dunpoo @Wiki
●敗戦と占領
最終更新:
Bot(ページ名リンク)
-
view
●敗戦と占領(1945)
敗戦
本土空襲
44年末ごろから、日本本土は連日のように米軍機による空襲を受けた。とりわけ東京は、45年3月9日夜半から10日早朝にかけて、焼夷弾による無差別爆撃で、江東区をはじめ下町一体が焼け野原となり、約10万人が死亡した。東京は4月、5月にかけても空襲を受け、ほとんど市街地の全域が廃墟と化した。その後全国の大都市はもとより中小都市にまで空襲は及び、焼失家屋240万、死者20万人、負傷者27万人(原爆による被害を除く)に上った。
沖縄戦
45年2月には硫黄島が米軍の手に落ち、4月1日にはついに沖縄本島に米軍が上陸した。
日本軍守備隊約10万と現地召集の一般住民による郷土防衛隊(学徒隊員を含む)は、制海権・制空権をまったく失った状況下で、圧倒的物量を誇る米軍に対して、壮烈かつ絶望的な闘いを3ヵ月余り続けた。6月23日、日本軍は玉砕し、組織的戦闘は終わりを告げ、沖縄は米軍の占領するところとなった。沖縄戦の死者は、日本側軍人と民間人ともに約10万人、米軍側の死者は約1万2000人と推計されている。
日本軍守備隊約10万と現地召集の一般住民による郷土防衛隊(学徒隊員を含む)は、制海権・制空権をまったく失った状況下で、圧倒的物量を誇る米軍に対して、壮烈かつ絶望的な闘いを3ヵ月余り続けた。6月23日、日本軍は玉砕し、組織的戦闘は終わりを告げ、沖縄は米軍の占領するところとなった。沖縄戦の死者は、日本側軍人と民間人ともに約10万人、米軍側の死者は約1万2000人と推計されている。
ポツダム宣言「黙殺」
45年4月に成立した鈴木貫太郎内閣は、戦争終結の方策を真剣に考えるようになった。6月まだ中立関係にあったソ連を通じた和平工作に着手したが、それはソ連が対日参戦を密かに約したヤルタ会談のあとであり、まったく虚しい行為であった。
7月26日米英中3国の名のもとに出されたポツダム宣言に対して、鈴木首相はこれを黙殺すると発表した。日本の新聞はこれを小さく報じた。
7月26日米英中3国の名のもとに出されたポツダム宣言に対して、鈴木首相はこれを黙殺すると発表した。日本の新聞はこれを小さく報じた。
原爆投下
ポツダム宣言を「黙殺」している間、8月6日広島に、9日長崎に米軍戦闘機により原子爆弾が投下された。一瞬のうちに市街は壊滅し、人びとが死んだ。死者の数は、広島で20万、長崎で7万人と推計されている。その大部分は女性や子どもを含む非戦闘員であった。灼熱に焼き尽くされた街と生き残った人びとの上にその後大量の放射能を含んだ「死の雨」が降り注ぎ、更に多くの被害者=「被爆者」を生むのであった。
ポツダム宣言受諾
8月8日、ソ連が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦、満州、樺太・千島に侵攻した。このことは、原爆投下よりも日本の指導者層を震撼させた。
政府・軍部(大本営)の最高首脳からなる最高戦争指導会議では、ポツダム宣言受諾を説く東郷茂徳外相・米内光政海相らと、本土決戦に望みを託して戦争継続を主張する阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長らとの間の意見対立があり結論がでなかった。8月10日、14日の再度にわたる御前会議で、鈴木陸相の要請によって昭和天皇が裁断を下すという異例の形で、ポツダム宣言の受諾が決まった。この決定は、14日夜、中立国スイスを通じて連合国側に通知された。そして翌15日正午、天皇自身によるラジオ演説(玉音放送)でこのことは国民に明らかにされた。
8月17日、降伏・占領に対する軍の抵抗を懸念して、皇族である東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王を首班とする内閣が発足した。
米軍の先遣隊188人が8月28に神奈川県の厚木海軍基地に到着したあと、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が30日マニラから沖縄経由で同基地に到着した。同日米空挺師団の輸送機150機が4200人の部隊を乗せて飛来して、日本の占領は始まった。おおきな混乱もなく、内外地軍の武装解除や、連合国軍進駐の受け入れが実行されていった。そして9月2日、横須賀沖に停泊中の米戦艦ミズーリ号上で、日本と連合国との降伏文書調印式が行われた。日本側は重光葵(まもる)外相、梅津美治郎陸軍参謀総長が署名した。ここに、未曾有の惨害と犠牲をもたらした太平洋戦争、そして同時に第二次世界大戦は終わりを告げたのである。
