階段を登り切った踊場で、男は女の足音を数える。
ドワーフであった男の矮躯に合わせたタイル張りの段は低く、塔の中で何重にも螺旋を描く。男はとぐろを巻いた蛇を連想する。その蛇の鱗を、女は一つ一つ拾い上げるようにして登ってくる。女の歩みは規則正しく、男はそれを歯車に例える。大蛇が歯車に巻き込まれ、なすすべもなくひき潰されていく光景を思い描くほどに、男はほんの少しばかり慰められる。
と、足音が止んだ。
男は目を見開き、女の姿を認める。もし男に美を愛でる心が、息を吐き出す肺腑が残されていたならば、感嘆を惜しまなかったであろう美貌である。
美貌はわずかに遠く、登りきるまで三歩を残す。この十三年間、ついぞなかったことである。
男は小首を傾げ、傍らの扉を開いて、女に入るよう促す。女は動かない。視線を落とし、まるで時が止まりでもしたように、女はただそこにある。
もとより、女の時は止まっている――男の脳裏を空想がよぎる。規則正しい「動」は、一切の変化を知らぬ「静」と何ら隔てるところがない。時を進め、あるいは戻したとして、違いの現れぬものは可逆である。
女は可逆であった。
この地に至り、十三年の時を過ごす間、女に一切の変化はなかった。毎日階段を上り、施術を済ませた男と入れ替わるように部屋へ入る。出るのは男が施術に戻る時だけ。どの時間を切り取り、どの時間に差し込んだとて支障はあるまい。
だが、今日は、今日この時だけは。
十三年の間で初めて、男は習慣を破った。扉を閉めたのである。
バタンという音に、女は顔を上げた。そこに浮かぶ狼狽を楽しむには、男の心はあまりに崩れていた。男はただ女が変化を見せたこと自体を寿いだ。
男は可逆を憎んでいた。
男は再び、前例を破った。扉を開き、顎をしゃくって、入りなさいと口にしたのだ。
女は小さく頭を下げた。そうして、意を決したように段を上り、男の支える扉をくぐった。
可逆なものには終端がない。終わったものは、ひとりでに始まることはない。死者が起き上がり闊歩するここ
スラヴィアにおいても、男の居場所は存在する。不死を憎み、永遠を呪い、可逆を駆逐して不可逆に変える男は、女のために十三年間腕を振るってきた。
女の名は、スイメイ。
そして男は、名をとうになくし、ただ花火師と呼ばれていた。
機材の取り払われた部屋の中心には、ベッドだけが残されていた。
解剖台ではなく、シーツと毛布を用いたのは、体液の漏出を伴わない術式を用いたこともさることながら、スイメイが強く要望したのが大きい。花火師としても、否やはなかった。シーツと毛布にくるまることで、横たわる男は屍であることを止める。演出が人の心にもたらす効果を、花火師は熟知していた。
精悍な狐人の面立ちに、シーツにくるまれて引き締まった肉体は、ほんのつい最近よみがえったものだ。初めて男がこの塔の頂上に安置された時、男の体は屍衣にくるまれたぼろ屑に過ぎなかった。再生させたのは花火師だ。
十三年という月日は、一人の死人の再生に費やす時間としては常軌を逸している。
はじめ、
モルテその人によって花火師に白羽の矢が立てられた時、花火師は辞退を試みた。自分は二流の死体細工師にすぎず、また、むやみに時を費やすその手法は、待つ者のいる死体に施すのには向かないと。
だがまさに、それこそは、花火師が選ばれた理由に他ならなかった。
花火師はスイメイを促し、ベッドの傍らに立った。いつもなら、天窓から差し込む星明りのみが照明の役割を果たし、それで花火師もスイメイも不自由しなかった。だが、今日の花火師はランタンを用意していた。キャスターに吊り下げられたランタンの灯りが、男の顔を照らし出す。きめ細やかな毛並みに、スイメイがふと手を伸ばす。
そして――
「いいもんだな、目が見えるってのは」
男の目が開いていた。
力強くもいたずらっぽく、人を引き付けて離さない王者の瞳。このまなざしが、まさしく一国を統べていたことを花火師は知っている。男の名はシキョウ。かつての大延国皇帝である。
シキョウはくつくつと笑い、ほほに添えられたスイメイの掌に指を絡めた。
「よ、スイメイ」
「シキョウ――」
「いつだってお前の顔は瞼に焼き付いてたさ。だが、本物はやっぱり、格別だな」
「シキョウ」
「泣いてるところも綺麗だな、スイメイ。けど――今は笑顔を見せてくれ」
