相剋『インペリシャブルソリチュード』

重い両開きの扉を開け、そこにある空間に脚を踏み入れる。
何回扉を抉じ開けたか、両手指の数を超えたかと思うと、少々うんざりする。
私は一人で野暮用の最中。思いっきりスッ飛ばしてここまで来たとはいえ、後ろの心配をしなければならない。
そういうワケで、出来ればアイツと離れたくない。決して他意はなく、違う。深い意味はない。
スライド式の鉄格子の扉をズラして、ガラガラと不作法な音が医療監房内に響き渡る。
扉の上枠を潜り、そこにある空間に脚を踏み入れ、しかしその脚を引っ込め、代わりに溜息だけが室内へ。


空気が変わった。
ここは感染している。この世の有象無象に仇成さんとするほどの純粋な敵意に。
空間から立ち込める異様な気。私が来るや否や向けられたそれは、警告などという生易しいものではない。
しかし、そこに人はなく、私に向けられた殺気だけが漂うだけ。
緋想の剣がなくても、私なら見極められるほど充満している。どうやら居るらしい。
気は進まないけど逃げるのも手段の一つ。ただ、それを選ぶことは出来そうにない。
断っておくと、ただ単に私が乗り気だからではない。背後を慮ってのことだ。
先に来て良かったと思う。挟撃なんて以ての外だ。来た道にはアイツがいる以上、その危険を取り除くのは当然私になる。
なんてことない、アイツだってそーするし、私だってそーする。
結局、接触するほかない、といったところ。


霧散した溜息の後を追った。
扉越しから既に見えていたが、やはり他の監内と変わらないみたいだ。
入るとそこは小さな広間となっていて、椅子と机が疎らに設置された食堂らしき場所が見える。
周囲を警戒しつつ食堂の中央にまで足を運ぶ。
一体どんな不始末か、一本のナイフが調理場に突き立ててある。
一歩ずつ踏み入る毎に、満ち満ちた殺気もそこにある鋭利な刃物を連想させた。
感じる。相手は見ている。
広間の隅にいくつかの部屋があるだけ。出所はすぐにでも分かった。
私は声を出した。出てくるようにと、話があるのならこちらも応じると。


その瞬間だ。身体が軽くなったのは。


緊張からの解放。接触寸前、四面楚歌の刃が一斉に取り下げられた。
殺気が立ち消えたことに私は気付く。唐突に。丸々全て。そこから失せた。
薄刃包丁?微塵切り?いや違う。それどころではない。微塵すら残らない。あるのは零。
一もなく二もなく、間に合え、と私は願ったのが、最後の思考。


空気が変わった。


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「ようやく着いたわね、GDS刑務所に!」

肩を上下させ、歪な影を作った少女は一人語意を強める。

「ほら仗助!着いたわよ!」

どうやら、二人のようだ。仗助と言うのだろう。少女の背中には逞しい体格の青年が眼を閉じぐったりとしている。当然、少女の言葉に反応する気配は見られない。
その無反応の返しに、少女の表情は目に見えて分かる不機嫌の貌を象った。

「……」

だが苦言は呈さず、代わりに脚を動かす。身長差のせいで青年の靴が地面を擦る。
少女の来た道を辿れば引き摺った跡がしっかりと残っていることだろう。
空色の髪の毛は雲一つかかっていないのにポツポツと雫を滴らせている。
それどころか、髪の毛だけならず少女の至る所から細雨を降らせていた。
更には少女の纏う白のブラウスは青年の出血で朱に染まってしまっている。

だが少女はそれらの一つも意に介することなく、物々しい建物へと足早に駆け込むだけだった。
先の不服面も誰かに向けたものではないのだろう。まして背中に乗せた『仲間』宛てでは断じてない。

ここにいる少女の素行のみを見て名前を導き出せる者は、彼女の知人には一人もいないかもしれない。


少女の名前を比那名居天子と言う。



天子は仗助をあまり揺らさないように小走りで駆ける。彼女の目的は背中で眠っている仗助の負傷の処置と休息にあった。

先の神奈子との交戦の負傷による出血、弾丸が貫通し切っているものの決して浅くはない。
なんせその弾丸を放ったのは無痛ガンことガトリング銃、それを腹に受けかつ意識を手放した。一刻を争う事態なのに変わりはない。

 さっさとこのおバカさんを休ませないと、殴りたくても殴れないわ。

友人の死も己の怪我も全ての責は自分にある。
そんな自罰的な考えを持つ仗助には後で一発知らしめなければならない、と天子は考えていた。
何をとは言わない。彼の言葉をそっくりそのまま返すために。

 それにしても、この建物……

現在、天子は広い空間にいた。まず目に留まるのが中央に鎮座してある牢屋だ。三辺を石で造られているものの、もう一辺は頑丈な格子。
囚人のプライベートのなんぞ容易にそこから窺い知れてしまう。
しかもこの空間、部屋の隅の方に様々な施設が備わっているようで、常に人がうろついているのは明白。
独房から食堂に最も近いことを考えれば悪い事だけではないかもしれないが。

 いかつい見た目に反して中は斬新奇抜ね、何があったのかしら?

更にここには無数の破壊痕が散見された。風穴を開けられた扉に、その向かいの壁には長い半円柱に削り取られた跡がいくつも残っている。
尤も天子が刑務所に入って来たのも、ここと同じように壁に穿たれた球状の穴から侵入した。正規の入り口は南を向いており、彼女らはその真逆、北から入って来た形になる。
彼女からしたら回り込む時間も惜しかったので、危険を承知で入ったのだが、室内の荒れ様は予想の範疇を大きく超えていた。
牢屋に始まり、音楽室、厨房、食堂どこを見ても穴だらけの欠陥住宅、厳重さで威嚇するような建物もこれではご無体もいいところだ。

 規則性のある破壊痕。スペルカードっぽいけど、今の私たちにこんな威力はちょっと不可能かな。

少なくとも天子の頭には、スタンド使いか幻想郷の住人の二択だけしかない。
天子は部屋の様子を確認しつつ、ここを荒らした正体はスタンド使いだ、と推測する。

 まだ居るかもしれない。ここを離れるべきかしら?

幸いジョースター邸までの距離はさほどでもない。ここを後にして合流地点に辿り着くのも選択肢として大いにアリだった、だが。

 ……冷たいわね、仗助の身体。

仗助をおぶり密着しているので、彼の体温が直に伝わる。天子共々ずぶ濡れの状態でここまで突っ走しってきたため、すっかり冷え切っていた。
詮索しながら小走りする今、ようやくそのことに気が付いたのだ。

 やっぱりここで休ませてあげましょう。私は平気だけど、どんだけ粋がってもコイツは人間。ほっといても無茶する奴に私が無茶させてもしょうがないか。

それにGDS刑務所内は至って静かであった。とてもこの世に人がいるとは思えないほど。
その上、強力なスタンド使いがいたとして、いつまでもこのような場所に留まっている理由がない。
敵が一狩り終えてジョースター邸に向かった可能性だって十分に在り得る、そう考えた。

 絶対安全な場所なんて元からない。だったら、逃げ隠れできるここの方が都合が良い。まあ、私にとって見敵必殺のが好みだけど。

アンタのせいだからね、と仗助にごちる。天子の肩にのっかかる彼の顔を横目で覗きながら。
流石に顔が近すぎたのか、自責の念が駆られたのか、今更気恥ずかしがっているのか、チラリと見るだけだった。


「この邪魔な髪を切り落としてやろうか」


きっとそれだけか、あるいは全部なのだろう。


それからほどなくして、天子は医務室と病室を発見する。
大広間と壁一枚で隣接している病室は損傷が激しかったが、その奥にあった医務室の損傷はまだマシな方だった。あくまで病室と比較した上での話だが。
ベットが一つ残っているだけでも儲けモノか、と天子は考え一先ず仗助をそこに寝かせようかとする。

 その前に水気取らないとダメか。一つしかないし。

天子はそう思い直し仗助を適当な壁にもたれ掛けさせ座らせてあげた。何を思ったのか立ち上がり、顎に手をやり思案する。

 脱がすしかないわよね、コレ?

何とも言えない微妙な表情で仗助を見下ろす。
無暗に体温を下げないためにも、身体を拭いて着替えさせる他ないのは道理だが。

 ど、どうやったらいいのよ、コレ?

天子は唸る。うんうん唸る。
生まれてこの方、召すもの頂くものを受けることはあっても、それを施す側のことなど大して知りもしない彼女は僅かに躊躇う。
見たままやっていいものか、まして相手が青年であるなら、逡巡の一瞬ぐらいあっていいものである。


「あ~~~しゃらくさい。……やだなぁ」


見ないようにやろう。さっさと終わらせよう。
重力千倍、引力千倍。いつ腰を下ろしたか瞬く間に膝立ちの状態に移り、両腕は風切り音を置き去りに仗助の喉元へ迫る。
神速の妙手に、きっと誰一人目に追いつくことは叶わない。
まぁ、そもそも誰もいないか。


ブツリ


「あっ」


小さなゴミができた。


天子はそれを自分の衣服にこっそり忍ばせると何事もなかったかのように学ランに手を伸ばした。
上から何番目かが外れたようだ。

 むぅ…思ったより取りにくいわね、このボタン……それそれ。

頭でっかち尻すぼみ。最初の勢いはどこへやら。慣れない学ランのボタン外しに天子は苦戦する。
ちまちまと一つずつ取ってやると着ている服のボタンを外すことの難しいものだと、なんとなしに思った。
ボタンを外し終えると、彼の身体を揺らさないようそーっと脱がせる。

 なんというかチグハグよね。

学ランは黒を基調とした学生にとって本来フォーマルな装いだ。それなのに、明らかに場違いな装飾が見受けられる。
襟首には金ピカの錨、ハートマーク。後ろにはこれまた金ピカの鎖。内側にはJとOを飾りも見られるが、
崩した字形のOは出来損ないの通行止めのマークにしか見えない。紫が持ってた。

ポイっとそれを放り、色の入ったシャツを脱がせにかかった。
胸元には何故か縦に二つ開けられるようジッパーが取り付けられてある妙なシャツだった。
今度は仗助を床に寝かせ、バンザイさせるように腕を頭の方へと動かす。
天子はTシャツの胴体の部分を掴み、そのまま頭の方へとグイッと引っ張り脱がせようとするが。

 だから髪が邪魔だってば。

仗助のリーゼントがそれを阻む。引っかかって中々服を脱がせられない。天子はえいやっと渾身の力で引っ張ってあげることでやっとこさ上半身の丸裸に成功した。
彼自慢のリーゼントがそれはもう愉快なことになってしまったが、天子はやっぱり一人黙殺することにし、やっぱりシャツもそこら辺に放っておいた。

半裸にされた仗助なのだが、完全に上半身を剥かれたわけではない。腹部に一枚だけフリル付きの薄布があてがわれていた。
そう、龍魚の羽衣だ。ここに来る道中、天子が自分の持ち物に気付き、それで傷口を思いっきりふんじばった。
とは言っても、持ち主には悪いが、どこまで清潔か分からないもので止血しておくのは、やはり問題がある。
ましてドリル状に変化させ相手を殴るような代物だ。人妖の血を吸った立派なマジックアイテムである。やっぱりばっちい。持ち主には悪いが。

