伏黒甚爾とは、と問われたなら。
 世界に対するイレギュラーであると、そう答えるのが正しい。
 呪力を完全に持たない透明人間。
 ある意味で呪われ、ある意味で祝福された異端の子。

 卓越した術師であればある程騙される。
 存在を探知できない伏兵という想定外に足を掬われる。
 そうして幾多の屍の上に付いた異名が術師殺し。
 当代最高の天与呪縛にして、闇に潜みあらゆる結界を踏破してやって来る術師達の"死"。

「流石に初めてだな」

 そんな男が、感慨すら覚えた様子で呟いた。
 彼は常に追う側として生きてきた。
 当然だ。呪力を持たない彼の存在はあらゆる術式でも結界でも探知する事が出来ないのだから。
 だが今、彼は追われる側として地獄絵図の東京を駆けている。

「何がだ」
「一方的に追われる側になったのは、だよ」

 英霊でありながら人間と変わらない存在情報を持つ彼が。
 常に位置を把握された上で追撃されているのだ。
 これはまさしく異常事態。
 全知を体現する六眼でさえ捉えられない男を、観測し追走する者が居る。

(魔力を視てるわけじゃねえのか。サーモグラフィーみてえなもんかな)

 万全だった頃の峰津院大和や今は領域の中で眠る蘆屋道満でさえ、甚爾を追跡する事は不可能だろう。
 しかし盲いるままに強さを希求し、数百年の時を費やして技を極めたこの鬼だけはそれが出来る。
 上弦の参・猗窩座。『修羅』。
 その羅針盤は甚爾の存在を常に観測し続け、羅針の範囲を出るまで決して見逃さない。
 魔力も呪力も微塵も持たない甚爾だが、肉体の特異性故に猗窩座の探知する"闘気"は人一倍有している。
 どれほど優れた術師の視座をも欺く猿を誅する事が出来る唯一の存在。
 まさに――

「天敵、とまでは言い過ぎだけどな」

 くるりと身を翻す。
 そして握った刀身を振り抜いた。
 猗窩座はそれを拳捌きでいなし、膝をかち上げて甚爾の顔面を粉砕せんとする。
 触れれば砕くと無言の内に豪語するそれを、甚爾は片手で止めた。
 猗窩座の眉が動く。彼は上弦の中でも随一の膂力を持つ鬼だ。
 一切の加減なく放った攻撃を素手で止められたのは、数百年を合算しても初めてのことだった。

(天与、か……)

 誰よりも強さに執着し生きてきた猗窩座にはすぐに理解出来た。
 並外れて色濃い闘気、鬼の膂力すら涼しげに受け止める肉体。
 これぞまさしく天賦。天の与えた祝福(のろい)であろうと。
 とはいえ、膝を握り潰されながらでも戦闘を継続出来るのは鬼種の特権だ。
 返す刀で放つは――破壊殺・脚式。
 流閃群光の乱打を甚爾は刀捌きと体術のみで一発残さず躱していく。

(流石はサーヴァント。特級相当だな、面倒臭いことこの上ねえ)

 呪霊の等級に当て嵌めるなら間違いなくその域だ。
 討伐に戦略兵器、最低でもクラスター爆弾級の火力を要する次元違いの怪物。
 では、それと刀一本肉体一つで渡り合う所業は何事か。
 怪物なのはどちらも同じ。
 鬼と人、それぞれの土俵でその二文字を体現する武の化身同士が此処に果たし合っている。

「追い掛けられるのは正直想定外だった。ただ、喧嘩売ってきたのはそっちだ」

 甚爾の腕が消える。
 いや、消えた風に見えただけだ。
 上弦の目をして軌跡を追うのが限界の挙動。
 これを人間の頃から据え置きの身体能力で成し遂げるのは何の冗談か。

 猗窩座は上弦の鬼として何十、何百という鬼狩りを屠ってきた。
 その中でもごくごく僅かな、修羅の首に迫った者達。
 煉獄杏寿郎。冨岡義勇。そして竈門炭治郎。
 そうした選りすぐりの強者達ですら――こと純粋な能力値の勝負では比較にならない。
 人として生まれ落ちた鬼。
 鬼神の如き男であると、本物の鬼をしてそう看做す他はなかった。

「こちとら育ちが悪くてな、売られた喧嘩は倍値で買い取る主義なんだ。後腐れなく摘んでやるよ」

 初速から音に迫るそれを実現した一閃。
 猗窩座は鬼とは思えない巧みな足捌きでいなし、そこから刀ごと折る勢いでの凶拳を見舞った。
 刀身と拳が衝突し、劈くように甲高い音が轟く。
 その結果として散った鮮血と腕はしかし甚爾のものではなかった。

「――何」

 生半な得物であれば容易に砕く猗窩座の魔拳。
 競り合ってくる事までは想定出来ていた。
 想定外だったのは、拳自体の威力を上回って一方的に腕を切り落とされた事。
 刀と触れた角度に沿って真っ二つに割断された腕が飛び散り、修羅の輪郭が不格好に歪む。

(妙な感覚だ。肉を裂かれると言うよりも、もっと根本の部分から存在を断たれるような――)

 猗窩座のそんな所感は的を射ている。
 甚爾が今振るっている刀剣呪具、その名は『釈魂刀』。
 物体による物体の切断の可否を決定するのは受ける側の硬度だ。

 しかしこの釈魂刀はそれを無視する。
 硬度ではなく、魂という防御力絶無の領域を参照して切断する呪具。
 故にこそ拳鬼である猗窩座に対しては間違いなく特効だった。
 破壊殺の猛威越しに四肢を切り落とせることの優位性は言わずもがな。
 暴君の手が風と化し刃が中空に踊り狂う中で、猗窩座の全身は次から次へと膾切りの憂き目に遭った。

「破壊殺・砕式――」

 速い。
 猗窩座が幻視したのは同じ上弦、つい先刻に血戦へと興じた剣鬼の所作であった。
 あれが無謬の時を費やした鍛錬と研鑽に由来した高速ならば、これは純粋なる天衣無縫だ。
 一方の猗窩座は、手足と胴に無数の刀傷を喰らいながらも鬼の再生力に身を任せてそれらを無視。

「――鬼芯八重芯」

 弾け飛ぶ花火の如き血鬼術。
 甚爾の一方的な攻勢を挫きつつ、手数での圧殺に持ち込まんとする。
 色とりどりに輝き煌めく破壊の異能に、しかし伏黒甚爾は不退転だった。
 我が物顔で空に身を躍らせ、あろうことか舞い散る花火の間隙を縫って疾駆する。
 足場のない空中を踏み締めて加速する"程度"の道理無視は最早彼にとって茶飯事だ。
 唯一自身に迫った一撃のみ釈魂刀で叩き斬り、接近を果たすや否や真横一文字に修羅の胴を断ち斬る。

「修羅とはよく言ったもんだぜ、まったくよ」

 猗窩座の胴が、上と下とでズレる。
 だがすぐさま再生が始まり、蹴り上げを打ち放った。
 釈魂刀で受け止めるが吹き飛ばされ、結果甚爾は数メートル先の地面に着地する。

(術式……とは多分違うな。生態レベルでの不死身もどきってとこか)

 少なくとも甚爾が知る不死とは性質もその定義も異なるらしい。
 胴体の切断、心臓/霊核の破壊で死なない事は先の応酬で確認済み。
 であれば、不死殺しの必要条件は限られてくる。

「脳か頸だろ」

 猗窩座の眉が動く。
 凄絶な笑みを浮かべながら甚爾が跳ねた。
 鬼ごっこは既に終わり、構図は殺し合いのそれへと塗り替わっている。

「――ッ」

 猗窩座の眉間に厳しく皺が寄る。
 苦渋。誰の目から見てもそう思わせる状況が、彼を苛んでいた。
 中~遠距離のレンジを維持して闘うのであれば、優位に動けるのは猗窩座の方だ。

 だが、甚爾もその事は理解しているから彼に距離を明け渡さない。
 猿が最も巧く暴れて理不尽を押し付けられる至近距離を常に保ち続ける。
 猗窩座が退こうとすれば、結界術の束縛すら引き千切れる脚力で即座に膝を破壊して阻止。
 頭頂部から頸までを標的にした斬撃の嵐を吹かせ、一気に鬼の生命線を文字通り断ちに掛かっていた。