潮時とみて、花火師は部屋を辞した。
低い階段を一つ一つ下る花火師の心に達成感は薄い。考えるのは、塔に食物を届けさせる段取りであり、依頼主であるモルテに報告する手紙の文面である。
そんな中でただ一つ、後悔とも呼べぬ小さなしこりが、花火師の心に居残っていた。
――ランタンは余計ではなかったか。シキョウの目に、暗視能力を与えておくべきではなかったか。
職人らしい一途さで、花火師は無駄を憎んでいた。もとより油はほとんど入れていなかったことを思いだして、花火師の思考は打ち切られた。
日が沈み、昇り、三日が過ぎ去った。花火師は塔に近づくことなく、スケルトンに食事や着替えを届けさせた。消費される二人分の食事が、仕事が問題なく進行していることを知らせた。
――ここまではよい。
厨房に下り、三日目に空で戻された器を見ながら、花火師は静かにうなずいた。スケルトンたちを下がらせ――ふと、人影を見出した。
「あんたかな、俺をよみがえらせたのは」
シキョウであった。花火師が用意した簡素な衣をまとい、厨房の壁に寄りかかって腕を組んでいる。花火師はもはや食事を必要とせず、下僕たちもまた然りで、めったに訪れぬ生者の客をもてなすためにのみ用意されたこの厨房は、この十三年というものスイメイのための場所であった。
花火師は視線をめぐらし、スイメイを探した。意図するところを悟ったシキョウが「寝てる」と簡潔な答えを返した。濃密な沈黙がひらめいた。
「なんでこんなことをした?」
王者の目だ、と花火師は確信を深めた。生前に宿していたであろう輝きと同じ光を、自分の手で作り上げたことが、花火師にはほとんど信じられなかった。
すぐれた作品はただ生れ落ちる。作者は導管に過ぎないのだ。
花火師はシキョウを書斎へといざない、一通の手紙を渡した。十三年前に封印の施された、モルテ直筆の手紙である。
封を切り、異国の生きた文字で記された手紙を読み終えて、シキョウは鼻を鳴らした。
「なるほどな、大会か。大比武みたいなもんってわけだ」
出場させてくれなんて頼んだ覚えはないんだがな――シキョウが手紙を握りつぶすと、異国の文字は生物のように羽ばたいて逃げまどい、闇に溶け込んで消え失せた。
「で、この大会とやらはいつ始まるんだ? あんた、知ってるか」
答える代りに、花火師はもう一通の手紙を差し出した。こちらは、三日前に花火師が出した報告への返信である。スラヴィア文字に顔をしかめるシキョウに、花火師は時が来れば迎えが来ると書いてある旨を伝えた。復活にも動じていなかったシキョウが、初めてぽかんと口を開けた。
「あんた、しゃべれるんだな」
ご尊名を伺えれば幸いだ――戯言めいたシキョウの言葉を無視して、花火師は窓に歩み寄った。広くはない敷地のこと、身を乗り出すまでもなく、十三年作業を続けてきた塔を望むことができる。塔は、二人のためのものだった。かつて花火師は、その名の通り花火を扱っていた。火薬保管庫に火気を近づけぬように、塔は二人を隔離していた。何から隔てるか――とは、花火師は考えない。単にその必要性を知るだけである。
迎えを待てとだけ伝えて、花火師はもの言いたげなシキョウを追い帰した。
そうして、書斎に一人たたずみ、花火を思った。ばかばかしいほどの時が育てる、絢爛豪華な大輪の花を。
――こんな醜いものはない。
これが最後の仕事になることを知り、花火師はただ、ゆっくりと傾いだ。
但し書き
文中における誤りは全て筆者に責任があります。
独自設定については
こちらからご覧ください。
また、以下のSSの記述を参考としました。
【続・その風斯く語りけり】
四周年企画・スラヴィア大バトル大会における対戦カード シキョウ&スイメイ ○ ― ● セイラン&テンコウ にいたる、スイメイ側の前日譚として書きました。
- シキョウ在りし日のシリーズからは予想できなかったスイメイの行動が想像の上をいく。スラヴィアとの関係が結実したものの散るが定めの花火はどんな輝きを大会で見せるのだろう -- (名無しさん) 2015-05-28 23:19:51
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最終更新:2015年06月10日 20:07