 まあ、本当にばっちくなっちゃったからどーでもいいわね。

天子は詮索の途中で見つけたタオルで仗助の身体を拭きながら、そんなどうでもよいことを考えていた。持ち主には悪いが。


「さて、と。」


再度、仗助を床に寝かせ、深く深く深呼吸をした。
なんてことはない。上をやったら下もやらねばならない、ただそれだけだ。


「いやまあその、別に今更恥ずかしいワケじゃないーーーって違う違う!そんなにコイツと親しくなんかないの!
 ……そうよ!もっと親しくなってからじゃないとこんなことーーーってぇえええええ!?
 あんなもこんなも無いぃいいいいい!!ないない!!ぜ~~~~~~~たい在り得ない!!!
 ………そう、そう!!想……お、思う!仲には垣を結え!私と貴方の仲なんだから。気安く身体を触るなんて、失礼なの!
 でもそんなこと言ってられないでしょ!だから私がやるの!だって……」


しちゃかちゃグダグダに言い繕う。


「まあ、アンタは、私のことを……『仲間』って言ってくれたでしょ?」


何故か、天子は尋ねてしまう。


「だけど、あの時さー、ほらアレよアレ。言ってくれないと困るじゃない?」


「それともひょっとして、貴方はーぁーっ……って、ああやっぱナシだ、やめとこ。」


押し留めた。些末事が漏れ出でるその前に。


「垣が必要だわ。私の口に立てるための。」


ちっぽけな不安だった。本当に本当に。そんなモノを漏らすなんて柄じゃない、そう思った。少女は垣を立てた。



ズボン降ろすために何をやっているんだ、そんな考えが過り、やっぱり溜息が零れた。


それから数分後、医務室にはベッドに寝かせてある仗助と床に転がる天子の姿があった。


「あ~~終わった~~~!」


処置の方はつつがなく進んだ。尤も、限られた医療具と知識しかない天子にできることなど高が知れているし、実際大したことはしていない。
清潔な包帯で保護しただけだ。消毒したくても、液体の入ったビンには中身と思われる名称の張り紙のみ。
結局、龍魚の羽衣を外して、仗助の胴体にこびり付いた血をガーゼで拭き取る。仕上げに血が滴らないよう幹部に滅菌ガーゼに当てつつ包帯を巻いてあげた。
出血は未だ収まる様子がなかったので、きつめにふんじばっておいた。
びしょ濡れだった下半身も上半身同様、水気を切って上げた。
因みに下の下まではやらなかったし、やれなかった。思う仲ゆえ垣を結った。
天子は床に大の字を描いて身体を休ませる。
彼女は仗助と違って外傷はないものの、びしょ濡れのままここまで走り、休みなしに彼の処置に努めた。
天人の頑丈さに物を言わせて無理をしてきたが、一仕事終えると気が抜けてしまうもので。


「ぶえっくしッ!!」


思わず首が跳ね上がるほどのくしゃみが飛んでいった。
ズズズと鼻をすすりつつ、外に追いやった菌に触れないようゴロゴロと床を転がる。

 うーん、お風呂が怖い。

詮索の途中で浴場らしきものは見えたが、いつまた神奈子が襲ってくるのかわからない今、暢気に湯船に浸かって良い状況ではない。

 さっさとケリ付けて一風呂浴びたいわね。

天子にしてはささやかな願いを忍ばせつつ、むくり、と起き上がる。

 まあ、私は無茶がきく身体だからいいけど……

「アンタは、どうなの?」

仗助の寝息が聞こえるベッドを見遣った。
今の彼はベッドの上にパンツ一丁。何枚にも折り重なったシーツの下敷きになって眠っていた。
本来なら何かしら代わりに衣類を着せ、布団の中に潜り込ませるべきだが、生憎ともその両方がここにはなかった。
いや、正確に言えば両方ともここにあったはずだ。だが、戦いの余波で使い物にならない状態として、だ。
まるで主催者が予め知っていたかのように、そして意地悪をしてやるかのように、実に都合の悪く、ここにそれらはなかった。

 私の一張羅、貸したところで濡れたまんまだし、そもそも着せてもサイズ合わないだろうし。というか貸したくない。

視線を移し壁にある張り紙に焦点を当てる。

 男子監のシーツはもう掻き集めちゃったし、あるとしたら……医療監房かな。

見取り図によればここから南の方角、細い通路を真っ直ぐ行けば、すぐにでも辿り着く。

 そんなに遠くはないけど、あの女がいつ来るのか分からないし…

天子が眼を離している間に仗助の寝首を掻かれでもしたら、悔やんでも悔やみきれない。
かと言って、寒さが祟って風邪でも拗らせるのも拙いのは事実。

 暖を取らせてあげればいいんだけどねぇ……

室内だろうと室外だろうと火を焚くリスクを鑑みれば安易にそれを選ぶことは出来ない。

 うーん。要は仗助の身体が温まりさえすればいいんだけど……

そこまで口にして、天子は閃く。


「あーそっか、あったあった。一つあった。」


天子は名案を閃いたとほくそ笑んで仗助に歩み寄る。
しかしその歩みはあっという間に重くなる。歩くと言うよりは詰め寄るように、にじり寄るかのように近づく。
まるで彼を中心に局地的暴風が吹き荒れているかのようで彼女の足取りはそこで止まってしまった。

 アレ?ひょっとして私、躊躇っちゃってったりするの?

思いの外身体が動かず却って天子は当惑する。別にこれからすることなど気に留める必要もないはずなのに。

 いやいや天子。むしろここは躊躇する方がアレじゃないの!?何一つ後ろめたいことなんてないんだから!

だがしかし、天子の考えと裏腹にその両脚は停止し、完全に立ち止まってしまう。

 同じことをするだけなのに。何を今更って感じよ、全く……

はて、あの時と今の何が違うのか、天子は物思いにふけようとするが、ふける間もなく一つの節を思い当たる。


「そうね。確かにそうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。でも私は確かだと、そうだと思っている。」


噛み締めるように、少し前のことを反芻し、吐き出す。

「だからまあ、あの時と同じじゃないのかなぁ……」

その声色は彼女の身体付き同様、非常にのっぺりとしていて、それゆえ少女としての素がそのまま響く。

 とは言ったものの、こいつを腫れ物みたく扱うのもしょうがないでしょうに。

天子はそれに気づいた時、自然と歩き出していた。いや、彼女は既にそのことを気付いていたのだろうが。
そのまま仰向けで眠っている仗助の顔を覗き見る。ますます不細工になった前髪以外は実に安らかな表情で寝息を立てていた。

「まったく良いご身分だ事で。」

憎まれ口を叩きつつも、彼女の表情は安堵し切った顔のそれだ。
徐に膝立ちの姿勢になると、仗助のシーツへと手を突っ込んだ。

「暖取ったげるわ」

天子はそれをズルズルとシーツの外へ引きずり出す。

「手だけだけど」

天子はベッドに両肘を付き仗助の右手を、さながら雛鳥を包み込むかのように優しく、優しく支えた。
ほんの短い時間だけそうしていると、彼の手をシーツへと少し無理やり押し込む。

 さて、ちょっくら探しに行くとしますか。

暖を取るのに失敗した以上、布団と衣服を仗助に用意する必要がある。
神奈子がここにいつ辿り着くのかは不明だが、最低でも半時ほどの猶予はあると天子は踏んだ。
医療監房まで突っ走ろうとした時、彼女は念のためと仗助のデイパックを覗き込む。

「それじゃ行ってくるから、大人しくしてなさいよ。」

返事はやはり返ってこないが、それももうしばらくだろう。仗助の手は思いの他熱があり、冷え切ってはいなかった。
案外すぐにでも眼を覚ましてくれるかもしれない。天子は随分と希望的に考えているなと自分でも思った。バカが移ったと思った。
ついでに、先ほどの自分の行いを青く感じると、代わりに顔が赤く熱を感じた。


「垣根を立てただけ、か。それとも私が囲ってしまったのかしら。」


それはないな、そう思いつつクスクス笑う。そのまま天子は熱を逃がすよう走った。






そして辿り着く。差し迫る零への、その瞬間まで。


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「あ………れ…?」

一つのドアが軋む。私の張り詰めた糸はそんな安っぽい音に切断された。

「……」

男が現れた。広間の隅にある一室は既に開かれ、そこから私に視線を寄越す。
頭上に疑問符が踊った。はて、これはどういうことか、この展開は埒外だ。
私は確か、目一杯の危険信号が受けて、剣を構えて、と考えている私の思考に横槍を放られる。
男が何食わぬ顔で近づいてくるのだ。

「止まりなさい!」

構えていたLUCK&PLUCKの剣、男に焦点に合わせ切っ先を差し向ける。
そう、あの時。空気、いや気質が揺らいだのを感じた。私は思わず身構えたというのに。
私の警告を無視して近づく男が現れただけだった。


「お前はDIO様を知っているか?」


男は尚も前進する。あげく向けられた剣先など、見えていないかのような第一声。
状況整理する間もなく、一方的な質問を投げつけて、カチンと来るけどクールに振舞う。

「勿論、存じ上げているわ。ただ、無暗矢鱈口走るワケにはいきません。DIO様のことを、名前も知らない貴方にお教えできることなんて、ね。」

口から出まかせ、それにしては悪くない返しだと自分を褒める。ついでに、話をする前に名乗ることもできないのか、言外にそう口にすることも出来た。

「ふん、なるほど。」

男は一人で納得し、足を止めた。どうやら問答無用で事を構えるつもりはないのか。
ようやく、こちらに近づいて来る男の姿をまともに観察する。

左腕がない。治ったのか疑わしい肘の断面図が見える。さらに全身には切り傷とレーザーでも受けたのか貫通痕が幾つか。
ボロボロの身形は本来なら女性が纏うであろうレオタード、その上にジャケットを着用。
みょうちきりんな恰好ながら、整った外面のお蔭で誰かさんよりは幾分マシだ。あっちは髪がダメだ、顔はともかく。
さて、そんな男も線が細ければ、あるいは中世的な出で立ちと言ってもいい。無論違うし、その逆の筋骨隆々。
挙句、顔つきも安穏とは程遠く険しさが際立つ。
そしてその厳めしい面構えで私にガンを飛ばしていた、と。



 うん?…………おかしい。あるはずなのに、ない?咽返るほどあったモノが、ない。


そうだ、思い出せ。コイツと面と向かうまで私は何を感じていた?
悉くを排するほどの敵意に彩られた重苦の空気、それに塗り潰されぬほど濃密な視殺するほどの眼光、
全てが私に降り掛かるはずだった。だと言うのに、入り混じったそれらは何の前触れもなく消失した。それが思い過ごしだなんて鈍り切ったつもりはない。



 そう。あの殺気は、コイツの気質はどこに行った!!??



