学生生活の合間の夏休みなどのちょっとした長期休暇、学生の身分でもアルバイトなどで蓄えた資金で、ちょっとした海外旅行などが当たり前となって久しいこのご時世で彼女もまたそんな一人ではあったが、彼女は海外よりもさらに遠く、しかし近い場所へ行こうと思いついてしまった。
「そうだ。異世界に行ってみよう」
突飛な思いつきのようだったが彼女にとってはそれほど突飛な考えとは思わなかった。
最近のテレビでは異世界にお笑い芸人を送って異世界についてあれこれ特集する番組が視聴者の関心を得て盛り上がっているし、一部の旅行会社は異世界観光旅行のプランを発表して好評を博しているとも聞いたことがあった。
なにより日本と
ゲートを通じて地続きとなった
ミズハミシマという異世界側の国は、治安もよく風土も日本の沖縄や台湾と似ているということで下手な海外より安く異世界へ行けてしまうという状況が生まれつつあった。
ただ、やはり問題となるのはゲートの通過に関係した手続きや審査で、既存のパスポートとは別に日本政府が発行するゲート通過許可証の発行が必要だった。
しかし、思いついたら吉日が信条な彼女は文明の利器であるパソコンやインターネットを活用し情報を収集した。
「へぇ、パスポートと同じところでこうやって取るんだ」
地方自治体の関連窓口で必要な書類と証明写真を持参し、2万ちょっとの手続き費用を払えば何か特別な理由がない限りはその国の国民であれば当たり前のように手に入ると、彼女が少し調べただけでも情報はかなり豊富に入手できた。
そうとわかれば膳は急げ、両親には卒業旅行とかこれからパスポートが必要になるかもと言って必要な書類を取ってきてもらい、役場の窓口へは彼女が持参して手続きを行った。
役場の担当者は白髪の目立つ壮年男性で「最近の若い人は海外旅行どころか異世界になんて行くんだねぇ、まったくおじさんの若い頃じゃ考えられないよ」と驚きながらも初めての彼女に丁寧に書類の記入について説明をしてくれ、そのおかげでミスなく彼女は申請を終えることができた。
パスポートと特別許可証明証の申請で5万円強ほど出費したのは痛かったが申請から受領までの一週間は待ち遠しい日々だった。
夏休みが目前に迫った一週間後、彼女が郵送されてきた受領通知をもって再び役場の窓口へ赴くと、申請の時の壮年男性とは別の女性の担当者が応対した。
「こちらがパスポートでこちらがゲートパスです」
女性の担当者はそう言って日本国旅券と書かれた赤い手帳と、その手帳と同じくらいの大きさのカードを彼女の前に置いて説明する。
「こちらは貴女を日本国民としての身分を証明するもので、こちらのカードはゲートの向こう側での貴女の身分を証明するものです。くれぐれも紛失などしないよう管理保管してください」
淡々とマニュアル通りの説明に「あのおじさんのほうがよかったなぁ」と漠然とした味気なさを感じつつ、適当に頷きその他の諸注意や説明を受けて無事パスポートとゲートパスを受け取った彼女は、その数日後には「せっかくの夏休みだしちょっと出掛けてくる」とてっきり数日の近場の旅行だと理解した家族に告げ、旅支度を整え異世界一人旅へと赴くため東京発淡路島行きの高速バスに乗車し、その翌日には淡路島ゲートの前に居た。
「わぁ。テレビでは何度も見たことあるけど生で見ると全然違うなぁ……」
淡路島沖の海上に浮かぶ光の柱と、それを取り囲む神社の鳥居を連想させる赤い光の列柱が彼女がバスから降り立った淡路島沖のゲートへのフェリー乗り場からはっきりと見える。
20年前に世界各地に出現した11箇所のゲートは、それぞれに強く干渉する異世界の神(日本以外ではいろんな宗教に配慮して高位知的存在などと呼称)を反映した様々な現象が周囲で観測されることは有名ではあったが、それをテレビで見るとの間近で見るのとではまた感覚的に違ったものがある。
「それにしてもすごい人、これ全部ミズハミシマへ行く人なのかな?」
彼女が降り立った場所はまだ朝だというのにかなりの人で賑わっており、バス駐車場には次々と各地から到着する高速バスが新たに到着した人を吐き出している。
