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月のピアノソナタ(2)

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だれでも歓迎! 編集

 そこにいたのは、自分が一番見知った顔だった。

「……あやの」
 消え入りそうな声が、自然と口から漏れる。
 みさおがそう呟くと、彼女はこくりと首を傾げた。
「ちゃんと、本物だよ?」
 なんて、おかしそうに笑みを浮かべる。
 確かにそこにいたのはあやのだった。
 その声も、細められた瞳も、長く伸ばした髪も、その笑顔も。
 ずっと昔から見続けていた彼女そのものだった。
「……ぁ」
 いつの間にかそばまで寄ってきていた彼女の手が、みさおの頬に触れられた。
「冷たい……」
 息が触れ合うほどの間近で、唇が動く。
「何か、暖かいもの買ってくるね」
 そう言って、あやのは道の少し先に見えていた自販機の方へと歩いていってしまった。
 後ろ姿の、背中の長い髪が揺れている。
「………」
 何もできずに、何も考えられずに、その姿を目で追う。
 どこか優雅に見える身のこなしで、小柄な身体がひょこひょこと動いていた。
 自販機の光に照らされながら、指を口に当て何を買おうか迷っている。
 そのうち何かと何かのボタンを押して、身をかがめて少し熱そうにしながら二本の缶を取り出して、またこっちへと戻ってきた。

「――はい」
 にっこり笑って、差し出される。
「……ありがと」
 そう言ってみさおは受け取る。
 相変わらず、こういうことは気が利くというか、なんで判るんだろうかと思う。
 手の中のそれは、いつも買っているさっきも飲んでいた缶コーヒーではなくて、ときどきしか飲まないホットの紅茶だった。
 教会の前。
 いつかと同じ場所で、二人は肩を並べて同じ景色を眺める。
 特に何かを話すわけでもなく、黙ったまま教会から聞こえてくる音を聞いていた。
 渇いた喉に、冷え切っていた身体に、紅茶がほどよく染み渡る。
「キレイだね」
「……そうだな」
 それは目の前のライトアップされた教会のことなのか。聞こえてくるメロディのことなのか。
 別にどっちでもいいような気がした。
 しばらく二人はそのままで、同じ景色を見続けた。
 「捨ててくるよ?」と言って、あやのが空いた缶をゴミ箱へと持っていった。
 教会の歌声が止む。
 空気を震わせるような、澄んだ鐘の音が響き渡る。

 ボーっとしているみさおの隣に、戻ってきたあやのが並ぶ。
 視界の端で、綺麗な長い髪が揺れる。
 口元には、いつもの笑み。
 光を映すその横顔は、あの日の彼女よりも大人になっていた。
「……どうして、ここにいるんだよ」
 自分でも、誰に問いかけてるのかわからない声で、呟く。
「みさちゃんこそ……、どうして?」
 責めるでもなく、あくまで優しい声色で、あやのは言う。
「……それは」
 行くあてが無かったから。
 3年前のことを思い出したから。
 どれも本当のことで、考えればやっぱり理由はいくらでも思いつきそうだった。
 でもここでは、――正解は一つだけ。
「だって……みさちゃん言ってたじゃない」
 一歩前に進んで、背中越しに彼女はささやく。
「『また一緒にここに来ような』……って」
「………」
 それは、一字一句あの時と変わらない、自分が言った言葉。
 3年前の今日。
 あの後私たちは……、





『――じゃ、じゃあさ……』
『……?』
 なんだか彼女のその雰囲気が嫌で、いつのまにか自分はそう呟いていた。
 なにが「じゃあ」だったのか、いまだに自分でもよくわからない。
『また、来ないか』
『………』
『今度は……大学受験のときに。同じ学校に入れても、……もし受からなかったとしても。また願掛けにクリスマス・イブに来ないか?』
 ガキっぽい感じはあの頃も一緒だった。
 そんな約束をしておけば、またその時みたいに自分の弱さに負けないでいられると、そう思ったのかもしれない。
『3年後にさっ』
 ムキになったふうに言う自分にあやのは困ったようにしながらも、
『うん、そうだね』
 と、しょうがないなと言いたげに微笑んだ。
『約束だぞ?』
『うん』
『絶対なっ』
『うん』
『また一緒にここに来ような』
『……うん』





