◆ 1
暗い部屋、時計の針は丑三つ時をゆうに過ぎていて、私が動くたびに生じる音以外、すべてのものが沈黙を守っていた。こんな時間など、明日の学校の事を考えれば普通に起きていていいはずが無い。それなのに私はこうして目を覚ましている。そして、睡魔は一向に訪れる様子がなかった。
今すぐにでもベッドに戻らなければならないのに、私の足はそことはまるで正反対の場所を目指して、足音を忍ばせる。
まるで、自分の足が脳の制御化から解放されて、私という個体から切り離された別の生き物のように。
なのに、私はこの足の行き先を知っている。行き着く先で、何をするかも知っている。
そうして私がベッドに戻った時、きっと私は自己嫌悪に身を焦がしているだろう。自分の体を理解できないもどかしさに、自分がやった事への罪悪感に、そして誰にも話せないが故に誰も裁いてはくれない苦痛に、私は今夜も涙するのだ。
いっそ自分の腕を切り落とせるのなら、私は楽にもなれようものなのに。
だけど出来ない。出来るわけがない。その代償は大きすぎるから。失うには、私は触れ過ぎてしまった。あの温もりを感じずにはいられなくなってしまった。
だから、私は自分を慰めるために今日も傷つけるのだ。せめてもの懺悔に、私は自分よがりな傷を自身に刻み込むのだ。
そうする事で、ようやく私は笑う事ができる。笑顔で言われる「おはよう」という言葉に、私も笑顔で返すことができるようになる。私が私を見失わぬよう、戒めの為に、私は毎晩の如くこの痛みにむせび泣くのだ。
自己欺瞞を重ねている事を知っていても、私は現実から目を背け、自分を騙して、今日も自分の行為に自己嫌悪する。
それが一体何回目に及ぶのか、私は随分前に数えることをやめていた。
今すぐにでもベッドに戻らなければならないのに、私の足はそことはまるで正反対の場所を目指して、足音を忍ばせる。
まるで、自分の足が脳の制御化から解放されて、私という個体から切り離された別の生き物のように。
なのに、私はこの足の行き先を知っている。行き着く先で、何をするかも知っている。
そうして私がベッドに戻った時、きっと私は自己嫌悪に身を焦がしているだろう。自分の体を理解できないもどかしさに、自分がやった事への罪悪感に、そして誰にも話せないが故に誰も裁いてはくれない苦痛に、私は今夜も涙するのだ。
いっそ自分の腕を切り落とせるのなら、私は楽にもなれようものなのに。
だけど出来ない。出来るわけがない。その代償は大きすぎるから。失うには、私は触れ過ぎてしまった。あの温もりを感じずにはいられなくなってしまった。
だから、私は自分を慰めるために今日も傷つけるのだ。せめてもの懺悔に、私は自分よがりな傷を自身に刻み込むのだ。
そうする事で、ようやく私は笑う事ができる。笑顔で言われる「おはよう」という言葉に、私も笑顔で返すことができるようになる。私が私を見失わぬよう、戒めの為に、私は毎晩の如くこの痛みにむせび泣くのだ。
自己欺瞞を重ねている事を知っていても、私は現実から目を背け、自分を騙して、今日も自分の行為に自己嫌悪する。
それが一体何回目に及ぶのか、私は随分前に数えることをやめていた。
変わっていくヒト
◆ 2
「告白、されちゃった……」
真っ赤な顔で妹がそれを告げてきた時、私はどんな顔をしていただろう。今となっては確かめる方法などありはしないが、私の頭の中に色んな衝撃が走った事だけは今でも鮮明に思い出す事ができる。だけどそれも〝衝撃〟という非常に不明確なものでしかなく、その内訳は未だに分かっていない。ただ、それが異様な自己嫌悪を呼び起こすものだという事は、一瞬で理解していたと思うけれど。
「私、どうすればいいかな。お姉ちゃん」
その問いには何て返しただろう。あれからさほどの時間は経っていない筈だが、記憶に残る妹の顔が――そう、まるであの子が自分の苦手なホラー映画を見た時のように、若干の恐怖に強張っていたのが目に焼きついたように忘れる事が出来ない。一体、私はどんな事を言ったのか。
つかさに彼氏が出来たのは、それから数日の事だった。