 まさに規格外。
 鬼をも戦慄させる、突然変異の鬼子。
 神の愛憎、その形。伏黒甚爾――鬼狩りならぬ術師狩り、英霊殺し。

「舐めるな」

 猗窩座の顔に青い血管が浮いた。
 彼はもはや、強さを希求し饒舌に語り散らす陶酔した戦鬼ではない。
 過去を認識し、己を知り、ただこの聖杯戦争にのみ心血を傾ける本当の意味での修羅の鬼だ。
 だが、それでもこの敗北の危機を前にして無感のまま拳を振るい続けるような腑抜けではなかった。
 発起。闘争に明け暮れた魂が燃え上がり、花火を思わす色とりどりの閃光をその拳閃に乗せて迸らせた。

 破壊殺・終式――青銀乱残光。
 百にも達する乱れ打ちが、釈魂刀の連撃を強引にねじ伏せながら甚爾を襲った。
 さしもの甚爾も小さく舌打ちをする。速度、手数、どちらも申し分ない。
 流石に手に余ると、そう判断するに足る絶技だったからだ。

 捌ける分を捌き、無理な分は躱すか流す。
 無傷とは行かないが、生命という名のしのぎを削り合う修羅場では命があるだけ有情だ。
 幸いにして、伏黒甚爾の動体視力であれば青銀乱残光の乱打も一つ一つ仔細に観察し位置や速度、その座標までもを把握することができた。
 余人には全て同時に炸裂しているようにしか見えないだろうそれも、しかし"技巧"である以上はそれぞれに差異が存在する。
 そこが突破口になるだろうと、甚爾は長年の経験と天性の感覚(センス)により確信。
 華々しい拳打の嵐とは裏腹の泥臭い捌きぶりで生を繋ぎつつ、機を見て釈魂刀を片手持ちへと切り替えた。

「こっちの台詞だぜ、修羅」

 格納呪霊の口からはみ出た"鎖"。
 それを握り、銀光の合間を縫いながら猗窩座へと振るう。
 彼もまた甚爾の動作に気付き、それが自身の右足を狙っていると判断した時点で重心を左側に傾けることで回避を図った。 
 が。そこで一つ、誤算が生じる。

「……!?」

 避けた。確かに猗窩座はそうした筈だった。
 にも関わらず、ある要因によって彼の回避は失敗に終わる。
 放たれた鎖。その長さが、明らかに常軌を逸した尺であったこと。
 鬼の目算を狂わせたそれは失策を嘲るように空中で撓り、猗窩座の右足を膝下から削り取った。

 呪具"万里の鎖"。
 両端を観測されない限り、その長さを事実上の無限大へと伸長させる特性を持つ術師殺しの仕事道具。
 四肢が三肢へと変動し、それに伴うバランスの崩壊によって乱残光からの追撃が不可能となる。
 狙い通りの成果をあげた甚爾は、その時点でこれ以上の回避と迎撃を全て排除。
 超高速で差し迫る拳撃の隙間に自らの身体をねじ込んで、理論値の安全地帯を実際に活用するという離れ技で遂に光の波濤を切り抜ける。
 それと同時に振るわれる釈魂刀――羅針は、鬼に自動の防御を促すが。
 甚爾とて、そのことは承知の上。
 防ぐなら防げばいい。その上で――

「刈り取ってやる」

 鬼殺を、成す。
 鬼人の眼光が、鬼を射抜く。
 背筋が粟立つのを、確かに猗窩座は感じた。
 自身の命運が断ち切られる危機感と焦燥。
 ひどく不快で、魂までも沸騰させるような"それ"に、彼が何事か吠えるべく口を開かんとした。



 "天変"が襲ったのは、その瞬間のことであった。
 それが"地異"になるまでに、残されていた時間はごく少ない。



「――おい、マジで言ってんのか」
「……この気配は――」

 修羅場の極み。
 互いの命が乱れ飛ぶ、決着を間近で感じる頃合いに。
 空の彼方、雲の上、天空の果てに突如として出現したその気配に鬼人と修羅は異口同音の戦慄を覚えた。
 これそのものにはどちらも覚えがある。
 いつかは対峙せねばならない関門であると、そう心得てはいた。
 だがそれは今ではない。誰がこれと、よりにもよってこの怪物と、無策で相撲を取ろうと考えるだろうか。

 第三者、それも考えられる限り最悪に近い乱入者の出現を受けた両者の行動はしかし不変だった。
 まず目の前の一合に勝利し――その上で上空の脅威に対処する。
 甚爾は更に前へ。猗窩座は、黒き呪力を構えた拳に漲らせ。
 互いに全速力の全力を交差させ、敵の命を砕き散らさんとした――が。


 釈魂刀が悪鬼の首筋へ。
 黒く閃く万華鏡が暴君の心臓へ。
 それぞれ轟き、殺害の成否が確定するのを待たずして。
 空より現れた最悪なる"最強"が、霊体化を解いてその姿を現した。



「――――――――熱息(ボロブレス)」



 空を焦がし、地を嘗める灼熱の波濤。
 人として生まれながら、悪魔の果実を貪り竜種(ドラゴン)と化した者。
 その吐息(ブレス)が、既に破壊され尽くした東京の町並みを再び暴力で以って撫でた。
 建物の残骸が、逃げ遅れた人間が、その他あらゆる何もかもが呑まれては黒炭に変わっていく。
 伏黒甚爾と猗窩座の両名も、為す術もなく火炎の中に呑まれて消えた。
 生死を窺おうにも地上全てを覆う勢いで広がる熱息の中では、そもそもまともに向こう側を見通すことすら叶わない。
 時間にして三十秒にも及ぶ、空から地への絨毯爆撃ならぬ絨毯放火――火炎地獄の地上に、一つたりとて無事で済むものなどありはしなかった。

 ――そう、誰も無事では済まなかった。
 しかし、何もかもが死に絶えたわけではない。

 伏黒甚爾は、炎の中を持ち前の耐久力で走り回りながら巧みに熱源そのものに曝されることを避け続けた。
 とはいえその右腕は火傷に覆われ、また猗窩座の打撃を掠めたことで肋骨も数本ひび割れている。
 舌打ちをしながら表情を歪める様が、彼をして不味い、旨くない展開になってきたことを物語っていた。

 そして猗窩座は、まず第一に甚爾の斬首を掻い潜ることに全力を注がねばならなかった。
 結果として討ち取られることは避けたものの、熱息に直撃したその身体は焼死体のように黒く焼け焦げて見る影もない。
 彼が鬼でなかったならば、まず間違いなく致命傷であったろう損傷。
 されど、鬼の耐久と再生力を以ってすればこちらもまだまだ傷としては軽微の部類である。
 甚爾、猗窩座、双方共に健在。
 故に、彼らが取り組まねばならない火急の課題は――


「"雷鳴八卦"」


 竜から人へと戻り、二十三尺超えという尋常ではない巨体で"落ちてくる"明王への対処であった。
 最初に彼が狙い澄ましたのは伏黒甚爾だ。
 天与呪縛、フィジカルギフテッドの完成形。人類種として最強の肉体を持つ彼ではあるが、この怪物はそんな甚爾から見ても別格だ。

 そもそも生物としての規格が違う。
 巨大さも、力も、何もかもが馬鹿げた水準で安定している正真正銘の化け物。
 甚爾は旨くない仕事はしない。
 不要な戦いも、しない。
 意地やプライドのために戦えばどうなるかは、文字通りその身で思い知っている。
 だからこそ彼は一も二もなく逃げを選択するが、しかしそれを許す明王では当然なかった。

「チ――!」

 鬼の金棒――"八斎戒"を握った巨体が、消える。
 次の瞬間が来るまでに素早く游雲へと持ち換え、迎撃という名の防御に打って出られたのは幸運だった。
 担い手の力を参照して威力を強める特級呪具は、甚爾が握れば"攻撃は最大の防御"をまさに体現する性能となる。
 下手に武器を構えて防御するよりも、全力で迎え撃ち少しでも威力を低減させにかかった方が遥かに目の前で振るわれる究極の暴力を前にしては有用。そう判断した結果の行動だった、が。

 甚爾は手練れだ。
 故に、一瞬で悟った。
 失敗した、と。
 合わせ損なった、その確信があった。
 そして失敗の代償は、文字通りの手痛い損害で以って支払わされることとなる。