政府・軍部(大本営)の最高首脳からなる最高戦争指導会議では、ポツダム宣言受諾を説く東郷茂徳外相・米内光政海相らと、本土決戦に望みを託して戦争継続を主張する阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長らとの間の意見対立があり結論がでなかった。8月10日、14日の再度にわたる御前会議で、鈴木陸相の要請によって昭和天皇が裁断を下すという異例の形で、ポツダム宣言の受諾が決まった。この決定は、14日夜、中立国スイスを通じて連合国側に通知された。そして翌15日正午、天皇自身によるラジオ演説(玉音放送)でこのことは国民に明らかにされた。
8月17日、降伏・占領に対する軍の抵抗を懸念して、皇族である東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王を首班とする内閣が発足した。
米軍の先遣隊188人が8月28に神奈川県の厚木海軍基地に到着したあと、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が30日マニラから沖縄経由で同基地に到着した。同日米空挺師団の輸送機150機が4200人の部隊を乗せて飛来して、日本の占領は始まった。おおきな混乱もなく、内外地軍の武装解除や、連合国軍進駐の受け入れが実行されていった。そして9月2日、横須賀沖に停泊中の米戦艦ミズーリ号上で、日本と連合国との降伏文書調印式が行われた。日本側は重光葵(まもる)外相、梅津美治郎陸軍参謀総長が署名した。ここに、未曾有の惨害と犠牲をもたらした太平洋戦争、そして同時に第二次世界大戦は終わりを告げたのである。
戦争の被害
大東亜戦争・太平洋戦争・十五年戦争
占領のはじまり(1945)
占領機構
日本は、ポツダム宣言受諾=連合国への降伏の結果として、1945年9月2日の降伏文書調印から1952年4月28日の講和条約発効までの7年間、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters of Supreme Commander for the Allied Powers = GHQ-SCAP)による占領・統治を受けることとなった。GHQの最高司令官は、ダグラス・マッカーサーが任命された。
連合国軍とはいっても、実態はアメリカ軍による単独占領であった(南樺太・千島はソ連が占領した)。南西諸島・小笠原諸島以外は直接軍政をしかず、既存の日本政府の機関・機構を利用して、GHQによる間接統治を行った(同じ敗戦国であるドイツは、分割占領でありかつ直接統治を受けた)。
占領政策決定の最高機関は、ワシントンに置かれた極東委員会で、米英中ソ豪仏印加NZ比の11ヵ国に、のちにビルマ・パキスタンが加わり13ヵ国で構成された。しかし、極東委員会が実際に機能し始めるのは46年2月末のことで、それまでの占領政策は、占領軍の中核を担う米国の方針がほぼそのまま実施されたし、その後においても占領政策における米国の地位は支配的であった。東京には、米英ソ中からなる対日理事会が置かれたが、これは最高司令官にとって一種の諮問・協議・助言機関であり、のちの農地改革とソ連からの引き上げ問題以外には大きな役割を果たさなかった。
なお、日本政府は9月20日いわゆるポツダム緊急勅令を公布し、総司令部の指令に基づいて法律の制定を待たずに命令を発することができるようにした。帝国憲法にある緊急勅令の条項を利用してあくまで総司令部の指令の合法性を外形的に確保しようとしたのである。
連合国軍とはいっても、実態はアメリカ軍による単独占領であった(南樺太・千島はソ連が占領した)。南西諸島・小笠原諸島以外は直接軍政をしかず、既存の日本政府の機関・機構を利用して、GHQによる間接統治を行った(同じ敗戦国であるドイツは、分割占領でありかつ直接統治を受けた)。
占領政策決定の最高機関は、ワシントンに置かれた極東委員会で、米英中ソ豪仏印加NZ比の11ヵ国に、のちにビルマ・パキスタンが加わり13ヵ国で構成された。しかし、極東委員会が実際に機能し始めるのは46年2月末のことで、それまでの占領政策は、占領軍の中核を担う米国の方針がほぼそのまま実施されたし、その後においても占領政策における米国の地位は支配的であった。東京には、米英ソ中からなる対日理事会が置かれたが、これは最高司令官にとって一種の諮問・協議・助言機関であり、のちの農地改革とソ連からの引き上げ問題以外には大きな役割を果たさなかった。
