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高倉七助

高倉七助(たかくらしちすけ、1899年12月~1958年9月)は、帝国競走馬育成会中央競馬事業団の所属騎手。陸軍大尉(騎兵科)。
生誕 1899年12月
東京都
逝去 1958年9月
京都府京都競馬場厚医会京都病院
授与 競馬殿堂
名誉子爵
文化勲章

来歴

1899年12月、陸軍大元帥である高倉気仁の6男として生まれる。
陸軍士官学校予科を経て、1915年4月に陸軍士官学校に入学。
1918年3月に、陸士27期を18番の成績で卒業し、騎兵科陸軍少尉に任官。

軍人時代

帝国元帥府に列せられた父の副官代理を経て、広島大本営準備部隊や習志野騎兵旅団を転属。オーストリアヴィルヘルム帝国士官学校陸軍科に留学し、騎兵教練を受けると、帰国後陸軍中尉に昇任して小隊長として現場勤務を経験。

1926年から参謀本部第2部教育訓練課高級課員、第4部部長付副官事務取扱を経て、1933年に陸軍大尉に昇任。昇任後、軍馬育成を目的とする全国の「競馬会」を統合する組織として、帝国競走馬育成会に設立に尽力。

騎手転身

1935年、軍役を退官して、自らが思案した帝国競走馬育成会の騎手登録制度により、「第1期登録騎手」となる。年間1000レースを走る騎手として、東京競馬会大阪競馬会小倉競馬会への遠征でも活躍。主戦場を中京競馬会中京競馬場として名古屋市に本籍も移した。
1942年には、同年に新設された中京杯優勝競馬競争と題された12競走で全勝。1943年、1944年(6月12日の名古屋空襲の影響で5競走に減少)も全勝の活躍を見せた。

1945年は、帝国競走馬育成会が活動休眠状態となったため、軍役に復帰。第2軍に従軍した。8月の終戦後、翌1946年8月に復員を果たす。

日本競馬最初期のプリンス

復員後、北海道公営白老牧場で競走馬調教などを行う。帝国競走馬育成会が廃止され、1949年に中央競馬事業団が設立されると同事業団「第1期騎手」として登録し競馬騎手に復帰。
1950年の帝都復興記念競走全14競走では、11賞の活躍をする。

1955年に確立したクラシック競馬競争では、皐月賞日本優駿望月賞ミツルナガサト号で制覇し、体系確立初年度に三冠馬を生み出した三冠ジョッキーとなる。1956年には、古馬競馬競争として確立した天皇賞・春中山大賞典小倉大賞典大阪盃天皇賞・秋の五大競争を再びミツルナガサト号で制覇して五冠ジョッキーとなる。

1958年、望月賞で、ハインツブルッケンの落馬事故に巻き込まれて負傷。緊急搬送の後に急逝した。

没後

1958年12月に、中央騎手会初代会長の待宮定春が葬儀委員長を務める形で葬儀が行われた。没後である1960年に、年間競馬表彰制度が成立し、騎手部門の高倉賞最多勝騎手高倉賞年間最優秀賞率騎手高倉賞年間最多賞金獲得騎手が成立すると、年間最も優れた騎手に贈られる、「高倉賞騎手大賞」に名前を残した。
1964年には、同年に死没した元東京競馬会会長で中央競馬事業団初代総裁の浅野彦三郎とともに、第1回の競馬殿堂入りを果たす。

成績

勝数 勝率 騎乗 主な勝鞍 受賞 備考
1935年 52 .509 102
1936年 41 .201 203
1937年 63 .14 450
1938年 108 .154 701
1939年 314 .313 1001
1940年 283 .310 910
1941年 193 .263 732
1942年 103 .206 500 中京杯優勝競馬競争
1943年 97 .209 463 中京杯優勝競馬競争
1944年 40 .165 241 中京杯優勝競馬競争、小倉杯優勝競馬競争
1950年 32 56 中京杯帝日賞
1951年 53 60 中京杯
1952年 63 80
1953年 78 96
1954年 102 246 東京短波重賞
1955年 139 .190 731 クラシック3冠、中京杯
1956年 191 .262 729 古馬5冠、中京杯、日本優駿 2001年に稲垣丈夫が203勝するまで歴代記録
1957年 168 .280 599 皐月賞天皇賞・春小倉大賞典天皇賞・秋 2009年に福富二が更新するまで歴代記録
1958年 101 .234 430 東京金盃

制覇記録

G1競馬競争勝利記録

最終更新:2026年02月09日 11:23