「――――!」

 游雲を握り締めたまま、黒い稲妻を纏った金棒に打たれて伏黒甚爾はボロ切れのように吹き飛んだ。
 傍から見れば彼の姿は、黒い残像が一筋通ったという形でしか観測できなかったろう。
 甚爾は遥か後方のビルに受け身も取れず突っ込み、粉塵を撒き散らしながら血を吐いた。

(おいおい、マジか。なるべくならやり合わずに済ませる気だったが……)

 身体の奥底にまで響く、鈍くて重い痛みがあった。
 生きていた頃でさえ、他人に殴り飛ばされて此処までのダメージを受けた試しはない。
 とはいえ四皇、巨躯の海賊どもが馬鹿力の持ち主なことは甚爾とて把握していた。だからこれ自体への驚きは、そこまで大きくない。
 問題はそこではなく――自身を打ち据えた一撃の、その"速度"の方。

(初見じゃ見切れなかった。俺の目でそんなヘマやらかすとはな)

 完成された天与呪縛の性能はサーヴァントの基準で考えても決して伊達ではない。
 1/24秒というごくごく僅かな、一瞬と呼ぶにすら届かないような間隙ですら見極める動体視力。
 それを持ち合わせる英霊など、この界聖杯を巡る聖杯戦争の中にさえそう多くは存在しない筈だ。
 甚爾は生まれながらにして、それを可能とする視力を有している。

 その彼が――見誤ったのだ。
 如何に初見、そして猗窩座から受けた傷を抱えた状態であったと言えどもである。
 天与の暴君をして見逃すほどの速度、そこから繰り出される怪力無双の一撃。
 悪い冗談だろ、と甚爾は鼻で笑った。失笑すら思わず溢れる。彼の身を今襲ったのはそれほどの事態だった。
 そして無論、明王の降臨に居合わせてしまった猗窩座も例外なくこれに襲われる。


「何処かで感じた気配だと思えば、リンリンの傘下に居た奴か」


 猗窩座の記憶の中から、既に始祖の鬼の記憶はほぼほぼ消え去っていた。
 しかし、それでも分かる。
 実際に対面してその武を目の当たりにすれば、嫌でも伝わるものがある。
 反英霊・悪鬼『猗窩座』の魂が告げていた。
 これは――本物の鬼神だと。始祖がそうだったように、天災のように暴虐を吹き荒らしては屍と嘆きを生み続ける存在であると。

 海賊同盟の御旗にはもう何の期待もできない。
 何しろ、言い出しっぺであり右舷だったビッグ・マムが落ちたのだ。
 そして猗窩座は、他ならぬビッグ・マムによって引き入れられた同盟者であった。
 いや……仮に彼らを傘下にしたのがマムではなくこのカイドウだったとしても、この期に及んでその事実が果たして救いになったかどうか。

「悪いな。もう傘下は要らなくなっちまった」

 かつて猗窩座が感じたカイドウの闘気。
 それ自体がまず空前絶後と言っていい規格外だったが、今の彼から感じるのはその時のものとはまるで印象が違っていた。
 以前のを沸騰し猛り狂う溶岩の渦としたなら、今目の前から迸って溢れるそれは荒れ狂う嵐の中に揺るがず動じず聳える天高い山岳。

 大きく、強く、そして堅く。
 静かに、されどただそこに居る/在るだけで他の総てを圧する存在。
 聖杯戦争に招かれる以前の猗窩座だったなら、この海賊を神仏と見紛ったかもしれない。
 悪鬼羅刹、罪深きもの。あるいは、命を抱いてこの世を生きるもの全て。
 それらに誅と然るべき処断を下す、地獄からやって来た王者――

「そういうわけだからよ――てめえ船降りろ」

 真上から振り下ろされた八斎戒から猗窩座が飛び退く。
 黒い稲妻を伴って落ちてくるそれの威力が頭抜けているのは知っている。
 破壊殺・羅針による闘気探知を基にした自動防御も、相手がこれでは一体如何ほどの役に立つか分からない。

 されど、猗窩座とて闘いの世界に生きた者だ。
 虚しくも強さを希求し続け、今はそれだけを寄る辺に狛犬を務める哀れな男。
 癒やし育てることはできなくとも、拳を振るい敵を撃滅することならば誰より長けている。
 八斎戒の二打目をどうにか右腕一本の損失で抑えながら、先ほど伏黒甚爾が自身の血鬼術に対してやってみせたように空中へと身を躍らせた。

 その上で、再び放つは黒い光拳。
 黒閃万華鏡――天与の猿には躱されたが、これほど的が大きければどうか。
 黒い流れ星さながらに放たれたそれと、カイドウの鉄槌とが激突する。
 世界が爆ぜるような、空間の割れるような。そんな音が、焼け野原の大地を劈いた。

「お――ぉおおおぉおおおッ!!」

 比喩でなく霊基が軋むのが分かる。
 魂ごと砕けても不思議ではないような、そんな衝撃の中で猗窩座は吠えた。
 しかし、この激突は彼にとって単なる前座に過ぎない。
 力と力の激突、それにより生じた力場を利用して自らの体躯を真上へと意図的に吹き飛ばす。

 その上で、狙うのは鬼神の頭部。
 天を引き裂くように振り下ろされる踵落としにも、当然のように黒い閃きが微笑んでいた。
 黒閃は連続する。一度決めれば、まるでゾーンに入ったように次の光を招くという。
 人の身で闘う呪術師でさえそうであるなら、英霊が、修羅が駆使すればどうなるか――そんな命題の答えが今の猗窩座だった。

 彼は運命に呪われ、世界に嫌われ、誰もに罵られた悪鬼だが。
 ただ一つ、呪わしき力――黒閃だけは彼を愛している。
 望まない祝福を足先に込めて、猗窩座は鬼殺成すべく轟かせた。


 ――だが。

「器じゃねェんだよ、紛い物の覇王色がおれの前で煩わしく瞬きやがって」

 その"祝福"を、王は当然のように受け止める。
 黒い稲妻を纏った業物が、鬼の強さも矜持も全てかき消すように強く雄々しく瞬いていた。
 それを猗窩座は、揺るがせない。
 押し切るのはおろか、小指一本分すら動かすことができない。
 遊びを捨て、求めるべき決着に向けた高揚さえも奪われ。
 今はただ孤軍の王として生きとし生けるもの、全ての前へ立ち塞がる悪竜の王、その本気に――追随できない。

 四皇カイドウは遊び好きだ。
 彼には戦いを娯楽として味わう悪癖がある。
 時に格下の攻撃をあえて受け、その器を推し測り。
 時に殺せないと分かっている攻撃をわざと放ち、敵が足掻くのを楽しむ。

 そんな彼が仮に初めから遊びを捨て、ただ渇いたままの心で力を振るったならどうなるか。
 その答えは――カイドウの生涯に常に付きまとった仰々しい二つ名が物語っている。

「教えてやるよ。本物の、王の力って奴を」

 "この世における最強生物"。
 最強の称号を冠された使い手ならごまんといる。
 彼以上の偉業を成し、彼以上に白星が多く、彼より遥かに黒星の少ない海賊も無数に存在しただろう。

 それは一つの時代に取り返しのつかないうねりを生んだ、"海賊王"であり。
 彼が初めて乗った血塗れの船を統括していた、"ロックス"であり。
 常に最強の名を欲しいままにしてきた、"白ひげ"であり。
 未熟だった頃の彼に海賊のイロハを教えた"ビッグ・マム"であり。
 海賊王の冒険へ同行し、その名声を継ぐ形で名をあげた、"赤髪"であり。
 神話の力を覚醒させ、明王の君臨に終止符を打った"麦わら"である。

 されど。
 それでも。

 ただ一つ――――絶対に揺らぐことのない現実がある。


(何だ――こいつは)

 それはきっと、猗窩座という悪鬼にとって初めて抱く感想だった。
 当惑。混乱、にすら近かったかもしれない。
 目の前の存在が理解できない。
 破壊殺・羅針は健在だ。頭抜けた闘気を放つ怪物として、猗窩座の五感は常にカイドウの存在を正確に捉え続けている。

