ゆかりの寺社(御朱印視点)
引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。
【おススメ度 ☆☆☆☆☆】御朱印帳があります。(売切御免)
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
千葉県 | 橘樹神社 | 茂原市本納738 | 墓所 |
神奈川県 | 走水神社 | 横須賀市走水2-12-5 | 入水 |
【おススメ度 ☆☆☆☆★】ゆかりの御朱印が頂けます。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
千葉県 | 蘇我比咩神社 | 千葉市中央区蘇我2-2-7 | 侍女 |
千葉県 | 姉崎神社 | 市原市姉崎2278-1 | その他 |
千葉県 | 玉崎神社 | 旭市飯岡2126-1 | その他 |
千葉県 | 島穴神社 | 市原市島野1129・1130 | その他 |
千葉県 | 人見神社 | 君津市人見892 | その他 |
東京都 | 妻恋神社 | 文京区湯島3-2-6 | その他 |
東京都 | 浅間神社 | 江東区亀戸9-15 | 漂着 |
東京都 | 寄木神社 | 品川区東品川1-35-6 | 漂着【荏原神社にて拝受】 |
神奈川県 | 吾妻神社 | 中郡二宮町山西1117 | 漂着 |
静岡県 | 焼津神社 | 焼津市焼津2-7-2 | 野火の難 |
愛知県 | 入海神社 | 知多郡東浦町緒川屋敷壱区48 | 漂着 |
滋賀県 | 奥石神社 | 近江八幡市安土町東老蘇1615 | その他 |
三重県 | 忍山神社 | 亀山市野村4-4-65 | 生誕 |
【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
茨城県 | 橘郷造神社 | 行方市羽生 | 漂着 |
千葉県 | 吾妻神社 | 木更津市吾妻2-7-55 | 漂着 |
東京都 | 吾嬬神社 | 墨田区立花1-1-15 | 漂着 |
神奈川県 | 小野神社 | 厚木市小野428 | 野火の難 |
神奈川県 | 大沼神社 | 相模原市南区東大沼2-10-5 | 野火の難 |
神奈川県 | 深見神社 | 大和市深見3367 | 野火の難 |
静岡県 | 草薙神社 | 静岡市清水区草薙349 | 野火の難 |
生誕
忍山神社 |
醍醐天皇延喜5年(905)勅命により撰修された「延喜式」神名帳に登録された式内社である。明治41年村社能牟良神社他近隣の20 社を合祀。崇神天皇7年(紀元前91年)の御代に勅命をもって伊香我色雄命に猿田彦命を鎮座せしめられた。伊香我色雄命の子、大水 口宿祢の子孫80代相継いで神主となり明治に至る。垂仁天皇御代に皇女倭姫命がご案内役となって天照皇大神の鎮座の地を求めて大和 の国から忍山に御遷幸になり半年御鎮座されたその跡をかしこんで大神を奉祀した。景行天皇御代に王子日本武尊は東征に際し忍山神社 に立ち寄られ神主忍山宿祢の長女弟橘媛を妃とされ媛は東征に従われ相模の海が海神の怒りで荒れたため入水してその怒りを鎮められた と伝承されている。大正天皇6年10月鎮座2000年祭が斎行された。毎年10月の例祭には荒魂をなぐさめる為傘鉾が町内巡行され る。昭和27年亀山市指定文化財(無形民俗文化財)に指定。 |
三重県神社庁 |
野火の難
小野神社 |
この神社は、延長五年(九二七)の「延喜式」巻九に「相模国式内社の内愛甲郡一座小野神社」と書かれています。 現在の拝殿は、嘉永元年(一、八四八)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和四十三年に鉄板葺に替えられました。本殿は拝殿 よりも一メートルほど高い地面に神明造りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閑香明神社、村の鎮守なり。延喜式に載りし 小野神社、当国十三社の一にて祭神下春命という」とあります。 明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊も加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火の焼きう ちの苦難にあうという「古事記」の記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。 この神社は、建久五年(一、一九四)愛甲三郎によって再興されたとも言われています。愛甲氏の本家の横山氏は、小野妹子の子孫と伝 えられ、愛甲氏の家系の信仰は厚く、特に江戸時代には、愛甲姓の武将の参詣が記録されています。 |
小野神社御由緒 |
大沼神社 |