なお、日本政府は9月20日いわゆるポツダム緊急勅令を公布し、総司令部の指令に基づいて法律の制定を待たずに命令を発することができるようにした。帝国憲法にある緊急勅令の条項を利用してあくまで総司令部の指令の合法性を外形的に確保しようとしたのである。
民主化指令
総司令部がまず行ったのは、重要な戦争犯罪人の摘発であった。9月11日、東條英機元首相ら開戦時の閣僚を含む39人のA級戦犯容疑者が逮捕された。おくれて12月6日にはさらに木戸幸一、近衛文麿ら9人がA級戦犯容疑者に指名された。近衛は逮捕直前に服毒自殺した。
つぎにマッカーサーは、「降伏後における米国の初期の対日方針」を日本政府に伝えた(9/22)。そこには、「最高司令官は・・・・・・天皇を含む日本政府機構及び諸機関を通じて其権限を行使すべし」と、間接統治の原則が掲げられていた。そして、(1)封建的・権威主義的傾向を改めようとする「政治的形態の変更」は「許容されかつ支持せられ」、かつそのための政府や国民の実力行使には占領軍は「干渉しない」こと、(2)政治犯の釈放などを含む宗教的自由・政治的自由の保障、(3)日本の商工業を支配する「産業上及金融上の大コンビネーション」(財閥)の解体などが示されていた。
この文面には、アメリカ側には、民主化や自由化を日本政府や日本国民が自ら進めていくであろうという期待をある程度持っていたことがうかがえる。しかし、日本政府がまったくそのような自主性を持っていなかったことは、すぐに明らかになった。初期対日方針が政治犯の釈放を指示した4日後の9月26日、この年3月から治安維持法違反で豊多摩拘置所に拘留されていた哲学者の三木清が獄死した。このことに関連して岩田法相は「政治犯人の釈放の如きは考慮していない」と新聞取材に対して明言した。また山崎内相は「政府形態の変革とくに天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」と語った。
こうした状況を受けて、総司令部は、10月4日いわゆる「人権指令」を発した。治安維持法など国民の自由を抑圧する法律の廃止、政治犯の釈放、特別高等警察の解体などを命じたのである。
この指令を「実行不可能」として、東久邇内閣は翌日総辞職した。後継首相には、総司令部の内諾を得て、幣原喜重郎が天皇から指名され、10月9日に組閣した。幣原は、戦前の政党政治期に外相として国際協調的な外交政策を展開したことで知られる。
幣原内閣のもとで、10月10日以降、2465人の政治犯・思想犯が釈放された。なかには徳田球一・志賀義雄・宮本顕治ら、非転向を貫き獄中に10数年を過ごした共産党の指導者らもいた。治安維持法をはじめ自由を制限する15の法律と関係法令が廃止され(治安維持法廃止は10/15)、思想弾圧の機関である特高や内務省警保局が廃止された。また内相・警保局長・警視総監・都道府県や大都市の警察部長ら約4000人が罷免された。
マッカーサーは矢継ぎ早に改革の指令を出した。10月11日幣原がはじめて訪問した際、マッカーサーは「五大改革指令」といわれるものを口頭で伝えた。(1)憲法の自由主義化と婦人参政権の付与、(2)労働組合の結成奨励、(3)教育制度の改革、(4)秘密警察などの廃止、(5)経済の民主化、である。
これらも幣原は比較的すみやかに実行した。婦人参政権を盛り込んだ改正衆議院議員選挙法(12/15)、労働組合法(12/18)を成立させ、財閥解体については、四大財閥の自発的解体計画をGHQに提出した(11/4)。
総司令部は11月1日さらに包括的な「日本占領及び管理のための連合国軍最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」を日本政府に与えた。そこには日本の軍事占領の基本目的、政治的・行政的改組、非軍事化、賠償方針、経済方針などについての詳細な方針が記されていた。
