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武御名方神

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於是天照大御神詔之「亦遣曷神者吉。」爾思金神及諸神白之 アメワカヒコも駄目だったので、アマテラスオオミカミは、「次は
どの神を遣わそうか。」と尋ねられました。そこでオモヒガネノカ
ミたちは、
「坐天安河河上之天石屋、名伊都之尾羽張神、是可遣。伊都二字以
音。
若亦非此神者、其神之子、建御雷之男神、此應遣。
「天安河の川上の天石屋においでになるアメノヲハバリノカミか、
または、その神の子のタケミカヅチノカミを遣すべきでしょう。
且其天尾羽張神者、逆塞上天安河之水而、塞道居故、他神不得行。
故、別遣天迦久神可問。」
しかし、ヲハバリノカミは天安河の水を逆流させて道を塞いでいる
ため、他の神では行かれません。アメノカクノカミを遣せばよいで
しょう。」と申しました。
故爾使天迦久神、問天尾羽張神之時、答白「恐之。仕奉。然於此道
者、僕子、建御雷神可遣。」乃貢進。爾天鳥船神、副建御雷神而遣
こうしてアメノカクノカミを遣して尋ねると「謹しんでお仕え申し
ます。ただ、私の子のタケミカヅチノカミを遣します。」とのこと
でした。そこでアメノトリフネノカミをタケミカヅチノカミのお供
として遣わされました。
是以、此二神降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音、拔十掬劒
、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言
このお二方の神が出雲国のイナサの小濱に降り立ち、長い剣を抜い
て波の上に逆さまに刺し、その剣の先に胡坐をかいてオオクニヌシ
ノカミに、
稲佐の浜
「天照大御神・高木神之命以問使之。汝之宇志波祁流此五字以音
原中國者、我御子之所知國、言依賜。故、汝心奈何。」爾答白之
「アマテラスオオミカミとタカギノカミの使いで来ました。あなた
葦原中国は我が御子が治むべき国であると申されました。どうされ
ますか。」とお尋ねると、
爾答白之「僕者不得白、我子八重言代主神是可白。然、爲鳥遊取魚
而往御大之前、未還來。」
「私は何とも申しません。私の子のコトシロヌシノカミに答えさせ
たいのですが、鳥や魚の漁をしにミホの崎に行ったまま、まだ帰っ
て来ていません。」と答えられました。
故爾、遣天鳥船神、徵來八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言
「恐之。此國者、立奉天神之御子。」卽蹈傾其船而、天逆手矣、於
青柴垣打成而隱也。訓柴云布斯。
アメノトリフネノカミがコトシロヌシノカミを呼んで来て同じ質問
をすると、コトシロヌシノカミは父に向って「この国は謹しんで天
の神の御子に献上すべきでしょう。」と言い、船を踏み傾け、逆手
を打って作った神籬の中に隠れてしまいました。
波波伎神社
故爾問其大國主神「今汝子、事代主神、如此白訖。亦有可白子乎。
改めてオオクニヌシノカミに「コトシロヌシノカミはこう言われま
したが、他の子にも聞きますか。」と尋ねられました。
於是亦白之「亦我子有建御名方神、除此者無也。」 オオクニヌシノカミは「また私の子のタケミナカタノカミがいます
。他に意見がある子どもはいません。」と答えられた時、
如此白之間、其建御名方神、千引石擎手末而來、言「誰來我國而、
忍忍如此物言。然欲爲力競。故、我先欲取其御手。」
タケミナカタノカミが大きな石を手の上に差し上げながら来て「俺
の国に来て内緒話をしているのは誰だ。国が欲しいならば勝負しよ
う。わしが先にその手を掴むぞ。」と言いました。
故令取其御手者、卽取成立氷、亦取成劒刄、故爾懼而退居。 タケミナカタノカミがタケミカヅチノカミの手を取ると、その手は