 だからこそ正確には、猗窩座の脳が追い付けていないのだ。
 歩んできた経験の差。相手取ってきた敵の数。
 そういう次元ですらない、もっと根本的な生物としての格の違い。
 それが、事態を正確に理解させない。
 器ではないと、そう大上段から切り捨てたその言葉の通りに。
 目の前の皇帝はただ処断する側として、人の世に生まれ堕ちた修羅を俯瞰していた。


「"降三世"――――」


 離脱しようとした猗窩座の身体が、見えない引力によって阻まれる。
 誰が信じられよう、猗窩座を阻んだのはカイドウが攻撃の為に跳び上がったその余波として生じた気流の檻だった。
 空中であるというのも手伝って、鬼の身体能力でさえ引き千切ることはできず、結果修羅は空に囚われる。
 そしてそれは、今まさに自分へ振るわれんとしている王の鉄槌から逃れるという選択肢が剥奪されたのに等しい。

 避けられないのなら必然、挑むしかない。
 拳を構え、破壊殺の極意を灯し、魔力を横溢させて【破壊殺・終式 青銀乱残光】を放つ猗窩座。
 死線が彼に更なる進化を促したか、放たれる百の乱打はその全てが黒く輝いていた。

 言うなれば終式・黒閃乱残光。
 威力、規模、そのいずれも先の血戦で童磨が見せた"曼荼羅"にそう劣らない。
 体力の大半を持って行かれるだろうことは覚悟の上で、しかし此処で限界を超えねば死ぬと悟った故の覚醒だった。
 月剣の鬼が陽融に至り、新たな境地へ足を踏み入れたように。
 修羅もまた数々の戦いと辛酸の果てに、彼に劣らぬ力を発現させるに至ったのだ。

 だが――

(何故、止まらない。何故、止められない)

 黒い拳撃の群れが、嵐が。
 同じ黒色で瞬く稲妻の前に、一つまた一つと押し潰されていく。
 百の拳撃を同時に放つという技の性質上、潰された数が増えるにつれてつかの間の拮抗は崩れ始める。
 潰されたのが十であればまだ耐えられた。
 二十になれば、歯を剥いて鬼の形相で気張る必要があった。
 五十になる頃には――既に状況は、拮抗とは到底呼べぬそれへ変わり果てていた。


 ……誰もが言った。
 『一対一(サシ)でやるならカイドウだろう』、と。
 "海賊王"ロジャー、"白ひげ"ニューゲート、数多くの伝説が生きた姿を知る者達が、彼に対してだけは口を揃えてそう断言したのだ。

 これは、生物としての規格が違う。
 生まれながらに強く、しかしそれに怠ることなく研鑽を続けてきた笑えるほど生真面目な男。
 彼の肉体と性格、そして他の何者も及べないほど強く冴え渡るその才覚が世界最強の称号という夢物語を現実に変えた。
 悪龍。明王。皇帝。鬼神。神明。霊峰。覇王。数多の恐れを受け、数多敗北に膝を折り、されど何度でも立ち上がり覇を唱え続けた男。


「――――"引奈落"」


 ――――怪物カイドウ。
 鬼ヶ島に棲む恐怖、ワノ国を統べる悪竜現象。
 その絶技は決して小難しいものではない。
 現実を調伏などしない、技の冴えで超常現象など起こさない、因果も現実もねじ伏せない。
 ただ殴るだけだ。それだけ。ごく純粋で、ごく直球の暴力。
 たったのそれだけで、猗窩座は自身の開拓した到達点を打ち砕かれその打擲に頭蓋を粉砕された。

「 か      、       」

 視界が吹き飛ぶ。
 実際には脳を破壊された程度であったが、猗窩座は確かに己の肉体が原子一片も残さずこの世から消滅した錯覚を抱いた。
 上弦の再生力は驚異的だ。手足が吹き飛ぼうがすぐさま再生させるそれは、本来なら即死であろう手傷に対してもすぐに順応する。
 猗窩座の砕けた顔が再生し、脳細胞が沸き起こり、カイドウの一撃を受ける前の形が復元されるまでに十秒とかからない。

 だが、今回の再生は完全ではなかった。
 身体の節々にまで、深い消耗が蜘蛛の巣のように網目を広げているのが分かる。
 覇気。自然現象をすら殴り伏せることを可能にするそれを、当然皇帝であるカイドウは極限まで習熟させている。
 始祖・■■■■■もまたこの鬼神を前に同じ現象に直面した。
 身を苛む覇気の傷は、再生を経て尚鬼の身体とその細胞を蝕み続ける。
 結局■■■■■は――それに足を引かれて得意の逃げを封じられ、悪魔の腹に収まった。

「死なねェのか。頑丈だな、……前にどこかでやり合ったか?」

 何かの崩れる音がする。
 それは、きっと肉体ではない。
 もっと奥底、鬼に残されたわずかな心の涯てにある何か。
 猗窩座は幸運だった。人間・伯治の成れの果てとしてではなく、猗窩座という悪鬼として招かれていたから。

 そうでなければ、もしも生前のまま……強さを求めた彼のままだったなら。
 今この瞬間にも猗窩座は存在意義を崩壊させ、狂い哭きながら無駄な特攻を敢行していただろう。
 もっとも、特攻という行為の成否については世界線の如何に左右されることはない。
 身も蓋もない無情な現実が、成功失敗を問う前の段階に横たわっているからだ。

「まあ好きにしろ。死なねえなら死ぬまで殴るだけだからよ」

 ――――猗窩座の全速力よりも、カイドウが一撃打ち込む方が速い。

 強靭と鈍重は、強者の世界においては必ずしも結びつかない。
 カイドウはまさにその体現者であった。
 最強にして、最速。
 その動作から繰り出された一撃が、立ち上がる前に猗窩座を打ち据え地に臥させる。

 何度も。何度も。何度も。何度も。
 振り上げては振り下ろす、単調な破壊が繰り返される。
 血飛沫どころの騒ぎではなく、肉や臓物、骨までが弾けた風船のように飛沫する地獄絵図。
 その中にあっても尚、猗窩座は生きていた。生きて現界を保っていた。
 彼が、鬼だからだ。
 ――死を忘れ、永劫に彷徨い続ける哀しい生き物であるからだ。


(何だ、これは)

 問うた。
 今度は、相手の得体をではない。
 他でもない、自分自身の有様について問いかけた。
 技の全てを尽くして挑み、虫螻のように敗れて地に臥せり。
 立ち上がることすらままならず、文字通り"死ぬまで"打ち据えられるばかり。
 蠢く姿は、子どもの戯れで半身を踏み潰された芋虫のようにひどく惨めなものだった。

(俺は、一体、何をしている)

 一撃すら当てられず。
 血の一滴も、流させることが出来ず。
 蹴散らされ踏み躙られ、無力に蠢くばかり。
 原型を留めないほど破壊されているにも関わらず、自分の中で何本もの血管が千切れる音がした。
 確かに猗窩座は、それを聞いた。

(生きて、生きて、生きて、生きて……死して尚、性懲りもなく再び現世へとまろび出て)

 今の猗窩座に、もはや強く在ることへの執着はない。
 それが単なる虚ろな、過去の残響でしかないことを既に知っているからだ。
 どれほど追い求め、磨き上げ、執着しても決して返らない過去がある。
 首が落ち、鬼狩りの剣士達の見守る中で死に還ったあの時――猗窩座は確かに、後悔の宿痾から解放されたのだ。

 では何故、己は此処に立っている。
 決まっている。応えた願いがあるからだ。
 幾千、幾万と存在する英霊の中から、よりによってこんな貧乏籤を引き当てた愚かな男。
 途方に暮れた子どものような瞳で、"大人"の責任を背負い立つその何ともつまらない姿を――いつかの自分と重ねたから。

 だから立ち上がった。
 二度と振るうことはないと、そう思っていた拳を再び血で染めた。
 輝くものを殴り砕き、血戦を乗り越え、擦れ耗するばかりの男の狗であり続けた。

(勝利を運ぶと豪語した結果が、これか……?)