瀬戸内海に浮かぶ淡路島は現在、世界に11箇所存在する異世界とを繋ぐ場所の中で地球側異世界側の政治状況が安定しアクセスがしやすいということでから、国内外の異世界へ赴く旅行者の玄関口となり、また日本観光の一部として淡路島でのゲート観光というものも多い。
それを物語るようにフェリー乗り場付近は彼女のような日本人の姿もよく見かけるが、それ以上に外国人の姿もよく見かける。
ザワザワ……
「……あれ何だろ?」
雑多な人種で騒がしいフェリー乗り場だが、その一角がそれとはまた違う感じで騒がしいことに気がついた彼女はそちらの方向に視線と注意を向ける。
「米軍は出ていけーーーー!」
「自衛隊の米軍への協力は憲法違反だーーーー!」
するとそれまであまり内容がよく聞き取れなかったざわめきの内容が聞き取れるようになり、フェリー乗り場の一角で騒がしくしている一団の仔細も判明する。
「淡路島を第二のオキナワにするな!」や「憲法9条絶対死守」などという横断幕やプラカードを掲げた一団がフェリー乗り場を利用する日本人・外国人旅行客の視線を集めている。
「そういえば、そんなこともやってるってニュースで見たことあったかも……」
まったくの偶然ではあったが、彼女が淡路島を訪れた同日、淡路島ゲートの警備にアメリカの最新鋭イージス艦が新たに配備されるということがこの騒ぎの発端だった。
20年前のゲート出現と10年前の世界的なゲートとその関連施設を標的としたテロ事件以来、各地のゲートの警備は厳重なものとなり、淡路島でも至るところにテロなどを想定した自衛隊と在日米軍の関連施設が建設され、それに反対する抗議活動が定期的に行われている、というニュースを見たことはあったが、彼女にとってこれもまた生で見てはじめて実感するものであった。
「よくわかんないけど・・・私はちょっとマネできないなぁ」
横断幕やプラカードを掲げ拡声器をつかって声を上げる一団に、これと言った政治信条を持たないありふれた現代の若者である彼女は苦笑いを浮かべる。
『それではこれより乗船の受付を開始します』
それからしばらくフェリー乗り場付近を人混みをかわしながら散策していると周囲一帯に聞こえる大音量のゲートへと向かうフェリーの乗船受付アナウンスが流れはじめる。
日本語のアナウンスに続いて英語と中国語や韓国語などのアナウンスが流れ、閉鎖されていたゲートが係員の手によって解放され、受付待ちの列が動き始める。
「あ、並ばないと!」
ユイは慌てて列の最後尾に加わった。
淡路島沖のミズハミシマゲートへと向かうフェリー乗り場は元々は淡路島と神戸港を結ぶタコフェリーの乗り場だった。
それを2001年に異世界への民間の渡航が正式に許可され、ミズハミシマへ人を運ぶ場所として国が経営を受け継ぎ施設を一部改修して管理してきた。
しかし、近年は日本国内だけではなく近隣諸国からも、この淡路島ゲートを利用して異世界へと赴こうという利用者が増加し、施設の物理的処理能力を超過する状況も度々起こるようになり、新たに施設を建設中ではあるが利用開始は早くて一年半後とされている。
「乗れるかな・・・私の目の前で閉め切られて次の便ですってのは嫌だなぁ・・・」
ゆっくりと進む列の中でユイはそんなことを思い一部口にしていると列の先のほうが騒がしくなる。
「なんだろ・・・?」
ユイが騒がしい列の先頭付近に視線を向けると、その原因はほどなくして姿を現した。
「わぁ・・・」
一瞬、彼女はそれらをハリウッド映画などで使われる精巧な特殊メイクかと思った。
しかし、それにしては生々しく、それが偽ることのない本物であるという存在感がかなりの距離が離れていてもユイには感じられた。
異世界人、主にミズハミシマからやってくる魚人や鱗人と呼ばれる者達、大まかには人の姿をしていながら人とは異なる存在がそこには居たのだ。
歓迎の声を上げる者、どうしていいか分からず言葉に詰まる者、あからさまに嫌悪の表情を浮かべる者、その反応は驚くほど多種多様だ。
「なんだかSF映画みたいだなぁ」
彼女はそんな光景を過去に見たハリウッド映画(全身黒ずくめの二人組みが宇宙人相手に奮闘する内容)をダブらせて感想を漏らす。
