが、不安にかられて父とダグラスの名前を探してしまう。
二人の名前は、記憶通りの場所にちゃんとあった。
双方の名前がまっさらなままであることに、安堵と不安が入り混じる複雑な感情が渦巻いた。
この名簿からはダグラスとハリー・メイソンという名の参加者が健在であるかはっきりとしない。
それに、このハリー・メイソンという名の参加者がはたして本物の父なのか、そして本物であった場合、それは本当にヘザーにとって喜ばしいことなのか。
この疑問は、名簿を見た時から幾度もヘザーの脳内をかき乱している。

そもそもヘザーの記憶の中の父は、ソファーで事切れた姿を最後に時を止めてしまっている。
彼を失った深い悲しみは、やがて時と共に使い込んだレコードのように擦り切れていき、いずれは写真を見るたびに、あるいは先程エドワードを宥めた時のように、ふとした拍子に小さな痛みと懐かしさを伴って思い返されるのだろう。
今のヘザーにとって、ハリーとは本来そうなるのが自然の理と言える存在なのである。
それが、肉の身を纏って目の前に現れたら?
偶然に偶然が重なってそんな人物と真正面から“遭遇”してしまった場合、どうすれば良いのか?
そして、もしこのイカれたゲームを破壊できたならば、その後“彼”はどこへ行くのだろうか?


「オイ、大丈夫か?」

気遣わしげな声によって思考の海から引っ張り出され、ヘザーははっとして阿部を見た。
阿部は不安げにヘザーの顔色を伺っている。
パンキッシュな見た目の割に頼りない所があるが、根は悪くなく、決して底の浅い人間でもないことは、彼の口から語られた数奇な体験談もあり、短い付き合いながらも何となく解ってきた。
平穏とはかけ離れた人生を文字通り幾度も繰り返してきたヘザーにとって、阿部という人間が歩んできた人生には共感するものがあったし、加えて彼の持つちょっと抜けた微笑ましさが、危うく揺れる精神状態をニュートラルに戻して発破をかけてくれる――ような気が、何となくしはじめている。
こういう状態を、なんと言うのだったか。…吊り橋効果?

ふと思考が脱線しつつあることに気づき、ヘザーは「大丈夫」と言葉を返してから、唇をきゅっと引き締めた。
悩んでいても始まらない。とにかく今は、一刻も早く父とダグラスを見つけ、そしてこの忌まわしい街に巣食うクソッタレの害虫どもを速やかに駆逐し、無事帰還することに集中しなければならない。
ヘザーは決意を新たに、エドワードへ向き直った。

「エドワード。この中に知ってる人はいる?」

ヘザーから名簿を受け取ったエドワードは、まず自身の偽名「エドワード」の表記を認め、己が何者かによってこの世界に招待されたことを知る。
そして数多い西洋人の名前の中に、ある少女の名前を見つけて目を瞬いた。

――ジェニファー・シンプソン。
この少女こそ、エドワードがこの街に来る直前に遊んでいた相手であり、エドワードを次元の狭間へ追放した張本人でもあった。
ジェニファーによって開かれた次元の扉に吸い込まれる最中、彼女のブーツに包まれた足を掴んだ際に短剣で刺された痛みは、忌々しくもはっきり覚えている。
自分だけが今までの世界から切り離されたとばかり思っていたが、彼女もここへ迷い込んでいたとは、なんと気の利いた状況であろう。
もっとも、同姓同名の別人である可能性は否定出来ないのだが。

さて、どうするか。
この街にエドワードの本性を知る者が存在するのは面倒だが、それがジェニファーただ一人である点は幸運と言えた。これはもう一度彼女と遊ぶ、またとない機会である。
万が一彼女と遭遇した場合、自分を見てどんな反応を示すかは未知数だが、少なくともヘザーら庇護者と一緒にいる限り大したことはできまい。
10歳の子供を殺人鬼だなどと言い張っても、その場は多少混乱するだろうが、あっさり信用されることはまずないからだ。
むしろ周囲から『子供を殺人鬼呼ばわりする異常者』のレッテルを貼られる可能性すらある。むしろ、普通ならそちらの方が高い確率で起こるだろう。
エドワードにとって重要なのは、あくまで周囲に『善良な弱者』と認識されること。
つまりこれからすべきことは、これまで通り『記憶喪失の少年エドワード』を演じることである――エドワードは名簿を眺める数秒でそう結論づけた。