つぎにマッカーサーは、「降伏後における米国の初期の対日方針」を日本政府に伝えた(9/22)。そこには、「最高司令官は・・・・・・天皇を含む日本政府機構及び諸機関を通じて其権限を行使すべし」と、間接統治の原則が掲げられていた。そして、(1)封建的・権威主義的傾向を改めようとする「政治的形態の変更」は「許容されかつ支持せられ」、かつそのための政府や国民の実力行使には占領軍は「干渉しない」こと、(2)政治犯の釈放などを含む宗教的自由・政治的自由の保障、(3)日本の商工業を支配する「産業上及金融上の大コンビネーション」(財閥)の解体などが示されていた。
この文面には、アメリカ側には、民主化や自由化を日本政府や日本国民が自ら進めていくであろうという期待をある程度持っていたことがうかがえる。しかし、日本政府がまったくそのような自主性を持っていなかったことは、すぐに明らかになった。初期対日方針が政治犯の釈放を指示した4日後の9月26日、この年3月から治安維持法違反で豊多摩拘置所に拘留されていた哲学者の三木清が獄死した。このことに関連して岩田法相は「政治犯人の釈放の如きは考慮していない」と新聞取材に対して明言した。また山崎内相は「政府形態の変革とくに天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」と語った。
こうした状況を受けて、総司令部は、10月4日いわゆる「人権指令」を発した。治安維持法など国民の自由を抑圧する法律の廃止、政治犯の釈放、特別高等警察の解体などを命じたのである。
この指令を「実行不可能」として、東久邇内閣は翌日総辞職した。後継首相には、総司令部の内諾を得て、幣原喜重郎が天皇から指名され、10月9日に組閣した。幣原は、戦前の政党政治期に外相として国際協調的な外交政策を展開したことで知られる。
幣原内閣のもとで、10月10日以降、2465人の政治犯・思想犯が釈放された。なかには徳田球一・志賀義雄・宮本顕治ら、非転向を貫き獄中に10数年を過ごした共産党の指導者らもいた。治安維持法をはじめ自由を制限する15の法律と関係法令が廃止され(治安維持法廃止は10/15)、思想弾圧の機関である特高や内務省警保局が廃止された。また内相・警保局長・警視総監・都道府県や大都市の警察部長ら約4000人が罷免された。
マッカーサーは矢継ぎ早に改革の指令を出した。10月11日幣原がはじめて訪問した際、マッカーサーは「五大改革指令」といわれるものを口頭で伝えた。(1)憲法の自由主義化と婦人参政権の付与、(2)労働組合の結成奨励、(3)教育制度の改革、(4)秘密警察などの廃止、(5)経済の民主化、である。
これらも幣原は比較的すみやかに実行した。婦人参政権を盛り込んだ改正衆議院議員選挙法(12/15)、労働組合法(12/18)を成立させ、財閥解体については、四大財閥の自発的解体計画をGHQに提出した(11/4)。
総司令部は11月1日さらに包括的な「日本占領及び管理のための連合国軍最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」を日本政府に与えた。そこには日本の軍事占領の基本目的、政治的・行政的改組、非軍事化、賠償方針、経済方針などについての詳細な方針が記されていた。
天皇・マッカーサー会見
45年9月27日、天皇はアメリカ大使館にマッカーサーを訪ねた。このとき米側が撮った写真は、略装の開襟シャツ姿で腰に両手をあてゆったりと立つマッカーサーの隣に、首一つ背丈の低い天皇がモーニング姿で直立不動の姿勢をとっているものだった。翌々日の各新聞はいっせいにこの写真を一面トップに掲げた。内閣情報局はそれを「不敬」として即時発売禁止にしたが、総司令部はすぐにこの措置を撤回させた。この一枚の写真は、日本の敗者の立場、米に従属する立場をはっきりと国民に自覚させたのであった。
この初回の会見以来、天皇とマッカーサーの会見は計11回行われた。
この初回の会見以来、天皇とマッカーサーの会見は計11回行われた。
政党の復活と総選挙
選挙法改正
幣原内閣のもとで進められた選挙法の改正作業は、全過程を通じてGHQの介入がほとんどなく進んだ。婦人参政権についても、マッカーサーが5大改革指令で言及する前に、閣議で了解がなされていた。
改正の骨子は、(1)婦人に参政権を与えるほか、(2)選挙権・被選挙権を得る年齢をそれぞれ5歳ずつ引き下げて20歳、25歳とする、(3)大選挙区・制限連記制を採用する、(4)選挙運動の制限を緩和する、ということであった。
(1)と(2)によって当然ながら有権者数は相当拡大した。42年の翼賛選挙時の有権者数が1459万人であったのに対して、3688万人となった。