たしかに、かつてこの場所を訪れた世界的に有名な6部構成のSF映画を撮影した監督は「私のイマジネーションの世界が今ここに現実化している」と語ったほどであり、諸外国の一部では異世界の人々をエイリアンと呼び、これは新たな差別ではないかと国連人権委員会に問題提起などもされている。
フェリーから下りて乗り場の外へ向かう列と、ユイの並んでいるフェリーへと乗り込む列はすれ違うようになっているが、その間には透明樹脂製の壁で仕切られている。
「こんにちは~」
こちらの声が向こうに聞こえているかはわからないが、彼女は自分と通り過ぎるこれから赴く地より訪れた、遠くて近い世界の隣人に手を振ってあいさつをする。
そんな彼女に両親と思しき男女に手を引かれた幼児らしい魚人が見よう見まねで手を振ってくる。
「わぁ!」
彼女とすればはじめての異文化を飛び越えた異世界交流、それは一瞬の出会いと別れであったが、彼女の中でとても印象に残るものとなった。
それから一時間後、彼女は無事第一便のフェリーに乗船することができていた。
ややギリギリではあったが、彼女が危惧していた目の前で乗船上限に達するようなことはなく、パスポートとゲートパスを係員に提示し、それも何ら問題なく済ませ、そのままフェリーへと乗り込んだ。
フェリーの中は身軽な軽装の乗客からいかにも長旅を想定しているような重装備まで様々な乗客が椅子に座っていたり立ち話をしたり写真を撮っていたりと様々に出発までの時間を過ごしている。
『まもなく出航いたします。出航時に多少揺れますのでお近くの椅子にお座りください』
船内に出航を告げるアナウンスが流れ、数分後、ガクンと僅かな振動が起こり、船内に船の動力が動き出す振動が僅かに響き、ゆっくりと船が動き出した。
乗り場から離れたフェリーはゆっくりと速度を上げて沖へと向かう。
フェリー乗り場からゲートまでは時間にして十数分とわずかなものだ、乗客はデッキへと足を運び短い時間の中で船上から望むゲートを写真に収めたり記念撮影などをし、海上に浮かぶ光の構造体が間近に迫ってくると乗客の多くから歓声が漏れる。
『まもなく、当船はゲートを通過いたします。通過の際には衝撃などはありませんのでご安心ください』
ゲートを通過するというアナウンスが船内に流され、間もなくフェリーは赤い光の列柱をくぐり、光の柱の中へと突入する。
アナウンスされたとは言っても、ゲートを通過することがはじめての乗客の中には悲鳴のような声を上げる者もおり、しかし全体としてはそれまで体験したことのないものに対しての歓声が乗客の中で起こり、目を瞑る人、逆に目を見開く人、カメラを構えてシャッターを押す人と様々にゲートの通過に対峙し、彼女はじっと光の柱に自分の体が吸い込まれるのを見ていることを選んだ。
フェリーの船体はアナウンスの通りなんの衝撃もなく光の柱に接触すると、そのまま光の柱の中に消えていく、そしてデッキの前方部分の人々も光の柱の中に消えて行き、やがてその光の壁は彼女の体に接触しその全身は光の中に吸い込まれる。
<君にはそっちより、こっちのほうが面白いと思うよ>
「え?」
光の中に包まれた瞬間、誰かの声が頭の中に響く、聞いたことがない声、だがその声が自分に向けられたものだということはなぜか理解できた。
気がつくと彼女は真っ暗な闇の中に居た。
「……え?あれ?」
思わず彼女の口から声が漏れる、そしてその声は思いのほか辺りに響く。
「オイ、お客さんだぜ兄弟」
「マジかよ、客なんてしばらくぶりだな兄弟」
暗い空間に野太い二つの声が木霊す。
「オイ、誰もこねぇと思って照明ついてねーぞ兄弟」
「マジかよ、さっさとつけねぇと客が困るぞ兄弟」
よく似た声でなかなか判別は難しいが、どうやら闇の中でこちらに気がついた者が二人いるらしい、あれこれと話しながらカタタタガタガタと何かがぶつかるような音が聞こえる。
ユイは、どうしたらいいものかとその場から動けずにいると、闇の中にいくつもの光が生まれ、それがまるでホタルのようにしばらくの間空中を浮遊したかと思うと証明台らしき場所に止まり、室内を照らし出す。