明確な違和感が、取り留めのない思考から引き上げた。
気付けば男は私へと歩き始め―――させるか。
撃つ。撃った。二歩目は許さない。足元に向けたレーザーは細い穴を作った。


「思う仲に垣を結え。ならば思わぬ仲に垣はない、なんて考えないことね。そんな当たり前のこと、誰も言わないだけよ。」


私の言葉の意を介する様子もなく、男はこちらに目線を向けるだけ。
そう、驚いてすらいない。私が撃ったことに。


「皆が皆、己の拠り所を声高に叫べば、たちどころに広さを失う。たとえどんな場所でもよ。肩身の狭い思いなんて、あっちでだけで十分。」


何を考えているのか、大した反応も見せない。殺気のない鋭い視線、いや殺気だけが切り抜かれた視線を寄越し続けている。
そう言わざるを得ないほど不自然で、そこからナニカが欠落している。
だがしかし、その所作と佇まいは、間違いない。殺る気だ。
この男にとって先の質問の時点で、私の利用価値は零になったらしい。
それほどDIO様とやらが根深いのか。自分の名前すら触れられないワケがないと踏んだのか。考えの及ばない理念か。意図した動きか。


その思考を見透かせないものか、相手の瞳を覗き見た。しかし視えない。遠過ぎる。眼を完全に捉えるには遠過ぎた。
だが違った。一瞬だけ視えた真紅の明滅。それは私の瞳だった。覗き見たのではない、覗き見られたのだ。探りを入れたのはこちらだけではない。


既に始まっている、その事実に私は目を数度瞬かせ、相手は眉一つ動かすことはなく、身体ごと、風を切らして先駆けた。


空気が音に裂かれた。
幕無に鳴り始めた健脚の駆動音が武骨な空間を彩る。
それとは対に音も無く、しなやかな腕は翳された。

傾け太陽。夕闇を焦がす眩い光は落日の届かない牢獄に、その色を語る。
地の色は緋色。呑み込みが早い。石の海は、今見た色を在るがまま投影。
寄り集まった光。一つ一つは糸のように細く儚い。けれど幾重にも折り重なり列を成す。やがて列は隊伍を成し、夥しく溢れる様は人波の如し。
石の海にて、さざめく人波。夕焼け小焼けで、明日はない。真紅の軍勢を従えた蒼一点が命令を下した。


只一つの跫音は何時しか、大挙するさざめきに掻き消された。
もう時間を要することなく、衝突、いや呑み込まれる。


寸前、男は転じた。
迫る煌めきの海波。美しくも残酷な情景を前に、込めたのは祈りではなく、あらん限りの力。その身一つの三肢に託す。
くぐればモグラ。止まればハチの巣。どちらにもなれない―――ならば跳べ!

男にとって、それはいつも通りのこと。距離を目で計ること、自分の速度も換算することは、いつもしている。この場の誰よりも。
勝手の違う『いつも』と違うこの状況においても、それは変わらない。だから恐れない。
眼が眩む光量を前にしても、何の感慨も抱かない。
振り上げた足が焦がされても、何の感慨も抱かない。
抜き足が焼かれ針孔を作っても、何の感慨も抱かない。
真下に広がる熱量の奔流を浴びても、何の感慨も抱かない。
抱くのは恭慶。あの方への崇拝のみ。
ただそれだけで、走り駆け抜け跨ぎ渡った。
飛翔もかくや、しかし只一度の跳躍。紅の潮騒を背に、三肢獅子は舞い降りる。


轍の音は再度息を吹き返す。そして即座に轟と空を切り、緋の純光が満ちる標的に狙いを定めた。
だが、潮騒の奏者もただ黙認していたわけではない。一波目がさざ波ならば二波目は大海嘯。
放つ。背後に控える無窮の朱弾を。汗一つ見せぬ鉄仮面が降り立った瞬間を、その間隙を縫い止めんがために。



瞬間。影が交差する。ナニカが茜に染まった空間を切り裂いたと思えば、間もなくして日は没した。


空を駆り標的に得物を掛けたのは、潮騒の奏者、ではなかった。


轍の走者だ。


左脚を振り抜き空を蹴り抜いている。そして左脚には轍を刻む車輪がない。
靴を飛ばした。着地したエネルギーさえも殺すことなく余すことなく、その身を撓らせ、逸らし、撃ち放った。
渾身の一脚は顔面を、奏者の頬を削り取るほど無常。
受けた拍子に後ろによろめき、踏鞴を踏ませるほどの一撃。
恭慶に濡れた爪が、奏者の芯を刺し込み、揺らす。

光は失われる。煌びやかな眼前閃輝の幻想は空想へと貶められた。

走者はとっくに地を蹴っていた。死線をギリギリで擦り抜け、一挙手一同全てを以て淘汰せんとする原動力とは何なのか。
どこまで熾烈な狂想を燃やしているのか。



接近を許すだろう、奏者は思う。軽く右頬を拭うが簡単に血が止まる気配はない。
剣を突き付け、走者を見据える。不敵に、太々しく、そして少女らしく、笑った。



片や勇気と幸運を抜き放ち、飛び出す。
片や殺意の銀光を納め隠し、駆ける。

両雄、隔たりを貪り喰らい、走駆の糧だと燃やし尽くす。
鬩ぎ合い、鎬を削る。一速でも疾き風を纏い、しかし時すらも、差し違え、追い越し、突き放つ。
我先にと先駆けるその姿。ただ一人が許される頂きを賭けた奪い合い。その冠の名は先駆者。

だがその名を冠する者が等しく勝利者とは限らない。移らねばならない。打たなければならない。
布石を。膳立てを。乾坤一擲に至る道筋へと、構え、揃え、備えねばならない。
忘我の果てにある走駆など、醜き痩躯の姿を晒し、走狗として死ぬ。


先んじたのは、勇気凛々。
柄握るその右拳は脇腹へと宛がわれた。
いや、宛がうより強く、押し当てるように。押し当てるより強く、殴り抜くかのように。
踊るだけだった鉄の穂先に芯が宿る。ピタリと一点を見据えて。
稈を守る葉鞘の如く、穂先さえも包み支える剣の鞘。
その構えは打突。諸手ではなく、片手。威力以上に射程を選び、しかし威力を殺さない。
痛みを伴うほどの横腹に膂力を乗せるもう一つの訳。
爆発させるのだ。溜めた力を。瞬時に力のベクトルを己から敵へと転化させ、穿刺への気勢へと化けさせる。
神速の域へ至る衝きの軌道は、読めず見せず映さずの力動となる。
凛然の現身は、速度の極点にしがみ付き、なおも踏み込む間合いを目測し続ける。


静と動。
驀進し、体躯を整え、巧智を働かせることさえも、これから起こる闘争に至るための下拵えに過ぎない。
静と言う微細な情景の連なり、動と言う超過し尽くした侵攻の連なり。
今、その静寂と動乱の境界にある。


だと言うのに、消失した気質は静寂の中に佇んでいた。
そう、未だにただただ遮二無二に走り続けるのみ。
衝突しかない。このままでは文字通りの体当たり。
それも相剋する対敵を見れば叶わないのは必定。たまらず人の串刺しが転がる。
まるでその双眸に光が宿っていないかのように、全てを拒絶しているかのような唯我独尊。
いつの間にか霧散した気質と同じく、この男には何一つ持ち得ないということか。

いや、ある。
たった一つの崇拝が、賛美が、畏敬がある。ただ、それしかなくとも。
信仰には供物が必要である。自らの信心、そして贄という『結果』。
二つを掲げ始めて狂信者としてそこにいられる。
果たすべきを果たさずして、不敬の十字を背負って、尊ぶべき存在に会うことができるのか。
否だ。たとえ許されたとしても、暗澹とした精神は尊き後光にかき消えてしまう。
故にここにいた。恭慶に濡れた刃を以て斬獲を果たす、という一念を抱いて。
それがためならば、たとえ走駆の最期に、醜き痩躯の姿を晒し、走狗として死ぬことも厭わない覚悟。



尤も、死ぬつもりなど毛頭ない。
既に、とうに、最初から、動いていた。
静と動の『動』を。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


未だスタンドを使う素振りがない。
この、男ヴァニラ・アイスの挙動の異常の全てはここ一つに収束する。だがしかし、ヴァニラの挙動は既にある時点からおかしかったのだ。
話を遡れば、二人の少女と出くわすまでのこと。
こいしとチルノ、この二人と接触出来たことそのものにある。


彼の目的は見敵必殺。
その彼が如何な変遷を辿れば、お互い無傷のまま情報交換に至れたのだろうか。
最低でも、こいしとチルノが先にヴァニラを発見、捕捉しなければ話にならない。
だが、それは限りなく不可能に近い。

当然だが、彼は自分が一番クリームの能力の程を理解している。空間と速度を把握していなければ、この利かん坊は下手な鉄砲すら劣るスタンドだ。
なんせ縦横無尽全方位好き勝手に動け、何一つ障害を物ともしない。目標に最適解で忍び寄る、その明晰な頭脳を以てして、その力は殺戮兵器に変貌する。
何度も顔を出すなど、そんなヌケサクをすればするほど寿命が縮む。ならば襲撃に備え迎撃する下準備を怠って休憩するなど、まず以て在り得ない。
襲撃には迎撃を、侵入するなら暗殺を、ヴァニラは常に先手を打てる状態で休んでいた。
行き止まりの部屋を背にして、退路であり進路に眼を配らせるなど想像に難くない。

そう、ヴァニラが先手を打つ状態でいたにも関わらず、チルノもこいしも傷一つ負うことなく接触した。
こいしは先の闘いで気絶、肉の芽を宿すチルノも愚鈍さが抜け落ち油断は少ないが、完璧ではない。
無意識の能力が完全な透過を齎せば、あるいはイニシアチブを握れたかもしれないが、気配を消し切るだけでは最後は視界に納まる。

ならば答えは一つ。
ヴァニラは自ら、二人に接触を果たしたのだ。それこそ今回の天子と同じように。
情報を漏らさぬよう、相手の反応を、DIOに対する態度を窺うだけに留めて。
先の敗北を忘れて間もないと言うにも関わらず、結果を打ち立て忠誠を注ぐことを律してでも。
ここにいるDIOの天国を目指すという意図を知らされてないのにも関わらず、彼はもう見敵必殺を捨てていた。
闘う術があるからこそ、自ら近づいた。
あるいは体の良い実験相手が現れたと思ったのだろう。
そして幸か不幸か、披露することなくつつがなく情報交換に至ったのだ。


何より、ヴァニラはあの二人を当てにしていなかった。ならば、少なからず用意してしかるべきだ。
怨敵を前にして逃げるだけなら、殺すために生きる、言い訳が出来る。言い訳してでも生きて見せる。
だがDIOを前にして、ジョニィと会い見えた時、殺すために生きる、そんな言い訳は万死しかない。


ヴァニラ・アイスは間違いなく、既に、仕掛けている。
例えば、その傍にスタンドを侍らせていたとしたら、どうなる。
それも、目視不可能のまま、無色透明のドス黒いクレパスを纏っていたとしたら、どうなる。


そして、そういう能力だと思い込ませてしまえば、それはきっと最高の仕込み杖になるのではないだろうか。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


近い。双方押し入った。命が明滅する領域、軋轢のみが支配し、不和の絶叫が木霊する。華狭間なきバトルフィールド。


陣風巻き起こすは、朱に染まる蒼の花。
敵前直前にしての急停止が、鋭い気流を呼び寄せる。
動きを止めたが、終わりではない。ここからだ。

―――『静』から『動』へ―――

静止と同居した踏み込み。
超加速した肉体を片脚で抑える。押さえ込む。押し留める。
全身が震え悶える。勢いのまま倒れてしまうほどの運動エネルギー。
半端に上げた右脚、前のめりになる姿勢、実に滑稽、しかし結構。

コンマ数秒の悶絶は終わった。
エネルギーは芯の芯にまで行き渡り、循環し尽くした。


技倆の限りを! 総身十全を以て! 放散せよ!!


  ダァアンッ!!