「それを覚えてたから、みさちゃんはここに来たんじゃないの?」
 教会の光を背景に、あやのは同じ笑みを浮かべていた。
「………」
 違うとは、言えなかった。
 あの時彼女に、もうここに来る必要はないのだと、そう伝えたのに。
 もう彼女が来るはずがないんだと判っていながら、ここに来てしまった。
 ずっと、覚えていたから。
 どうしても、忘れられなかったから。
 来るはずのない彼女でも待っていようとでも、思っていたんだ。
「……兄貴は、どうしたんだよ」
 この約束がなくなってしまえばいいと、そう思って、ずっと寒空の下をさまよっていた。
 凍えそうになりながら、白く染まればいいと思っていたはずだった。
 自分の存在なんて初めから無かったかのように、聖なる夜が過ぎればいいと、願っていた。
 なのに、
「ちょっとしなきゃいけないことがあるって言って……置いてきちゃった」
 さもなんでもないことのように、あやのは言う。
 見るからに無理をしているのがバレバレな顔をして、こんなどうでもいいような約束のために自分の前に立っている。

「何度も……電話したんだよ?」
 知っている。
 ジーンズの中で携帯が幾度も振動していたのも、何件も着信が入っていたことも。
「どうしても……伝えたいことがあったの」
 だからこうして会えてよかったと、彼女は笑みをこぼす。
 会いたかったのだと、嬉しそうに語る。
 ここに来れば会えるんじゃないかと思ってと、幸せそうに言う。
「みさちゃん……」
 それでもどうしようもないくらい苦しそうな顔で、微笑みを浮かべている。
 そんな顔をするために、このちっぽけな約束にすがりついてここに来たっていうのだろうか。
 こんな寒空の下、触れた自分の頬よりも手を冷たくして、待っていたというんだろうか。
「……なんで」
 それなら、自分がしてきたことはなんだったのか。
「なんで来たんだよ」
 なんのために、自分はここまで来たんだろう。
「ここに来る必要は……、私に会う必要はないだろ?」
 彼女には恋人がいるのに。
「あやのには……」
 自分よりも大切な人が、いるはずなのに――。

「……うん。でもね」
 そう言って、あやのは少し迷う素振りを見せて、
「みさちゃんのことが、好きだから」
 本当に、困りきってしまったような顔で、微笑んだ。
「子どもの頃からずっと、好きだったんだって……気付いたから」
 微笑んで、そっと目を閉じて、大事なものでも抱えるように、自分の胸を押さえる。
「それが、どうしても言いたくて……」
 顔を上げ、歩き出す。
 距離が縮まる。
 息が触れ合いそうなほど近づいて、彼女は瞳を見上げる。
「私にとって……、みさちゃんが一番大切な人なの」
 こぼれた空気が、白く染まった。
 こぼれた笑みが、どこか嬉しそうに見えた。
「だから……」
 痺れるような冷たさを感じて、身体がぴくりと反応する。
 冷え切った彼女の両手が、自分の左手を包み込んでいた。
「だから、どうしても約束を守りたくて……、ここまで来ちゃったの」
 まるで何かを祈るかのようにささやいて、彼女はキレイに笑った。
 そこだけ春が来たかのように、微笑んだ。

「………」
 触れ合う手が、震えていた。
 真っ直ぐに見つめる瞳が。
 白い息をもらす唇が。
 それは冷たい空気のせいじゃなく。
 それは凍えるような寒さのせいじゃなく。
「みさちゃん……」
 不安に揺れるため息が、白くにごって空気に混じる。
 ああ、本当に――。
 彼女を想って、心がきしむ。
 一体どんな思いで、カノジョはここに立っているんだろう。
 どんな決意で、そんな言葉を口にするんだろう。
 どうせなら。
 このまま白く染まってしまえればいいのに。
 眩しすぎる光に呑みこまれてしまえれば、どれだけ……。


「――そっか……」


 こぼれたため息は、どうしようもなく真っ白だった。







       ♪





 規則正しいのか、正しくないのかよくわからない聖夜の鐘の音が、重苦しく反響する。
 暗がりの路地と綺麗に照らされた建物が対照的ですごく綺麗なのに、少し駅から離れているせいか、ここは人がほとんど通らない。
 ただ静かに時が過ぎる。
 寒さが、身に沁みる。
「……みさちゃん?」
 透き通るような声が、空気を震わす。
 まるで暗闇に呼びかけるような、手探りな声。
 見上げる瞳が、揺れていた。
「ありがとう、あやの」
 小さく笑って、みさおはそう呟いた。
 その言葉に、あやのは目を大きく開く。
 何を言ってるのかぴんと来ないかのように、キョトンとしている。
 そんな姿に、場違いな笑みが浮かぶ。
 みさおはそっと瞳を閉じて、彼女の手を一度強く握りしめてから、その手を振りほどいた。
 彼女から、一歩距離を置く。
 「ぁ……」という呟きが、足元にポツリと落ちた。
 十二月の空気に触れて、熱を帯び始めていた手のひらが一瞬で冷たくなる。
 それが寒くて、失いたくて――強く握りしめた。