蛍光灯証明のようなハッキリとした明るさではないが、それでも大まかな室内の広さや足元の確認ができる程度の明るさが室内を照らす。
「これでどうだ兄弟?」
「上出来じゃねーか?兄弟」
室内が明るくなったとは言え、先ほどから聞こえる野太い声の主の姿は見えない。
「あの……どこにいるんですか?」
明るくなって一安心はしたものの、一緒にゲートをくぐった大勢に人とは別に一人だけになるというのは中々に心細いものがある、辺りに人影がないかと探すもののまったくそういったものは見つからない。
「オイオイ、お客さんこっちが見えてないらしいぜ兄弟?」
「そりゃそうだろうさ、なんせ俺たちはここにいるんだからな兄弟」
ユイはその声を頼りに、声の主の居場所を探す、目の前には居ない、その奥にも居ない、さらに奥の巨大な扉の前にも居ない。
「おしいな兄弟」
「あぁ、その上だな兄弟」
まるでユイの視線が見えているかのように指摘され、彼女はその視線をさらに上に向ける。
「……上?」
そうしてさらに上に視線を向けた彼女の視界に奇妙な物が映る、それまで飾りだと思っていた扉のレリーフの一部が動いている。
扉のレリーフの一部となっていた二つの髑髏はまったく同時に彼女に向かって歓迎の言葉を発した。
それから少し時間が経過し、ユイは扉の飾りだと思っていた髑髏がしゃべるという奇妙なことも、ここが異世界であることからなんとか受け入れると、髑髏達に口ぐちに促されその場に置かれた簡素な造りの椅子に腰かけ彼らの話を聞いていた。
「・・・え?スラヴィア?ここミズハミシマじゃないんですか?私、日本のゲートをくぐったからてっきりミズハミシマについたのかと・・・」
ユイの困惑の色の混ざった言葉に大扉の二つの巨大な髑髏はお互い顔を見合わせる。
「どういうことだと思うよ兄弟?」
「まぁ、考えられることは一つしかないだろうさ兄弟」
「あぁ、俺もそう思うが・・・かわいそうな話だと思うぜ兄弟」
「俺も同感だが、こればっかりはどうしょうもないと思うぜ兄弟」
「あの方に呼ばれちまったんじゃ不運だが受け入れるしかないよな兄弟」
言葉を交わされる度にその口調の中に含まれる同情や哀れみ、そして二つの髑髏達だけで納得したといった様子で頭蓋骨をウンウンと上下に振る。
「あの・・・どういうことですか?」
二つの髑髏達だけで納得されても困ると再びユイが問いかける。
「まぁ、簡単に言うとだな。あんたは呼ばれちまったのさ、そうだろ兄弟?」
「あぁ、この国の神であり俺たちの創造主である
モルテ様にな、なぁ兄弟?」
「そんなぁ、せっかくミズハミシマに行くの楽しみにしてたのにぃ~~・・・」
ここが目的地のミズハミシマではないと改めて認識した彼女はガックリと肩を落とす。
無理もない、ミズハミシマについては事前に旅行ガイドなどで予習し、ミズハミシマを治めているのが異世界のスサノタツミノミコトと呼ばれる龍の神ということは知っていたが、突然ミズハミシマではなくスラヴィアにモルテと呼ばれる神に呼ばれて来てしまうなんてまったくの想定外だ。
「まぁ、そう落ち込むなお客人、この国だってそんなに悪い場所じゃないぜ?そうだろ兄弟」
「あぁ、なんたってサミュラ様が治めているからな、あんな御優しい方を俺は他に知らない、そうだろ兄弟?」
ガックリと肩を落とした彼女を見て不憫に思ったのか二つの頭蓋骨は口々にフォローする言葉を言い合ってはそこでまたお互いの頭蓋骨をウンウンと上下に振る。
「でも、スラヴィアってたしか南極とつながってるんですよね?」
しばらく髑髏の会話を聞きつつ、ようやく多少なりとも精神的なショックから立ち直ったユイは髑髏に改めて尋ねる。
スラヴィアという国があり、そこはゲートによって南極とつながっているという程度の知識は彼女も依然に見たテレビ番組で知ってはいたのだ。
「みたいだな、俺たちはこの有様で、ここにやってくる連中から話には聞いてるが、そこには行ったことがないんで具体的に教えてくれと言われても困るな、そうだろ兄弟」
「あぁ、俺たちが知ってるのはせいぜいスラヴィアのことくらいだ、だからあまりそういうことには力になってやれん、なぁ兄弟」