落雷の如き鳴動と共に、踏み込まれる。
揺れた。右脚を起点に波紋が広がるそれは、原始的過ぎる人工大地胎動。
輝いた。閃耀の如き速さで射出される、片手突き。
伸縮膨張の権化。時間さえも追い越すかのように、瞬く間に。
自らを鞘とし納めていた幸運も、もはや血潮を以て勇気を求む魔の一振り。


地を揺らし天の加護を以て人が放つ奥義、天人は今この時、天地人を支配した。


――――――――――――――――――――




関係の無いことだ。


天を支配しようと、地を支配しようと、人さえ支配しようと、


この身を支配しているのは、きさまではない。




――――――――――――――――――――


何でもひっくり返す能力、それを目の当たりにしたような光景が広がる。


少女の動きが逆転した。
ぶつかって弾けるなら、分かる。だが、ぶつかることなく弾かれる、これは分からない。

背後へ吹き飛ぶ。天地人の支配者はまるで巨人にでもなったのか、たった一歩一足で距離を稼ぐ。全ての加速を吐き出した。
宙を舞い、突風に煽られるかのように、幼子が諸手を上げるように。
背中から倒れ込みかねない姿勢のまま、距離だけが引き剥がされる。


逃げられた。
鉄仮面に亀裂が走った。追走する。逃がす訳にはいかない。
だが、その行く手を遮られる。目前には緋の光芒。真一文字の展開に回り込めず、飛び越めず。
躊躇なく突撃。空疎とは言え完全に弾幕に身を晒した。
重ねて逃がす訳にはいかなかった。そう、自らの肉を斬り相手の骨を断ってでも。


しかし、着弾ゼロ。鉄仮面に新たな創傷は無い。命中の軌道にあった弾幕もまた無い。
いや、直撃する弾幕だけが消え去った。
男を目前に球状に切り抜かれ、光の残滓となって空に還る。


不可思議な光景。
しかし、不可視のスフィアがそこにいたならば、どうなるか。
そして少女が飛び退いた理由が、そこにあるとしたら、どうなるか。


そう、消失は見送られた。道はそこにあった。少女はそれを求めていた。


不良天人、いざ参る。
伏せ駆け抜ける。忌むべきその名に抱かれるように。
されど踏み躙り蹴る。誇るべきその真名を謳うように。
地否、天是。己は誰か。この力動は霹靂。地を走れど、その想いは天を奔り有頂を目指せと突き進む。
天鼓鳴動掻き鳴らし、突き抜ける地奔り閃光が捉える…!
今、対敵の傍らを過ぎ去り、しかし過ぎ去らない!
響くは裂帛!付き従え血彩滑刀!!


  グシ…シシシャァアッ!!……ッッ!!!


走破の健脚『稲光』。 打ち据えるは剣の『峰』。一つの和を護るべく立つ『人』。
今一度、返り咲く。天地人の有頂天へ。そして只一度、命じる。勇気の一振りを以て、退け、と。


影が歪に交わった瞬間、お互いの動きは縫い止められた。闘いに見呆け、秒針が歩みを忘れたかのように。
だが徐々に、一人の身体は『く』の字に折れる。それは時の流れを物語る何よりの証、たとえ耳打ちするような囁きであっても。
しかし、語り手は声を大にしなければならない。変化は、もうすぐそこまで迫っている。


  轟ッッ!!


語る言葉すら置き去って、空気は低く鈍く、そして瞬く間に呻いて消えた。
風切り音。しかし、その空を切り分け進むのは人。ならばこれは叫び声。怨嗟の宿った絶叫だ。
当然、口から漏らしてなどいないし、漏らせない。
三位一体の一閃は胴を薙いだ。内臓は数秒ひしゃげ、伝播した衝撃が骨にヒビと断裂を走らせる。
吐き出されたのは呻吟と一塊の血だけ。それらが滴るよりも先に、峰より下る颪に浚われ、激しく打ち付けられた。


荒く不規則な気息だけが残り、少女は自覚する。転瞬の連続を征したことに。


少女の体内にて起こる風の循環。息吹の輪環は確かに回っている。
けれど、サイクルは解れ出していた。漏れ出で始めていた。目線をそこへと寄越す。

そこは少女の右手であり、たった今、勇気を体現した剣が映っていた。
幸運ではない。もう、吉兆は訪れないのか。今、剣の名を冠するは勇気。
いや、最初から文字を象ることなく、汚れてしまっていた。そんな余裕などなかった。
既にあの時から、命の断片を取り零してしまっていたのだ。
勝者はそこで静かに両膝を付いた。


比那名居天子は死んでいた。


初撃の全身全霊の打突。これを完全に実行していればの話だが。
胴体と首はサヨナラ、即死していた。

ヴァニラ・アイスは、クリームを眼前に堂々と忍ばせた。
そう、自身を取り込ませることなく、クリーム単独で暗黒空間に仕舞いこんだ。不可視と消滅の能力を懐刀とし携え、埒外の必殺を狙った。
普段の彼なら100%実行しない、いやそもそもこのような応用など、出来ないかもしれない。
だが、今はそれが出来たし、それを選んだのだ。それも、敢えて。

一方の天子だが、寸での一歩前で違和感が確信へと化けた。
一歩手前。そう、彼女が踏み込もうとした時。気質を見極める秘剣の残滓が、破滅の断層を一瞬だけ映し出させた。
一寸先の闇は入滅の門。門戸は叩いても潜るわけにはいかない。

天子の判断は速かった。予定通り、右脚で踏み込み打突を敢行。但し、前に踏み込むも、身体は後ろへと流しつつ。その勢い全てを逃げる動力に転化させた。
さらに左足元の石畳を隆起させ斜面を形成。背から倒れ込む姿勢のまま、斜面をブチ破る勢いで踏み抜いた。
全速後退の烈度は凄まじく、あっという間に間合いを引き離し、地面に背を向け低空で宙を踊った。
だがしかし、いや当然。それで終わりではない。
弾幕をバラ撒いていた。追って来るであろうヴァニラ攻略の糸口のために。
天子即席の逃走経路は、そのまま迎撃経路に直通。
弾幕が虚空に還され、馬脚を露せば、辿るべき道は自ずと見える。
一寸先の闇に一筋の光明が差す。クリームはヴァニラの上半身を守るように滞空し続けているのが確認できた。


右脚を錨の如く振り下ろし、浮いた身体を引きずり下ろす。
衝撃を吸収するよう身体を丸め着地し、構えはクラウチング。
丈夫な肉体に物を言わせ、両脚のみで推力へと転じ、右脚のカタパルトで自らを射出。
即座に間合いへと舞い戻り、剣を振り抜く。
抜き胴の要領で、真横に抜け出た瞬間に打ち込む。
大きな違いはその場で踏み止まったこと。
敵の側面に立って剣を振り抜く様は、もはやホームラン狙いのバット捌き。
ボールはヴァニラ。ホームランとはいかないものの、ヒットそのままに得点を上げるランニングホームラン。
行き場を彷徨い続けたエネルギーは終着駅に辿り着いた。
そして、追い打ちとばかりに壁に打ち付けられ、決着と相成る。


巻いても滴り、巻いても垂れ、巻いても浮き出て、巻いて―――止まる。
それも程なくして滲み、染み出し、巻いて巻いた。


攻守に渡り機転を利かせた少女は、男に決定打を叩き込んだ。だが、決定打。致命打には至れない。切り払えなかった。それは躊躇いか、精彩を欠いたか。分からないからこそ悔む。
さらに、その右腕には少なくない量の血が伝っている。打突の瞬間。後退するためとはいえ、全力の突きを放った瞬間。浅く削り取られた。しかし右腕の内側、掌から肩にかけて丸々。
血塗れた右腕が浅くない爪痕を、その深さを見せつけている。
もう数センチ近づけていれば鼻先は抉られ、十数センチでのっぺらぼう、数十センチで首は新居に構えることになった。
それに比べれば、なんてことはない。
それで済んでいれば、なんともない。
それにまだ、終わってなどいない。


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最初に抱いたのは絶望、遅れて憤怒が湧き立ち、己を塗り潰す。先の怨敵との決定的な敗北。それは男にとって死を同義するほど重く圧し掛かる事実だった。
一方的に下された敗北だと、男にはそうとしか思えない。勝つ寸前だったなんて、そんな過程など己だけを慰めることしか何の役にも立たないクソのカス。
何の役にも立たないのだ。
己自身も、また。
そこから脱しなければ、男はもう間もなく死ぬ。あのお方に従ってこそ、男は男足り得る。ならば、怨敵の殺害を第一とする、あのお方に従えぬ男に一体どれほどの価値があるのか。
無くなる。失うモノすら、無くなる。


闘う術に、力に飢えた。それは、後にも先にもこの時が初めての感情だった。
だからこそ、初めて外に出た。その力を振るいつつ、外に出ることを男は願う他に術はない。


あのお方に従ってこそ、男は絶対の安心感を与えられる。従っていなければならない。
それでも、あのお方ならば自分に価値を見出してくれる。そう思える一方で、そこに縋る己に怒りを覚えた。
それが、本当に本当に数少ない男の人間性が見せた、見栄とも言うべき感情なのだろう。
張るべき見栄と意地が、男にはある。己こそが果たすべき忠義がある、その決意があるからこそ、男はここに残ることを選択した。
忌むべき名を連ねる地に赴くことを捨てたのだ。
抱く恭慶を必ずや、成し遂げるために。

守護霊は己の心象を映す鏡だ。男の異能などその最たる例。全てを跳ね除けるのではなく、全てを呑み込み消し去り拒絶する。
どこに続くのか分からない心の闇を抱く男がそこに入り込んでこそ、暗黒空間は形を成す。
男の精神そのものが暗黒空間であるが故に、範囲そのものが半減した。相乗りしない以上、常に射程距離に阻まれ自在に操れはしない。
それでも、新たな得物の、そのナイフの柄を握り締める。
今その刃は喉元を、少女の細首目掛け疾走する。問題なく、身体は動いた。淘汰すべき怨敵を思えば、目の前の少女など、この程度の負傷など、物の数ではない。
こんなところで、立ち止まるわけにはいかない。
ここはまだ、こんなところ、でしかない。
余裕の表れか、その逆か、男が動き出してなお傷を庇うことに感けている。関係などない。どちらであっても、目の前の敵は叩いて潰す、それだけ。
そうだ、叩いて潰す。


拳と剣の異口同音。
意志が跳ね合った。しかし瞬けば、それは意地の張り合いとばかりに摩擦の熱が帯びる。
死合いの間合いに、両者は今また舞い降りた。剣越しにて、拳越しにて、視線は絡む。ねめつけ合う。
賭けるべき命への意地をその瞳にギラつかせて。


剣戟の律動が、鳴り止んでは響く。鳴り止んでは響く。
甲高いそれは喝采だ。その蛮勇を褒め千切るために。剣と体躯の交差を、その無謀を称えるために。
称えられし者は、その一挙手一投足を加速させる。万雷の拍手を受ける毎に。称賛を勝ち得ることに歓喜を示すように。
だが、それは否だ。むしろ逆。まだ届かない、まだ過程だ。得るべき結果は未だその手に納まっていない。
だからこそ、もっと早く、弾いて逸らして往なして返す。


袈裟懸けを弾く。剣の腹を強引に腕で外へ流し、崩す。
次いで脛蹴り。男の健脚が低空を切る。直に神経と骨に衝撃を走らせ、痛みで、崩す。
詰め寄る、一気に。崩しに使った足を地に付け、身体を引き寄せる。右腕を振り上げ、指を折り揃える。
フィンガージャブ、目潰し。ガラ空きの顔面を、その手が覆った。
しかし覆った。その右腕は衝撃と共に天を突く。
男は片腕、少女は両腕、1:2。剣を持ち替え軽くなった左腕で、咄嗟に隻腕を薙ぎ払われた。


お互いが動きを潰し合い、一瞬の膠着状態が生まれた。少女は大きく、男は小さく、上体を反らしてしまっている。
しかし先んじたのは、潰れた双眸。


ひらり、翻る。
よろめきを一歩で立て直そうとするも、仰け反る身体を支えられない。
故に身体を廻す。踏み留まらず、むしろ倒れる勢いさえ拾って加速する。
独楽のように鮮やかで、しかしただ一度の円転。これで決着。二転三転しはしない。
長き青髪はためかせ、柄握るその手力ませて、斬り結ぶは水平一閃。
真一文字に、絶つ。


劈いた音は一際大きく、鉄の嘶きが木霊した。
それは喝采だった。何度も聞かされた、喝采だった。男に向けられるべき、あの喝采。
返し刃は阻まれた。


横一文字の剣、縦1文字の踵。
大上段の踵落としは、剣の腹を打ち据え、防御に成功させる。愚直な軌道を貫き切ったのは信じる者の願いの力の差か。
しかし意趣返し。男の目前には左足。肌蹴る衣装は冥土の土産、顔面覿面蹴り上げ迫る。
見越していた。既に上体を後方に折り、そのまま倒れぬよう身体を反らし三肢で支える。ブリッジ。
橋に吹き抜ける風切り音は回避の成功。
橋から突き抜ける上昇気流。鋭すぎる反撃の狼煙。
正体は男の右脚。真上へ伸びる。空を切らない。一瞬の捕捉。空ぶった少女の脚を追いかけ追いつき蹴り抜く。
振り上げ切った脚が更に無理な急加速を強要。足元は掬われる。代わりにと男は既に立ち上がっている。そのまま腕を走らせて。

  ドズンッ!

