玉井雄竹朗(たまいおたけろう、1907年8月~2010年3月)は、日本の実業家、経営者、電気技師。
来歴
生い立ち~戦時中
1907年8月、
秋田県大曲市に生を成す。三人兄弟の真ん中に生まれ、兄と妹がいる。
父が、小豆相場で失敗して極貧の幼少期を過ごし、近所の馬農家でお手伝いをしながら日銭を稼いだ。病弱の兄と幼い妹の面倒を見ながら過ごした。大曲中学校を卒業後、
秋田県高等工学校予科電気部に入学するも、3年の課程を1年半で中退して上京する。
白瀬電機開発工業の電球用ソケットの開発部門で勤務する。その後、陶器製ソケットがメインであった当時、絶縁体を用いたソケット開発の特許を18歳にして取得し、翌年にはソケット製造を専門とする
「玉井電球店」を大阪で操業する。この時期、
大阪地下水道土木部長であった
村賀卓彦(戦後に社長就任)の知遇を得て、大阪の地下水道点検用電球のソケットを大量受注する。1930年には、
航空測量機製造所を買収して、航空機水平盤などの研究開発を行う。航空機水平盤の製造など、航空機内部の精密部品開発に尽力する。
1935年の
自主軍事宣言成立に合わせて、
陸軍軍人の大規模増員が進められ、玉井も技師として特別召集の扱いを受けることになる。1935年8月、
陸軍大尉に任官して
大阪中央工廠技師となる。1944年2月の
大阪空襲で被災して
小松航空工廠での航空機製造にあたる。1945年2月の
小松空襲でも被災すると、
千歳航空工廠に移って航空機内部部品の製造開発に従事した。
玉井電器商店の創業
1945年8月の終戦を
北海道の地で迎えると、故郷秋田で妹家族と過ごす傍ら、事業計画を練ることとなる。翌46年2月に、
戦後事業復興特別融資の対象事業として、ラジオ修理、電球用ソケット開発の事業を両輪とする玉井電器商店を
仙台市にて創業する。その後、文房具、簡易食料品、アルミ缶の開発などに事業分野を広げ、1950年代後半には業務用ミシンの本格製造を始める。長野、山梨、群馬、大阪などの全国各地で工場を新設し生産ラインを拡大させる。1960年代になると、遊興機械、レコードの開発事業に注力して娯楽、音楽色の強い事業形態を展開する。義弟の
尾山貞夫が設立した
テイ音、従兄の
安川喜八郎が創業した
アコードナショナルなどを主力子会社とする形で、多方面に事業進出を目指すことになる。また、1950年代後半からは、自身が秘蔵の事業としていた家庭用エアコン開発に巨額の資金を投入し、一時期は自社株を一部売りに走るほどの資金難になりながら、1963年に国内初の家庭用エアコン「
クーラー霧島」がメガヒットを飛ばし、日本の家電市場を大きく揺るがす存在となる。
1967年、数々の子会社事業を連結させて、大規模な事業戦略をとる目的から、
玉井屋HDを設立し社長に就任する。
同年、日本国内の電機メーカーが特約店を中心とする小規模ビジネスに終始しているのに対抗して、日本初の大型家電量販店
ナショナルショップ玉井を開業。日本国内に18店舗を構える大規模家電量販店であったが、最初の5年間は大幅赤字を計上するなど波乱の船出であった。その後、
秋森佐吉社長の就任によって大幅な業績好調を見せることになる。地元商店街を淘汰する大規模小売店となるも、日本の家電市場に大きな影響力を及ぼすこととなる。1971年には、
生田財閥系統の
太陽電機の大規模買収を主導して家電業界の再編に積極的に介入する。
1970年代の家電業界再編の流れの中では、
新近江グループ系統の
近江電業や
東日本電機、
昭栄あさひグループの
光洋産業、
サクラとともに歩む会の
セイラン機電に対抗する強大な勢力として、
帝都白洋グループの系列企業に属することとなった。この影響から、
白瀬通商社外取締役などの要職を兼ねることとなる。
社会貢献活動
実質的な実業活動から足を洗ったのち、代表取締役会長としての地位のみで業界再編などの大仕事に勤めていた玉井であったが、自身の数兆円に及ぶ資産を社会貢献活動に投資することとなる。特に著名なのが、
日本山財団、
交通遺児奨学金財団の設立である。年々増加傾向にある学生登山への安全普及や交通事故等で遺児となった多くの子供たちの支援などに私財を投じた。
平和安全、後継者育成
1977年、自らに共感する
自由党所属議員らを集めて支援する政治塾
関学舎を主宰。政治家の育成や政治理念の熟達などに努めるが、後の政経学舎設立につながる。1984年に、1000億円近くの私財を投じて
雄志学舎を開学。21世紀のリーダーを育て、強くたくましいアジアの中の日本を作りたいと祈願した。1990年には、
財団法人QRS平和研究所を設立して、雄志学舎の経営母体として再編を図った。この学び舎は、日本のネクストリーダーを育てる中心的な存在として政財界をはじめとする各分野で活躍するリーダーを育成している。
大学教育
1980年代には、
東北大学、
東京大学への多額の寄付によって日本初の寄付講座を開設し、自ら教壇に立つ機会も増えることとなった。また、
中央教育審議会委員として、
国立大学の統合廃止に否定的な立場であったものの、国立単科大学の統廃合が決められたため、委員の職を辞任することになり、大きな波紋を呼んだ。1990年に、
学校法人青庭学園を設立して、
新潟工業大学、
和歌山工業大学を復活させる。地域の学術発展に貢献する目的から、小中高大までの一貫した連携教育に着目し、学びと技術の育成を重点とした学校教育の実現を目指した。青庭学園は、2007年に、
雄学館大学を開学する。
最終更新:2026年07月23日 00:10