第十二代・景行天皇の皇子であらせられる日本武尊が御東征の時、大沼にて災難に遭われ、この時、鎮の神として日本武尊により勧請さ れたと伝えられている。 又、建武元年(一三三四)南朝の忠臣・小山田小太郎の敬神の念篤く、「相模国大沼弁財天」を守護神として出陣の折、欅製の木版を作製 したものが起元であるとも伝えられている。 |
『神奈川県神社誌』 |
※境内石碑に「大沼は遠く日本武尊東征の砌り火難に相遇されし地」とあるとされるが未確認。
深見神社 |
人皇第二十一代・雄略天皇二十二年三月の創祀と伝えられる。延喜式内社に列し相模国十三座の一に数えられる。 深見は『和名抄』所載の布加美であって、古は深水と書き相模原の東辺、境川流域一帯に亘る地を総称した。太古、この付近一帯は相模 湾が深く湾入し、舟筏を以て交通し、今ここを古深見入江と仮称している。 当社の縁起によると武甕槌神は東国鎮撫のために常陸国・鹿島にあらせられた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子・倉稲 魂命、暗龗神二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起こった 所以である。今境内にある御倉稲荷社は両神を祀る所であり、里人は農業の神と敬っている。 景行天皇の御代、皇子・日本武尊が御東征の時に、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出された と言う。今郷内にある薙原、石楯尾、御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝承されている。 当社に対する尊崇は篤く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から、更に降つては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した太田道灌は、 その出陣に際して社前に戦勝を祈願し、坂本小左衛門重安は、徳川家康の大阪の陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進、 (鹿島田と言って今に残る)徳川幕府の寺社奉行・坂本内記重治はしばしば参詣して社殿を造営し、「相模国十三座の一深見神社」なる社 号標を建立した。 明治六年十二月に太政官布告によって郷社に列せられ、明治四十三年には、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し、我国建国史上御縁 り深き二神は御同列に奉斎され、深見神社として御神徳益々赫かしく参詣者の数も多い。 |
『神奈川県神社名鑑』 |
焼津神社 |
焼津で敵の火攻めにあった時、日本武尊は妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を守りながら戦いました。 戦いの後、さらに東に進み走水(現在の横須賀市)までやってくると、海が荒れて船で進むことができませんでした。弟橘姫が「私が海 の神を鎮めましょう」といって「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも(燃えさかる炎の中で 私の名を 呼んで気遣ってくれた あなたよ)」の歌を残し海に身を投げると海は静まり日本武尊は無事対岸に渡ることができました。 焼津では妻を守り、走水では夫を守り、互いを想いあう夫婦の愛の物語が古事記には描かれています。 弟橘姫が海に身を投げてから数日後、海岸に弟橘姫の櫛が流れ着いたという言い伝えがあり、今でも8月のお祭りでは「北の御旅所」と いう所で櫛の形に作った餅がお供えされています。 |
焼津神社 |
草薙神社 |
景行天皇第二皇子の日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国に行く途中、この地で逆賊が起り尊を殺そうとして原 野に火を放った。 尊は佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を振り草を薙ぎ払ひ火を逆賊の方へなびかせ 尊は無事に難をのがれた地を草薙という。 その後佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名稱を変更になり草薙神社に神剣として奉られる。 今より一八六〇余年前である。 |
草薙神社御由緒 |
入水
走水神社 |