掌底炸裂。宙に縫い止めるように、その一撃は浮いた身体を突き刺した。
少女は確かに止まるが、それも一瞬。無抵抗のまま吹き飛び、やがて地へと落ちる。
そこに影も、落ちる。

  グシャアッ!

蹂躙。跳躍からのフットスタンプ。縫い針と呼ぶには太すぎるその脚が、少女の腹を地へと縫合。
痛みに耐えかね、反射的に四肢は跳ねるも、それさえもすぐに地に横たえる。
決定的な一撃が、極まった。


うつ伏せた背中に跨る影は、何の感慨も見せずそこから降り立つ。
ひしゃげたカエル目掛け、振り上げ振り下ろす。
高らかに掲げた脚はさながら断頭台、急落する踵はギロチンの刃に相違なく、執行される。
その首、へし折るために。


  ズッゴッッ!!


だがしかし、五体満足。どこも、何一つ、折れてはいない。
意識を手放したのはホンの一瞬だった。咄嗟に四肢で這い、足と床で踏み潰されるのだけは避けた。
四つん這いの姿勢で持ち応える。踵を首に受け、それでもなお屈さない。
いや、踵ではない。足首だ。僅かにズレた、ズラせたのだ。
守護霊の具足を纏わない地点まで。そう、触ることが出来る。いいや、少女なら、持ち上げられることだってできるだろう。


ひしゃげたカエルは、跳ねる。


四肢にあらん限りの力を込めて、その手、その脚で石床を跳ね除ける。
討ち込まれたギロチンの刃もろとも、跳ね除ける。
そう、二人は宙を舞う。
先刻の意趣返しに返す刀を添え、迎撃する。


混濁する意識は得物の存在しか教えない。躊躇はなく、できない。身体を撓らせて、打ち込む。
昇る感覚と共に振り上げ、沈む感覚と共に振り下ろす。
聞き覚えのある衝突音。それは喝采。
受け覚えのある手応え。これは守護霊。


またも遮られた。
断片的な情報の中、落胆する暇もない。
弾幕を滅多撃つ。落下を果たし尻餅をつきながらも。矢継ぎ早に、次から次へと、手あたり次第に。
守護霊を完全に出して盾にした今。ガラ空きの背後を狙う。
まだ、意識がもたついて動けない。
ロクに見えず動けない今、男に択を取らせてはいけない。そのために先駆けた、それでも。
近すぎた。遠回りにホーミングさせる暇もなく、全てが弾かれた。


首根っこを掴まれる。両手で鷲掴みにし、そのまま身体を持ち上げられていく。


両腕両脚をバタつかせるも、ビクともしない。当然だ。生身でスタンドに抵抗はできない。
締められていく。呼吸ができないだけなら、まだ我慢のしようがある。頑健な天人ならば首の骨もすぐには折れないかもしれない。
だが、唐突に頸部を圧迫されれば、タダでは済まない。ましてスタンドの膂力、思考もへったくれもあったモノじゃない。
もがく動きがあっという間に衰えていく。このまま脳への血流止まるか、首の骨が折れるのが先か。
いや、それすらも待つ必要はない。


口が開く。暗黒空間への入り口が。
そこへ放ってしまえば、全てが片付く。
腕をそこへ持って行く。頭から一気に押し込む―――はずだった。


その動きは目と鼻の先で、ピタリと止まる。不自然だ。
あるいは、嬲る趣味でもあったのか、目覚めたのか。いや、そうではない。
男の様子がおかしい。そこに愉悦を見出すには、その表情が目に見えて青ざめていた。
目線を移せば、不可解な出で立ちに釘付けにされる。


男の脚が一本増えていた。


もし、三本目の脚が生えてくるとしたら、どこにあるのがバランスがいいだろうか。脚から脚が生えてはバランスが悪くなる。どうしてもあと一本欲しくなってしまうと言うモノ。
ならば、局部にあるのが最も相応しいのではないだろうか。そう、ここならば何の問題もない。
だからこそ、三本目の脚はそこにあった。
それは余りにも太く、まるで丸太か岩のようで、いや岩そのものだった。
その正体は石柱。そして金的だ。大地を操り、股間を狙ってしたたかに打ち付けた。
直に内臓を手で描き回される痛みが、果てを知らず押し寄せる。
後一歩。ほんの数センチ持って行けば致命に届かせる、それが出来ない。
むしろ悶えることなく、少女を掴んだままで堪えているだけで、相当な忍耐を振り絞っているに違いない。


だがしかし、風呂敷包みは翻り、脚売り婆は嘲笑う。男の脚が二本に戻り、三本足に戻った。


狙われた股間。二度目の睾丸圧迫。瞬間、男の理性は彼方へと一足飛び、男の仇も彼方へと投げ捨てた。それは全く寸分違わぬタイミングだった。
その激痛は風邪を引いて垂れる鼻水のように、どこまでも内から湧き上がり、溢れ出る。
八熱地獄の無間地獄。カラダを灼く痛みがハラワタを、モツを声帯器官に変身させ、絶叫を上げる。
男はその身体を蹲らせ、すぐには動けそうになかった。
少女の意識が明瞭なら、確実に逝去する一撃だったのが口惜しいところか。


瞳をジワリと開ける。ようやっと、その目を開けることが出来た。
乱雑に身体は回り、変化の乏しい空間が次々と過ぎ去って行くのが分かった。
身体を折り反し、あわやぶつかる、その未来を返上する。
そして少女は壁にて体現する。地に足付ける、ということを。
何事もなく、優雅でもなく。
両膝をガッシリと屈伸させる佇まいは、視界に収めるか迷いそれでも結局見てしまうだろうが、それも一瞬。
少女、飛翔。
壁を大地と成す今、そう呼ぶに相応しい。
だがその速度は、はためく翼を連想するには似つかわしい。
さながらロケットだ。
剣を掲げ天へ走るフォルムも、真っ直ぐに突き抜けるスピードも、相違ない姿。
変わらぬ得物を相剋する敵に突き付け、喉元めがけて空を裂く。


ロケットの終着点に当たるその男は、よろめきながらも立ち上がる。私怨が無かったのももはや過去。今や視殺せんほどの眼光で見据えている。
失態の轍を踏まないよう、にじり寄るペースも等間隔を崩す。しかし避ける猶予はあっても、ロケットの射線から外れる様子は見せない。
迎え撃つのだ。痛みを庇う姿など見せず、決然と相対する。相対していた。獲物一点を見据える鋭い視線が、放射状に広がる。
驚愕した。



ロケットが小惑星に衝突を果たしたから。
ロケットが背後から爆音を鳴らしたのだから。

織り込み済み、だった。

格闘戦は優位に立てるが、余りにも堅く、致命打まで届くのに骨が折れるのが見えた。
ならば削ってしまえばいい、減じてしまえばいい、失くしてしまえばいい。
その空間もろとも。男にはそれができる。
そして結果的に、逃げ場のない状況、が生まれた。確実に能力を当てられる、そんな状況が。咄嗟とはいえ、投げて正解だった。
少女の冴えた立ち回り、それに着いて来れる体躯がある。態勢を立て直せる。壁を蹴って来る。衝突することなく、その反動を活かしてくる。


スタンドを能力で隠し―――蹴破られる。
衝突する軌道に合わせ―――蹴破られる。
身体を割る風穴を開け―――蹴破られる。


少女にとって、織り込み済みもまた織り込み済みだった。


現れる。注連縄の巻かれた岩が。
衝突まで幾何も無い、その瞬間に。二人の間に割って入った。
ロケット激突。喝采響く。得物と獲物がカチ合った。

喝采はその蛮勇のために。血濡れた勇気は砕けない。
納まるべくして納まるかのように、止まるべくして止まるかのように。
要石は刃を喰い込ませた。要石は鞘となったのだ。


しかし、失せた。喝采を受けるべき少女が。


空だ。
トスカーナもかくやの聖剣の持ち主は、そこに。
中空で横軸の逆回転、競技用鉄棒で背後から正に目まぐるしく回り続ける。
推進力を殺し切れず、投げ出されてしまった。投げ出した。
その速度たるや凄まじく、あっという間に男の頭上を超えて―――


―――轟音を上げて石の海に降り立った。


そう、降り立ったのだ。
宙にいたはずのロケットは、数瞬で着地。
空中にて動力の獲得に成功した。


ロケットは空中にて体現した。地に足付ける、ということを。


もう一つ呼んだ要石を足場に、空で地を蹴る。
蝙蝠の様な逆さ吊りの姿勢で、急降下。
ギリギリまで横軸の回転の中でそれを成す動きは、余りにも神懸かったタイミングだった。


石造りの床を砕き、鳴り響く。巻き起こる。爆音と土煙。とてもそこに人が降りたなどと思わせない。
さしものこの男も事態に付いて行けなかった。身体が動かない。僅かな瞬間、少女が生んだ空気に呑まれてしまった。
接近への足跡とも言える二つの要石を順に視線で追おうとし、咄嗟に振り向く。
土煙から飛び出た影は、男の動きの一手も二手も上を行く。


既に懐。照準は右脇腹。振り向き切らない男に鉄拳を狙う。
男は裏拳。振り向き様の一撃を狙う、が遅い。明らかな出遅れが既に響いている。
守護霊はいない。今の男から見たら背後で棒立ちだ。
少女が飛び出てようやく動き出したが、こちらはさらに遅すぎる。


好機しかない。無茶を重ねたアドバンテージは、決して陳腐ではない。
何発でも来い。スタンドの格闘を耐え切った少女にとって、男の拳なぞ屁でもない。
一際大きな砂利の音。追従する鈍い風切り音。
踏み込み、腰を捻り、拳は弾丸の如き速さで発射。