「皆知らない…僕を知ってる人がいても、多分判らないよ」
「…どういうこと?」

狙い通りの反応を返してくれるヘザーに、エドワードはいかにも同情を引きそうな儚い表情を浮かべ、視線を足元に落として見せる。

「この街に来る前のこと、覚えてないんだ」
「覚えてない?…記憶喪失ってこと?」

エドワードは頷いて肯定する。
ヘザーは困ったように阿部と顔を見合わせた。

「記憶喪失って、マジでか」
「本人がそう言うんだから仕方ないでしょ。それよりも、今はこの子をどうするかの方が問題ね」
「…連れてくのか?でもよ、いざって時に守りきれんのか?」
「難しいけど…でも、置いていくわけにも行かないし。
 せめて安全な場所に連れて行くくらいなら構わないでしょ?
 教会なら、魔除けの呪いとかそういう関係の資料が置いてあるだろうし」

教団に限らず、宗教というものにとって悪魔――異郷の神というべきか――の排除は命題の一つだ。
今この街に跋扈する怪物の中には、教団にとって邪魔となる異郷の神々の眷属も少なからず存在する。例えば、阿部が話していた闇人や屍人なる存在がそれだ。
そういった敵の情報を知ることは戦術の基本である。つまり、教団が蓄えた知識の中に、異郷の神の知識およびそれらを封じ、排除する――例えば邪悪な存在を払うアグラオフォティスや、魔封じの力を持つメトラトンの印章など、退魔の効果を発揮する道具や術式がいくつかある可能性がある。
そしてそれらを使えば、ゾンビや人間など一部の例外を除いた多くの敵が無力化できるかもしれない。
とは言うものの、アレッサの頃ほどの力がない今の自分では、どれほどの効果が得られるかは定かでない。まあやらないよりはマシだろう。

「頑丈な建物でバリケードを作って結界を張っておけば、ある程度エドワードを守ることができるはず」
「…お前って巫女さんみたいだな」
「ミコサン?」
「あー…日本の女の聖職者で、神様の言葉を聞いたり儀式とかで踊ったりすんだ」
「聖職者ね…まあ、当たらずとも遠からずと言ったところかな。…もっとも、神様なんてもう信じちゃいないけど」

ヘザーはその昔、実の母親に神への生贄として使われた忌まわしい過去を思い出す。それに伴って、儀式で負った火傷の痛みが皮膚に蘇り、それを忘れようとまっさらな腕をさすった。

しばらくヘザーと議論を交わした阿部は、大丈夫かよと重々しく溜め息を吐いたものの、もはやヘザーに反対するつもりはないようである。
阿部を説き伏せたヘザーは大きく息を吐くと、地図を折りたたんでポケットにしまい、クローディアを見た。

「…クローディア。この子を連れて行くけど、構わないわね?」

確認の体裁を取ってはいるが、この場合確認と言うよりは強制に近い。
それが身に染みて解っているクローディアは、「私に拒否権はないのでしょう?」と静かな口調で返した。
「そうね」とヘザーは淡白に呟き、改めてエドワードに向き直る。

「エドワード。ちょっと遠いけど、私達と一緒に安全な所へ行かない?」
「…良いの?」
「当たり前でしょ。アベはもう納得してくれたから大丈夫。どう?」
「…うん、行く」

少しの逡巡ののちに(もちろんこれも演技だ)エドワードが頷くと、ヘザーは安堵の表情を浮かべエドワードの手に向けて片手を差し出した。それの意図するところを汲んだエドワードは、彼女のその手に自らの手を絡める。
ヘザーは自身のものより少し小さな手を握り、阿部とクローディアの方に振り返った。

