矢田武富

矢田武富(やだたけとみ)〈1939.4-2005.12〉は、日本の企業家、投資家経営コンサルタント。裏社会の領袖として知られ、航空機からテロまでを引き受けると呼ばれた経営コンサルである。

来歴

東都理科大学科学高校東都理科大学経営学部数理情報学科をそれぞれ卒業。1962年4月より、東京大学大学院経営学研究科に進学。1967年3月に、東大院の博士課程を修了して、経営博士を取得。1967年4月、日本経営戦略機構に入社。翌年から、理科大の友人に誘われ、日本理化工業に転職。経営部企画室において、急進的な日米貿易戦略を担当した。
1969年10月、ヤナイ企画に転職、取締役・経営コンサルタントを務める。1970年以降、広域指定暴力団極盛会若頭の植松太郎と仲を深める。1973年、植松を通じて共和党総裁に就任したばかりの江藤隆一に接近。雄伯会内に大量の資金を提供した。1978年6月11日の第11回参議院通常選挙において、大学の同級生だった小原豊を支援。小原は、長らく政界への進出を考えており、この際に自由党との交渉窓口を務めた。

1982年4月、ヤナイ企画常務取締役・第一専門部長・対米交渉最高責任者に就任。メディア事業への資本算入を企画しており、自由党内部の総務族を介してメディア人脈を形成したいと考えていた。その時に目を付けたのが、メディア出身で自由党総務族において頭角を現した曽根昭厚生労働大臣だった。この時、曽根昭の私設秘書となった志藤十慈は、ヤナイ企画の元社員で矢田の子飼いの社員だった。1984年6月に、浅上内閣(改造)曽根昭内閣官房長官に就任したのは、矢田をはじめとする資金と暴力の後ろ盾があったためである。1987年、内原幸徳(内閣総理大臣)の下で組織された、民間外交団の副団長として渡米。国連日本代表部オブザーバーに就任。

1989年の帰国後、オークランド航空機日本支社長・広域日本輸入代理人のペリア・クロブアメリカ陸軍国際戦略部日本担当指揮官のトーマス・エリック少将に近づき、日米間の軍需品輸出入動向に関するリアルタイムの情報を取得。輸出入に絡んで莫大な利益を生むことになる。1992年に発生した「駐英アメリカ大使館員人質事件」を首謀した国際過激派テロ組織のIRP統制派に重火器を横流していた事実などが発覚。この時期には、イギリス王立情報部に危険人物としてマークされる。1994年に、自由党系の右翼政治研究組織である東亜国文研究会のメンバーに参加。

1995年、ヤナイ企画取締役副社長・第一専門部長・株取引関連業務最高責任者に就任。1997年8月の自由党党首公選において雄伯会の会長であった室堂卓二を資金面でバックアップ。2002年3月にヤナイ企画を退社。日本の大手企業から社外取締役などの打診を固辞する一方、個人投資家として活躍。2004年2月、イギリス王立情報部の工作員が日本国内で拉致。英国に送還されて3か月間勾留される。日本で完成性の強かった政治家や官僚、経済人を通じて保釈を要請し、3か月後には極秘裏に釈放される。身の危険と隣り合わせの生活に耐えることができず、暴露本を寄稿。2005年12月に、サンフランシスコのレストランで自ら命を絶った。没後には、これまで150名以上の暗殺仲介や暗殺指示をした事実、テロ行為助長のために大量の武器を供与した事実、反社会勢力に対して数億単位で毎年資金供与をしていた事実、自身から株券を受け取った各国の著名人・財界・政界・官界・軍事関係者の名前を列挙した暴露本が世界同時的に発表された。世紀の情報クーデターとして世界中を駆け巡り、少なくとも世界的大企業300社以上、各国23の政権が打撃を受けた。
最終更新:2025年04月23日 21:44