だが、その一撃を以て終了と相成る。いやその一撃すら叩き込むことなく、余りにも呆気なく、少女は倒れた。


 ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_


―――天人の五衰『不楽本座』
自らの位置を楽しまなくなること。
私の席は、私の座す場所は、どこだろう。
退屈な毎日に嫌気がさして、身勝手に生きる私にはきっとない。
面白半分で異変を起こしたのも、私にとっては暇つぶし。
神社を乗っ取ろうとしたのも、カタチだけでも居場所が欲しかったからか。
ダメな奴だって自覚はあるけど、悪かった、と思うほど私は真っ直ぐじゃない。自覚はある。

そんな私を心配してくれたアイツ。
本当に慮ってくれた相手が何人いただろう。それは確かにいたはず。でも消えていった。
私は汲み取らなかった。いつも驕り高ぶる私を心配した奴は見放していく。自覚はある。
そんなモノなんだ、所詮はそんなモノ。私のせいでそうなるのだ。自覚はある。
だと言うのに、アイツはしつこく何度でも。ほっとけばいいのに何度でも。
耳障りの良い言葉を並び立てて、私の都合よく従って、それで私は満足していたのに。

アイツの心配がウソじゃないことは誰よりも理解しているつもりだ。
その姿を私だけが知っているから。友人を失いもがく姿を。アイツの優しさはきっと他の誰よりも深い。
だから、私も!私も!って思ったのか。図々しくてやはり私は高慢だ。自覚はある。

言葉にすればそれは陳腐で不確かな関係を、心の隅で私は望むようになった。
座したい場所は、そんな有り触れた処にあった。有り触れたは少し失礼か。
でもアイツにとって、それは有り触れた、きっと当たり前のモノなのだろう。
むしろ、有り触れているからこそ、私は欲しいんだ。
そして、有り触れているからこそ、私は不安なんだ。
知らず知らずの内に手にした、私の座す場所。そう願う場所。
それをまた知らない間、気付かない内に、私は失くしてしまうかもしれない。
アイツにとって有り触れているだろうから。私にとって有り触れていないから。
ああ、そうだ。
私はきっと怖いんだ。
だからこそ、こんなにも追い縋っている。


只一度、戻って来ない、返事の来ない、問い掛けを。
私の居場所はどこでしょうか?
そこに私は居るのでしょうか/要るのでしょうか?
優しい貴方はYESと言う。でもだからこそ、私はNOを言い含む。
傷付いた時ぐらい、もっと頼ってほしい。私を惨めにさせないでほしい。
気付かなくたって、しょうがないじゃない。私は初めてで気が利かない。けど。それでも。
私は貴方を信頼したい。信用じゃなくて、信頼を。
肩透かしの信頼なんて、惨めな思いをしたくないから。



―――声が聴こえた。余りにも遥かで、清らかで、尊い、YESと宣って頂いた言霊が。
―――私は何一つ疑うことなく、満たされた。私は受け取った。『それ』に向かって破顔した。


ありがとう…ありがとう…ありが、あり、あ、あり。


―――男の右腕が『それ』だった。『それ』は乾いた腕だった。


そこで、私の幻視は終わる。こんな、こんなモノを、見せて―――


 ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_ ̄―_


倒れたと言う表現は、相応しくない。
避けたと言うべきだろう。男の拳、いや右腕を。
何故と聞かれて答えられる者はここにはいない。
何せ避けた本人も、避けられた本人も、共に理解していない。
その証拠に二人の視線が絡み合って解けない。頭上に疑問符が泳いでいる、そんな有様だ。

ただ、男の右腕に眠るモノが少女を平伏させたことは間違いなかった。
そこに宿る存在の大きさに、本能が避けることを選んだ。一瞬の内に『ナニカ』を見たのだ。
そして、少女は思ったのだ。余りにも大きく、尊く、眩い、と。
そう思ってしまった。
あの少女が、比那名居天子が、である。
そしてそれは、大事なオモイさえも塗り潰されて。





「ふ、ざッ!けるなァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」





激情が生まれた。生まれないわけがない。目の端に涙が浮かぶ程の屈辱と憤怒と羞恥。
混濁する情報と膨張する感情が彼女の脳内を掻き乱した。



認めさせられた。認める相手がいるのに。



それを飛び越えていくように、認めさせられたのだ。
己をへし折られた、折ると決めるのは確かに自分だ。認めるのは自分なのだ。
それを、あの…あのッ!!あの輩はッッ!!!!





怒りに塗れても、時は待ってくれなどしない。感じる。男が不可視の暴虐と共に躍り出ていることを。
突っ伏してはいられない。避けようとする。立ち上がり、立ち上がろうとした。

虚脱。力が入らない。立ち上がれない。
イラつきながらも少女は転がる。異音と共に床は抉り取られた。
少女の右腕がまたも削れたがそれも掠り傷。気にしてなどいられない。
気にした瞬間、死ぬのだから。


消失へ誘う破壊音は鳴り止まない。
床には一直線のラインが半円柱状の溝となって引かれている。死に至る導火線。
少女はただ転がり続ける他、難を逃れる術がない。
今この瞬間も、少女が通過した床は1秒も間たずして綺麗に抉り消えていっている。
予断を許さないこの状況、少女は未だ立ち上がれずにいた。


守護霊による殴打を急所に撃ち込まれ、平衡感覚が狂って倒れて然るべき運動を繰り返した。
支払った代償は安くない。それでも涼しい顔で闘ってこれたのは、少女の背負う存在がいたからこそ。
青年を護る誓い、その決意の大きさが、精神と肉体に強い影響を与えていた。
男を放っておけば、その青年が自分以上の無茶をすることは考えるまでもないことだった。
そして、青年の信頼を勝ち得たかった幼い下心も、認めはせずともそこにあった。


それが内に宿る少女の心象。それが突如包まれてしまった。彼方の尊き存在に。
何を賜ったか定かではないが、少女の心に暖かな光が差したに違いない。差さないわけがない。
圧倒的な尊敬と崇拝を受けた存在。その言葉は容易にヒトの心に入り込んでしまう。
そして有無を言わさず、意味を理解することも出来ずに、満たされてしまった少女の心象は如何なモノだったのか。
偽りの悦びを覚えた自分を。賜った言葉に嘘はなくとも。それを欲しかったのは、誰からだろう。
まるで裏切りだ。頑健な身体を貫いて、深い罪悪感に少女は打ちのめされていた。


 違う…!!すぐに、すぐに私は気付いた!!違うって!!これは違うって分かったのに!!!わかった、のに…


そう思い繕うことが、どこか後ろめたくて。
後ろめたく思うほど、誰かに謝りたくなって。


どちらにせよ、その意志を折られた。
虚脱に塗れた肢体こそ、認めてしまった明らかな証拠。
そのことが少女にとって、本当に、どこまでも、悲しかった。


男にはツキがあった。隠していたわけでもないこの手札。腕の負傷を癒した一枚が鬼札へと化けた。
少女は主導権を握りながらも、覆されたのだ。偶然、幸運、ラックの差で。窮地は窮地。そして、もはや窮する場所もなくなる。
少女はたった今、壁にぶつかった。


今度こそ差し伸べられたその手を。私は受け取るはずだったのに。
胸を張って、そうだと言える。そのために。
だけど受け取ったその手は貴方じゃなかった。なのに私はホッとして。
取り戻すしか、ない。過ちは。せめてこの手で。
そうだと。『仲間』だと、胸を張って言う私の為に、アイツじゃない私の為に。



座することもままならず、横たわる。
せめて睨む。右腕と男を。僅かに赤みの差した瞳に、敵意を込める。男は動じる様子もなく、少女に断絶の具現を突き付け迫る。
このまま直撃すれば胴体と頭がサヨナラしてしまう、恐怖のスタンドがもう、すぐそこ。
しかし少女は避ける。身体を動くことなく、代わりにとなかりに石造りの床が悲鳴を上げた。
少女は男を眼下に納める。高い所は少しだけ気分を良くする、訳もなく。身体の調子も一緒に上がれと投げやりに願うだけだ。
少女は昇る。大地を操り、石床を突き破り、大地のおだち台を作り上げる。昇降機のように、高度をあげるそれに乗っかることで直撃を免れた。
気味の悪い音が、小気味良く四度鳴り響く。


傾いた。当然の結果だ。放っておくわけがない。男にはその理由がない。
能力を以て石柱を破壊してしまうことなど、誰にだって想像できる。
ならば、聡明な少女がそこに気付かないわけがない。


駆け出してはいた。不確かな足取りだけが確かな感覚。忌むべきその身、動ける自分は少しだけ。自身の狭量さだけ自由が還って来た。
そのまま投げる。身を投げる。己そのものを投げ放つ。
開けたら閉める扉のように、投げては返すキャッチボール。そう、これは当たり前のこと。二つで一対、一蓮托生。
返って来た玉を、いや魂を投げ返すことなど至極当たり前のこと。投げ出したくない想いがあるからこそ、その身を投げ出せ。


身体は放物線の頂点に達していた。
もう、これが臨界点、高さも肉体も。ならば今この瞬間こそ、少女は有頂天のお嬢ちゃん。
それも一瞬のこと。放物線は下るモノ。最上の天に上は無い。永遠の絶頂など在りはしない。
首を括ったのだ。自ら吊ったその身体、後は自重で絞まるのみ。委ねる縄すら持たざる者、孤独に討ち果て、大地に朽ち果て。その瞬間まで座して待て。


 ―出来るワケがない―   ―出来ないワケがない―
扉を開けろ、外へ詰め出せ。扉を閉めろ、内へ押し込め。


少女は、乏しくない。
命を天秤に乗せ揺れ動かないほど、乏しくなんてない。





そして、全てが成就することを強く願わないほど、乏しくなんて、なかった。



地に降り立つ。いや、地が湧き立った。
浮遊感は消滅する。少女の足元には見覚えある、おだち台。
石の海を突き破り、またしても作り上げた陸の孤島。


―――少女は駆け出す、孤島の浜辺。
           ほんの数歩。わずか数瞬。
   もう一度、いや何度でも。
     海へと漕ぎ出せ、空へと飛び立て。
             孤島を越えて、孤独を越えて―――


跳ぶ。力の限りに。現れるであろう次なるステージに向かって。
放物線は頂点のまま。最高度のまま着地。地に足付けるは、お手製石柱。
そのまま駆ける。またも跳ぶ。何度も何度も繰り返す。
一つ一つ、いや一段一段高さは増していく。
大掛かりなそれを造って走って跳び移る。

だがしかし、爆音が響く。爆音が響く。
石柱はけたたましく悲鳴を上げる。飛び散る瓦礫、湧き立つ粉塵。しかしそのいずれも掻き消して、突き進む影が一人。
砂煙から飛び出し、目線を動かすも、少女に二、三先を行かれていた。挙句、破片の幾つかを身に受けてしまっている。知ったことか、そう言いたげに追走の脚は緩めない。
水を得た魚を思わせるほど速い。追い付けないことが理解できないほど愚昧でもない男は、歯噛みしつつ立ち止まった。
そして、今度は地響きが、瓦礫共の騒音を飲み込んだ。