相手の男は私たちと同級生だったが、つかさとも私ともクラスが違っていたせいで私はその男の事は何一つ知らなかった。私が知らないのだから、つかさもほとんど初対面なのだろうと思いもしたが、後につかさに聞いてみると、廊下ですれ違ったり朝礼など整列する時にお互いの位置が近い事もあって、話す機会はちょくちょくあったらしい。それでも話す話題と言えば一言の挨拶ぐらいで、それ以上話が続く事は稀だったと聞いた。つかさは普段、男子と話す事は滅多に無かったし、その男も女子と話すのはあまり得意ではなかったらしいから、会話がすぐに途切れてしまうのは必然と言えば必然だっただろう。
それなのに、男はつかさに恋をした。一目惚れだった。一年生の頃からの片思いだったという。
男は勉強もそこそこできる方で、スポーツも人並みにこなし、そういえば球技大会では『バスケットボールに参加して結構な得点を稼いでるかっこいい同級生がいる』とクラスの女子が騒いでいたが、その〝かっこいい同級生〟が今のつかさの彼氏なのだった。そして、その噂は現実と然したる差を広げる事はなく、実際に見ても十人いれば九人は「かっこいい」とつい漏らしてしまいそうに、誠実で一途そうな、けれどそれらを鼻にかける事の無い、そしてどこか気の弱そうな印象を受ける男子だった。
そしてその見た目の印象と違わず、男は今までに何人もの女子から告白を受けていて、その度に好きな人がいるからと断りの返事を繰り返してきた。その人気を妬んだ他の男子に彼は同性愛者だと言う噂を流されたり、出会い系サイトで相手に困っていないから告白にもOKを出さないと何の脈絡も根拠も無い事で冷やかされても、彼自身が昔からそういう性格と雰囲気で有名だった事もあって、それらの噂は火力を増大させる前に沈下するのが常だった。
そんな彼氏の話を、つかさは毎日の如く楽しそうに話しに来る。
あの子が携帯を弄る時間も随分と増えた。それが祟って、今月のつかさは自分の電話料金の高さに泣いていた。
「電話止められちゃうって……ふぇぇ」つかさがそう言って私に泣きついてきた時、私は言わずにはいられなかったのだ。「とりあえず今月分だけは私も出してあげるから、次から気をつけなさいよね」私はそれが妹の為に最善だと考えながら、何でそんな事を言ってしまったのだろうという後悔の念に襲われていた。
結局、私が膨れ上がった携帯料金の半分を出してやらなければ、つかさは珍しく厳しいお父さんに携帯を止められていた事だろう。お父さんも娘に男が出来た事で、少しだけ不安なのかもしれない。何せ、私たちに彼氏が出来た事は初めての事だったし、しかも男子が苦手だったつかさに出来たというのだから、心配性なお父さんの事だ、懸念事項は絶えないのだろう。
それでも、私のお陰で何とか携帯停止の危機から脱する事が出来た時、つかさは喜色満面の笑みで私に抱きついてきた。「お姉ちゃんありがとう!」なんて無垢すぎる目が私の中の嫌な部分を刺激して痛くて、私はまともにつかさの顔も見れなかった。声も聞けなかった。聞きたくなかった。
その笑顔は私への敬愛に満ち溢れていた。私への愛情が溢れていた。それはいのり姉さんにもまつり姉さんにも見せる事が無い、唯一あの子の半身である私だけに見せる邪心も裏も気を遣う事もない、純粋に真っ白な笑顔だった。
それを見て私はいつも思う。
自惚れでは無く、まさしく私は頼りになる姉として慕われ、愛され、つかさにとって良き姉でいれている、と。
そして、その度に私は怖くなる。
本当に私はつかさにとって良き姉でいられるのだろうか、と。
そう感じるようになったのは、つかさに恋人が出来て数日が経ってからだった。
真っ赤な顔で妹がそれを告げてきた時、私はどんな顔をしていただろう。今となっては確かめる方法などありはしないが、私の頭の中に色んな衝撃が走った事だけは今でも鮮明に思い出す事ができる。だけどそれも〝衝撃〟という非常に不明確なものでしかなく、その内訳は未だに分かっていない。ただ、それが異様な自己嫌悪を呼び起こすものだという事は、一瞬で理解していたと思うけれど。
「私、どうすればいいかな。お姉ちゃん」
その問いには何て返しただろう。あれからさほどの時間は経っていない筈だが、記憶に残る妹の顔が――そう、まるであの子が自分の苦手なホラー映画を見た時のように、若干の恐怖に強張っていたのが目に焼きついたように忘れる事が出来ない。一体、私はどんな事を言ったのか。
つかさに彼氏が出来たのは、それから数日の事だった。