氷の刃のようだったので、ビビッてしまいました。
爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者、如取若葦搤批而投離者、卽逃
去。
今度はタケミカヅチノカミがタケミナカタノカミの手を取ると、若
い葦を掴むように、握りつぶして放り投げましたので、タケミナカ
タノカミはすぐに逃げ去りました。
タケミナカタノカミが諏訪に向かう途中で立ち寄る。 生島足島神社
故追往而、迫到科野國之州羽海、將殺時、建御名方神白 それを追って信濃国の諏訪湖に追い詰めて、殺そうとした時に、タ
ケミナカタノカミは降参し、
「恐、莫殺我。除此地者、不行他處。亦不違我父大國主神之命。不
違八重事代主神之言。此葦原中國者、隨天神御子之命獻。」
「参りました、殺さないでください。私はこの地に留まりましょう
。父オオクニヌシノカミにも、コトシロヌシノカミにも従いましょ
う。この葦原中国は天の神の御子に献上致しましょう。」と申され
ました。
諏訪大社
故、更且還來、問其大國主神「汝子等、事代主神・建御名方神二神
者、隨天神御子之命、勿違白訖。故、汝心奈何。」
そこでオオクニヌシノカミの所に戻り「あなたの子どもの、コトシ
ロヌシノカミとタケミナカタノカミのお二方は、天の神の御子に従
うそうです。あなたはどうされますか。」と問いました。
爾答白之「僕子等二神隨白、僕之不違。此葦原中國者、隨命既獻也
そこで「私の子ども二人の言ったとおりにしましょう。この葦原中
国は献上いたします。
唯僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流此三字以音、下效
天之御巢而、於底津石根宮柱布斗斯理此四字以音、於高天原氷木
多迦斯理多迦斯理四字以音而、治賜者、僕者於百不足八十坰手隱而
侍。
ただし、わたしの住居として、天の神の御子が継ぐ御殿のように、
大磐石に太い柱を立て、空に高々とそびえる御殿を建てられたなら
、わたしは隠居しましょう。
亦僕子等百八十神者、卽八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者、違神
者非也。」
またわたくしの子どもの神たちは、コトシロヌシノカミが指揮され
れば、背くことはありません。」と答えられました。
如此之白而、於出雲國之多藝志之小濱、造天之御舍多藝志三字以音
而、
オオクニヌシノカミがそう言われたので、出雲の多芸志の浜に天の
御舎を建てました。
出雲大社
水戸神之孫・櫛八玉神、爲膳夫、獻天御饗之時、禱白而、櫛八玉神
、化鵜入海底、
ミナトノカミの孫のクシヤタマノカミを料理役として御馳走をさし
上げた時に、クシヤタマノカミが鵜になって海底に入り、
咋出底之波邇此二字以音、作天八十毘良迦此三字以音而、鎌海布之
柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵而、鑽出火云、
底の埴土を咥えて戻り、沢山の神聖な皿を作られ、また海草を刈り
取って来て燧臼と燧杵を作り、これを使って火を熾し、
是我所燧火者、於高天原者、神產巢日御祖命之、登陀流天之新巢之
凝烟訓凝姻云州須之、八拳垂摩弖燒擧麻弖二字以音、地下者、於底
津石根燒凝而、
「私が熾した火は、大空高くカムムスビノミコトの新しい宮居の煤
が長く垂れ下さがるまでの間燃え続け、地下の底の岩盤が堅く固ま
るまで焼き続けましょう。
𣑥繩之、千尋繩打延、爲釣海人之、口大之尾翼鱸訓鱸云須受岐、佐
佐和佐和邇此五字以音、控依騰而、打竹之、登遠遠登遠遠邇此七字
以音
、獻天之眞魚咋也。
そして、楮製の長縄で釣をする海人が釣り上げた大きな鱸を引きあ
げ、机もたわむような立派な料理を献上致しましよう。」と申しま
した。
タケミカヅチノカミの葦原中国平定を補助。 大甕神社
故、建御雷神、返參上、復奏言向和平葦原中國之狀。 タケミカヅチノカミは高天原に戻り、葦原中国を平定したことを報
告されました。