それからしばらくは髑髏の会話を聞きつつ、ユイが質問するというような流れが続いた。
「おっと、そうこうしてたらようやくここの本当の主人のご到着だぜ兄弟」
「そのようだな。それじゃ開門といこうか兄弟」
何かに気がついた髑髏がそう言うと、ユイに少し離れろと言って下がらせる。
「「守護卿ヤフヌール様!御入来!」」
髑髏達は二つの口でピッタリと言葉を合わせてそう言うと、巨大な扉が室内に向かってギギギギィと重く鈍い金属の軋みと共に開かれる。
扉が開くと、ほどなくして奥から巨大な何かがノソリと室内へと入ってくる。
「………」
それは小柄なユイは思わず見上げるほどの巨体を薄茶色の毛で覆った、丸っこい体型の異世界ではトロルと呼ばれる大型の亜人だった。
「おっきぃ……」
その巨体を見上げる彼女の脳内にはなぜか現在日本はおろか世界的に有名なアニメ監督の作品の中に登場する森の妖精の姿が連想される。
部屋に入ってきたトロルは、室内の自分を見上げているユイを確認すると脇に抱えていた板を取り出し、それに向かってカリカリと何かを書き出し始める。
「……あの?」
しばらくはわけもわからずその様子を見ていた彼女だが、さすがにこのまま黙っておくということもできず話しかける。
「あぁ、すまねーな客人、そこのヤフヌールの旦那は言葉が喋れなくてな、今一生懸命自己紹介文を書いてるから待ってやってくれ」
「それが優しさってもんだ」
彼女の問いに対してトロルの代わりに答えたのはその奥の大扉の髑髏達だった。
「あ、そうなんですか」
髑髏達の説明に納得した彼女はカリカリと板に文字を書くトロルをしばし眺めながら、その作業が終わるのを待つ。
『はじめまして、私、ヤフヌールといいます。』
そう短い一文の書かれた黒板を彼女の前に差し出したのはヤフヌールと呼ばれたトロルが黒板に書き出してから数分後のことだった。
カリカリとけっこうな時間書いていたにしては短い文章だが、それと同じ内容を地球のあらゆる言語を使って書き連ねているのだから時間がかかるのも当然だろう。
「ヤフヌールの旦那、言い忘れてたがそのお客人は地球のニホンってところから来たらしいぜ?」
それを聞いたヤフヌールと呼ばれたトロルは目を数回パチクリさせ、ゆっくりと背後の髑髏達のほうを振り返る。
「そういうことは早く言ってほしい?言うより早く書き始めたんだから仕方ないだろ?なぁ兄弟」
「そうだぜ兄弟、書き始めたものを途中で無駄にさせるような野暮はしない主義だ」
そしてまたウンウンと頭を上下に揺らす二つの髑髏達。
それを無言でしばし眺めたヤフヌールはふたたびゆっくりと彼女のほうへと向き直り、再びカリカリと黒板に何かを書き始めるが、先ほどと違って今度は数秒で書き上げて、それを彼女によく見えるように示す。
『あなた日本人ですか?』
「は、はいそうです」
ユイがやや気圧されぎみに答えると、また黒板を引っ込めて別の言葉を書き、彼女の前に出してくる。
『私、日本大好きです。とくに日本の本が』
「あ、ありがとうございます……」
巨大なヌイグルミのような容姿とは言え、息がかかりそうな距離まで顔を近づけてきたその迫力に少々気圧されながらも、ユイはヤフヌールとの会話を続ける。
『お嬢さん、お名前は?』
「私、緋沢優衣って言います」
『ヒサワユイ?よろしければどういう字を書くか教えていただけますか?』
そう言って、ヤフヌールに黒板に自分の名前を書いてほしいと示される、彼の黒板はユイの体格では抱えてもつのも大変そうだったのでヤフヌールが支えて、ユイがそこにかわいらしい丸文字で自分の名前を書く。
『なるほど、こういう字を書くのですね、かわいらしい字でありがとうございます』
そう言ってヤフヌールはユイの名前の書かれた黒板を大事そうに脇に置くと、別の黒板をヒョイと出して次の質問を書き始める、どうやら複数の同じような黒板を持ち歩いているようだ。
『しかし、ユイさんは向こう側から来られたみたいですが、ここに良く来られる向こう側の科学者の方とは雰囲気が違いますね?』
「あ!私、なんだか間違って来ちゃったみたいなんです!」