「みさちゃん……?」
 ふらふらと揺れる声が、耳を打つ。
 何かを発しようとして、彼女の口が動く。でもそれは言葉にならずに、ただ白い軌跡を残すだけ。
 そんな彼女に、みさおはそっと微笑みかけた。
「でも、もう帰れよ」
 乾いた空気に、喉が張り付く。
 それでも震えないように、彼女に告げる。
「兄貴が待ってるよ」
「………」
「用事は済んだんだろ?」
 ニッと、いつもの笑みを、顔に浮かべた。
「みさ、ちゃん……?」
 言葉尻が、はっきりと震えていた。
 何か信じられないものでも見たかのような顔をして、そろそろと手を伸ばす。
 とん、という軽い衝撃とともに、彼女の手がみさおの胸を叩く。
 それは余りにも弱々しくて、触れているのに、そこにあるのかもわからないくらい儚げで、握り返せたなら消えてしまいそうで。
「……そうじゃ、なくて……」
 搾り出すように、あやのの喉から声が漏れる。
 どうしてこんなに遠いのかわからない――、そんな顔で、彼女はみさおを見上げる。
 すがりつくような瞳で、見つめる。
「私は……っ」
 その目が、潤む。
「みさちゃんが……」
 届かないで、消える言葉。
 そんな彼女に、みさおはただ困ったように笑うしかできなかった。
 わかってる。
 彼女がどんな意味を込めて、あの言葉を告げたのか。
 どんな言葉を、求めていたのか。
 そしてきっと、自分がどんな思いを持っていたのかも――。
「……どうして……」
 じっと黙って、何も言わないみさおに、あやのは顔を歪める。
「……だって、知ってるから」
 見上げる視線が、吸い込まれそうだった。
「あやのがどれくらい……、兄貴のことを好きなのか」
 ずっと、見ていたから。
 ずっと、想っていたから。
「そんな……。あの人のことは……関係ないよ。私は、みさちゃんと」
「でもさ」
 澄んだ瞳を覗き返して、言う。
「やっぱりあやのは、兄貴のことを話してるときが、……一番楽しそうだからさ」

 それが結局、本当のことなんだと思う。
 見つめ続けてきた彼女が、一番輝いて見えたのは、自分の隣ではなかった。
 一番キレイに笑顔を浮かべていたのは、違う人を見ているときだった。
 自分ではなくて、他の誰かを見つめていた。
 それがどうしようもなく苦しくて、……だけどどうしようもなく――嬉しかった。
 恋をしているのだと。
 大好きな人がいるのだと。
 痛いくらいに、伝わってきたから。

「みさちゃん……」
 震える彼女は、何も言えない自分に、傷つけるしかできない自分に怯えるように、涙を流した。
 みさおはそっと笑いかけ、胸元のあやのの手を握る。
「私も、あやののことが好きだよ」
 いつもの彼女見たく、笑みを浮かべて語りかける。
「昔から、子どもの頃からずっと……好きだよ」
 ずっと言えずにいた。
 ずっと、気付かなくてよかった。
 でも思ってしまったから。
 せめて彼女に……伝えたかった。
「それなら……」
 暗闇の中で見つけた光にすがりつくように、あやのは声をあげる。
 そんな彼女に、みさおはそっと首を振った。
「私の好きと……、今のあやのの好きは、違うよ」
 そう呟いて、みさおは彼女の手をほどく。
 ぬくもりをなくして、小さな手が宙をさまよう。
「みさちゃん……」
 何も応えてあげられなかった。
 抑えきれずに、溢れた涙が頬を流れても。
 その瞳が、すがるように自分を見つめていても。
 それが、自分の心を壊れそうなほど締め付けていても。
「あやの」
 わかってほしいと、思いを込めて言う。
 その視線から逃げるようにあやのは顔をうつむかせる。
 また一つ、雫がこぼれた。
 寒そうに、身体を震わせる。
 ただみさおは、そんな彼女を見守ることしか出来なかった。

「……ヤだよ……」

 消え入りそうなほど、小さな声がこぼれ落ちた。
「みさちゃんと……離れたくない……」
「……私はどこにも行かねぇよ」
「そんな、こと……っ」
 顔を上げて、しゃくりあげながらあやのは声を絞り出す。
「だって……、もう学校が別々になっちゃうんだよっ?」
「それでも……、連絡は取り合えるだろ?」
「そうだとしても! ……いつかは、忘れちゃうかもしれない。会えなくなっちゃうかもしれない。どうなるかも……わからないのに……」
「そんなことには、ならないよ」
「違う……っ」
 首を振って、あやのは泣き叫ぶ。
 涙もぬぐわず、固く手を握りしめ、必死に言葉を探して、ようやく見つけて、……どこにそれを置いていいのかわからない顔で、呟く。
「……怖いの」
「………」
「みさちゃんは……、本当に私の、一番大切な人だから……」
 届かなかった言葉を、ささやく。
「……あやの」
「みさちゃんがそばにいないと、私……っ……」
 それ以上は、言葉にもならなかった。
 あやのはただ、迷子の子猫みたいに身体を震わせて、寒空の下で静かに泣きじゃくっていた。