相手の男は私たちと同級生だったが、つかさとも私ともクラスが違っていたせいで私はその男の事は何一つ知らなかった。私が知らないのだから、つかさもほとんど初対面なのだろうと思いもしたが、後につかさに聞いてみると、廊下ですれ違ったり朝礼など整列する時にお互いの位置が近い事もあって、話す機会はちょくちょくあったらしい。それでも話す話題と言えば一言の挨拶ぐらいで、それ以上話が続く事は稀だったと聞いた。つかさは普段、男子と話す事は滅多に無かったし、その男も女子と話すのはあまり得意ではなかったらしいから、会話がすぐに途切れてしまうのは必然と言えば必然だっただろう。
それなのに、男はつかさに恋をした。一目惚れだった。一年生の頃からの片思いだったという。
男は勉強もそこそこできる方で、スポーツも人並みにこなし、そういえば球技大会では『バスケットボールに参加して結構な得点を稼いでるかっこいい同級生がいる』とクラスの女子が騒いでいたが、その〝かっこいい同級生〟が今のつかさの彼氏なのだった。そして、その噂は現実と然したる差を広げる事はなく、実際に見ても十人いれば九人は「かっこいい」とつい漏らしてしまいそうに、誠実で一途そうな、けれどそれらを鼻にかける事の無い、そしてどこか気の弱そうな印象を受ける男子だった。
そしてその見た目の印象と違わず、男は今までに何人もの女子から告白を受けていて、その度に好きな人がいるからと断りの返事を繰り返してきた。その人気を妬んだ他の男子に彼は同性愛者だと言う噂を流されたり、出会い系サイトで相手に困っていないから告白にもOKを出さないと何の脈絡も根拠も無い事で冷やかされても、彼自身が昔からそういう性格と雰囲気で有名だった事もあって、それらの噂は火力を増大させる前に沈下するのが常だった。
そんな彼氏の話を、つかさは毎日の如く楽しそうに話しに来る。
あの子が携帯を弄る時間も随分と増えた。それが祟って、今月のつかさは自分の電話料金の高さに泣いていた。
「電話止められちゃうって……ふぇぇ」つかさがそう言って私に泣きついてきた時、私は言わずにはいられなかったのだ。「とりあえず今月分だけは私も出してあげるから、次から気をつけなさいよね」私はそれが妹の為に最善だと考えながら、何でそんな事を言ってしまったのだろうという後悔の念に襲われていた。
結局、私が膨れ上がった携帯料金の半分を出してやらなければ、つかさは珍しく厳しいお父さんに携帯を止められていた事だろう。お父さんも娘に男が出来た事で、少しだけ不安なのかもしれない。何せ、私たちに彼氏が出来た事は初めての事だったし、しかも男子が苦手だったつかさに出来たというのだから、心配性なお父さんの事だ、懸念事項は絶えないのだろう。
それでも、私のお陰で何とか携帯停止の危機から脱する事が出来た時、つかさは喜色満面の笑みで私に抱きついてきた。「お姉ちゃんありがとう!」なんて無垢すぎる目が私の中の嫌な部分を刺激して痛くて、私はまともにつかさの顔も見れなかった。声も聞けなかった。聞きたくなかった。
その笑顔は私への敬愛に満ち溢れていた。私への愛情が溢れていた。それはいのり姉さんにもまつり姉さんにも見せる事が無い、唯一あの子の半身である私だけに見せる邪心も裏も気を遣う事もない、純粋に真っ白な笑顔だった。
それを見て私はいつも思う。
自惚れでは無く、まさしく私は頼りになる姉として慕われ、愛され、つかさにとって良き姉でいれている、と。
そして、その度に私は怖くなる。
本当に私はつかさにとって良き姉でいられるのだろうか、と。
そう感じるようになったのは、つかさに恋人が出来て数日が経ってからだった。
◆ 3
『きす……されちゃったよぅ……』
そんな言葉を聞きたいわけじゃなかった。
私は煮え狂うお腹の奥を必死に抑えつけながら、自分で放ったもう二度と回収できない矢に対して狂おしい程の後悔を抱いていた。そんな言の文が返ってくる事が分かっていたのなら、私はあんな質問を絶対に口に出す事など無かったというのに。
それでも私は否定しようとしていた。いつもなら聞き洩らす筈の無い妹の言葉を拒絶しようともがいていた。間違いなく記憶の引出しに入ってしまった今の言葉を、どこか二度と復元の出来ないようなゴミ箱に入れたくて、無駄に、途方もなく無駄に足掻いて、しかし聞いた言葉の重みは凶悪で。それは気軽に消せるような代物ではなく、かと言って簡単に諦められるような安易なものでも無く。私は虚しさに打ちひしがれた。