走水神社は、12代景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)二柱をお祀り しております。 景行天皇即位40年、東国の騒動を静めるため日本武尊にその鎮定を命じました。 勅命を奉じて日本武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より神宝の雨 叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ)と火打袋を授けられ、東国に東征の軍を起こされました。途中、静岡(焼津)において賊にだまさ れ火攻めの難に遭遇されましたが雨叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したといわれ、これよりこの神宝を草薙 之剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれ、以来熱田神宮の御神宝となっております。 日本武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。 ここに、御所(御座所)を建てました。(現在の御所が崎といわれています) 走水の地において、軍船等の準備をし上総に出発するときに村人が日本武尊と弟橘媛命を非常に慕いますので、日本武尊は自分の冠を 村人に与えました。村人はこの冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てました。(走水神社の創建です) 日本武尊は、上総国へ軍船でいっきに渡ろうと船出されましたが、突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進むことも戻るこ ともできず転覆するかの危機に、日本武尊に付き添ってこられた御后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心の なせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしき みはも」と御歌を残し、海中に身を投じられました。たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国 に渡ることが出来ました。以来、水走る走水と言われております。 上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて大和に帰る途中、碓氷峠から遥か東方に光る走水の海の輝きを望み、その海に 身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」と嘆き呼びかけられたという、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」 と呼ぶようになったといわれております。 奈良時代の初期に編纂された『古事記』『日本書紀』にも記されております。 また、弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着きました。村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛命の御所があった御所 が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としましたが、明治18年に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42 年に走水神社に合祀されました。 |
走水神社 |
墓所
橘樹神社 |
当社は延喜式神名帳に上總國五座 長柄郡一座小 橘神社と記され、国幣小社に列し、畏くも景行天皇勅願の官社なり。 人皇第十二代景行天皇四十年冬十月、日本武尊勅を奉じて東夷御征討の際、妃弟橘比賣命海上より夫尊に代わって忠死せるを哀しみ、 海辺に漂着したる媛の御遺物たる御櫛を以て御墓を作らせ納め置き、御手づから墓標の代わりに橘の樹二株を植ゑ、祠宇を創立し給ひし が、其の後 天皇東幸の節、日本武尊と忍山宿禰とを相殿神として合祭せしめ給う。 故に当社の御祭神は已に由緒に記載せし如く、皇室の御系に拘らせ給ふを以て、殊に崇祀して尊厳と威徳とを欠かさらむ事を務め、社 殿の修繕・境内の風致一つとして注意を怠る如き事なし。然れども維新後時勢の変遷と共に自然古来の典式行はれざる所あり。今縁起其 の他の古文書等を按ずるに、往昔大社にして豊禮の盛んなる事明瞭なり。 明治六年五月三十日縣社に列せられ、後に縣令自ら官幣を奉り、祭典を執行せられたりき。後三年を経て、則ち明治九年六月二十八 日、弟橘比賣命の御墓は古来の遺蹟に付、煙減せざる様保存すべき事、内務省達の御主意、千葉縣令柴原和より伝達せらる。 |
橘樹神社御由緒 |
漂着
橘郷造神社 |