 止まらない喪失と摩耗を止めることもできず。
 寿命を浪費させ、未来が奪われるのをただ指を咥えて見守り、身に着けた力は何を得ることもなく。
 挙句の果てには磨き上げた強さも、開花させた力も全て蹂躙されて、上回られて。
 地に臥せり、虫螻以下の無様を晒しながら死ぬ。
 吐いた言葉、交わした誓い、その何一つとして現実にすること能わず。
 ただ、無価値に死んでいくのだ。
 飢えて狂った野良犬のように。

 それは――
 それは、なんて――


 惨めで、

 滑稽で。

 つまらない話、だろう。



「――ま、だだ」


 巫山戯るな、と。
 猗窩座は、顎の骨が砕けるほど歯を食い縛りながらそう吠えた。
 落ちてくる鬼神の剛撃を、神懸かりの一足で躱す。
 全身の血液を全て鉛に置き換えられたように身体は重く、視界までもが赤く染まっていたが止まりはしない。
 そう成り果てても尚、猗窩座を突き動かす怒りがあった。
 情けなく、不甲斐なく、呆れるほどに進歩のない自分自身への怒りだった。



『不屈の精神』

『俺たちは侍じゃない 刀を持たない』

『しかし心に太刀を持っている』

『使うのは己の拳のみ』



                                       『はい』

                                       『俺は誰よりも強くなって』

                                       『一生あなたを守ります』


『もういいの』

『もういいのよ』 

『おかえりなさい、あなた』


 去来する追憶(ノイズ)を振り切って。
 それは俺のものではないと吐き捨てて。
 猗窩座は、血風そのものと化しながら神のように立つ皇帝へと突貫した。
 そこにはもはや鍛えた技も糞もない。
 あるのはただ、剥き出しの闘志。
 いつか/あの頃、自棄になってそうしていたように。

「アアアアアアアアアアア!!!!」

 素流でも破壊殺でもない、あるちっぽけな男の地金が露出する。
 言うなればこれは、単に力だけ振り翳す餓鬼の所業。
 当然そんな生半が、力も技も飽きるほど極めた明王に通じる道理はなく。

「狂犬が……身の程も分からねえか」

 文字通りの鬼の形相を、黒い稲妻が照らし出す。
 全身が罅割れていく感覚があった。
 始祖の血をふんだんに注がれ、数百年もの間人を食らって純度を高め続けた上弦の肉体ですら限界に達しようとしている。

 ――それがどうした。

「"咆雷八卦"――――!!」

 赫怒のままに挑むは、修羅。
 もはや何に怒っているのかも、何に狂しているのかも分からぬまま。
 天道へ挑む修羅を打ち据えたのは、あまりに無慈悲で順当な一撃だった。
 覇王色の覇気。天を統べる資格を秘めた者のみがその身に宿せる、黒き雷。
 八斎戒を覆うように纏われたそれが振り抜かれると同時に、猗窩座の拳が木端微塵に弾け飛ぶ。


 ……もはや、何も聞こえない。
 何も見えない。
 考えるという機能そのものが崩壊していくのを感じながら、鬼は闇へと堕ちていく。

 振り抜かれた八斎戒は、猗窩座の頸を完全に破砕させていた。
 斬首と呼ぶには無骨過ぎるが、これで■■■■■の血に連なる悪鬼の消滅条件は満たされる。
 再生力に物を言わせた強引な耐久も、こうまで完璧に頸を刎ねられてはもう望めない。
 粉砕された頸の残滓が大気に溶けて崩れ去る。
 残された胴体が、地に臥せって蠢く。
 それに対し、カイドウはただ無感動に八斎戒を振り上げた。

「死は人の完成だ」


 此処に、全ての勝敗は決定される。

                            ――まだだ、まだ終われない。

 強い者が生き残り、弱い者は惨めに死ぬ。

                            ――俺は、まだ。

 役立たずの狛犬は、その汚名を抱いて地に還るのみ。

                            ――奴の言葉に、何も。


「てめえも英霊なら、せめて潔く消え果てな」

 稲妻が、朝の東京に轟いて。
 愚かな男の命運を完膚なきまでに消し去る、最後の刹那。

 悪鬼『猗窩座』は、己の耳にもう響く筈のない"その声"を、聞いた。


 ――伯治さん。


◆◆


 ――此処は。
 ――何処だ。

 立ち尽くす猗窩座の周囲に広がるのは、無尽の荒野だった。
 炎はない。亡者を責める獄卒の姿もありはしない。血の池など以ての外だ。
 けれど。それでも此処が地獄、その風景だと分かるのはかつて一度沈んだ場所だからか。

 いや――よぎった考えを猗窩座はすぐに否定する。
 猗窩座は地獄に堕ちてなどいない。
 此処にいるのは悪鬼。報いなど、顧みることなど捨て去った人食いの鬼だ。
 過去(うしろ)を振り向いて、自ら望んで地獄に消えていったのは伯治という愚かな人間であって。
 償いの責め苦を越えて尚、他でもない世界そのものに"かくあれかし"と願われ固められたこれはただの怪物でしかない。

 であれば、無論。
 荒野の真ん中で自分に向けて佇む"その女"も当然、赤の他人ということになる。
 つい先ほどまで居た令和時代の東京にはまず居ない、古風な髪型を雪の髪飾りで纏めた女。
 花の咲いた瞳でこちらを見つめる手弱女然とした人間が、血濡れの悪鬼なぞと知人であろう筈もない。

「見るな」

 だからこそ猗窩座は当然、彼女の存在を拒絶する。
 彼女が今此処に居て、自分を見つめていることそのものを否定する。

 それは全てを無為にする行いだからだ。
 何一つ罪など犯していないのに、愚かな男に寄り添って共に業火に包まれた哀れな女。
 その献身も、何百何千年という贖罪に耐えた意味も、何もかもを棒に振ってしまう行為だから。
 人の幸福を捨てて修羅を気取った男に輪廻の果てまで添い遂げた優しさを、自ら泥で汚す所業。
 故に猗窩座は、彼女の存在を拒み、その視線を否定した。
 それが既に悪鬼の行動ではないのだという当たり前の事実に、彼自身だけは気が付かないままで。

「貴様など知らない。俺は地獄の淵からまろび出で、現世に再び解き放たれ殺戮を謳歌する上弦の鬼だ。 
 地平線の遥か果てまで、屍という屍を積み上げながら進むのだと決めている。
 貴様のような弱く儚い人間なぞ、俺にとっては殺すべき塵芥の一つでしかない」

 だから消えろと、猗窩座は言う。
 女に背を向けて、ただ吐き捨てる。
 自分をより恐ろしげで罪深い存在に見せようとするみたいに、露悪的な言動でその存在を装飾して。
 この何処とも知れない景色を振り切って、明王との再戦に臨むべく一歩を踏み出す。

 そんな鬼(おとこ)の背中に、女は小さく微笑みながら呼びかけた。

「そんな寂しいこと言わないで」

 降り積もる新雪のように、一面の荒野の中へ声が響く。
 そこには他人を脅す圧力も、胸に訴えかける悲痛も微塵もない。
 どこまでもか弱くて、ともすれば足音にかき消されてしまいそうなほど細い声。
 なのに猗窩座は、気付けば踏み出したはずの足を止めていた。
 まるで魂が"そうしなければならない"と身体を引き止めたように、彼はその場へ縫い止められる。
 そこからもう、一歩も足を動かせない。

「優しいひと。私の、大好きな――」
「言うな」
「……いいえ、言わせて。私の大好きな、あなた」
「――――」

 足音が、近付いてくる。
 女の足音が、荒野を踏みしめて。
 やがて、動けず立ち尽くすままの鬼のすぐ後ろへ迫った。
 手が伸びて、ぎゅ、とその孤独な――そうあらんと自らを戒めた鬼の身体を抱き締める。
 弱く儚い力とほんのわずかな熱が、人間のそれではなくなった身体にじわりと伝わった。

「たとえ、"この"あなたが残照でしかないのだとしても。
 どんな姿でも、何のために戦っていても……あなたは、あなたです。
 静かに朽ち果てていくだけだった、ただの孤独に価値を与えてくれたひと――」
「……、……」
「伯治さん」

 愚かな男と、愚かな鬼。
 その魂(な)が、此処で重なる。
 そう呼ばれてしまったから。
 目を背けられてきた人としての名が、悪鬼の形に色をつける。

 単なる窩(あな)、空洞でしかなかった鬼が。
 彼が捨てた筈のオリジン、人間『伯治』の成れの果て――猗窩座という中身を得る。
 いや、直視させられる。他でもない、自身が愛した女の手によって。