そもそも、私の達観的思い込みがいけなかったのだろう。いつまでも私の妹が、私が知っている妹のままでいるわけがなかったのだ。その事を私は、身をもって痛感した。
その日、つかさはいつもと同じように私の部屋にやって来た。勉強の分らないところを教えてほしいという名目で、私と話す為に。それでも――合間合間にする話の方が多くはあるが――つかさは前よりも勉強熱心になったし、事実この前の世界史の抜き打ちテストでは80点以上を記録する快挙を成し遂げ、それについて黒井先生が「いい手本の姉を持つと、妹も頑張るもんやな」と笑いながら言っていたのが密かに嬉しかった。私の点数は若干下がり気味だったが、そんな事は些細な事だと思う事によって、こんな点数は初めて取った、と帰り道ではしゃぐつかさを素直に褒めてあげる事ができたように思う。
思えば、つかさが自分に自信を持ち始めたのはあの頃からかもしれない。〝私の頭じゃできない〟というネガティブな引っ込み思案は徐々に影を薄めて、その代りに〝私もやればできる〟というポジティブな志向にいつの間にか変わりつつあったのだ。勉強に打ち込み始めた理由は知らないが、多少なりとも将来について考えている事、そして何より私を頼りにしてくれる事が嬉しくて、私は自分の勉強が疎かになっているのにも知らないフリをして、私よりも一歩二歩遅れをとっていたあの子の勉強に、力を添えてあげていた。
そんな毎日の勉強会の合間、つかさはいつものように話し始めた。
あの人がバスケットボールの関東大会に出る事が決まったらしい、あの人にお弁当を作ってあげた、あの人がわざわざお弁当箱を洗って返しに来てくれた。その時に顔を赤くしながら美味しかったと言ってくれた。二人して照れてしまって、それをお互いに笑い合ったりした。
笑いながら幸せそうにつかさは話しを続ける。
聞きながら、私は憂鬱だった。
つかさが少し自慢げに恋人がバスケの試合でどんな活躍をしたのか話す度、つかさが少し不安そうにこれからも自分は愛して貰えるだろうかと話す度、つかさが少し恥ずかしそうにあの人の事がもっと好きになったと頬を赤らめて話す度、私は気が狂いそうな暗闇の中に一人取り残されているかのような錯覚を感じている。頭の中で発狂したもう一人の私の悲鳴を何とか聞かないようにと内なる耳を塞いでも、もう一人の私はすぐに身の毛もよだつような金切り声で叫喚するのだ。それは私の努力を遙かに上回っていた。
けれど、その事をつかさは知らない。知るわけがなかった。
だからつかさは幸せそうな笑顔のまま、話を続ける。恐らく、つかさには惚気話という概念が無いのだろう。私だって、つかさがそんなつもりで話をしているのではないと分かっている。
あの子が私にそう言った事を話す理由は、自慢や嫌味を言う為では無く、ただ単純に幸せの共有の為に他ならない。当然だ。昔からあの子の幸せは私の幸福だったし、同時に私の幸せはあの子の幸福だった。つかさもその事を知っているからこそ、自分の幸せを何一つ隠さずに私に話に来るのだ。それが私の幸せなのだと、信じて疑わないで。
だから、私は幸せにならないわけにはいかなかった。あの子が私の幸せの為に話に来るのなら、それを蔑ろにはできない。
その為には、どうしても返答をする必要があった。自分の欲望に従順になっておざなりな相槌を返していては、つかさはやっぱり自分がいるとお姉ちゃんの邪魔になる、と罪悪感を抱くだろう。それが例え一度でもあれば、あの子は私の為に私を頼りにする回数を減らすに決まっている。それがつかさの性格なのだという事は、私が一番よく知っているのだ。
しかし、そんな気が滅入ってしまう話題に対し、私は返す言葉をあまり持っていなかった。
だから、自分の中の辞書を必死で捲っている時に返答を求められると、私はその時は考えもしていなかった言葉を反射的に口に出してしまう。それは私が自覚している短所の一つだった。私がつかさ宛てに急ごしらえした言の文は、まさにそれだったのだ。
「その人とはどこまでいったのよ」
