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1905●「令和」始まる

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 2019年(平成31年)4月30日午後12時、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づいて第125代天皇明仁が退位し、翌5月1日午前0時、皇太子徳仁(なるひと)親王が皇位を継承し第126代天皇に即位した。皇太子妃雅子は皇后となった。これに伴い、「元号法」並びに「元号を改める政令」の規定に基づき、元号が「平成」から「令和」に改められた。明仁は上皇、皇后美智子は上皇后となった。
 徳仁は、仁孝天皇以来およそ202年ぶり、かつ、一世一元の制となった明治以降初めて、存命中の先帝からの譲位に伴い即位した天皇となった。
 新元号「令和」の典拠は「万葉集」の巻五、梅花の歌三十二首の序文にある「初春令月、氣淑風和」(大伴旅人か山上憶良の文と推測される)で、確認される限りにおいて初めて漢籍ではなく日本の古典(国書)から選定したという。新元号への対応準備の期間を確保する必要があることから、憲政史上初めて新元号が改元の1か月前となる4月1日に「事前公表」されていた。菅官房長官が記者会見で新元号を発表、安倍首相が「『人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ』という意味を込めた」と「談話」で説明した。

即位の儀

 天皇の代替わりに伴う10連休が4月27日にスタートし、一連の行事が行われた。 5月1日には、剣璽等承継の儀が国事行為として、成年の男性皇族、三権の長や閣僚ら26人が参列する中松の間で行われ、これに合わせて宮中三殿では、徳仁に代わって掌典長が徳仁が即位した旨の御告文を読み上げる「賢所の儀」と「皇霊殿神殿に奉告の儀」とが行われた。その後、即位後朝見の儀が、皇后となった雅子やその他の女性皇族も出席した上で、290人余りが参列して行われた。徳仁は、「象徴としての務めを果たし、国民を思い国民に寄り添っていく」と天皇として初めて「おことば」を述べた。5月4日には新天皇の即位を奉祝する一般参賀が皇居で行われ、天皇が「おことば」を述べた。
 ときをおいて、10月22日、「即位礼当日賢所大前の儀」、さらに「即位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」が宮中三殿で行われた後、即位礼正殿の儀が行われた。徳仁は内外に即位を宣言し、象徴としての務めを、憲法を守り、日本の成長と世界平和を願いながら果たすことを誓った。その後、内閣総理大臣の安倍晋三が祝詞にあたる「寿詞」を読み上げ、万歳三唱を行った。その後饗宴の儀が行われ、招待国の元首や首脳らと天皇・皇后が会食した。翌10月23日には、内閣総理大臣夫妻主催晩餐会が、招待国の元首・首脳らを招いて行われ、文化行事では能や狂言が披露された。饗宴の儀は2回目が10月25日に各界の代表者や三権の長など約400人が招かれて、3回目が10月29日に台風被災地の知事や国会議員など約680人が参加して、最終回の第4回が10月31日に駐日外国大使や各界の代表者など約690人が参加して行われた。
 11月14日には、伊勢神宮で徳仁の使いが祝詞を奏上し、大嘗祭の成功を祈願し、同日「大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀」と「大嘗祭当日皇霊殿神殿に奉告の儀」が宮中三殿で行われ、大嘗祭の実行が報告された。そして同日18時半過ぎから、徳仁が大嘗宮において国家安寧と五穀豊穣を祈り御告文を読み上げ、神々に供え、自らも食べる「大嘗宮の儀」が、約510人の参列のもと行われ、まず「悠紀殿供饌の儀」が、次に「主基殿供饌の儀」が翌15日0時30分頃から行われた。
 12月4日には、午前に宮中三殿で、即位の礼と大嘗祭の終了報告を行い、午後には賢所で神楽を演奏し、天照大神に感謝を表明した。これで即位に伴う儀式は全て終了した。

新天皇・徳仁

 新天皇・徳仁(なるひと)は1960年(昭和35年)2月23日に皇太子(当時)・明仁と美智子妃の第1皇男子として生まれた。称号は浩宮(ひろのみや)。弟に秋篠宮文仁親王、妹に清子内親王がいる。
 学習院大学に学び、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに留学、さらに学習院大学大学院を修了した。専攻は史学。
 1989年に、父・明仁の天皇即位に伴い皇太子に。1993年に小和田雅子と結婚。皇女子・愛子をもうけた。
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