石柱が立つ、並び立つ。折れてなお、立ち上がることを声高に叫ぶように。次々と。
それは階段だった。天上へ征くための、逆巻く渦状階段。
渦。連立するこの軌跡は、そう呼ばねばならない。
しかし、一巡だけだ。石の海に描く渦、その軌跡は一周限り。
この空間の中心。その最高度のための。
少女は、その一巡限りの渦紋を駆け抜ける。なぞっていく。
だが、やはりこれは渦だった。流れに吸い寄せられるのは少女だけか、いや違う。
流れに遡上し、最短距離を突っ切る者も、一人いるのだ。
各々の終着駅は違う。
少女は天上。男は地上。
流れに乗らなければたどり着けない彼方。流れに乗らずともたどり着ける此方。
先んじたのは、男だ。
下克上を成すのも、男だ。
破壊の権化は、確かにそこを通り抜けた。
それも最初は渦の様に低い呻き声を立てるだけだった。
しかし、過ぎ去った瞬間、呑み込まれたモノたちが、混ざりぶつかり爆ぜて響く。
最上段の石柱、その足元は刈り取られた。
少女がそこに跳び移るべく、宙に身を委ねた瞬間のことだった。
もはや、浮き足立つしかない。


しかし、少女は動じない。
落ちるしかない今、動いていないワケがないこの状況で。
動じることなく、動く。もう既に、風を切って更なる高みへゲインしている。
確かに足場は失った。ならばどこに、地に足を付けたというのか。


『勇気』がその手に納まっていた。
それは一体どこに突き刺さっていたのだろう。どこに置いて来たのだろう。
『要石』の上に両の脚でしかと立つ。
地に足を付ける。それを空中で成す矛盾を一度、少女は成したはずだ。



既確認飛行物体ロケットは空を舞う。緋を噴き上げ突き進み、天井へと、もう激突する。
そう、足場は『二つ』あった。


地を蹴って、目指すは天蓋。箱庭の一枚天井。
ロケットは突き抜ける。緋色の煙霧は忘れ物。立ち込めぬ煙は細く棚引く夕日の残光。
剣を掲げ勇気を胸に。天は衝かれた。刃を喰い込ませ、天に問う。是が非か答えよ、天道是非。


問わねばならない。問わずにはいられない。
少女は今この瞬間、きっと誰よりも、勝利を欲した。
その先にあるモノのため、天は本当に正しい者の味方なのか、答えを知りたかった。
しかし、この少女にそれを問う権利はあるのか。天地人を統べると憚ることなく宣っては、その身で体現した。
まして今、天に剣を向ける暴挙に出るこの少女に、返って来る答えなど。


刃は沈む。天井の石の海に。
飛沫に代わり破片散り、波風に代わり罅走り、そして留まる。
覆せなどしない。この石の海、それを只一人の力で。そして、その身はもはや天人に非ず。
汚れきったその身形が既に死出の旅路に足を踏み入れている。
衣裳垢膩。
身体臭穢。
脇下汗出。
そして、下楽本座は。
五衰を幾つ満たしただろう。完全なる死相まであと幾つか。
嗚呼、天道是非は無慈悲に終わる。衝き立てた剣に吊られ、またも立ち止まる。




天はきっと少女の味方になってくれない。
ああ、そうか。だからこそ彼女は欲するのか。
きっと味方でいてくれる、そう信じていたい人がいるのだから―――




―――折れないのだ。
たとえ、天と地に挟まれても。
その身を槌に打ち付けられても、楔として押し潰されても。
足元から伝播する衝撃が全身を駆け巡っても。骨にヒビが入るか、あるいは折れるほどの衝撃も
―――折れないのだ。


沈めたのは己そのもの。剣でも石でもない、この身こそが波紋を呼ぶ、一刀にして一投。
亀裂が駆け、それを追い越すように瓦礫が弾け飛ぶ。先の名残の、その全てを砕いて散らす。
覆す。この石の海を。たった一人から旅立つために。たとえ、その身が天人に非ずとも。


石の天蓋は砕かれた。そこにはぽっかり一つの穴が空いている。
しかし、その穴はもう、穴でなくなる。全てに穴を、空け切ってしまえば、穴の境目さえも穴に、残るは空。そして少女は空に。
身体が痛い。心はもっと痛い。アイツに無茶させないために、無茶している自分がバカらしい。そんな可笑しさに笑えて、震えた心身がまた痛い。
ロクな手段が思い付かなかった。当たって砕けるしか思い付かない。少女は賢いのに、ややバカが移った。
限界を彷徨う身体は熱を抱き続け、それでも陽の暖かさを一身に感じている。お天道さんが、是非もない、とぼやいた声が頭に響く。
その通りか、しょうがないことだ。優しさに絆されてしまったんだから、脆くもなる。
そしてその脆くなった処から、砕かれていくのだろう。殺されていくのだろう。無慈悲な世界だと、少女は溜息を漏らす。
ただ、それでも願わずにはいられないのは。



アイツの優しさだけは、どうか砕かないでほしい、と。



泡沫の夢想は、重力と現実に引きずられ目を覚ます。
身体を屈め、軋む膝を折り、そこに手を沿え、右脚を振り被る。四股を踏むように。一撃で全てをほがし抜くために。
加速に伴わせ、更に振り被る。乱雑に髪が靡く毎に、更に更に振り被る。憚る目線もないと思えば、更に更に更に振り被る。
その御脚を以て、天上より、天井を刺し穿つ。
脆くなった心が、最も脆い処を崩すのもまた道理か。


グリーン・ドルフィン・ストリート重警備刑務所『医療監房』
その天井はこの瞬間、完全に破壊された。


瓦礫の雨が空より下る。引き連れ躍り出る少女は獰猛な笑みを浮かべて。
少なくとも男にはそう見えた。嗤い返すまでもない。恐れるに足りない。
なるほど。天井そのものを崩し落とした石の雨、確かに逃げ道はない。だが、そもそも逃げる必要もない。
それほどまでに薄い。少なくとも不可視の暴虐にとっては。


ただ、呑み込むのみ。
降り頻る瓦礫の中、事も無げに腕を組んで男は佇む。
その頭上に傘を差す。それは色も無い、持つ必要すらない。そこにあるかもわからない。
もう待てないと、石の驟雨が質量の限りを尽くし地を打ち付ける。
けたたましく掻き鳴らされるそれらは、少女決死の咆哮。あらん限りの鬨の声。
男はただ、聞き流す。
動じず、身じろぎすらなく、だと言うのに、暴虐の異音が雨音を締め括った。決死を以ても、その死は男に届かない。余りにも無常。



だがしかし今日は良く降る日だった。
太陽を遮る天井が振り尽くしてもなお、未だ曇が差したような暗がりの中。
そう、影が落ちている。これから落ちるモノの影が、もう既にそこに落ちている。
男は見上げる。全てに気付いた時の一瞬は、きっとどこまでも果てしない。



柱が傾く。押し寄せる。



少女が敷いた、天井破りの直通階段。渦を描く石柱群、男は正にその渦中、渦の真っ只中。
撃ち落とすべく追ったのだから、至極当然のこと。あるいはそれも少女の思惑の中か。
故に四面楚歌、八方塞がり。囲え囲え、カゴメカゴメと、全ての柱が男へと差し迫る。
そう、全ての柱が、だ。意志を持っているかのように男目掛けて殺到する。全ての、柱が。


いつの間にか、男は震えていた。
それはもうバカみたいに、震えが止まらない。震えている事実に男も理解が追いつかない。


石の雨は暗幕に過ぎなかった。幕開けと奈落が繋がるこの柱の雨こそ終劇を呼ぶ決殺の舞台。
ヒトの丈の何倍もの柱が幾重にも重なる。ぶつかったかと思えば、滑らせる。ぶつかったかと思えば、砕き合う。
柱傾き岩降り注ぐその雨は、たった一人の血の雨を望む地の雨。


その渦中に曝されて、その殺意を向けられて、震えぬ者などいやしない。


最初の雨粒が滴る。
雨粒とも滴るとも言い難い、巨大な石柱が男の頭ごと地を穿つ。男の異能に阻まれてさえなければ、だが。
天下る絶望は、男の頭上を真一文字に叩き割ることなく、その身を砕いた。
だが砕かれるのもまた、仕事の一つ。
そう言わんばかりに、絶望が地を跳ね砕け弾け飛ぶ。
灯台下暗し、とでも言うべきか。頭上の守りに特化させたのがケチの付け始め。
カタチも大きさも不揃いの瓦礫が男の身体を抉り、減り込んだ。
千鳥足で踏鞴を踏む以外、男は動くことすらままならない。


しかし、震えるその身を奮わせられぬ程、男は弱くない。
今の一撃がきつけになったか、迫り来る絶望の痛みの何と小さいことか。
痛みなど、何を恐れることがある。一から十から百から千、積み重ねて届くなら幾らでも貰うことだろう。それで届かないのだから、悉くを痛みに染めるのだ。
自身だけが痛みに染まることのない、このスタンド。その異能を以て、あのお方の痛みを取り除く。差し出がましく、憚りある願い。それでも願わずにはいられない。
ならば、この身にそれ以上の恐れなどあるものか、あるのは畏れのみ。
畏怖が恐怖を噛み砕く。恐怖の味をその舌で絡め取る。
畏れるだけの心は、震えを忘れた。それにも関わらず、その身は未だ震え続けている。
ならば、この恐怖の震えは嘘を付いている味。初めから震えてなどなく、揺れているのだとしたら、いや揺らされているのだとしたら。
今更、どこを揺らしているなどと口にするのは無粋だ。あの無数の柱が倒れ出したのは何故か、柱はドコと繋がっている。そんなモノ一つしかない。


意識が舞い戻った。
ほんの一瞬の逡巡、未だ抉られた感覚が新しい。視界がスローで流れる。死が軒を連ねる今だからか、あのお方が時を止めて下さっているからなのか。
しかし依然動くことは出来ない。強烈な揺れがその身体を縛っていた。
地震。
柱の倒壊も、臆したかに思えた錯覚も、全て少女が引き金を引いていた。天より大地の槍を降らし、地より天仰ぐ者を捕らえる、この天と地の挟撃こそ少女が組み敷いた布陣だったのだ。
ならば、もう、出し惜しみは出来ない。突き破る。
最後の手札にして、常套手段。
天を仰ぐ者が、天を征けぬと思い込ませたのだから。全てを等しく制するこの力を、見下す者のその喉元に突き付ける。それが出来る。
たとえ一瞬、この地の雨に打たれることになっても。在るがままの、不可視の暴虐を視せてや―――



弾かれた。


地の胎動。ただ捕らえるだけでは能がない。殺すと言うなら焙り出せ。局所的かつケタ違いな振動に、いよいよ耐え切れず石床が隆起する。
噴出した大地の上に立っている者はいなかった。そう、男の足元も例外ではなく。地の雨が降り頻る傘の外へ、その身体は飛び出されてしまった。
憐れにも、その身体は緩衝材になる。
むき出しの岩肌と横倒しの石柱、二つの間に割って入った。まるで守るように。
男にそんな意図などある筈もない。ただ挟まれるべくして挟まり、もう潰される。


ただ、男が護りたかったモノは勿論こんなモノではない、遥かに崇高なモノで。
身を挺して庇う形になったモノ共は、男の存在など決して意に介するなんてなくて。
ヒト一人が挟まったところで、岩肌は削れ、石柱は砕けてしまう。至極当然の答えこそ。


男がどう足掻こうと、何一つ、変わることは無いという事実。


嘲笑れた。
誰からも必要とされない存在だと、この世で一番安い命だと、セセラ笑った!
この命に価値を見出した、あのお方諸共、世界が嘲る!!
黙れよ世界!!私を嘲けるのは只一人!!世界を靡かせる、あのお方だけだ!!!


