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国譲りの始まり

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古事記

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原文 現代語訳 備考
天照大御神之命以「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝
吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國。」言因賜而天降也。
アマテラスオオミカミが「葦原水穗国は、我が御子のマサカアカツ
カチハヤヒアメノオシホミミノミコトが治めるべき国である。」と
仰せられて、天からお降しになりました。
於是、天忍穗耳命、於天浮橋多多志此三字以音而詔之「豐葦原之千
秋長五百秋之水穗國者、伊多久佐夜藝弖此七字以音有那理此二字以
音、下效此。」告而、更還上、請于天照大神。
そこでオシホミミノミコトが天浮橋から御覽になり、戻ってアマテ
ラスオオミカミに「葦原水穗国はひどく乱れている。」と申されま
した。
爾高御產巢日神・天照大御神之命以、於天安河之河原、神集八百萬
神集而、思金神令思而詔
そこでタカミムスビノカミとアマテラスオオミカミの御命令で、天
安河の河原に多くの神が集まったところで、オモヒガネノカミが、
「此葦原中國者、我御子之所知國、言依所賜之國也。故、以爲於此
國道速振荒振國神等之多在。是使何神而、將言趣。」
「この葦原中国は私の御子の治むべき国である。しかしこの国には
、暴威を振るう乱暴な土着の神が多くあるが、どの神を遣かわして
これを平定すべきであろうか。」と問われました。
爾思金神及八百萬神、議白之「天菩比神、是可遣。」 協議の結果、「アメノホヒノカミを遣るのがよろしかろう。」とな
りました。
故、遣天菩比神者、乃媚附大國主神、至于三年、不復奏。 そこでアメノホヒノカミを遣わしましたが、この神はオオクニヌシ
ノミコトに媚びへつらい、三年経っても報告がありませんでした。
神魂神社
是以、高御產巢日神・天照大御神、亦問諸神等「所遣葦原中國之天
菩比神、久不復奏。亦使何神之吉。」
そこで、タカミムスビノカミとアマテラスオオミカミがまた多くの
神たちに「葦原中国に遣わしたアメノホヒノカミからの報告がない
。次はどの神を遣わすべきか。」と尋ねました。
爾思金神答白「可遣天津國玉神之子、天若日子。」故爾、以天之麻
迦古弓自麻下三字以音・天之波波此二字以音矢、賜天若日子而遣。
そこでオモヒガネノカミが「アマツクニダマノカミの子のアメワカ
ヒコを遣わせましょう。」と答えました。
於是、天若日子、降到其國、卽娶大國主神之女、下照比賣、亦慮獲
其國、至于八年、不復奏。
そこで立派な弓矢をアメワカヒコに持たせて遣わしました。しかし
、アメワカヒコはオオクニヌシノミコトの娘のシタテルヒメを妻と
し、またその国を獲ようと思い、八年経っても報告しませんでした。
故爾、天照大御神・高御產巢日神、亦問諸神等「天若日子、久不復
奏。又遣曷神以問天若日子之淹留所由。」
再度、アマテラスオオミカミとタカミムスビノカミは多くの神たち
に「アメワカヒコからの報告がないが、どの神を遣してアメワカヒ
コの事情を聴いてこさせようか。」とお尋ねになりました。
於是諸神及思金神、答白「可遣雉名鳴女」時、詔之 オモヒガネノカミ達は「ナキメという名の雉を遣わせましょう。」
と答え、ナキメに
「汝、行問天若日子狀者、汝所以使葦原中國者、言趣和其國之荒振
神等之者也、何至于八年不復奏。」
「アメワカヒコの所に行って、『乱暴な神たちを平定するために、
あなたを葦原中国に遣したのに、何故、八年経っても報告がないの
か。』と問え。」と仰せられました。
故爾鳴女、自天降到、居天若日子之門湯津楓上而、言委曲如天神之
詔命。
天を飛び立ったナキメが、アメワカヒコの家の門にある貴い桂の木
の上に留まり、言われた通りに尋ねられました。
壹宮神社
爾天佐具賣此三字以音聞此鳥言而、語天若日子言「此鳥者、其鳴音
甚惡。故、可射殺。」云進、卽天若日子、持天神所賜天之波士弓・
天之加久矢、射殺其雉。