ゆかりの寺社(御朱印視点)

引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。

【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
茨城県 大甕神社 日立市大みか町6-16-1
島根県 出雲大社 出雲市大社町杵築東宮内195
長野県 生島足島神社 上田市下之郷中池西701 建御名方神
長野県 諏訪大社 諏訪市中洲宮山神宮寺1 建御名方神

【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
鳥取県 波波伎神社 倉吉市福庭654 事代主命

【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
島根県 稲佐の浜 出雲市大社町杵築北稲佐2711

稲佐の浜
出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られる浜。
浜辺の奥に大国主大神と建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)が国譲りの交渉をしたという屏風岩があり、海岸の南には、国引きの
とき、島を結ぶ綱になったという長浜海岸(薗の長浜)が続いています。
また、この浜は旧暦10月10日に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもあります。
夏には稲佐の浜海水浴場として、海水浴が楽しめます。
出雲観光協会

波波伎神社
主祭神は、八重事代主命。八重事代主命は大国主命の御子神で、国土経営の為この地を巡られた時、この社の西方「ワタラガヒ」の地に
上陸され、この地方の開拓殖産に務められました。この八重事代主命は、国土を奉献して忠誠をつくされ、献国後は皇室の護り神と成ら
れました。国土を奉献される際、天逆手(あまのさかて)を打って槇垣(青柴垣)に籠ったのがこの波波伎神社といわれています。
事代主命は時代の流れを予知する力を持っていたとされ、また、海のかなたの国からこの世に福をもたらす神「恵比寿」は、八重事代主
命の神ともいわれており、この波波伎神社では、毎年1月10日に恵比寿祭が行われています。
波波伎神社波波伎神社の社叢はスダジイの巨木が優先繁茂する照葉樹林で、昭和9年に国天然記念物に指定されています。高木の約8割
はスダジイで占められており、胸高直径1.5m、高さ20mに及ぶ巨木が密集しています。
また、波波伎神社境内には「福庭古墳(ふくばこふん)」という古墳時代後期の円墳があります。
646年に薄葬令(はくほうれい)が出された頃の七世紀代に築造されたとみられ、鳥取県における古墳の終末段階を代表する古墳として
貴重です。また、横穴式石室には、奥壁の赤色顔料を使った彩色装飾は県内でも珍しいです。
鳥取県観光連盟

生島足島神社
創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すが
ら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてた
と伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えら
れています。
生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極め
て古い由緒を持つ大神であります。
当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神戸(封戸)の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901年~922年)には
名神大社に列せられています。 建治年間(1275年~1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を
寄進しています。 戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表して
います。
殊に天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治2年、宮中にこの二柱の大神を親
祭され、同23年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。
生島足島神社

諏訪大社
父神は大国主神、兄神は八重事代主神で国造りの大業を成しとげられました。八坂刀売神並びにその御子神と共に、信濃国の開拓に御神意をそそがれ、やがて、この諏訪湖畔の聖地に、お鎮まりになられました。
諏訪大社


大甕神社
當社の創祀は詳らかではありませんが、社伝によれば皇紀元年(紀元前六六〇年)とあります。
鹿島・香取の二神が、服はぬ国津神・草木石類にいたるまで平定するも、唯一、甕星香々背男と称する星神を征服することができずにお
りましたところ、二神に替わって大甕に赴き地主神の霊力を宿魂石に封じたのが倭文神武葉槌命であった
と伝えられています。
此の地の住民、国土開発と国家安寧に尽力された神として、大甕山上の古宮の地に祀り祭祀が行われておりました。時は移り、江戸期元
禄八年旧暦四月九日藩命により甕星香々背男の磐座、宿魂石上に遷座されてより三百年の星霜を経て今に至ります。
大甕神社

出雲大社
大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国でした。大神様は
国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照
大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があ
たることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あな
たのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きま
しょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。
と申されました。こうして大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、
大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました。そして大国主大神様は永久にお鎮まりになって人々の幸福のために
慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています。
この荘厳な御社は天日隅宮を始め様々な名称で称えられてきましたが、現在は「出雲大社(いづもおおやしろ)」と申しております。
出雲大社

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