つかさには私の顔が意地悪に見えた事だろう。現に私は口元をニヤニヤと歪めていたと思う。
だけど、それらは私の必死の演技で何とか表せていた表情にすぎない。皮一枚を隔てて、私は苦悶に歪んだ表情をしていた筈だ。言った後で私の心は凍りつき、今すぐにでも耳を塞いで蹲りたい衝動が津波のように押し寄せてきたにも関わらず、私はその荒れ狂う波の勢いを死に物狂いで耐えていたのだから。
だが、そんな私にとっての失言に自分が怯えていても、僅かな期待が私にあったのも確かなのだろう。
あのような質問をつかさにしたところで、どちらも控えめで遠慮し合ってる恋仲にはこれと言った進展もないだろうと、私は悪あがきのように高を括っていたのだ。私を戦慄させた原因は、その予想が外れる事にあった。
だが、目の前の妹の様子は見るからにおかしかった。
私の質問を聞いてしばらくの間放心していると思ったら、まるでもうすぐ熟しそうなリンゴのように次の瞬間には物凄い勢いで顔を紅潮させ、そしてやたらモジモジとしおらしくなり、先ほどまで饒舌に滑っていた舌は瞬く間にその勢いを削っていったのだ。
その時には、私が築きあげた脆弱な防波堤もすべて津波に押し流されて、残ったのは色濃い絶望のみだった。
「きす……されちゃったよぅ……」
つかさは今にも消え入りそうな声で、そうとだけ呟いた。恥ずかしそうに、嬉しそうに。幸せそうだった。
思い出す。今日の学校の帰り道は珍しく一人だった。いつもなら隣にいる筈の人物は、用事があるから先に帰っていてくれという旨が書かれたメールを帰りのHRの時に私に送って、私がB組に向かった時には既に姿を無くしていた。行方をこなたに聞いてみると『ほら、何とかの邪魔をする奴は馬に蹴られて死んじまえ、って言うでしょ? お陰でゲマズに誘う隙も無かったよ』などと嘆いていた。
家に着いて、私は主がいない事を知りつつも私の部屋の正面の扉を開けていた。やっぱり自分の部屋より子供っぽい感じがする室内はガランとしており、その中に一人で立つ自分が急に酷く滑稽に感じられて、私はすぐにその部屋を逃げるようにして後にした。
つかさが帰って来たのは、空に掛かる黒いベールが次第に町中を包み始める時間帯だった。
いつになく遅い帰りに心配して、玄関までわざわざ迎えに行った私が見たのは、果たして――今、私の目の前で顔を赤らめながら羞恥に顔を俯かせた妹と、まったく同じ仕草をしたつかさだった。
考えてもみれば、私は最初から知っていたのだ。帰りのHRにあの子からメールが届いた時から、すべてを把握できないわけがない。こなたも言っていたではないか。「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」あいつが言いたかったのはこの慣用句なのだろう。
普通ならこれらの事から何を連想する? 難易度などまるで設定していないような問題だ。答えなど一つしか無く、それ以外の解答例は存在しない。間違いの例すら有りはしないだろう。それでも私が選んだのは、解答にすらなり得ない〝無回答〟というものだった。答えようとする事ですら――それどころか、考える事も私は無意識下で放棄して逃げていたのだ。
しかし、その答えは今、私の目の前に提示されていた。逃げる暇は皆無で、私は今度こそ自分が持っていながら書こうとはしない答えと、提示されたそれとを見比べざるを得なくなった。そして、やはりそこには一つのブレも無く、私は自分の問題への正解率に初めて狂おしい程の憎悪を抱いた。
結局それからと言うものの、勉強した内容は少しも頭に入ってはくれず、私は襲ってきてもない睡魔を言い訳にして、無駄に終わった勤勉の時間に終止符を打った。
眠いと言い訳した以上、眠らないわけにはいかなかった為、私は儀礼的にベッドに入ってはみた。だが、さっきのつかさの言葉が私の頭の中で否が応でも反芻される度、私はどうしても薄暗い教室の中で密やかに唇を合わせる二人を想像してしまう。すると、どうしてだか私はそれに吐き気を催す程の嫌悪感を感じた。にも関わらず、私の頭と体はそれを繰り返すのだ。そのループが十回を回ろうかと言うところで、とうとう私は堪え切れずにトイレに駆け込んだ。
ふと、つかさの幸せそうな顔を思い出す。
女は幸せになるとあんな顔で笑うんだ。
私は、どんな顔で笑っていたのだろう?