「バカだなぁ……あやのは……」

「――ぇ……?」


 そっと彼女を抱き寄せた。
 驚いて、大きく目を開いた彼女を見つめて、微笑みかけて、
「……ぁ」
 唇を触れ合わせる。
 冷たく震えていた。
 でも、こぼれるため息は、あたたかくて。
 一瞬だけ、彼女の存在を、一番近くに感じられた。



「……私はいつだって、あやののそばにいるよ」
 自分がどんな顔をしているのか、わからない。
 それでもきっと、しっかり笑えていたと思う。
「どんなに離れたって、別々になったとしても」
「………」
「今までだって、そうだったろ?」
 腕の中の彼女に、問いかける。
 濡れた瞳でみさおを見上げて、少し考えて、あやのは小さく頷いた。
「それに……、もともと私は、あやのから離れるつもりは少しもないんだってば!」
 ニッと、笑みを浮かべる。
「たとえ、あやのがイヤだって言ったとしてもなっ」
「みさちゃん……」
 そんなことあるわけないじゃない、と彼女は涙をこぼす。
「どんなことがあったって、私はあやののそばにいるよ」
 何が起きても。
 どれほど苦しい思いをしても。
「だから……」

 ――いいんだよ。

 そっと、ささやく。
「あやのが……、一番好きな人のところに帰っても」
「……っ」

 泣き出したあやのを、胸の中へと抱きしめる。
 そばにいるからと。
 ここにいるからと。
 止まることのない嗚咽を受け止める。
 澄ました耳に、また歌声が聞こえてきた。
 泣きじゃくる彼女の髪を優しく撫でて、みさおは静かに瞳を伏せた。

 遠く鳴り響いている鐘の音が、腕の中の鼓動のように感じた。







       ♪





「――私はまだいいよ」
 泣き止んだあやのを駅まで送り、改札口でみさおはそう告げた。
「兄貴に合わせる顔がないしさ」
 ハハハと頭をかく。
 あやのはそんなみさおに少し笑って、「ごめんね……」と呟いた。
 それから、「……ありがとう」と。
 瞳はまだ赤かった。まるでうさぎようだったけれど、さっきまでの迷子のような目は、もうしていなかった。
 少し淋しそうでも、しっかりとみさおの瞳を見つめていた。
「それじゃあ、……みさちゃん」
 断ち切るように、あやのは言う。
「ああ、……またな」
 送り出すように、笑みを浮かべる。
「……うん。またね」
 そう言って、彼女は後ろを向いて、改札口へと歩いていった。
 長い髪の後ろ姿が、遠ざかる。
「――あやのっ!」
 機械の向こう側で、彼女が振り返る。

「『メリー・クリスマス』っ!」

 その言葉に、彼女は驚いて目を丸くして、また少し泣きそうな顔をして、
「『メリー・クリスマス』」
 綺麗に、笑った。
 眩しいくらいの微笑みを、顔に浮かべた。



 去りゆく彼女の姿が見えなくなる。
 やがて駅に電車が来て、この街を出て行った。
 もうここに、彼女はいない。

「……さよなら」

 口からこぼれたため息は、もう何色なのかもわからなかった。






       ♪





 どれほど時間が経ったんだろうか。
 でも、どれほど時間が経っていたとしても、別にどうでもいいような気がした。
 やがて思い出したように、携帯を取り出す。
 何件も入っている、今日の日付の着信履歴。
 それと、一つだけの発信履歴。
 なんだか手がうまく動かなくて、慣れた操作にも手間取った。
 いつもの番号を呼び出して、コールする。
 今日のいつだったかにも聞いた機械音が耳に響く。
 数回鳴って、相手が出た。