「行くよ」



エドワードを加えた一行は、改めて本来の目的地である教会へ向かうことにした。
子供が加わったことで、ヘザーと阿部は細心の注意を払って街を進む。
先行する阿部が周囲に視界を“借りる”ことのできる存在がいないかこまめにチェックし、視界に引っかかった怪物は弾薬を節約するため極力無視して、そして単体で倒しやすそうな個体ならば打撃で対処し、暗い道をなるべく静かに迅速に駆け抜けた。

視界を“借りる”ため定期的に立ち止まって瞑目する阿部を見て、エドワードは小首を傾げながら隣にいるヘザーに尋ねた。

「ヘザーお姉ちゃん、アベのおじさんは何をしているの?」
「おじっ…俺はまだそんなトシじゃねえよ」
「アベは周りに危険なお化けがいないかチェックしてくれてるの。
 どういう仕組みかはよく分からないけど、他人の視界を借りてるみたいね」
「へえ…そんな力があるんだね。凄いなあ」

ささやかな抗議をさらりと無視され若干へこむ阿部だったが、褒められて少し気を良くして「まーな」と得意気に胸を張った。
単純だなと思いつつも、エドワードは心の中で大いに納得した。
誰にも聞かれていないはずの笑い声を阿部が知っていたのは、あの時視界を“盗まれていた”からなのだ。
この能力は厄介だ。『借りる』などというお上品な表現は相応しくない。なにせ盗まれる側にその自覚はまったくないのである。プライバシーも何もあったものではない。
庇護対象と見られている現在は視界を盗まれる危険性は低いが、それでもこれからは気軽に本性を曝け出すことはできない。エドワードは無邪気な少年の顔の裏で舌打ちした。

そうしながら北へ進むうち、一行はクローディアを捕えた遊園地付近まで戻って来た。
勿論ここで遊ぶ予定はない。バルカン教会で情報が手に入らなかった時は改めて向かうかもしれないが、辿り着くまでに掻い潜らなければならない面倒な仕掛けや危険なトラップを考えると、今は見送るしかない。

阿部がふとヘザーを見ると、エドワードと繋いでいない方の手を自身の華奢な顎に添えながら、喉に魚の骨が引っかかったような表情を浮かべていた。

「浮かねー顔だな、気になることでもあんのか?」
「この街に呼ばれてる大勢の人間…皆して“普通”じゃないみたいね」
「…まあな」

サイレントヒルに因縁を持つヘザー。
教団の手にかかり命を落としたはずのハリー。
神の降臨のために殉教したはずのクローディア。
クローディアによってヘザーを取り巻く運命に巻き込まれたダグラス。
夜見島で人知を超える怪異に遭遇した阿部。
こうして分かっているだけでも、異様に濃い経歴を持つ人間ばかりである。
そして、新たに加わった記憶喪失の少年エドワード。

「エドワードも多分、何かここに引き寄せられる要因があったはず…今は分からないけど」
「つーかよ、あんたやあの不気味な女がココに来んのは別におかしいことじゃねーんだよな。関係者なんだしよ。
 けど、なーんで俺まで巻き込まれちまうんだろーなァ…」
「そういえば、アベはこの街で明らかに異質ね」

複雑な過去を背負っている点以外、阿部はただの日本人と言っていいだろう。
サイレントヒルに縁もゆかりもない彼が、この街に迷い込んだ原因がヘザーにはよく解らない。
彼の過去において特異な出来事である夜見島での一件が、サイレントヒルを支配する邪神と何らかの繋がりがあるのだろうか?
少なくとも、その邪神に深く関わったヘザーには、夜見島の怪異を引き起こした怪物と交差する点は思い当たらない。そもそも、ヘザーの知る邪神には時空に影響を及ぼすような力は無かったはずだ。

「死んだはずの父さんやクローディアがここにいるのなら、さっきアベが話したヤミジマで怪異を起こした存在も無関係ではないかもね。
 それならアベが呼ばれるのは必然と言えるし、死者が歩いててもおかしくない」

