吾妻卓志郎

吾妻卓志郎(あずまたくしろう)〈1921.6-2016.12〉は、日本の実業家。日本化学製作所代表取締役社長、日本経営者連盟総裁(第12代)、財団法人ニッカ財団名誉理事などを歴任した。

来歴

新潟県長岡市出身。徴兵初年となる15歳になると、1936年8月に志願徴兵。身体検査等を経て、新潟に駐屯していた第29歩兵連隊へ陸兵として入営。しかしながら、部隊内部でのいじめや下士官の横暴に嫌気がさしたため、1938年4月に陸軍士官学校へ入校。修学年限が2年へ短縮されていたため、1940年3月に卒業して翌月陸軍歩兵少尉へ任官。初期配属では、シベリア保護領へ駐屯していた第3技術連隊に配属。翌年以降、第70歩兵連隊の歩兵小隊長として前線指揮に邁進。戦線の縮小に伴って、満州国警備業務を担当していたが、部下の多くも戦死。1943年8月1日付で、陸軍歩兵中尉へ昇進。満州国内で電気通信事業などの業務に積極的に参加し、技術を学ぶ。1944年以降、敗戦必至とされていた満州国のなかで生活の糧を得ながら部隊の存続を目指す。1945年4月、第70歩兵連隊が解散すると、第7軍司令部へ転属。兵務部動員調査課課員、軍需部兵器課課員として勤務。1945年8月の終戦を迎えて、朝鮮での外地復員業務に充てられる。1946年1月1日の武装解除令に伴って、退役を志願。1946年4月ごろにやっと舞鶴港から帰国する。

日本化学製作所

復員後、陸軍士官学校教官で長らく交友関係があった、田嶋末治の知古を受けて日本化学製作所へ入社。通信設備本部建設部にて通信関連設備などの開発に従事。新潟県の海底通信線敷設工事を長らく担当。1951年、通信関連部門を分社独立した日本電信に移籍。設備建設本部第一工務部課長として海底通信船の敷設工事を全国規模で担当。1956年、日米共同事業として持ち上がった日米海底ケーブル建設の入札代理人として上司とともに渡米。同年12月に日本側の担当企業に入札。米国における建設事業担当者として日本電信国際事業本部コロンビア駐在所在勤。1960年、在職中にコロンビア大学聴講生として経営学を修める。1962年4月、日本へ帰国。2か月の待命の後、日本化学製作所日米共同事業本部企画調査部長に就任。1963年1月より、日米共同事業本部海底ケーブル事業室室長を兼務する。1970年1月より、取締役・日米海底ケーブル事業最高責任者(4代目)に就任。1971年4月、常務取締役・日米海底ケーブル事業最高責任者・日本電信常務取締役・同設備建設本部長へ昇進。1972年4月取締役副社長・米国支社長、1976年4月取締役副社長。1977年1月、先任の指名によって、日本化学製作所代表取締役社長に就任。日本の独立系重工業メーカーとして青島重工に次ぐ国内シェアを確立。1984年4月に社長職を依願退職、取締役会長に就任。同年、ニッカ財団理事長へ就任。翌々年から終身名誉理事へ。

日本経済会議

1965年から、日本経営者連盟へたびたび短期出向を経験。1970年の取締役就任に伴って、日本経営者連盟財務局次長へ就任。副社長に就任した1972年から非常勤理事へ就任。1977年4月より、社長就任に伴い専務理事へ就任。前任である峯岸賢祥(カネヨHD代表取締役社長)が任期満了に伴い総裁退任を表明したため、1979年1月より12代目の代表幹事に就任。就任以降、社長退任に至る1984年3月まで就任。以降、日本経営者連盟常務理事へ就任。

晩年

1993年に日本経営者連盟の要職を退くと、実業界の表舞台に影響を与える存在として経済団体連盟会長に与えられる「財界総理」と呼ばれることにもなる。第1次船中内閣以降、船中勉の私的諮問機関である経済再生委員会の委員にも就任する。2000年代になると、ほとんどの役職から手を引いて隠居に身となる。2008年に、慶応病院へ入院。胆嚢癌により、延命治療を続けていたが、2016年12月95歳で逝去。

経歴

1921年 6月 新潟県長岡市・出身
1936年 8月 志願徴兵
1938年 4月 陸軍士官学校・入学
1940年 3月 陸軍士官学校・卒(陸士50期)
陸軍少尉・任官
4月 第3技術連隊
1941年 7月 第70歩兵連隊
1943年 8月 陸軍中尉・昇進
1945年 4月 第7軍司令部へ
兵務部動員調査課
7月 軍需部兵器課
1946年 1月 退官
8月 日本化学製作所・入社
通信設備本部建設部
1951年 4月 日本電信へ移籍
設備建設本部第一工務部・課長
1956年 12月 国際事業本部コロンビア駐在所・在勤
1962年 4月 国際事業本部付・本国待命
6月 日本化学製作所へ移籍
日米共同事業本部企画調査部長
1963年 1月 (兼任)日米共同事業本部海底ケーブル事業室長
1970年 1月 取締役・日米海底ケーブル事業最高責任者(4代目)
1971年 4月 常務取締役・日米海底ケーブル事業最高責任者(4代目)
(兼任)日本電信常務取締役・設備建設本部長
1972年 4月 取締役副社長・米国支社長
1976年 4月 取締役副社長
1977年 1月 代表取締役社長
1984年 4月 取締役会長
1993年 12月 退任
  • ニッカ財団理事長(1984年6月-1986年3月)
  • ニッカ財団終身名誉理事(1986年4月-没年)
  • 日本経営者連盟12代総裁(1979年1月-1983年7月)
  • 日本経営者連盟専務理事(1977年1月-1978年12月)
  • 日本経営者連盟常務理事(1983年8月-1993年3月)
  • 日本経営者連盟非常勤理事(1972年9月-1977年1月)
最終更新:2025年07月28日 10:41