『もしもし日下部?』
 聞きなれたいつもの声がして、少しホッとした。
「……柊か?」
『………』
「今……、ちょっといいかな」
 ついさっきの今日で少し虫がいいかもしれないけど、どうしても少し話がしたかった。そうでないと……。
「そのさ」
『……あんた、今どこにいるのよ』
 めずらしく切迫したような声で言う。
「え? えっと……」
 顔を上げて、周りを確かめる。
 どうやら、家の近くの公園らしい。
 いつのまにここまで来たのだろう。あまり記憶がはっきりとしない。
 適当に足が進むままに来たような。そうでないような。
 とりあえず、かがみに場所を告げる。
『………』
 僅かな時間、何かを考えるような間があって、
『十五分でそこに行くから』
 ちゃんとそこにいなさいよ、と言って一方的に電話が切られた。
「………。……あー」
 電話口からツーツーという音が鳴り響いている。というかここってそんなに近かっただろうか。
 なんだかよくわからないが、携帯をしまって待ってみることにした。

「………」
 なんとなく見上げた空が、ひどくキレイだった。
 雲が、ほとんど無い。
 空気も痛いくらいに澄んでるし、ここは街灯も家の光も少なくて、星がどこにあるのかよくわかる。
 そんな中に、ポツンと一つ、満月が浮かんでいた。
 それは真っ白なんかじゃなくて、金色をしていた。
 かがやく太陽の光を受け止めて、キレイに空で光っていた。
 冷たい手をこすり合わせる。
 なんだか今夜は、すごく冷える。
 顔をうずめたマフラーも役に立たない。
 手袋でもしていればマシだったろうか。
 ふいに、人の足音が聞こえてきた。
 速さからして走っている。
 後ろでその音が止まって振り向くと、かがみが息を整えながらこっちのほうへと向かってきていた。白い息が、彼女の口から漏れる。
 そんなに時間は経っていただろうか。
 でも思い出してみると指定された時間よりも長かった気もするし、やっぱりもっと早いような気もした。時間の感覚っていうものが、あまりよくわからない。

「別に……わざわざ来る必要なかったのに」
 苦笑を浮かべて、自転車で全力疾走でもしたらしい彼女に言う。
 そばまで来たかがみの眉がつりあがる。
「……今にも死にそうな声してる人間がなに言ってるのよ」
 そんなに、酷い声だったろうか。
 言われてみれば確かに、喉がすごく張り付いてるし、少し痛い。
 鋭い目つきをしているかがみはどうやら怒っているみたいで、あと……心配してくれているんだろうか。
 じっと自分のことを見つめている。
 そんな、いつもからは想像できない態度の彼女が珍しくて、せっかくだから少し甘えさせてもらう事にした。
「あやのと会ったんだよ」
 小さく笑みを浮かべて言う。
「二人で楽しめって言ったのにさ。来るんじゃないよって意味を込めて言ったのにさ。なのに、いるんだよ」
 口もなんだかうまく動かなくて、搾り出すように言う。
 すごく寒い。
 なぜか身体が、ひどく震える。

「なんで来たんだよって言ったらさ」
 目の前の親友が何かを耐えるように顔を歪めた。
 そんな彼女に苦笑して、苦笑しようとして出来なくて、空を見上げた。
 本当に、きれい晴れている。
「私のことが、好きだってさ」
 なのに、よく見えない。
「私が好きだから、私が一番大切だから来たんだって、笑うんだよ。……苦しそうに、笑うんだよ」
 ぼやけてかすんで、一つだけ、しみのように金色が見えるだけ。
「……日下部」
 ポツリと、かがみが呟く。
 そんな彼女を見て、笑った。
 あの時の彼女みたいに、キレイに笑った。
「でも、断っちまった」
 ちゃんと、笑えたと思う。
 なのに、
「好き、なのにさ」
 涙が溢れて、止まらなかった。
「本当に、あいつが、好きだったのに……」
 何も見えなくなる。
 鼻先が湿って冷たくなる。

「好きで、ずっと昔から好きで、そばにいて、いつも想ってて、私はあやののことが好きだったのに……」
 なんでこんなに空は晴れているんだろう。
 雨が降っていれば、きっと全部洗い流してくれたのに。
 涙もこの思いも、約束も、全部流してくれたかもしれないのに。
「好きだって、言ってくれたのに……っ」
 ふいに、暖かい感触が顔に伝わって来た。
 いつの間にかそばまで来ていたらしいかがみの体温が、身体に伝わって来る。
 感覚の無くなった指先で、彼女にギュッとしがみついた。
「恋人よりも……私を選んでくれたのに、なのに……っ」
 もしあの時、彼女の手を離さなかったら、何か変わっていたのだろうか。
 恋人になれたのだろうか。
 幸せに……なれたんだろうか。
 今となっては、わからない。
 終わったあとに、残ったものしかここにはない。
 この痛みと、唇の感触と、こぼれ落ちたぬくもりだけが、本物だった。
「……日下部」
 ギュッと抱きしめてくれる。
「……私は……」
 あとはもう、わからなかった。
 ただ、泣いた。
 涙がきっと、この想いを消し去ってくれると、そう思って。
 痛くて、痛くて、どうしようもなく苦しくて、胸が張り裂けそうな想いを全部洗い流してくれると信じて。
 また明日、笑えるように、涙を流した。