倭武尊(やまとたけるのみこと)が、東国征伐に船で相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)に渡るときでした。海が荒れ狂い、今 にも船が沈みそうになりました。女の人が船に乗っているため、海の神の怒りによるものと、弟橘姫は自らいけにえとなって、あらしの 海に飛び込みました。すると、荒れ狂っていた海が静かになり、倭武尊たちは無事たどりつくことができました。 それから何日かのち、弟橘姫の髪にさしていた笄(こうがい)が、霞ヶ浦に流され岸辺に打ち上げられました。流れついた笄を守るかの ように鳥が群がっていたり、その笄は羽を生やして飛んだともいわれています。笄の飛んでいったところを笄崎と名付け、神社を建てて 笄を納め、弟橘姫の霊を祀ったということです。 羽生や立花(橘)という地名は、こうして生まれたと言われています。 |
弟橘媛立像の解説 |
吾妻神社:木更津市 |
吾妻神社は、「通称・吾妻様」と呼ばれ地域の人々に親しまれています。祭神は、弟橘姫命を祀っています。敷地775坪の境内には本殿 (銅板葺神明造)、幣殿(銅板葺)、拝殿(銅板葺)が建ち並びます。社伝によれば、日本武尊が東征の折、相模から上総に渡るときに 荒れる海を見て、妃弟橘姫命が風波をしずめるために海中に身を投じられました。数日後妃の御袖がこの海汀に漂着され、これを収めて 祠を建立して姫を祀られたといいつたえられています。毎年7月の第2土曜日に行われる祭礼に多くの人が訪れます。 |
千葉県観光物産協会 |
浅間神社 |
その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷ご征討の折、相模から上総へ船で向うとき「こんな小さな海なら、駆けて跳び上がっ てでも渡れる」と大言壮語し、海を渡りました。ところが海の中程までくると突然暴風が起こり、日本武尊の船は漂って渡ることが出来 なくなってしまいました。その時、日本武尊に従っていた弟橘媛(オトタチバナヒメ)という媛が「これは、日本武尊のお言葉に怒った 海神の仕業だ」と言い、日本武尊の身代わりに自らの身を海に投じました。すると暴風はたちどころに止み、船は無事、岸に着くことが できました。 後に、弟橘姫の笄(こうがい)と櫛(くし)が奥湾に漂着しました。 そのうち、笄がこの辺り高貝(こうがい)洲(す)と呼ばれていた現在の亀戸9丁目(旧神社跡)付近に漂着したと言われています。 これをお聞きになった十二代景行天皇は大層愁いて、ここに笄を埋め、祠を立てて祀りました。当時の諸将が苦難の折に、この祠に参り 祈願すると何事も必ず聞き届けられたとも伝えられています。 大永七年、後奈良天王・室町時代(1527年)富士信仰の尤も盛んな時代に、里人たちは甘露寺元長に勧請し、霊峰富士山の御守護 神・木花咲耶比売を戴き、この笄塚の上に浅間社として創立し、ご遷座を成したとされています。 現在の社殿は、昭和二十年の東京大空襲にもその難を免れ、七十数年を経て現在に至っております。近年鉄骨の神社の多い中で、稀少な 木造建築ともなっています。 |
亀戸浅間神社 |
寄木神社 |
日本武尊東夷御征伐の砌、相模国の海中にて、南風烈しく吹き、御座船覆らんとする時、弟橘姫命、御船を救わんと海神の怒りを鎮めよ うと御入水さられた後日、船木等当浦に流れ寄り、此處に神靈を観請したと言ふ。兜島伝説、源義家奥州征伐の折、此處に馬を止め、当 寄木神社の由来を漁人にお聞きになり、自ら神を祭り軍の勝利を祈願しました。奥州平定の帰路に再び当社に詣でられて兜を奉納した。 以後この地は兜島と言われた。 亀の甲社のいわれ。明治の末、品川浦に大海亀が迷い込み漁師大勢で捕へたが、不幸にも独り繋ぎ綱を首に巻き付けて死んだ。この甲 を当時の小学生音楽隊を先頭にして上野博物館に寄贈し、此處に祠を建て靈を祭った。 |
寄木神社御由緒 |
吾嬬神社 |
抑当社御神木楠は昔時日本武命東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと、御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り 来て、御船危ふかしりて御后橘姫命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽、海上おだやかに成りぬれ共、御船を着くべき 方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋、忽然と現到る。御船をば浮洲に着けさせ、嶋にあがらせ給ひて、あ ~吾妻戀しと宣ひしに、俄に東風吹来りて橘姫命の御召物、海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊、大きに喜ばせ給ひ、橘姫命 の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり。尊神ここに食 し給ひし楠の御箸を以て、末代天下太平ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて、御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸 忽ち根枝を生じし処、葉茂り相生の男木女木となれり。