「……やめて、とは言わないのか」

 それは、何処か観念したような声色だった。

 無限城での決戦。鬼狩りの少年に頸を刎ねられ、それでも戦い続けるのだと息巻く猗窩座にかつて女は言った。
 伯治さん、もうやめて。
 その言葉が、捨てた筈の過去を呼び起こし。
 猗窩座が本当に殺したかったものを、数百年余の放浪の末にようやく認識させた。
 なのに今、自分を抱き締めている女は"やめて"とは言っていない。
 ただ話しかけているだけ。自分の存在を猗窩座に認識させ、そして伯治の名で呼んだだけ。

「だって……今の伯治さんは、もう哭いていませんから。
 あの日のように、何もかも見失って哭いているのではなく。
 あなたが願いを叶えてあげたいと思う"誰か"のために、一心不乱に戦っている。
 そんなあなたに"やめて"だなんて、とてもじゃないけど言えません」

 私が伝えたかったのは、一つだけ。
 そう言うと、女は何か温かいものを小さく猗窩座の背中に押し当てた。
 ちゅ、と小さい音がする。ふふ、と照れたような笑い声を漏らして、女はようやく猗窩座の身体から手を離した。

「私は此処にいます、って。
 此処で、あなたのことを見ていますって――そう伝えたかった。それだけなんです」
「……莫迦か。お前は」
「ごめんなさい。でも、居ても立ってもいられなくて」

 止まるわけにはいかない。
 仮にそう求められたとして、今はあの時とは違うのだ。
 共に戦うと、願いを叶えてやると誓った男がいる。
 死ねない理由も、強くあらねばならない理由も、今はもう憎悪と妄執の霧の中ではなく、はっきりとした輪郭を描いて胸にある。

 だから止まれないし、女もそれを理解していた。
 頸を落とされ、後は消えるのを待つばかりの男へ。
 本人の言うように"居ても立ってもいられず"声をかけた。

 振り向いて、とは言わない。
 そうすることを、彼は嫌がるだろうから。
 重ねて言うが、あの時とは違うのだ。
 だから、女が男に求めるのは振り向くことではなく。

「負けないで、強いひと」

 負けないで。
 こんなところで踏み潰されて、消えてなんてしまわないでと。
 妻として、それだけのことを伝えるために声をあげた。
 これはそれだけで、それまでの話。
 大それたことなど一切ない。小さな愛(エゴ)が、小さな奇跡を一瞬だけ引き起こしたというだけのことだ。

 足が、前へと進んだ。
 もう阻むものはない。
 振り向くこともなく、悪鬼の殻を被って進む伯治。
 その足はもう止まらない。振り向くことなど、もちろんない。

 けれど。

「恋雪」

 一言、名前を呼んだ。
 悪鬼ならば口にする筈のない、そもそも覚えている筈もない名前を。
 死して尚、餓鬼のように慮られてばかりの自分の情けなさに不快感を抱くと同時に。
 悪鬼たらんとしようという意志以上の"そうしなければならない"という感情に突き動かされて、猗窩座は言った。

「―――――」

 ……その時、鬼がなんと言ったのか。
 男がなんと伝えたのか。
 その仔細を知るのは、女だけだ。

 安息を拒み、不器用に削られ、命運尽きてそれでも戦うことを選ぶ偽りの修羅。
 幾多の命を喰らっておきながら、今も命を奪い続ける人喰いの鬼。
 もしくは、ある不幸な女の世界を照らした一人の夫。
 遠のく背中に、女は優しく微笑んで言葉をかけた。

「がんばれ、あなた」


◆◆


 ――そこで起こった事象は、決して大したものではない。
 カイドウが振り抜いた最後の一撃を、猗窩座が素早く飛び退くことで回避した。
 それだけだ。それだけだが、此処までずっと虚無感さえ滲ませていた明王の眉間に皺が寄る。

 別に追撃などしなくとも、完全な消滅までは時間の問題だろうと察せられる崩れかけの身体。
 その崩壊が、何故だか途中で止まった。
 崩壊の始点となっていた千切れた頸の切断部が、まるで蛆でも涌いたように蠢いている。
 これ自体既に異常な事態なのだったが、カイドウは鬼という生き物について知識を持っていない。
 故に、彼を驚かせたのはまた別な現象だった。

「てめえ……」

 何度となく叩き潰してやった弱い鬼。
 その気配が、少しずつ変わっていくのが分かったからだ。
 より強く、更に強く。サーヴァントに対して使うべき表現ではないだろうが、全く別な生き物へと変質を遂げているかのように。
 文字通り骨の髄まで覇気による損傷と消耗を打ち込まれている筈なのに、生命力は衰えるどころか徐々に漲っていく。

 カイドウにしてみれば全く不明な展開だったが、しかし敵の覚醒を黙って見過ごすことに利などない。
 以前の彼ならばいざ知らず。
 今、ただ勝つためだけにその身を振るっている彼の行動には一切の手心がなかった。
 覇王色の覇気を纏わせた、強力無比な一撃を再生/変質する猗窩座へと容赦なく放つ。
 速度は音を置き去りにするほど。威力は、再生も変質もどちらも無に帰させるほど。
 全てを台無しにする"それ"が猗窩座の蠢く身体に吸い込まれていき――彼の身を打ち据え、粉砕するまさにその瞬間。

 ――猗窩座の姿と気配が、一瞬にしてカイドウの眼前から消失した。


「……チッ。令呪か」

 令呪による、瞬間的な空間転移。
 逃げられたことを理解したカイドウは、舌打ちしながら金棒を下ろす。
 最初に一撃入れた"妙な気配の男"も、既にさっさと逃げ遂せてしまったらしい。
 両者に等しく痛手を叩き込んだ確信はあるが、仕留めるまでには至らなかった。
 カイドウとしては面白くない展開だ。
 ただ殺し損ねただけならいざ知らず、あの修羅に関して言えば――むしろ敵に塩を送る形になった可能性も否めない。

「まあいい。誰がどうなろうが……やることは変わらねェんだ」

 しかし、そう。
 やることは何も変わらない。何一つとして、変わらない。
 誰がどうなろうが、何がどう変わろうが、叩き潰して殺すだけ。
 海賊としてあるべき姿を貫き続けるだけだ。
 ワノ国に明王として君臨し続けた年月よりも遥か前、世界中のあらゆる海原を駆け回りながらそうしていたように。

 ――『しばらくぶりに挑む側に戻ってみるのも、悪くねェかと思ってね……』

 一足先にこの聖杯戦争から姿を消した、もとい蹴落とされた腐れ縁の女海賊の言葉が脳裏をよぎる。
 ロックスのやり直しなど御免だと思っていた。
 おれは乗らない。おれは、ただ君臨し続ける。
 海の皇帝として。王者の立場から、聖杯という財宝を手に入れるだけだと。

 そのつもりだったのに、今のこの有様は何だ。
 いつの間にやら玉座は崩壊し、部下も失い、皇帝である自分が強制的に"挑む側"に戻されている。
 気に入らない。非常に不愉快だ。世界の全てが、癇に障る。
 こんな時に限って酒もない。鬼を一匹挽き肉にしてみても、それは所詮焼け石に水でしかなかった。
 "受け継がれる意志"。"時代のうねり"。"人の波"。
 ――"新時代"。
 四皇たる自分でさえもが、この東京に逆巻く大波の中に呑み込まれているというのか。

「宝を狙う賊として、このおれと競い合おうってんだ――覚悟はできてんだろうな、ルーキー共」

 鬼の巨体が龍へと変わり。
 再び、天空へと登っていった。
 聖杯を、地平線の先を目指す全ての者に宣戦布告をし。
 桜吹雪の吹く最前線に舞い躍る悪鬼羅刹の戦神が、また次の戦乱を呼ぶ。


【杉並区→移動開始/二日目・午前】

【ライダー(カイドウ)@ONE PIECE】
[状態]:孤軍の王、胴体に斬傷(不可治)、霊基再生
[装備]:八斎戒
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:『戦争』に勝利し、世界樹を頂く。
0:皆殺し
[備考]
※火災のキング、疫災のクイーンの魂を喰らい可能な限りで霊基を再生させました。
 なお、これを以って百獣海賊団の配下は全滅した事になります。