 頬を伝うしずくが、どうしようもなく温かく感じた。








       ♪





 ――ちゃぽんと、暖かい水面に波紋が広がっていく。

 真っ白い湯気が、視界に映る。
 家には帰る気になれなくて、無理を言ってかがみの家に押しかけてしまった。
 相当身体が冷え切ってるから風呂にでも入れと、かがみが言って、みさおはこうして柊家の浴槽におじゃましているところだった。
 いちいちかがみの気遣いがなんだか暖かくて、思わずまた涙が出そうになって困ってしまう。
 見慣れない浴室が目新しい。
 かがみはいつもここで身体を洗ってるのかぁ……、と少しふざけた思考もできるようになってきた。
 身体の芯まで暖かくなるようなお湯が心地よく感じる。
 それに、こうしてボーっとしていると、変なことを考えなくて済むし。
 ……そういえば、ここまでではないけれど、以前にもかがみのところに押しかけたことがあった。
 それは、十二月のクリスマスを少し過ぎたころ。
 勉強教えてくれとかがみの部屋へと乗り込んだ。
 妹の勉強を教えたいんだけど、と少し迷惑そうだった。


『――なぁ柊、ここって』
『ん? ああそれは……』
 それでも、ちゃんと面倒を見てくれたのは相変わらずだった。
『………。……なんだよ』
 必死になって問題と格闘している自分を、かがみがじっと見つめていた。
『いや、よくやるなぁって思って』
『そりゃ……、これぐらいやらないと無理だろうし』
 自分の実力ではどこまでいけるかわかったものではなかったし。
 そう言って、時折質問しつつ黙々と勉強を続けていた。
『……なんか悩みでもあるんなら、聞いてあげてもいいけど』
 ふいに、かがみがそんなことを聞いてきた。
『……別に』
『なんかあったから来たんでしょ?』
『………』
『そうでないと、あんたが私のところに来ることなんて少ないし』
 確かに、勉強を教えてもらうだけならあやのでも良かったわけだが。なのにこの日は、かがみのところに押しかけていた。
『……柊と、柊の妹ってずっと同じ学校だったんだろ?』
『まあ、姉妹だったしね』
『なら……、もしどっちかが受からなかったらとか、思わないか?』
『………』
『別々になって、いつか離ればなれになるかもしれないって……』
 手を止めてかがみのことを見た。
『……そんなの、あんまり考えたことなかったかも』
 同じように手を止めて、かがみも呟いた。
『……私は、それが怖い』
 じっと机を見つめながら、言った。
『私はまだ……、あやのとは離れたくない』
『………』
『この気持ちもよくわからないし、それに……』
 シンと静まり返った部屋が、印象的だった。
『峰岸と……ずっと一緒にいたいの?』
『……それじゃあなんだかキモチワルイやつみたいじゃないか』
 言い方がなにか変で苦笑した。
『でもまあ……そんなところかもな』
『………』
『うん……、そう。できるだけそばにいたい。この気持ちがあるうちは……どんなことがあっても、そばにいたいんだ』
 小さく笑って、そう呟いた。
『……やっぱりキモチワルイやつじゃない』
『おい』
 ジト目で見てくるかがみに突っ込んだ。
『いいんじゃないの? 別にそれで』
『……そうか?』
『どこまで続くか知らないけどね』
 せいぜいがんばりなさいよ、とかがみは笑っていた。

 それが3年前の、あの日の記憶。







 ある人間とある人間が永遠に会えなくなることは、本当に簡単にできてしまうことだ。
 例えば、それこそ不運な事故で死に別れたり、小学校のとき引っ越してしまったクラスメイトだったり。
 人と人との繋がりは、とてももろい。
 だけど、私は思う。
 ある人間とある人間が永遠に一緒にいることも、本当に簡単にできてしまうことなんじゃないかって。
 私は、確かにあのとき決めた。
 なにがあっても、ずっと一緒にいると。
 今思えば、随分と一方的な想いだったかもしれないけれど……。
 でも、好きだから。
 ……好きと、言ってくれたから。
 もう一度、私は思う。