自分の姉の立場に不安を感じ始めてから、二週間後の事だった。
そんな言葉を聞きたいわけじゃなかった。
私は煮え狂うお腹の奥を必死に抑えつけながら、自分で放ったもう二度と回収できない矢に対して狂おしい程の後悔を抱いていた。そんな言の文が返ってくる事が分かっていたのなら、私はあんな質問を絶対に口に出す事など無かったというのに。
それでも私は否定しようとしていた。いつもなら聞き洩らす筈の無い妹の言葉を拒絶しようともがいていた。間違いなく記憶の引出しに入ってしまった今の言葉を、どこか二度と復元の出来ないようなゴミ箱に入れたくて、無駄に、途方もなく無駄に足掻いて、しかし聞いた言葉の重みは凶悪で。それは気軽に消せるような代物ではなく、かと言って簡単に諦められるような安易なものでも無く。私は虚しさに打ちひしがれた。
そもそも、私の達観的思い込みがいけなかったのだろう。いつまでも私の妹が、私が知っている妹のままでいるわけがなかったのだ。その事を私は、身をもって痛感した。
その日、つかさはいつもと同じように私の部屋にやって来た。勉強の分らないところを教えてほしいという名目で、私と話す為に。それでも――合間合間にする話の方が多くはあるが――つかさは前よりも勉強熱心になったし、事実この前の世界史の抜き打ちテストでは80点以上を記録する快挙を成し遂げ、それについて黒井先生が「いい手本の姉を持つと、妹も頑張るもんやな」と笑いながら言っていたのが密かに嬉しかった。私の点数は若干下がり気味だったが、そんな事は些細な事だと思う事によって、こんな点数は初めて取った、と帰り道ではしゃぐつかさを素直に褒めてあげる事ができたように思う。
思えば、つかさが自分に自信を持ち始めたのはあの頃からかもしれない。〝私の頭じゃできない〟というネガティブな引っ込み思案は徐々に影を薄めて、その代りに〝私もやればできる〟というポジティブな志向にいつの間にか変わりつつあったのだ。勉強に打ち込み始めた理由は知らないが、多少なりとも将来について考えている事、そして何より私を頼りにしてくれる事が嬉しくて、私は自分の勉強が疎かになっているのにも知らないフリをして、私よりも一歩二歩遅れをとっていたあの子の勉強に、力を添えてあげていた。
そんな毎日の勉強会の合間、つかさはいつものように話し始めた。
あの人がバスケットボールの関東大会に出る事が決まったらしい、あの人にお弁当を作ってあげた、あの人がわざわざお弁当箱を洗って返しに来てくれた。その時に顔を赤くしながら美味しかったと言ってくれた。二人して照れてしまって、それをお互いに笑い合ったりした。
笑いながら幸せそうにつかさは話しを続ける。
聞きながら、私は憂鬱だった。
つかさが少し自慢げに恋人がバスケの試合でどんな活躍をしたのか話す度、つかさが少し不安そうにこれからも自分は愛して貰えるだろうかと話す度、つかさが少し恥ずかしそうにあの人の事がもっと好きになったと頬を赤らめて話す度、私は気が狂いそうな暗闇の中に一人取り残されているかのような錯覚を感じている。頭の中で発狂したもう一人の私の悲鳴を何とか聞かないようにと内なる耳を塞いでも、もう一人の私はすぐに身の毛もよだつような金切り声で叫喚するのだ。それは私の努力を遙かに上回っていた。
けれど、その事をつかさは知らない。知るわけがなかった。
だからつかさは幸せそうな笑顔のまま、話を続ける。恐らく、つかさには惚気話という概念が無いのだろう。私だって、つかさがそんなつもりで話をしているのではないと分かっている。
あの子が私にそう言った事を話す理由は、自慢や嫌味を言う為では無く、ただ単純に幸せの共有の為に他ならない。当然だ。昔からあの子の幸せは私の幸福だったし、同時に私の幸せはあの子の幸福だった。つかさもその事を知っているからこそ、自分の幸せを何一つ隠さずに私に話に来るのだ。それが私の幸せなのだと、信じて疑わないで。