神代より今に至りて梢えの色変わらぬ萬代おさめし事、宛然神業なり。其後民家 の人々疫にあたり死する者多かりしに、時の宮僧此御神木の葉を与えしに、病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って尊び敬ひぬ。今こそ此 御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに、如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共、 神徳の変らざる事を伝ふべし。共猶諸人の助けとならんと、略してしるす也。 |
吾嬬神社御由緒 |
吾妻神社:二宮町 |
吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。主神は弟橘媛命とし日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天 皇の第三皇子である。天皇にそむく蕃族を征伐するため東北におもむく途中三浦半島走水から海路上総に渡る時、暴風突如に起り、そこ で妻の命は夫にかわり海神の怒りを静め夫の武運を祈り海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。其の七日後に命 の御櫛が海辺に流れつき、埋めて御稜を造る。この前下一体を埋沢といい梅沢と同音である。又命の小袖が磯辺に漂いこれを取りて山頂 に祭ったと云う。その海岸を袖ヶ浦と云う。日本武尊は東北戦が終り帰路相模国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海を ながめ(ああ吾が妻)と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神体は木彫の千手観音で既に数千年星霜を経て現在藤巻寺に安置してある。源頼 朝幕府を鎌倉に創設するや、妻政子本社を崇敬すること浅からず。吾妻山全山と山麓田畑並に霜見塩田を寄附する。右大臣源實頼(實 朝?)も祈願の為建保六年に雄剣を奉納する。 |
吾妻神社御由緒 |
入海神社 |
祭神は弟橘媛命、応神天皇。 日本武尊が東征する時に、紅葉川から船に乗って出発し、相模の海で嵐にあった時に、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が入海し て、海が静まり、その媛の櫛が紅葉川に流れついたといわれる。(社宝の正宗の短刀と長船の太刀は町指定文化財) |
東浦町観光協会 |
侍女
蘇我比咩神社 |
千五百年前に遡る歴史 当社は、今から千五百年前から建てられていたといわれています。 古記によりますと、第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方を統一すべく勅命を受け弟橘姫を始め多数の家来を引 きつれ軍船に乗りて、 千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあいました。 このとき弟橘姫は「龍神の怒 りに触れた」とこれを静め和げんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じました。 そして日本武尊命は無事航海をつづけられた そうです。 蘇我大臣の娘 身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられました。 里人等の手厚い看護で蘇生する ことが出来、無事に都に帰りました。 又里人達は日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩せられ皇位を継承するに及ばな かった事を聞き及び、その霊をなぐさめんと社を建て神として祭りました。 この里人等の行為に深く感激した第十五代応神天皇は、特別 の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせました。 蘇我一族は、代々「春日神社」「比咩神社」を守護神とし ており、両神社の御分霊をいただき「蘇賀比咩神社」を建立しました。 「延喜式巻九神祇神名帳千葉群記載。」その徳は山より高く海よ り深く「春日様」「下總の国香取神明様」と下總の国の守護神として人々に敬神されました。 江戸時代以降 江戸時代には、徳川家康も敬神され10石を献上しました。 この所は江戸又上総、香取への街道の要所にもあたり参勤する大名また人々 の集まる宿場町であつたため参詣する賑わいをみせました。 明治五年社格郷社となり皇室、国家の守護となり皇族の尊宗をうけ参拝もあ り、御手植の松もありましたが、明治の大火事で神社も社宝、古文書、御手植の松すベて焼災してしまいましたが 今もって海難防止、民 政安定、家運繁栄、五穀豊穣、諸病消除、延命息災など神威をこよなくあらたかな神として近隣の人々に敬拝されています。 |