 どんなことがあったとしても――。






       ♪





「……なんか、迷惑かけてばっかりだな」
 かがみの部屋で、ベッドに腰掛けていたみさおは彼女に向かってそう呟いた。
「いつもいつも迷惑かけられてる身としては、今さらなんだけど」
 呆れたように、同じように風呂から上がったかがみが言う。髪を下ろしているのが少し新鮮だった。
「風呂もそうだけど、夕食とか、ケーキまで貰っちまったし」
 あれから、かがみの部屋へと避難させてもらったみさおは、「食え」と彼女に夕飯の残りだかなんだかを押し付けられた。しばらく何も食べてなかった身としてはありがたかったけど、クリスマスだからと言ってケーキまで出されたのは意外だった。しかも何気にかなりおいしかったし。
「うちの両親はそろってお人よしだし。それにケーキは、うちの専属パティシエがどうしてもっていうからさ」
 それに私も他人事とは思えなかったし、とかがみはそっと呟く。
「こんなときぐらい、せいぜい甘えときなさいよ」
「……うん。ありがと」
 言葉通り、素直に感謝しておくことにした。
 そんなみさおに、かがみが小さく笑う。

「もう……落ち着いた?」
 少し心配そうな顔で聞いてくる。
「まあ、おかげさんで」
 あの時には、もうほとんど気持ちの整理はついていた。だけど心はそんなに単純じゃなくて、今もまだ、思い出すと少しだけ痛む。
 かがみは少しホッとしたような顔をすると、机のイスへと腰かけた。
「にしても……、あんたもあんなふうに泣くことがあんのね」
「ん? ……あー、まあ」
「いつもはあんななのにねぇ」
「……どういう意味だよ」
 なんだかその言い方が気になって、かがみに聞き返す。
「いや、だって……ねぇ」
 少し思い出すような素振りを見せてから、かがみは耐え切れないといったふうにニヤリと笑う。
「わ、私だってそりゃあ……泣くことぐらいあるさ! ……これでも一応、女の子なんだからっ」
 顔が熱くなってきたのを感じて視線をそらす。「そういえば、そうだったわね」というかがみの白々しい声が憎たらしい。
「ま、私だけの秘密にしといてあげるから、安心しなさいよ」
「むぅ……」
 やっぱり彼女に頼ったのは間違いだったかもしれない。今さらながら後悔の念が生まれてくる。
 よーく考えておけば、こうなることは明らかだったのに、どうして彼女に電話したんだろうか。悪魔のような彼女だったら、一生笑いの種にされるなんてことも十分にありえるだろうし……。

「それだけはしゃげれば、大丈夫そうね」
「………」
 顔を上げると、かがみは普段あんまり見ない顔をしていた。……少し、お姉さんっぽいような、そんな感じ。妹には、いつもこんな顔をしているのかもしれない。
 正直こんなときにそういう顔をするのは、ずるい。
 そっと彼女から、視線をそらした。
「だから……、わかるんだよ」
「……?」
「私だって女の子だから……、あやのの気持ちは……」
「………」
 手を組んで、顔に押し付ける。今着ているパジャマの袖から、かがみのにおいが少しした。
「あやのが、どんな気持ちなのか。好きっていうのがどんなことなのか。それがどれだけ……嬉しいことなのか」
 誰かにささやくように、そっと呟く。
「後悔してる?」
「………」
 見上げた先で、変わらない視線で、かがみが見つめていた。
「……いんや」
 ニッと笑って、そう答えた。
「そう」
 彼女の感想はそれだけだった。
 少し暖かい笑みを浮かべながら、そう呟いていた。

「今日はもう寝ときなさいよ。ベッドも貸してあげるから」
 やっぱりどこかお姉さん風を吹かせながら、かがみは言う。
「いいのか?」
「私は妹のを借りるし」
 それとも私と一緒に寝る? と聞いてくる。
「ぜひとも私に使わせてくださいっ!」
「……そんなに嫌か」
 即答でそう答えると、かがみはうんざりした顔で呟いた。
「一応言っとくけど、部屋の中あさんないでよ?」
「……私はそんな人間に見えるか?」
 あんたもあいつも信用できん、とかがみは猜疑心に満ちた顔で言ってくる。
「それじゃあね。しっかり寝ときなさい」
 そう言って、かがみはイスから立ち上がる。

「……柊は、優しいな」
 ドアに向かう背中に言う。
「そう?」
 少し振り返って、かがみは聞いてくる。
「うん。……惚れそうだよ」
「………」
 彼女はまた前を向くと、小さく肩をすくめた。
「残念。もう先約がいるのよ」
 そう言って、その背中が笑ったような気がした。
「そっか」
 振り向いた彼女と視線が合う。
「それは本当に……、残念だわ」

 自分もなぜか、笑い返していた。








       ♪







 結局のところ、それは寒空に浮かんだため息のように、ここから姿を消してしまった。
 白くて、すぐに見えなくなる、雲みたいなヤツ。
 そこにあるのかも、ないのかもよくわからない。
 見えたり見えなかったり、さわれたりさわれなかったり。