暴虐が風を巻く。
その動きはまるで点と点のように、隔たりを跨ぐほど速過ぎた。過ぎゆく瘴気の風だけが、結ばれた線のカタチを知っている。
この瞬間が切り取られるならば、その一枚には男しか映っていない。周囲の有象無象を一瞬で粉微塵に変えたのだから。
たった一つのモノしか、彼は必要としない。ただ、己こそが忠義を果たす、その意志だけが。


だが、それはやはり切り取られた瞬間のことでしかない。揺れが強すぎた、そんなつまらないほど純粋な暴力に潰されて。一つ先の瞬間、男の身体は地に抱かれる。


そこから先は惨いモノだった。
無色の傘が身を包み込むも、揺れが身体を引きずり出す。ミリでもはみ出せば過剰圧殺。運良く凌げど瓦礫散弾。
倒れ込んだ今、それはもう面白いほどに。傘を出て来ては戻るを繰り返す、まるでバカの一つ覚え。
賢しくも、無様にうつ伏せて地に張り付き揺れを耐え凌ぐ。
それも叶わない。
傘の広さを忘れて大の字になって無事で済むものか。はみ出た手足指先が血と地で塗れ、小さくなる。
咄嗟に戻し何を逃れるワケもない。
触れるな、と言わんばかりに隆起した大地が顔面を殴り抜く。いや、顔だけに至らない。全身各所したたかに、ここから立ち退け、と執拗に。
殴られ跳んだ意識さえ、転がる拍子に削り潰され目を覚ます。擦り切れぬ限り、擦り減らされ続けられる意識。寝ても覚めても、広がる地獄。見果てぬ絶望。
世界が男を拒絶した。


それでも、止まない雨はないのか。いつしか地の雨は上がっていた。


だから男も世界を拒絶する。
止まない雨はない、そんな慰めの言葉を贈るこの世界を。
だって、また降っている。
地の雨に続けと、正真正銘の雨が滑り落ちて来た。雨は止まない、ただそれだけだった。
あるいは、これが慈雨なのだろうか、辛苦を耐え抜いた男を洗い流す恵みの雨なのか。
男はそうは思わない。思えなかった。雨粒が土埃と混じり汚泥となって絡み付く。潰れ弾けた身体のかしこが気が触れたと思う程の熱感と激痛。
せめてこの雨も降り続けさえすれば、汚泥も痛みも、あるいは何もかも、水に流したのかもしれなかったのか。
そうはならない。
それが降るから、雨は止んだ。闘いは止まない。止まない雨の最後の一滴。超々ド級の要石が滑落する。少女は身を乗り出してでもこちらを見据えている。
見下すためか、外さないためか、男は知らない。だがそんなことはもう、どうでもいい。
決着が着く。
男は立ち消える。
痛ましい己の身体を晒すのは、お目汚しになる、と皮肉るように。
それに、お目汚し程度で済ませるつもりもない。これから真っ赤に汚れるのだ。


止まない雨に打たれるのは、お前だ。
雨を止められずとも、お前如きなら止められる。
そして、あのお方ならば、世界を手繰るあのお方ならば、雨すらも止め、やがては止ませてしまう。
そして、お前はこれから降る自身の雨さえも、止めることが出来ない。
お前に、この雨が止めることが出来るのか?


その音は雷か。それ以上に野太く喧しく、命を寄越せ、と大地に吠える。
だが、男にとって、その音さえも今や膜壁の向こう側。地に叫べど、その身は既に地を離れた。
二つは相剋する。
しかし相剋と呼ぶには余りにも一方的で、そして余りにも一方通行。
潰し合うことなく、ただすれ違い、不可視の暴虐の咢にかかった。
互いが互いを違え違える孤独と孤独の蠱毒の果てなど、ただただ孤独だ。


しかし、そうはならなかった。
孤独と孤独はまだ、いた。


男はただ見えなかった。ただ感じなかった。だから届かなかった。だから通り過ぎて行った。
何モノであろうと、それはきっと、あのお方でさえも、過ぎ去った後に気付くことだろう。
何もかも寄せ付けず、何もかも受け付けない。近づけば消し去られ、遠ければ自らを消し忍び消し去る。
受容なき拒絶。
その背後には、雨に打たれる情景も、追い遣られる姿も、窺い知ることは出来ない。いやそもそも、そこにそんなモノなど何も無いのか。
一体、どんな切除が男を動かしているのか、誰も彼も知ることは禁じられた。
只一人を除いて。そしてその一人の為に。


血の雨を、降らせるのだ。


パシャ、雨音に混じって聞こえた。
桃の果実が、桃の葉が、丸い帽子が、その音を作った。
頭上華萎。これが最後なのかもしれない天人の五衰の一つが満たされる。


たった一度の交差で、男は少女の右を、奪い去った。
全てを奪い去るのに、何度すれ違うことになるのだろう。いやこの男は永遠にすれ違い続けるしかない。
誰も彼も彼女もモノも命なきモノ共すら、すれ違い消し去って行く。その十字架から逃れることは、きっと叶わない。


拒絶した世界を男はただ拒絶し返すように。






「あー?完全に消えたのかい、これは。」



同じ時刻なのかそうでもない時刻、妙齢の女性が軒下に座して竿を垂らしていた。
仗助の腹に銃弾をブチ撒けた張本人、八坂神奈子。ガトリング銃も、もはやトレードマークの一つのようだ。
古めかしい装飾の彼女のイメージに溶け込むほど馴染むのもまた、過去に頓着し過ぎない神としての気質か。

 随分とハデにやっているけど、二人だけか。どうやら、運良くここに先客がいたようだね。

すぐに中に入らず、彼女は内部の情報を漁っていた。スタンド『ビーチ・ボーイ』の糸を可能な限り潜行させた。
動きと音をサーチ出来るスタンドの特徴を活かし、簡単な状況を掴むことが出来た。
まどろっこしい手段を用いたのも、外装に風穴が設けてあった異常を鑑みてのことだった。


 そして、ようやっと動き出したか。てっきりオッちんだかと思ったよ。


竿を垂らしたまま、神奈子もGDS刑務所に押し入る。向こうで役者が揃うのも、そう間を置かないだろう。
果たして何人残っているか、ほくそ笑む。全員残っていたとしても一向に構わないし、サシでやりあうのも一興だ。


「さあ、総取りの始まりだ。漁夫の利は掴ませてもらおうよ、天子、仗助。」


間に合うといいわね、悪びれもせず一人知った風な言葉を最後の無駄口に彼女もまた渦中に赴く。
置き去りにした言葉も、静かに雨音の鳴き声に掻き消され、止まない雨だけが未だそこに残り続けた。


【C-2 GDS刑務所/昼】

【八坂神奈子@東方風神録】
[状態]:体力消費(小)、右腕損傷、早苗に対する深い愛情
[装備]:ガトリング銃@現実(残弾70%)、スタンドDISC「ビーチ・ボーイ」@ジョジョ第5部
[道具]:基本支給品
[思考・状況]
基本行動方針:主催者への捧げ物として恥じない戦いをする。
1:『愛する家族』として、早苗はいずれ殺す。…私がやらなければ。
2:洩矢諏訪子を探し、『あの時』の決着をつける。
3:GDS刑務所の戦場に乱入する。
[備考]
※参戦時期は東方風神録、オープニング後です。
※参戦時期の関係で、幻想郷の面々の殆どと面識がありません。
 東風谷早苗、洩矢諏訪子の他、彼女が知っている可能性があるのは、妖怪の山の住人、結界の管理者です。
 (該当者は、秋静葉、秋穣子、河城にとり、射命丸文、姫海棠はたて博麗霊夢、八雲紫、八雲藍、橙)
※仗助の能力についてはイマイチ確信を持っていません。


東方仗助@ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイヤモンドは砕けない】
[状態]:腹部に銃弾貫通(処置済み)
[装備]:なし
[道具]:基本支給品×2、龍魚の羽衣@東方緋想天、ゲーム用ノートパソコン@現実 、不明支給品×2(ジョジョ・東方の物品・確認済み。康一の物含む)
[思考・状況]
基本行動方針:殺し合いの打破
1:???
2:霊夢と紫を探す・第一ルートでジョースター邸へ行く。
3:吉良のヤローのことを会場の皆に伝えて、警戒を促す。
4:承太郎や杜王町の仲間たちとも出来れば早く合流したい。
[備考]
※幻想郷についての知識を得ました。
※時間のズレ、平行世界、記憶の消失の可能性について気付きました。
※比那名居天子との信頼の気持ちが深まりました。
※デイパックの中身もびしょびしょです。

※仗助が現在何をしているかは次の書き手の方にお任せします。


【比那名居天子@東方緋想天】
[状態]:翳り出した小さな『光』、霊力消費(極大)、肉体疲労(大)、右腕内側から出血、左頬出血、両腕両脚にヒビ、生乾き、身体右側にガオン(※)
[装備]:木刀@現実、LUCK&PLUCKの剣@ジョジョ第1部、百点満点の女としての魅力
[道具]:基本支給品
[思考・状況]
基本行動方針:殺し合いに反抗し、主催者を完膚なきまでに叩きのめす。
1:男(ヴァニラ・アイス)を殺す。
2:霊夢と紫を探す・周辺の魔力をチェックしながら、第一ルートでジョースター邸へ行く。
3:これから出会う人全員に吉良の悪行や正体を言いふらす。
4:仗助は信頼し合う『仲間』だったのに…
5:殺し合いに乗っている参加者は容赦なく叩きのめす。
6:吉良のことは認めてない。調子こいたら、即ぶちのめす。
7:紫の奴が人殺し? 信じられないわね。
[備考]
※この殺し合いのゲームを『異変』と認識しています。
※東方仗助との信頼の気持ちが深まりました。
※デイパックの中身もびしょびしょです。
(※)最後に受けたクリームによるダメージの程度は次の書き手の方にお任せします。

【ヴァニラ・アイス@第3部 スターダストクルセイダース】
[状態]:疲労(大)、体力消耗(大)、左腕切断、、胴骨損傷(大)、両手両足の指が不揃いに破裂、全身に切り傷と衛星の貫通痕(ほぼ完治)
    全身の部位各所に落石による圧迫、破裂、出血
[装備]:聖人の遺体・右腕@ジョジョ第7部(ヴァニラの右腕と同化しております)
[道具]:不明支給品(本人確認済み)、基本支給品
[思考・状況]
基本行動方針:DIO様のために行動する
1:少女(比那名居天子)を殺す
2:戦果を上げるまでDIO様の前に現れない決意。
3:地下にあるものとプッチを探す
4:ジョースターを始め、DIO様の害になるものは全て抹殺する
5:それ以外の参加者は会ってから考える
[備考]
※参戦時期はジョジョ26巻、DIOに報告する直前です。なので肉体はまだ人間です。
※ランダム支給品は本人確認済みです。
※チルノ達からDIOの方針とプッチのことを聞きました
※ほとんどチルノが話していたため、こいしについては間違った認識をしているかもしれません


147:Fragile/Stiff Idol-Worship 投下順 149:ALIVE
147:Fragile/Stiff Idol-Worship 時系列順 149:ALIVE
124:BBLLAASSTT!! 東方仗助 151:緋想天に耀け金剛の光 ――『絆』は『仲間』――
124:BBLLAASSTT!! 比那名居天子 151:緋想天に耀け金剛の光 ――『絆』は『仲間』――
124:BBLLAASSTT!! 八坂神奈子 151:緋想天に耀け金剛の光 ――『絆』は『仲間』――
097:進むべき道 ヴァニラ・アイス 151:緋想天に耀け金剛の光 ――『絆』は『仲間』――

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最終更新:2016年10月23日 03:49