蘇我比咩神社 |
その他
姉崎神社 |
景行天皇40年(110)日本武尊(やまとたけるのみこと)御東征の時、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)で嵐に遭い、お妃の弟 橘姫(おとたちばなひめ)の犠牲によって無事上総の地に着かれた。 この宮山台において、お妃を偲び、かつ舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗弁命(しなとべのみこと)を祀ったのが創始と伝えられ る。 その後父である景行天皇がこの地を訪れられて日本武尊命の霊を祀られ、さらにこの地を支配していた上海上の国造(かみつうなかみく にのみやっこ)が天児屋根命、塞三柱神(さえのみはしらのかみ)、大雀命(おおさざきのみこと)(16代仁徳天皇)を合祀されたと いわれる。 御祭神のご神徳は姉埼神社への尊崇を高め、元慶(がんぎょう)元年(877)五月神階は正五位下勲五等、同年八七月正五位上を授け られる。延長5年(927)に纏(まと)められた延喜式神名帳にも上総国五社の一社として記載せられいわゆる式内社として有名にな った。 【後略】 |
姉崎神社 |
玉崎神社 |
玉﨑神社は、景行天皇十二年の御創祀と伝えられている。 天皇の皇子、日本武尊が東夷征討の砌、相模より上総にお渡りになろうとして海難に遭われた際、御后弟橘姫命(オキサキオトタチバナ ヒメノミコト)が「これは海神の御心に違いない」といって入水されたことで、無事、上総の国につくことができ、更に、海路葦の浦よ り下総玉の浦にお渡りになられた。そこで尊はその霊異を畏まれ、海上平安・夷賊鎮定のために玉の浦の東端「玉ケ崎」に海神玉依毘売 命の神霊を斎き奉るによる。 後世、「玉ケ崎」を「竜王岬」と言うようになったのは、海神を竜宮の神に付会して、竜王の鎮まり坐す崎と言うようになったものであ る。中世には下総國二之宮・玉の浦総社と称され、武門武将の崇敬厚く、平貞盛・源頼朝・千葉常胤等が参拝され、それぞれ祈願や奉賽 のために奉幣や社殿の造営にかかわられた。しかし、竜王岬の欠損がはなはだしく、加えて、天文2年に兵火にかかって社殿は烏有に帰 したので、現今の地に御遷座申し上げた。 江戸時代に入って、上総國一宮(玉前神社)とともに九十九里浜を鎮護する神社として広く崇められ、佐倉藩主堀田氏・久留里藩主黒田 氏等武人の崇敬はもとより、平田篤胤・平田銕胤・大国隆正等の文人が参詣している。この頃の飯岡は、九十九里の代表的な漁場として 隆盛を極め、相模・三河・紀伊・伊予・阿波・和泉・安芸等の国々よりの移住者も多く、天保水滸伝に名高い飯岡助五郎もこの地に渡っ て社領地に住み、当神社の潮祭には一党を引き連れ参拝し、奉納角力を執行した。近年には、画家竹久夢二等も参詣し、「飯岡の明神 様」として御神威赫々たるものがある。 |
玉崎神社 |
島穴神社 |
当宮は「延喜式」所載の上総五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。 今からおよそ千八百年あまり前の景行天皇の四十年(西暦一一四年)日本武尊が東征のみぎり相模国走水より上総国へ航行中にわかに暴 風に遇われあやうく船が覆りそうになった時同乗されていた、妃君の弟橘姫命が大和の大和国の風鎮の神龍田大社を遥かに拝み、安全に 上総国まで航行させてくれるならば必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽しますと祈りながら海中に身を投ぜられました。す るとたちまち暴風は止み、ぶじ上総国へ着くことができたので日本武尊は弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当宮を創 祀されたのであります。のち景行天皇が当地へ行幸(一二七年)の折日本武尊、倭比売尊を合祀されました。 また陽成天皇八年(八八四)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治十二年(一八七九)には千葉県の県社に列格されたのであり ます。 |
島穴神社御由緒 |
人見神社 |