大選挙区・制限連記制とは、原則として各都道府県をそれぞれ一つの選挙区とし、各選挙区の定数は人口に比例して配分する。この結果定数が15人以上となる選挙区は二つに分割される。そして定数10人以下の選挙区では2人の候補者名を、11人以上の選挙区では3人の候補者名を一枚の投票用紙に書いて投票することができる。
また、選挙運動については、これまで官憲が広く干渉できたのを改め、原則自由となり、主な制限は戸別訪問の禁止、選挙事務に関係する官公吏の関係区域内での運動の禁止、選挙運動の費用の制限だけとなった。
改正の骨子は、(1)婦人に参政権を与えるほか、(2)選挙権・被選挙権を得る年齢をそれぞれ5歳ずつ引き下げて20歳、25歳とする、(3)大選挙区・制限連記制を採用する、(4)選挙運動の制限を緩和する、ということであった。
(1)と(2)によって当然ながら有権者数は相当拡大した。42年の翼賛選挙時の有権者数が1459万人であったのに対して、3688万人となった。
大選挙区・制限連記制とは、原則として各都道府県をそれぞれ一つの選挙区とし、各選挙区の定数は人口に比例して配分する。この結果定数が15人以上となる選挙区は二つに分割される。そして定数10人以下の選挙区では2人の候補者名を、11人以上の選挙区では3人の候補者名を一枚の投票用紙に書いて投票することができる。
また、選挙運動については、これまで官憲が広く干渉できたのを改め、原則自由となり、主な制限は戸別訪問の禁止、選挙事務に関係する官公吏の関係区域内での運動の禁止、選挙運動の費用の制限だけとなった。
政党の復活
敗戦直後の9月1日に召集された臨時帝国議会は実際にほとんど審議をしなかった。このときの議員は42年4月30日の第21回総選挙、いわゆる翼賛選挙で選ばれた議員たちであった。翼賛議員らの会派である大日本政治会が378人と圧倒的多数を占めていた。彼らは敗戦後、解散していた。
新しい選挙法ができ総選挙が近いとなって、政党を再結成する動きが始まった。戦前の政友会につながり、戦時中は院内に反東条系の同交会を形成していた鳩山一郎、安藤正純、芦田均らによって日本自由党が結成された(11/9)。所属議員は46人で、総裁に鳩山、幹事長に河野一郎、総務会長に三木武吉がなった。
一方、翼賛体制主流の旧大日本政治会の多数派は鶴見祐輔らを中心に進歩党として発足した(11/16)。所属議員273人という大所帯ゆえ党内の主導権争いが激しく、結成の日には党首が決まらず、のちに長老・町田忠次を総裁に選んだ。
保守系では、ほかに日本協同党が、協同組合主義を掲げて結成された。委員長に大手出版社・改造社の山本実彦を迎え、船田中・赤城宗徳らが加わった。当初の議員数は23人だった。
戦前の無産政党・社会主義政党は四分五裂であったが、西尾末広、平野力三、水谷長三郎の3人が中心となってそれら各派を糾合して日本社会党を結成した(11/2)。所属議員は15人で、委員長は空席とし、書記長に片山哲(社会民衆党系)を選び、西尾は議会対策部長となった。
指導者たちが獄中より解放された日本共産党は、10月には『赤旗』を再刊し、12月に第4回再建大会を開いて徳田球一を最高指導者である書記長に選び積極的な活動を開始した。
新しい選挙法ができ総選挙が近いとなって、政党を再結成する動きが始まった。戦前の政友会につながり、戦時中は院内に反東条系の同交会を形成していた鳩山一郎、安藤正純、芦田均らによって日本自由党が結成された(11/9)。所属議員は46人で、総裁に鳩山、幹事長に河野一郎、総務会長に三木武吉がなった。
一方、翼賛体制主流の旧大日本政治会の多数派は鶴見祐輔らを中心に進歩党として発足した(11/16)。所属議員273人という大所帯ゆえ党内の主導権争いが激しく、結成の日には党首が決まらず、のちに長老・町田忠次を総裁に選んだ。
保守系では、ほかに日本協同党が、協同組合主義を掲げて結成された。委員長に大手出版社・改造社の山本実彦を迎え、船田中・赤城宗徳らが加わった。当初の議員数は23人だった。
戦前の無産政党・社会主義政党は四分五裂であったが、西尾末広、平野力三、水谷長三郎の3人が中心となってそれら各派を糾合して日本社会党を結成した(11/2)。所属議員は15人で、委員長は空席とし、書記長に片山哲(社会民衆党系)を選び、西尾は議会対策部長となった。
指導者たちが獄中より解放された日本共産党は、10月には『赤旗』を再刊し、12月に第4回再建大会を開いて徳田球一を最高指導者である書記長に選び積極的な活動を開始した。