村板卓志

村板卓志(むらいたたくし、1903年11月-1975年7月)は、日本の教育学者。日本大学学術機構理事長(初代)、日本数学教育学会会長(初代)。

来歴

生い立ち

1903年11月、富山県南砺市出身。農家の出自であったが、父は銀行員として北陸第八銀行の行員となった。地元の小学校を卒業後、旧制駒場へ進学。時に14歳であったが、東京の三ツ星製粉に就職が決まった姉とともに二人で上京する。貧しい東京暮らしの仲、勉学に励むことになる。東京大学経済学部経営学科に進学、経済学部に入れば経営者として裕福な生活ができると期待していたが、官僚的な思考の同級生に飽き飽きして教育者の世界に進む。教養学部教育学科に再入学。この試験では、成績最上位となったため、学費免除生となった。在学中、東京ロシア語学校でロシア語やロシア文化を学ぶ。当時、ロシア語の素養を深めたのは、帝国主義大国のロシア帝国に強い関心を抱いたためであった。大学時代は、インテリ特有の左傾化思想を抱いていた。この東京ロシア語学校には、教師のスコーフ・ヤニスキー(ロシア学の権威)や学生の太田実(細胞生物学の権威)がいる。

数学者

大学卒業後、東京都で数学科の教諭として都内の小学校旧制高等学校を転々とする。教育業の傍らで、数学教育手法の開発を進める。1938年に「日本式数学教育の応用的利用理論」を発表。東京大学教育学部養育部による査読の末、1944年に東京大学から教育学博士を与えられる。戦時中も、一教育者として日本の統制教育に協力。大日本高等教育会東京本部長として、東京都内の教職者育成や教育手法の開発に貢献する。
1942年4月、東京大学教育学部講師(教育手法講座)に着任。日本で本格的に行われてこなかった、教育の技法及び手法の開発に着目して研究を主導した。1945年1月より教育学部准教授(教育手法講座)に昇任。1946年1月、「数学教育手法の開発実験」・「管理式教育システムの再構築」の2論文を発表、同論文において帝国学士院特別賞受賞(個人表彰)。戦後には、一貫して戦中政策を批判。この批判は、戦中において体制派を務めていた自己批判の意味もあったとされる。

日本大学

1947年3月、東京大学を退官。翌月に、元東京大学法学部教授の狐井雅頼とともに、日本学術研究所を共同で設立。メインの出資者となったのは、革島常高(天宮総研系列の日立証券代表取締役社長)である。1948年10月、日本大学学術機構発足。1950年4月に日本大学が開学すると、教育学部長・教授(数学教育講座)に着任。大学全体の運営に携わりながらも、自身の研究テーマだった数学教育手法の開発に尽力した。1961年3月、日本大学学術機構理事長を退官。

教育界の要職

1955年4月から、日本大学学長(2代)・中央教育審議会会長(初代)に就任。同年には、日本教育学会会長を歴任。1962年から、帝国学士院副総裁を兼務。1967年に帝国学士院総裁に就任。1972年に帝国学士院の役職を外される。日本教育の中で未開拓だった教材研究の開発などに政府支援を導入するように訴えた。

後年

1975年、日本教育の中で教育手法の開発について人生をささげた村板卓志は交通事故によってその生涯に幕を閉じた。日本教育学会は、日本の教育発展に多分野で貢献した人物に送る年間研究賞に「村板卓志記念賞」を設定した。この賞は1985年以降、日本学術機構と共催して行うこととなった。主な受賞者には、原口裕也(山陽理科大学教授・実践地理教育)、視聴覚教育の法制化を実現した小坂光喜(文部省義務教育局長)、中高一貫教育システム体系化を実現した川崎義則(東京学館理事長)などがいる。

役職歴

中央教育審議会初代会長 1955年4月-1964年3月
帝国学士院総裁 1967年4月-1972年3月
帝国学士院副総裁 1962年4月-1967年3月
日本教育学会5代目会長 1955年4月-1972年3月
日本大学学術機構初代理事長 1948年10月-1961年3月
日本大学2代目学長 1955年4月-1972年3月
日本大学教育学部学部長 1950年4月-1955年3月
日本大学教授 1950年4月-1955年3月
東京大学教育学部准教授/教育手法講座 1945年1月-1947年3月
東京大学教育学部講師/教育手法講座 1942年4月-1944年12月
大日本高等教育会東京本部長 1939年10月-1945年3月
最終更新:2025年06月17日 15:54