これを聞いたアマノサグメという女が、アメワカヒコに「この鳥は
鳴き声がよくないので、射殺してください。」と勧めましたから、
アメワカヒコは天の神の下さった弓矢でその雉を射殺しました。
爾其矢、自雉胸通而、逆射上、逮坐天安河之河原、天照大御神・高
木神之御所。是高木神者、高御產巢日神之別名。
ところがその矢が雉の胸を貫通し、そのまま天安河の河原においで
になるアマテラスオオミカミとタカギノカミの御許に到りました。
このタカギノカミというのはタカミムスビノカミの別の名です。
故、高木神、取其矢見者、血著其矢羽。於是、高木神告之「此矢者
、所賜天若日子之矢。」卽示諸神等、
そのタカギノカミが御覧になると、矢の羽に血がついていました。
そこでタカギノカミが「この矢はアメワカヒコに与えた矢である。
」と言いながら多くの神たちに見せ、
詔者「或天若日子、不誤命、爲射惡神之矢之至者、不中天若日子。
或有邪心者、天若日子、於此矢麻賀禮此三字以音。」云而、取其矢
、自其矢穴衝返下者、中天若日子寢朝床之高胸坂以死。此還矢之本
也。
「もしアメワカヒコが乱暴な神を射た矢が来たのなら、アメワカヒ
コには当たらない。もし不屆きな心があるならアメワカヒコはこの
矢で死んでしまえ。」と言いながらその矢を放つと、寝ていたアメ
ワカヒコの胸に当たって死にました。
亦其雉不還、故於今諺曰「雉之頓使」是也。 結局、雉は帰ってこれなかったので、今でも諺に「きざしのひたづ
かい」というのです。
故、天若日子之妻・下照比賣之哭聲、與風響到天。 アメワカヒコの妻、シタテルヒメのお泣きになる声が、風のまにま
に響いて天にも聞こえました。
於是在天、天若日子之父・天津國玉神、及其妻子聞而、降來哭悲、
乃於其處作喪屋而、
そこで天にいたアメワカヒコの父のアマツクニダマノカミ、またア
メワカヒコの妻子たちが聞いて、下りて来て泣き悲しみ、喪屋を建
てました。
河雁爲岐佐理持自岐下三字以音、鷺爲掃持、翠鳥爲御食人、雀爲碓
女、雉爲哭女、如此行定而、日八日夜八夜遊也。
そこで、雁に死者の食物を持たせ、鷺に箒を持たせ、カワセミを御
料理人とし、スズメに臼を搗かせ、雉を泣女として、八日八夜の間
、葬儀をしました。
此時、阿遲志貴高日子根神自阿下四字以音到而、弔天若日子之喪時
、自天降到天若日子之父、亦其妻、皆哭云
この時弔問に来たアヂシキタカヒコネノカミを見て、アメワカヒコ
の父や妻が皆泣きながら、
「我子者不死有祁理。此二字以音、下效此。」「我君者不死坐祁理
。」云、取懸手足而哭悲也。
「私の子は死ななかった。」「わたしの夫は死ななかったのだ。」
と言って手足に取りすがって泣き悲しみました。
其過所以者、此二柱神之容姿、甚能相似、故是以過也。於是阿遲志
貴高日子根神、大怒曰
皆、この御二方の神のお姿が非常によく似ていたために間違えたの
でした。これにアヂシキタカヒコネノカミが非常に怒り、
「我者愛友故弔來耳。何吾比穢死人。」云而、拔所御佩之十掬劒、
切伏其喪屋、以足蹶離遣。
「わたしは親友だから弔問に来たのに、死人扱いするなど汚らわし
い。」と言って、十掬剣を抜いて喪屋を切り伏せ、足で蹴飛とばし
てしまいました。
此者在美濃國藍見河之河上、喪山之者也。其持所切大刀名、謂大量
、亦名謂神度劒。度字以音。
それは美濃国の藍見川の川上の喪山という山になりました。その持
っていた大刀の名はオホバカリといい、またカンドノツルギともい
います。
喪山古墳
喪山天神社
故、阿治志貴高日子根神者、忿而飛去之時、其伊呂妹高比賣命、思
顯其御名、故歌曰、
そこでアヂシキタカヒコネノカミが怒って飛び去った時に、その妹
のシタテルヒメが兄君のお名前を著そうと思い、
阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須
麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比
古泥能迦微曾也
天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み
谷 二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ
此歌者、夷振也。 と歌を詠まれました。この歌は夷振です。