ただし、その仮説が正しければ、ここにいるハリーもクローディアも死者ということになってしまうが。

「けどよ、もしそうなら逆に全然関係なさそうな外人が呼ばれるのが謎だろ。
 しかも夜見島どころか、日本ですらねえ外国に集められるとか意味不明じゃねーか?」
「そこなのよね…この街にいる参加者の共通点が分かれば、このゲームの主催者も見えてきそうな気がするんだけど」

深まるばかりの謎に、ヘザーと阿部は揃って釈然としない表情を浮かべた。


何事もなく――厳密には怪物との戦闘を極力回避し続けて何事もなく――遊園地を通り過ぎると、地図が正しければ、もうすぐヘザーがアレッサであった頃に通っていたミッドウィッチ小学校が見えてくるはずだった。
しかし、ヘザーが目にしたのは、見たことのない赤く錆びついた鉄の門だった。
門の向こうは暗くて見えないが、懐中電灯の明かりがほとんど届かないことから、建物は数百メートル先にあると思われる。
暗闇の向こうからは車の走行音が聞こえてくるものの、これまで阿部が行った索敵には何も引っかかっていない。
そして、門を支える薄汚れた石の柱に嵌めこまれたプレートには、ヘザーらアメリカ人にとっては異国情緒溢れる書体で「雛城高校」と記され、赤褐色の汚れが涙のように垂れ落ちている。

「…ヒナシロ高校…?」

まったく見覚えのない名称に首を傾げるヘザーの横から、阿部が首を突っ込む。

「何だこりゃ、日本の高校じゃねーか」

ヘザーは目を見開いて阿部を見た。

「知ってるの?」
「いや、この雛城って学校自体は知らねーけどな。けど見りゃ分かる。このおカタい雰囲気は間違いなく日本の学校だぜ」
「…ねえ、ヤミジマにこの学校はあった?」
「いや、多分なかった」

ヘザーは今度こそ頭を抱えた。
この街が以前と構造が変わっているのは実際に歩いてみて気がついたが、施設が外国のものとそっくり入れ替わっていることにはさすがに絶句した。
この調子では、目指すバルカン教会がきちんとそこに存在しているのかすら怪しく思えてくる。
まさかとは思うが、いや万が一にも起こって欲しくないが、仏教寺院などと入れ替わっていやしないかという不安すら湧いてくる。
そして、サイレントヒルにも夜見島にも関係のない施設が出現したことで、ヘザーの心の内に無視できない危機感がじわりと浮かび上がった。
――もしかすると、この街で起こっている異常は今まで思っていたよりも深刻なものなのかもしれない、と。

「なあ、ここってバリケードに使えるんじゃねーか?」
「ここが?」
「日本じゃ学校は地震とかがあった時の避難所になるんだぜ。多分、頑丈にできてんじゃねーかな」
「…あんたにしては冴えた意見ね、ちょっと見直したわ。OK、候補に入れとく」


異国の学校の門前で話し込むヘザーと阿部を、エドワードとクローディアは付近のT字路から見つめていた。

「記憶喪失だそうね」

エドワードの背中に無機質な女の声がかかった。
振り返ると、クローディアがエドワードを見下ろしていた。ニコリともしない陰気な顔であったが、その色素の薄い目だけは、何かに魅入られたかのように爛々と輝いて見えた。
その視線からはクローディアの意図が読めず、エドワードは彼女を見上げたまま沈黙を返す。

「本当だとしたら、とても気の毒なことだわ」

疑われているのかとエドワードは思った。
その口ぶりは明らかに気の毒だなどと思ってはいない。自分を見つめる氷のような色の瞳からは、実験用のモルモットやマウスを観察する研究者ような、冷静な好奇心しか感じられなかった。

「あなたが望めば、私はあなたの力になる」

だが、少なくともこのクローディアという女は、自分と敵対する意思は今のところ無いようだ。
何を企んでいるのか知らないが、自分を取り込みたがっているように感じられる。

「今すぐ決めろとは言わないわ。じっくり考えてみると良い」

あなたが望めば――?
では、お前の腹の中に眠っている“それ”をよこせと言えば、この女は何と言うだろうか。
そんな黒い好奇心が疼いたが、エドワードは今は“哀れな少年”を演じることに徹し、ひとまず無言を貫いた。