「旦那、どうやらモルテ様に呼ばれちまったみたいだぜその子」
「まったく何を気に入られたのやらかわいそうな話だぜ」
ようやくと言った感じで自身の現状に触れる話が出たところで、ユイはすかさずそう答え、それに髑髏達が言葉を継ぐ。
『では、別のゲートからこのスラヴィアへ?』
「そう、みたいです……」
『なるほど……それはなんとも災難でしたね・・・神の成すことをヒトが理解することはとても難しく、そしてそれに抗うことはさらに難しいのです。しかし、ユイさんが我らが神によって連れてこられた限りは、その造物である私たちがあなたのこの国での滞在の間のすべてと無事の帰還を保証しますので安心してください』
「ありがとうございます……でいいのかな?」
『それでは改めましてて、ようこそスラヴィアへ』
ヤフヌールはそう書かれた黒板をユイに示すと、その大きな手を差し出し、それをユイも彼の手に比べればとても小さな手で握り握手をする。
『とりあえずしばらくは私の館にお越しください。ミズハ行きの船に乗るにしても手配などに少し手間がかかりますので』
「はい、いろいろお世話になります」
ユイはヤフヌールの申し出を受けて、それから3日ほど彼女はヤフヌールの館に招かれ、そこでスラヴィアについての基本的な説明や守らなければならない事柄などを教わり、館周辺を散策するなどして過ごすこととなった。
ヤフヌールの館はスラヴィアの首都カビセラ・ポノミレスの郊外にあり、広い庭には色とりどりの花々が植えられ、とても丁寧に手入れされた実にすばらしいものだった。
そして、ヤフヌールの館の最大の特徴は、館の隣にあるヤフヌールの書斎兼書庫だろう。
最初にヤフヌールの館にやってきたユイは、この書斎兼書庫こそがヤフヌールの館だと思ったほどで、この建物の中には異世界にて金銭の取引で入手できるほとんどの書物や、地球から輸入した本も多数収蔵されていた。
スラヴィアにおいて最初にモルテの力によって蘇り、すべての屍者のはじまりとなった吸血姫サミュラ、最古の貴族とは彼女によって生み出された特別な13体の屍者を意味し、現在のスラヴィアにおいて特殊な立場と力をもつ貴族であり、地球の南極ゲートとつながるスラヴィアゲートの守護をサミュラから直々に命ぜられたヤフヌールは最古の貴族の中でもさらに特別な立ち位置にある。
また、ゲートの守護者として特別視される以前からヤフヌールはスラヴィア随一の読書家であり文学者であり作家として知られ、彼の著作にはスラヴィア国内はおろか国外にも愛読者がいるらしい。
言葉を話すことができないヤフヌールは、その影響か文字をこよなく愛し、その結晶である文学を愛し慈しむ者となった。
その結果、彼は世界中から様々な物語を収集し、異国の言葉を翻訳し、時には自ら物語を綴るなどして普段はあまり人通りの多くないゲートを守る合間の暇つぶしをしているのだと、ユイの世話をしてくれた館のメイドは教えてくれた。
彼女としてはヤフヌールの館で過ごすことに何の不満も不足もなかったが、スラヴィアを発つまでずっとヤフヌールの館に滞在するということはできないことであった。
ユイがスラヴィアに来てから4日目の夜、傀儡侯女レシエの館に一台の巨大な馬車がやってきた。
それ一台で小さな住宅ほどはあるかという十数頭の幽霊馬によって牽かれる馬車から、ギィとその車体を僅かに軋ませて降り立ったのは黒い山高帽に同じく黒のインパネスを羽織った姿のヤフヌールだった。
事前に連絡を受けて出迎えた、レシエの執事を務める赤銅色のリビングメイルの屍者セバスに案内され応接間へと通されると、そこにはこの館の主であるレシエ・バーバルディアが、いかにも座り心地の良さそうなソファーに腰掛け来客の到着を待っていた。
勝手知ったる旧知の仲である二人は、挨拶もそこそこにソファーに腰を落ち着けると本題について話をはじめる。
地球から自分たちの神であるモルテの戯れでこの地に連れてこられた少女を一人、同じ最古の貴族であり何かと行き来の多いレシエに、彼女がスラヴィアを発つまでの間しばらく預かってはくれないかと。