◆◆


 最後の令呪を使うべきタイミングは、本来もっと早くてよかった。
 プロデューサーと、そう呼ばれた男は刻印の消えた腕を見下ろしながら無言でそう振り返る。
 念話を交わす余裕すらない激戦の中で、己のサーヴァントが圧倒的に劣勢であることは理解できていた。
 出力最大で行使された血鬼術は自身の魔力をごっそりと削ぎ取っていったし、そうまでしなければならない状況の異様さも分かっていた。
 なのに彼が早く令呪を使わなかったのは、自分でも身勝手な自惚れだと自嘲せずにはいられないとある直感に起因する。

 それは、紛れもなく"プロデューサー"としての直感。
 人を育て、導き、羽ばたかせてきた人間としての勘。
 葛藤はあったし、リスクを恐れる気持ちももちろんあった。
 此処で猗窩座が消滅すれば、もうほとんど燃え滓も同然である自分に再起の目はまずない。
 そうなればこれまで犯した全ての罪と全ての裏切りが、何一つ生み出すことなく無為に消える。
 それこそプロデューサーにとって間違いなく最悪の未来であり、故にこそ彼は迷い、悩んだ。

 そしてその果てに、彼は選択した。
 自分の直感を――魔力のパスを通じて伝わってくる、彼方の地で奮闘する相棒の闘志を、信じることを。

「……君が、何か別なものへ変わっていくような気がしたんだ」

 敗北の淵に追いやられた絶望と怒りが、鬼の中にあった最後の扉を押し開けるのを彼もまた感じ取っていた。
 何しろ、もう一月にもなる長い付き合いなのだ。
 猗窩座の気配も、匂いも、すっかり身体に染み付いてしまった。
 そこにプロデューサーとしての観察眼と経験則が加わることで、彼は対面もしていないのに猗窩座の変化をいち早く察知することができた。

 とはいえ。
 自身の下した判断が正しかったのか、それとも救い難い自惚れの産物でしかなかったのか――その答えは、未だ判然としないままだ。

 目の前で崩れ落ち、膝を突いて狗のような姿勢で震え蠢く猗窩座の姿はとてもではないが進化を遂げたもののそれには見えない。
 切断された頸から上では肉がただゴボゴボと音を立てて泡立つばかりで、見ようによってはただ死の運命を引き伸ばしているだけにも見える。
 死ぬものか、負けるものかと、惨めに生き汚く叫び散らして足掻く、往生際の悪い愚者。そう形容することも可能だろう。
 現に猗窩座の魔力反応は今まで見たことがないほどに乱れ、また現在進行形で無茶をしているその反動も惜しみなくプロデューサーへ押し寄せてきていた。

 心臓の動悸が激しい。息は切れて、末期の肺病を患っているかのように痛ましく響く。 
 流れる汗は雪解け水のように冷たくて、そのくせ首から上だけが異様に熱を持っている。
 手足の末端は青白く染まり、視界すらおぼつかず、気を抜けば倒れてしまいそうなほど。
 そんな、今にも死にそうな有様で――それでもプロデューサーは、他でもない自分のために足掻き戦い続けている修羅の姿から目を離さない。
 離せるものか。どうして、離せる理由があるというのか。
 君が戦ってくれるから、君が寄り添ってくれるから、俺はまだこうしてみっともなく生きていれてるのに。

 まだこの蝋翼は、描いた理想(ユメ)に向け翔び続けていれてるのに。

「すまない。……そして、ありがとう――ランサー。俺の、たった一人のサーヴァント」

 額に浮いた汗を拭って、どうにか形だけでも笑顔を作る。
 彼の奮戦に報いるには、その表情が必要だと思ったから。
 破裂しそうな心臓に無理を言わせて意識を保ち、今はただ信じて狛犬の再起を待つ。

 全ては、そう全ては――――最初の願いを貫くために。

「勝とう。勝ってくれ、一緒に」

 輝きなぞとうに失くし、今は燃え上がるばかりと化した薪木達が、朝の東京の一角で静かに熱を灯していた。


【杉並区(中野区付近・杉並区立蚕糸の森公園)/二日目・午前】

【プロデューサー@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:覚悟、魂への言葉による魂喪失、魔力消費(大)、疲労(大)幻覚
[令呪]:全損
[装備]:なし
[道具]:リンボの護符×8枚、連絡用のガラケー(グラス・チルドレンからの支給)
[所持金]:そこそこ
[思考・状況]基本方針:“七草にちか”だけのプロデューサーとして動く。だが―――。
0:――頼む、ランサー。
1:………きっと最期に戦うのは、『彼』だ
2:次の戦いへ。どうあれ、闘わなければ。
3:にちか(騎)と話すのは彼女達の安全が確保されてからだ。もしも“七草にちか”なら、聖杯を獲ってにちかの幸せを願う。
[備考]プロデューサーが見ている幻覚は、GRADにおけるにちかが見たルカの幻覚と同等のものです。あくまでプロデューサーが精神的に追い詰められた産物であり、魔術的関与はありません。

【猗窩座@鬼滅の刃】
[状態]:頸切断、全身崩壊、覇気による残留ダメージ(超極大)、頸の弱点克服の兆し(急激な進行)、霊基の変質
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]基本方針:マスターを聖杯戦争に優勝させる。自分達の勝利は――――。
0:――――――――
[備考]
※頸切断による消滅に抗い続けています。


◆◆


「死ぬかと思ったわ」

 帰投するなり開口一番に伏黒甚爾はそう言った。
 心底『参った』ようなその口振りからは、余程の災難があったのだろうことが容易に察せられる。
 実際、彼が生きて帰れたのは幸運によるところが大きい。
 甚爾はこの界聖杯戦争でも屈指と言っていい強者だが、それでもあのカイドウに殺す気で粘着されていたなら生存の望みは薄かっただろう。
 猗窩座が持ち堪えたこと、そしてカイドウの方も甚爾への追撃より頑丈で死に難い猗窩座を潰すのを優先したこと。
 それらの要因が重なって、どうにか最小限の痛手に留めた上での戦線離脱が叶った――そんなところだった。

 胴体から滲んだ血と、粉塵で汚れた総身。
 そこからは鉄火場の匂いが漂っており、死線を潜り抜けてきたことがひと目で見て取れる。
 肋骨も数本折れていたが、その程度はフィジカルギフテッドの持ち主にとってさしたる支障にはならない。
 胴を抉り取られたわけでもないのだ。長くても数時間もすれば骨は繋がり、元の形を取り戻すだろう。

櫻木真乃を殺した。欲を言えばもう一つこなしたかったが邪魔が入ってな、色々あってこのザマだ」
「……お疲れ様。それ以外に収穫は?」
「一つある。俺の見立てだが、峰津院大和は既に術師として死に体だ」

 櫻木真乃の射殺による、方舟勢力への"削り"。
 空魚(クライアント)からのオファーを彼は見事にこなした。
 そんな彼がもう一つこなしたかった仕事というのが、峰津院大和の抹殺と彼の身体に残る龍脈の力の簒奪だ。
 しかし彼自身認めている通り、こちらは失敗に終わってしまった。
 不都合な偶然と、そして透明人間同然の猿を探知するという想定外の芸当を駆使する新手の乱入によって。

 が――大和とわずかでも交戦できたことはプラスだった。
 最強とされながらも、呪いと戦うには不自由の多い肉体。
 故に甚爾は仕事へ臨むにあたり、五感やそれ以外あらゆる要素を活用した観察と分析を惜しまない。
 その彼が峰津院大和と交戦し、抱いた所感。それこそが、先ほどの報告に繋がる。

「昔話になるが、俺は"当代最強の術師"なんてけったいなガキと戦ったことがあってな。
 今思い出しても二度と戦いたくねえ相手だった。やることなすこと一から十まで全部デタラメでよ。
 で、だ――紙越。オマエが散々脅かすもんだから、俺は"そのレベルの術師"とやり合う腹積もりで殺しに臨んだ」
「……、……」
「結果から言うと、オマエから受けてた報告よりも戦力としては大分劣って見えたよ。
 センスと順応の速度は確かに頭抜けてたが、何より出力が低すぎた。
 あれじゃどれだけ高く見積もっても一級程度が関の山だ。特級――規格外の怪物の位階をあてがうには弱すぎる」