――クローディアは、エドワードの記憶喪失を疑ってはいない。
と言うより、このエドワードと名乗る少年がどんな過去を持っていようが、そして猫を被っていようが狐が化けていようが問題ではなかった。
重要なのは、目的達成のために使えるか否か。
己の力がどこまで使えるかを確認できれば良い。上手く行けば使える手駒が増えるし、もし思ったような結果を得られなくても、それは今後の活動内容をより具体的に組み立てる判断材料となる。
そして、もしこの少年が神の降臨の邪魔になるようであれば――

「色よい返事を待っているわ」

時刻は夜も深まり、あと一刻も経てば深夜に突入するであろう頃の出来事であった。



【A-3/雛城高校校門前/一日目真夜中】


【ヘザー・モリス@サイレントヒル3】
 [状態]:見知らぬ異国の施設への困惑、この場所へ呼んだ者への殺意
 [装備]:SIGP226(装弾数15/15予備弾21)
 [道具]:L字型ライト、スタンガンバッテリー×2、スタンガン(電池残量5/5)、携帯ラジオ、地図、ナイフ
 [思考・状況]
 基本行動方針:主催者を探しだし何が相手だろうと必ず殺す。
 0:どうして日本の学校がこんな所に?
 1:教会へ向かう。
 2:エドワードを安全な所へ連れて行く。
 3:他に人がいるなら助ける。
 4:名簿の真偽を確かめたい。

【阿部倉司@SIREN2】
 [状態]:健康、日本の学校の存在への疑問
 [装備]:バール
 [道具]:懐中電灯、パイプレンチ、目覚まし時計
 [思考・状況]
 基本行動方針:戦闘はなるべく回避。
 0:なんで日本の学校がこんなとこに?
 1:ヘザーについていく。
 2:まともな武器がほしい。
 3:どうなってんだこの名簿?


【A-3/雛城高校付近のT字路/一日目真夜中】


【クローディア・ウルフ@サイレントヒル3】
 [状態]:良質な実験体を見つけてやや気分が高揚、神の成長は初期段階
 [装備]:無し
 [道具]:無し
 [思考・状況]
 基本行動方針:神を降臨させる。
 0:この子は、使えるかも。
 1:ヘザ―に逆らわない。しかし神が危険な場合はその限りではない。
 2:邪魔者は排除する。
 3:赤い物体(アグラオフォティス)は見つけ次第始末する。
 4:アベを“生まれ変わらせて”みたい。

 ※神はいったんリセットされ、初期段階になりました
 ※アグラオフォティスを所持すると、吐き気に似た不快感を覚えます
 ※力の制限は未知数(被検体が悪い)。物語の経過にしたがって変動するかもしれません

【エドワード(シザーマン)@クロックタワー2】
 [状態]:健康、所々に小さな傷と返り血、魔力消費(大)。
 [装備]:特になし。
 [道具]:『ルーベライズ』のパワーストーン@学校であった怖い話
 [思考・状況]
 基本行動方針:皆殺し。赤い液体の始末。
 0:阿部を強く警戒。
 1:クローディアの胎内の神に強い興味。
 2:か弱い少年として振る舞い、集団に潜む。
 3:魔力を取り戻す為、石から魔力を引き出したい。
 4:相手によっては一緒に「遊ぶ」。

 ※魔力不足で変身できません。が、鋏は出せるようです。(鋏を出すにも魔力を使用します)
 ※エドワードは暗闇でも目が見えるようです。魔力によるものか元々の能力なのかは不明です。
 ※『ルーベライズ』のパワーストーンに絶大な魔力を感じていますが、使い方は分かっていません。
  石から魔力を引き出して自分の魔力に出来るのかどうかは不明です。



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混ぜるな危険 阿部倉司 My dear sweet sister
混ぜるな危険 クローディア・ウルフ My dear sweet sister
混ぜるな危険 エドワード(シザーマン) My dear sweet sister

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最終更新:2013年05月28日 20:46