ゆかりの寺社(御朱印視点)

引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。

【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
岐阜県 喪山天神社 美濃市大矢田1261 天若日子
島根県 神魂神社 松江市大庭町563 天穂日命
鳥取県 壹宮神社 西伯郡大山町上萬 上万1124 天若日子

【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
岐阜県 喪山古墳 不破郡垂井町1962-2 天稚彦命

神魂神社
巨大な自然石を積み上げた石段といい、古代出雲の神々の里らしいおごそかな落ち着いたたたずまいがあります。縁結、授児、安産、商
工繁栄などのご利益があるといわれています。
日本の創世神である、伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)を主祭神とし、伊弉諾大神(いざなきのおおかみ)を合祀しています。
本殿は現存する大社造の社殿のうち最も古いといわれ、国宝に指定されています。社殿は一見白木造りのようですが、元々は彩色されて
いたといわれ、本殿内陣には極彩色の壁画があります。出雲国造家とゆかりが深く、その昔出雲国造の祖神である天穂日命(あめのほひ
のみこと)が高天原から天下る際に乗って来られた
と伝わる古い鉄窯も祀られています。
島根県観光連盟

喪山古墳
周囲約200m、高さ約40mの瓢形の山で、別名葬送山とも呼ばれます。天稚彦伝説の喪山ともいわれ、円墳か前方後円墳ではないかと推
定されています。
垂井町教育委員会 タルイピアセンター

喪山天神社
「喪山神話」について
天照大御神は、大国主命の治める葦原中津国(出雲の国)を自分の子どもに治めさせるために、先ず天之忍穂耳命を遣わしましたが、大
国主命に媚びて三年たっても戻りませんでした。そのため今度は天若日子に天之麻迦古弓(弓)と天之波波矢(矢)を持たせて遣わしま
した。しかし天若日子は、大国主命の娘の下照比売と結婚し、八年戻りませんでした。
天照大御神は、いつまでも戻らない天若日子の様子を伺う為に雉鳴女を遣わしました。雉鳴女は湯津楓の上で伝言を伝えましたが、天探
女が「この鳥の鳴き声は不吉です。すぐに射殺してしまってください。」と天若日子をそそのかしたため、天若日子は、先にもらった弓
矢で雉鳴女を射殺してしまい、その矢は天照大御神のところまで飛んでいきました。
天照大御神は「天若日子が、この矢を悪い事に使ったなら、この矢に当たって死んでしまえ。」と言って投げ返したところ、天若日子は
この矢に当たり死んでしまいました。
天若日子の死を下照比売をはじめ遺族達が「喪屋」を作って嘆き悲しんでいるところへ、天若日子と大変容姿の良く似た友人の、阿遅志
貴高日子根神が弔いに訪れました。遺族達は、天若日子が生き返ったと喜んですがりつきましたが、死人と間違われた阿遅志貴高日子根
神は大変怒って、十掬剣を抜き「喪屋」を切り伏せ、蹴飛ばしました。そのときの「喪屋」が飛んでいって、この地の「喪山」となった
のです。
喪山天神社 現地看板

壹宮神社
安産の神様であるシタテルヒメノミコトは、オオクニヌシノミコトの娘であり、医療、医術の知識も豊富で、よく人を導かれました。
シタテルヒメノミコトが夫のアメノワカヒコと暮らした場所とも言われています。
壹宮神社

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