 でもそれは、なくなってしまったわけではない。
 なくしてしまったわけではない。

 ただ、終わっただけ。


 ――それが私の、初恋だった。







       ♪








 そして一つの今日が終わり、月は光を、存在を消し、また太陽が世界を照らし出す――。



 やっぱりまだ、彼女は不安そうな顔で、電車の窓の向こうの景色を見ている私の様子を時折ちらりとうかがっていた。
 確かにまあ、昨日の今日なわけで、思うところもたくさんあるんだろう。
 でも自分はそんなことに気を使えるほど器用じゃないし、とりあえず今したいことに全力を尽くすしかないわけで、なんか思われてたとしてもそれはそれだ。

 朝早くに家まで押しかけて「どうしても一緒に来てほしいところがあるんだってばっ」とテンション高く言ったのにはさすがに戸惑ってたみたいだけど、ちゃんとついてきてくれてるところからしてそれほど迷惑ではなかったのだろう、……と信じたい。
 昨日に続いて今日も自分の彼女を連れ出された兄貴は絶対迷惑だと思うけど、たった一日彼女を自分のところに縛り付けておけないような甲斐性無しにはこれぐらい許してもらわないと正直割に合わない。

 程なくして電車が駅に到着する。
 昨日私が一日ぶらぶらしていたおっきめの街だ。
 彼女と一緒に改札口を出て、私は空を見上げた。
 まったくもって今日もよく晴れている。
 雲はちょっと浮かんでるけど、私が大好きな太陽は元気いっぱいに輝いていた。絶好の洗濯日和が二日も続けば、どんな洗濯物でも乾かないものは無いだろう。
 そうやって眩しそうに太陽に手をかざしていた私に、彼女が遠慮がちに「えっと……、みさちゃん?」と声をかけてきた。

 おっと、いけないいけない。
 不安そうにしている彼女にニッと笑みを浮かべる。
 今日は彼女と一緒に行きたい場所があったのだ。
 実は昨日のこととかいろんなことを自分らしくもなく悩んでいたせいで、……クリスマスプレゼントを買うのをすっかり忘れていたから。
 でも昨夜、柊のベッドの中で柊のにおいを思いっきり感じたり、眠れなくてしょうがないから部屋の中をほんのちょっと物色したり(朝にばれて怒られた)、隣の部屋の会話が聞こえないかなと聞き耳立てたり(少し……聞こえた)しながらも、ちゃんとそれについては考えておいた。

 昨日見つけた、あのちょっとカラフルな服。
 ずっと想っていたけれど、絶対にあれは彼女によく似合うはずだ。
 「あやのにすごい似合いそうな服があったんだよ」と告げて、私は彼女のその手を取る。
 一瞬驚いた顔をしたけれど、――あやのはちゃんと、笑ってくれた。
 ギュッと握って、握り返されて、私はその手を引いて走り出す。


 とびっきりの笑顔を、浮かべながら。












 ――その恋に、さよならはもう、済ませたから。




 Good-bye, our lonely days – fin.













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  • みさおのSSはあまり読まないんですが、 これは・・・感動しました。 みさおの気持ちが心に響く、いいお話でした。
    これからもがんばってください。



    -- オビ下チェックは基本 (2009-06-04 22:00:01)
  • 普通に泣いてしまったんだが…GJ!! -- 名無しさん (2009-01-22 02:09:59)
  • クリスマスが近くなってこのSSを思い出しました
    何度読んでもいいですね -- 名無しさん (2008-11-21 02:34:01)
  • 切なすぎて胸が苦しくなりました……。GJ!! -- 名無しさん (2008-07-24 20:08:34)
  • すごくいいお話でした。
    -- リボーン (2008-04-10 21:21:33)
  • 悲しいど前向きなみさおの強さがヒシヒシと伝わってきました。
    この話は本当に綺麗で大好きです。 -- 名無しさん (2008-03-19 10:42:11)
  • 描写が丁寧で違和感なく読めました。ホントGJです -- 名無しさん (2008-02-22 13:34:20)
  • 切ない…泣けますた -- 名無しさん (2008-02-13 13:38:48)
  • 票が少ないので投票してきました
    タイミング悪くてスルーされてたけどクールな味わいがあって良かったよ
    -- 名無しさん (2008-01-20 00:25:18)
  • 切ないのにただ悲しいのでなく重くなくて素敵でした。 -- 名無しさん (2008-01-18 21:55:15)
  • 良作GJ! 同じ書き手として尊敬します。 -- 名無しさん (2008-01-18 00:15:23)
  • すごい感動した。こんないい作品にコメントが無いなんて信じられないくらい -- 名無しさん (2008-01-17 23:42:52)

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