人見神社は小糸川の河口、東京湾をのぞむ獅子山(人見山)の頂に鎮まり、古来より二総六妙見(上総の人見神社・久留里神社・横田神 社、下総の千葉神社・印西妙見宮・飯高妙見宮)の一社として人々の篤い崇敬を受けてきました。 古く、日本武尊が相模から房総へむかう海上で嵐に遭ったとき、妃の弟橘姫命は自ら海中に身を投じて龍神の怒りを解き、暴風を鎮めた といいます。無事、上総へ渡った武尊は獅子山に登り、妃を追慕しつつ海路を「不斗(ふと)見そらし給う」たので「ふとみ」すなわち 「人見(ひとみ)山」となったといわれています。 当社は奈良時代以前、孝徳天皇の代に日向国より勧請されました(別当・青蓮寺の「妙見縁起」)。あるいは昔、近郷の大堀の地にわず か二戸しかなかった頃、うち太右衛門が草刈をしていて妙見尊像を見つけ、もう一人の市右衛門と相談して獅子山に祀ったという「妙見 隠し」の伝承も残されています。 また、天慶三年(940)、平忠常が上総介として赴任した折に、武蔵国より北辰妙見の神霊を上総・下総各地に勧請しその中の代表的な 一社が当神社です。忠常の祖父、平良文(千葉氏の祖)は高望王の子で、東国へ下って妙見菩薩を祀るなど、代々、妙見信仰の念が篤か ったのです。 源頼朝も治承四年(1180)、相模石橋山の合戦に敗れ、再起を期して内房の礒根伝いを舟で進軍の折、小糸川河口に着岸し、当社に武運 長久の祈願文を捧げたと伝えられています。天正19年(1591)には徳川家康より良田五石の朱印の寄贈があり、元禄4年(1691)には当 地方の領主、小笠原彦太夫より大刀の献納がありました。小笠原氏は以来、例祭に奉幣参拝を欠かしませんでした。そして寛政9年( 1797)、小笠原兵庫と氏子らが浄財をもって春日造の社殿を造営しました。 明治に入ると神仏分離の国策を受けて人見神社と称し郷社に列せられ、妙見菩薩は観音堂に祀ることになります。高度経済成長期には、 ふもとの湾岸に大規模な製鉄所が建設されるなど、周囲の景観は変貌しましたが、人見の杜は近郷近在の人々をこれからも見守り続ける ことでしょう。 |
人見神社 |
妻恋神社 |
日本武尊は、「古事記」や「日本書紀」に登場。父王である景行天皇より命ぜられ、体格もよく武力に優れていた日本武尊は、日本(ま だ日本とは呼んでいなかったが)の全国統一を目指して、西や東を平定していった。 東方十二道の荒ぶる神や賊の平定のため東へと旅だち、東京湾を走水の渡り(現横須賀市)から千葉に向けて船で渡る時、途中暴風雨に 遭い、船はもてあそばれ沈みそうになった。 同行の妃・弟橘媛命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中 に立ちて問ひし君はも」(焼津で自分を守ってくれた尊への思いが込められている)と歌を詠んで海に身を投じた。 海は鎮まり、尊は房総に上陸ができ、東国を平定し、大いに勲功をあげることができた。 帰路、上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶・・・・・」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号した。 当神社はその時の行宮(野営陣地)の跡と言われてる。 「あづまはや」から関東のことを「あづま・あずま」というようになったとも。 また、「ユシマ」は「聖なる水際の地」という意味があるともいわれ、この地は早くから開かれ、低地では稲作が行われており、そこ で、五穀の神の稲荷が祭られ、妻恋稲荷となった。 倉稲魂命は別名は御食津神で三狐神に通じキツネに結びつく。 戦災で失われていた鈴も昭和52年に戻り、また江戸時代に使われていた縁起物の版木も偶然に見つかり、頒布が一時期再開された。 平成23年東日本大震災に伴う本殿屋根崩壊では多大なる奉賛により修復を完了、復興祈願の気運により平成25年に奉納された日本画を元 に授与品「吉夢(よいゆめ)」頒布の運びとなった。 |
妻恋神社 |
奥石神社 |
観音寺山(繖山(きぬがさやま)432.7m)の南、国道8号線と東海道新幹線が立体交差する地点にある老蘇(おいそ)の森の中にありま す。祭神は、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)です。創祀については明らかではありません。もともと、この神 社は繖山山頂の磐座を遠拝する祭祀場として営まれたものであるといわれています。 伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)を危機から救うために、妃の弟橘姫命(たちばなひめのみこと)が身代わりになって荒 海に身を投げましたが、そのとき懐妊していた妃は、波間に消える前に自分は老蘇の森に留まって女人安産を守ると言い残したといわれ ています。この話から奥石神社は安産の神といわれて、広く信仰されています。老樹の茂る参道が続き、本殿は三間社流造で重要文化財 です。また、境内の一隅には「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」という本居宣長の歌碑も立っています。 〈重文〉奥石神社本殿 |
びわこビジターズビューロー |