「・・・で?私にその子の面倒を見ろって?」
レシエの言葉にヤフヌールはコクコクと頷く。
「残念だけど無理ね」
なんだかんだと文句を言いつつも放っておくことのできないこの
ドワーフ少女の姿をしたお節介焼きの屍者の言葉とは思えない返答に、まったくそんなものが返ってくるとは思ってもいなかったのだろう、ヤフヌールはそのつぶらな瞳をパチパチとさせる、これが彼の驚いた時の仕草だということをレシエはよく知っている。
「だって仕方ないでしょ!こっちはただでさえ色んな案件抱えてて忙しいのよ!?門を監視してればいいだけの、それ以外に暇な時間は趣味に没頭してればいいだけのアンタとは違うの!」
ヤフヌールとしてもレシエが何かと多忙だということは知っている。面倒見の良い人柄から方々の揉め事の仲裁役や後見人を務めることが多く、結果、日常的にオーバーフロー気味な状態でそれらを処理しているということも。
『普段であれば君の言う通り、何かと融通の効く私が預かることもできるのだがね、今は時期が悪い』
明日からは地球側のゲートを通ってかなりの人数の外交・学術使節団がやってくることになっている、ヤフヌールは以前からこの使節団の受け入れを準備していたが、ユイは完全なイレギュラーだったため、こうしてなんとか信頼できる保護者はいないかと考えてレシエのところにやってきたのだ。
レシエ以外にも頼めそうな最古の貴族は他にもいないことはないし、最古の貴族以外でも受け入れを快諾しそうな者は何人も頭に浮かぶ
しかし、そのどれもがややユイには刺激の強い外見や強烈な個性を持った者が多い、そのためレシエに受け入れてもらうことが一番なのだ。
だからこそ、ここで引き下がるわけにもいかないとばかりに、ヤフヌールは静かにソファーから腰を上げてレシエのほうへと近づく。
「……何よ?そんな顔したって無理なものは無理」
古くからの知り合いの頼みを断るしかないということに、多少後ろめたいところでもあるのか、ヤフヌールから視線を逸らしそう言葉を続けるレシエの目の前に一冊の本が置かれる。
「!?」
それを見た瞬間レシエの表情が変わり、目の前の本とヤフヌールの顔をものすごい速度で視線が往復する。
『新作、できました』
ヤフヌールはそう短い言葉が書かれた黒板を意味ありげにレシエの目の前に示す。
「・・・・アンタ、私を脅迫するなんていい度胸じゃないの」
『脅迫ではないよ。これは新作の告知だよ』
ヤフヌールとしてもこんな手は使いたく無かった、同志であり理解者であり自分の著作のファンであるレシエにこのようなことをするのは私としても心が痛む、そうとても辛いことなのだ……
「ちょっとアンタ・・・わざとらしく心情描写を書いて見せるのはやめなさいよ・・・」
目の前につらつらとヤフヌールの心境を表す文章が書き連ねられた黒板を置かれたレシエが鬱陶しいと言わんばかりに黒板を手で軽く払いのけながら声を漏らす。
『それで・・・どうする?』
そう黒板に書かれた文字、それはつまり「イエスと言わなかったらコレ即回収して帰るけどいいんだよね?」という趣旨のものであり、この目の前の本を武具収集と共に人生の大きな楽しみとしているレシエにとっては選択できる答えは一つしか残されてはいない。
しばしの時間が流れ、レシエはなんとも言えない表情を作ってゴクリと生唾を飲み込み、忌々しげに口を開く。
「わかったわよ・・・引き受ければいいんでしょ!引き受ければッ!」
観念したと言わんばかり後半は語気を強めてそう言うと、ソファーに体を全力で沈める。
『さすがレシエ、わかってくれて私はとても嬉しいよ』
ヤフヌールはそう黒板に書いて示しナガラテーブルの上から本を摘みあげてレシエに手渡す。
「アンタってホントにかわいいのは見た目だけで内面はえげつないのよ!」
『・・・なんのことかな?』
この瞬間ヤフヌールがそのつぶらな目を細めてとても悪い顔をしたことを理解できたのはレシエを含めてごく限られた親しい知人くらいなものだっただろう。
『それでは、この本は今回のお礼ということでこのまま置いていくよ、良ければまた感想を教えてほしい』