 一級術師。
 それは決して、弱者を意味しない。
 術師全体で見ても数の限られる上澄みであるし、少なくとも一般人ではどうあがいても敵わないほどの強者であろう。

 しかし――甚爾らサーヴァントを相手取る上では間違いなく、出力が足りない。
 防戦ならばいざ知らず、本気での戦闘になれば確実に不利が付くのはあちらの方だ。
 伏黒甚爾が見た峰津院大和は、強者でこそあれど規格外ではなかった。
 では紙越空魚は、彼の戦力を過剰に評価してしまっていたのか? それはないだろうと、甚爾は考えている。

「オマエの"目"は特別だからな。そんなオマエが化け物と評価したんだ、それを嘘だとは思わねえ」
「じゃあ、やっぱり……あの霊地争奪戦で?」
「十中八九な。東京タワーが崩壊するあの瞬間に、奴の身に何かが起きた。
 その結果、命は繋いだが術師としては死に体同然にまで衰えた。
 だからこんな猿一匹に侮られるし、こっちが予定外の新手に対処してる格好の隙も無視して素直に退いたんだろうよ」

 空魚は、甚爾の分析を聞いて思う。
 これは間違いなく、自分達にとって追い風だ。
 峰津院大和は味方の間は生意気な言動に目を瞑りさえすればこの上なく頼もしい後ろ盾だったが、敵になったらその全てが反転する厄介な相手。
 東京タワーの地下で大和の奮戦を感じ取っていた空魚は、大袈裟でも何でもなく、甚爾とアビゲイルの二体がかりで掛かっても果たしてあれを倒せるかどうか……と頭を悩ませていた。
 そこに舞い込んできた理外の報告。
 大和の弱体化――油断できない相手なことは変わらないが、しかし厄介な障害が一つ知らぬ間に消えてくれたと言っても決して過言ではない。

「……で、その傷は乱入してきた奴にやられたの?
 そいつってあの時、鏡の世界で襲撃掛けてきた奴なんでしょ? 近接戦メインでアサシンがそこまでやられるとか、ちょっと意外なんだけど」
「いや。そいつと戦ってたらカイドウが降ってきたんだ」
「…………はい?」
「やってられねえよな。流石に天を仰ぎたくなったよ」

 ……あれが、降ってくるのか。急に。
 これには空魚も『ご愁傷さま』以外の感想はちょっと浮かびそうになかった。
 よく生きて帰って来てくれたというものである。

「龍に化けて移動しながら、敵を見つけたら相手の状況も都合も無視して速攻で殺しに掛かる。
 霊地の争奪に敗北して気でも立ってんのか、奴さんはそういうやり方に切り替えたらしい」
「それ、よく考えなくても最悪じゃない?」
「やってることはレーダーで探知してミサイル撃ち込むのと同じだからな。対応できなきゃその場でお陀仏ってわけだ」

 霊地争奪戦が終わり、次の局面に向けた休息と準備の時間がやって来るものだと空魚は考えていたが、どうやら戦争はそう甘くないらしい。
 戦略の分野においては素人に毛が生えた程度でしかない空魚でも、直にまた大きな戦いがやって来るだろうことくらいは分かる。
 大勢死ぬだろう。ともすれば、これまでのどの戦いよりも多くの命と願いが失われる。
 自分のするべきことは、取るべき行動は、その大波に巻き込まれるのを避けながら着実に敵を落としていくこと。
 サーヴァントを二騎抱えているという唯一無二のアドバンテージを活かして、犠牲になる側ではなく犠牲を出す側として暗躍すること。
 できるできないの問題ではなく、やらなきゃいけない。
 できなければ、命も大切な共犯者も永遠に失って終わるだけだ。
 そんな虚しい結末になるくらいなら、喜んでこの手を血に染めよう。

 ――負けないでね。

 脳裏に残るその言葉をもう一度反芻して、空魚は「当然」と小さく呟いた。
 言われなくても、負けるもんかよ。
 誰にも、何にも。負けてなんか、やるもんか。



「……あんたも分かった? そういうわけだから、これからは今までよりももっと気を張って――」
「……………………」
「ちょっと、フォーリナー? 何ぼさっとしてんの」

 ふと。此処までの会話に絡んでくることなく、黙りこくって何処かあらぬ方を見つめているアビゲイルに意識を向けた。
 霊基再臨。契約を鳥子から自分へと移し替えてからというもの、彼女の口数は明らかに減っていた。
 不満があるだとか、負い目があるだとか。鳥子のことをまだ引きずっているだとか、そういうのではない虚ろさ。
 その白痴じみた静けさに、空魚が思い出したのはいわゆる"神憑り"の逸話だった。

 神憑り、神隠し。形は何であれ、神に魅入られた者。
 そうした幸運/不運な人間が、その"接触"から別人のように人格が変わってしまう。
 外界からの刺激に対しての反応が鈍り、白痴のように虚ろな個我がただ揺らめくばかりとなる。
 実話怪談やネットロアの中で何度となく目にしてきたオチ。
 それを思い出させる、神聖と狂気の中間とでも言うべき不気味さを孕んで佇むアビゲイル。
 彼女の、指が。空魚の声に応えるように動いて――す、と。南の方を、差した。

「匂いがするわ」
「……匂い? 何の」
「なつかしい、匂い。清貧の村、私たちの……」

 少女は、笑っていた。
 口元を微かな弧に歪めて、微笑んでいた。

「異端なるセイレム。信仰と、痛みが……繰り返す。深い、深い、嘆きの森――」


【港区北部/二日目・午前】

【紙越空魚@裏世界ピクニック】
[状態]:疲労(中)、覚悟
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:マカロフ@現実
[所持金]:一般的な大学生程度。裏世界絡みの収入が無いせいでややひもじい。
[思考・状況]基本方針:鳥子を取り戻すため、聖杯戦争に勝利する。
0:アサシンに次は何を任せようか……。
1:マスター達を全員殺す。誰一人として例外はない。
2:リンボの生死に興味はない。でも生きているのなら、今度は完膚なきまでにすり潰してやる。
3:『連合』についてはまだ未定。いずれ潰すことになるけど、それは果たして今?
[備考]※天逆鉾によりアサシン(伏黒甚爾)との契約を解除し、フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)と再契約しました。

【フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)@Fate/Grand Order】
[状態]:霊基再臨(第二)、狂気、令呪『空魚を。私の好きな人を、助けてあげて』
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]基本方針:マスターを守り、元の世界に帰す
0:マスター。私は、ずっとあなたのサーヴァント。何があっても、ずっと……
1:――あは。懐かしいわ。
2:空魚さんを助ける。それはマスターの遺命(ことば)で、マスターのため。
[備考]※紙越空魚と再契約しました。

【アサシン(伏黒甚爾)@呪術廻戦】
[状態]:腹部にダメージ(小)、肋骨数本骨折、マスター不在(行動に支障なし)
[装備]:武器庫呪霊(体内に格納)
[道具]:拳銃等(拳銃はまだある)
[所持金]:数十万円
[思考・状況]基本方針:サーヴァントとしての仕事をする
0:オマエはそう選んだんだな。なら、俺もやるべきことをやるだけだ。
1:敵連合への返電は……。
2:あの『チェンソーの悪魔』は、本物の“呪い”だ。……こいつ(アビゲイル)もそうか?
[備考]※櫻木真乃がマスターであることを把握しました。
※甚爾の協力者はデトネラット社長"四ツ橋力也@僕のヒーローアカデミア"です。彼にはモリアーティの息がかかっています。
※櫻木真乃、幽谷霧子を始めとするアイドル周辺の情報はデトネラットからの情報提供と自前の調査によって掴んでいました。
※モリアーティ経由で仁科鳥子の存在、および周辺の事態の概要を聞きました。
※天逆鉾により紙越空魚との契約を解除し、現在マスター不在の状態です。 
ただしスキル『天与呪縛』の影響により、現界に支障は一切出ていません


時系列順


投下順


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153:敗者ばかりの日(前編) 紙越空魚 160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編-
153:敗者ばかりの日(前編) アサシン(伏黒甚爾) 160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編-
153:敗者ばかりの日(前編) フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ) 160:ひぐらしのなく頃に桜 -桜渡し編-
153:敗者ばかりの日(前編) プロデューサー 159:愛のために歌うのは
153:敗者ばかりの日(前編) ランサー(猗窩座)
151:業花の帝冠、筺底のエルピス ライダー(カイドウ) 165:この愛をくれたあなたに(1)

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最終更新:2023年08月27日 23:54