「当然よ!それからアンタは門を見張ることとコレしか能がないんだからさっさと次も持ってきなさいよ!」
本をヤフヌールから受け取ったレシエは目の前にまだ客がいるというのに、受け取った本の表紙を開いてページをめくり読み始める。
『でも、こればかりは芸術の神の気まぐれだから約束はできない』
ヤフヌールはそう書き残し、今回の用件は片付いたとばかりにすっかり読書に没頭しはじめたレシエと別れを惜しむでもなく、執事のセバスに挨拶だけして極めてアッサリとレシエ邸を後にした。
「それで、その旅行者をお預かりになるんですか?」
ヤフヌールの訪問の翌日、レシエ邸には別の来客が訪れていた。レシエの領地と隣接するパルファンドゥール領の若き領主であるアデーレ・パルファンドゥール女伯爵である。
「そうなのよ……ただでさえ忙しいのに……」
今回の事のあらましを大体彼女に話したレシエは小さな溜息を漏らし、それ以上のことは胸の中に押し戻すように香りと湯気の上がる紅茶の注がれたティーカップを口に運ぶ。
その様子を見ながらアデーレはクスリと小さく笑った。
「……何よ?」
レシエは上目遣いにアデーレを見ると、その笑いの意図を問う。
「いえ、私の時もそんな感じだったなと思い出しただけです」
スラヴィアの夜の饗宴では美しくも残虐で血なまぐさい戦いを時に演じることで知られ恐れられる彼女とは思えない、本当に信頼し尊敬する相手だからこそ曝け出せる柔らかな表情を浮かべて過去を少し思い返し、それを懐かしむような表情で語るアデーレ。
「そうだっけ?」
それとは対照的に頭を捻るも該当する記憶が思い当たらず渋い顔をするレシエ。
「えぇ、最初に御会いした時の言葉はたしか『私は忙しいんだから言うこと聞かなかったら容赦しないわよ』だったと思います」
「私、そんなこと言ったかしら・・・思い出せないわね・・・」
「レシエ様はお忙しいですから覚えておいでにならないのも仕方ないと思います。でも、私は今でもハッキリと覚えてますよ」
アデーレにとってレシエとの出会いは思い出深いものとなっているが、アデーレと最初に対面した時点でのレシエにとってその最初の出会いは、その前にも後にも幾度とあった事務的な対面のひとつという括りでまとめられ、雑多な記憶の引き出しの中に放り込まれているのであろう。
記憶力に関してはかなり良いレシエのことである、よくよく思い出せば思い出すこともできるのだろうが今はうまく思い出せない。
「まぁ、そういうことだからアディ、あなたにも手伝ってもらうことがあるかもしれないからよろしくね?」
「はい、私にできることならなんでも言ってください」
アデーレはそう凛々しくも優しい表情で応える。それが自らのその後を大きく変える出会いにつながるということを今の彼女はまだ知らない。
- 【月灯りの】シリーズの前日譚にスラヴィア色にキャラネタを乗っけてきたのが楽しい。ヤフヌールの優しい雰囲気が黒板から伝わってくるようだ。しかし優衣がここから今に至るのを思い起こすとスラヴィアは恐ろしい国 -- (とっしー) 2013-09-14 21:08:57
- ヤフヌールとレシエの掛け合いが面白い。自分勝手が多い最古の貴族の中で結果的にまとめ役になってるっぽいレシエ侯 -- (名無しさん) 2013-09-15 14:47:00
- 地球からスラヴィアへそしてスラヴィアのというプロモーションビデオのような美味しいことろどり。この先も幸せそうだから優衣はこれでよかったんだようん -- (としあき) 2013-09-27 21:41:14
- ユイが普通の女の子だ・・・嵐の前の静けさなのか -- (名無しさん) 2013-10-09 01:23:45
- 異世界へ行く道程が現実的丁寧に描写される作品が多いですが今作も分かりやすい異世界交流時代の一幕です。日本や異種族そしてスラヴィアの様子がスレで積み重ねた要素も盛り込まれ描かれているのですんなりと風景が浮かんできます。最古の貴族の面々のやりとりも人となりが光っていました -- (名無しさん) 2017-05-07 17:58:08
最終更新:2013年10月27日 10:13