だから、私は幸せにならないわけにはいかなかった。あの子が私の幸せの為に話に来るのなら、それを蔑ろにはできない。
その為には、どうしても返答をする必要があった。自分の欲望に従順になっておざなりな相槌を返していては、つかさはやっぱり自分がいるとお姉ちゃんの邪魔になる、と罪悪感を抱くだろう。それが例え一度でもあれば、あの子は私の為に私を頼りにする回数を減らすに決まっている。それがつかさの性格なのだという事は、私が一番よく知っているのだ。
しかし、そんな気が滅入ってしまう話題に対し、私は返す言葉をあまり持っていなかった。
だから、自分の中の辞書を必死で捲っている時に返答を求められると、私はその時は考えもしていなかった言葉を反射的に口に出してしまう。それは私が自覚している短所の一つだった。私がつかさ宛てに急ごしらえした言の文は、まさにそれだったのだ。
「その人とはどこまでいったのよ」
つかさには私の顔が意地悪に見えた事だろう。現に私は口元をニヤニヤと歪めていたと思う。
だけど、それらは私の必死の演技で何とか表せていた表情にすぎない。皮一枚を隔てて、私は苦悶に歪んだ表情をしていた筈だ。言った後で私の心は凍りつき、今すぐにでも耳を塞いで蹲りたい衝動が津波のように押し寄せてきたにも関わらず、私はその荒れ狂う波の勢いを死に物狂いで耐えていたのだから。
だが、そんな私にとっての失言に自分が怯えていても、僅かな期待が私にあったのも確かなのだろう。
あのような質問をつかさにしたところで、どちらも控えめで遠慮し合ってる恋仲にはこれと言った進展もないだろうと、私は悪あがきのように高を括っていたのだ。私を戦慄させた原因は、その予想が外れる事にあった。
だが、目の前の妹の様子は見るからにおかしかった。
私の質問を聞いてしばらくの間放心していると思ったら、まるでもうすぐ熟しそうなリンゴのように次の瞬間には物凄い勢いで顔を紅潮させ、そしてやたらモジモジとしおらしくなり、先ほどまで饒舌に滑っていた舌は瞬く間にその勢いを削っていったのだ。
その時には、私が築きあげた脆弱な防波堤もすべて津波に押し流されて、残ったのは色濃い絶望のみだった。
「きす……されちゃったよぅ……」
つかさは今にも消え入りそうな声で、そうとだけ呟いた。恥ずかしそうに、嬉しそうに。幸せそうだった。
思い出す。今日の学校の帰り道は珍しく一人だった。いつもなら隣にいる筈の人物は、用事があるから先に帰っていてくれという旨が書かれたメールを帰りのHRの時に私に送って、私がB組に向かった時には既に姿を無くしていた。行方をこなたに聞いてみると『ほら、何とかの邪魔をする奴は馬に蹴られて死んじまえ、って言うでしょ? お陰でゲマズに誘う隙も無かったよ』などと嘆いていた。
家に着いて、私は主がいない事を知りつつも私の部屋の正面の扉を開けていた。やっぱり自分の部屋より子供っぽい感じがする室内はガランとしており、その中に一人で立つ自分が急に酷く滑稽に感じられて、私はすぐにその部屋を逃げるようにして後にした。
つかさが帰って来たのは、空に掛かる黒いベールが次第に町中を包み始める時間帯だった。
いつになく遅い帰りに心配して、玄関までわざわざ迎えに行った私が見たのは、果たして――今、私の目の前で顔を赤らめながら羞恥に顔を俯かせた妹と、まったく同じ仕草をしたつかさだった。
考えてもみれば、私は最初から知っていたのだ。帰りのHRにあの子からメールが届いた時から、すべてを把握できないわけがない。こなたも言っていたではないか。「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」あいつが言いたかったのはこの慣用句なのだろう。
普通ならこれらの事から何を連想する? 難易度などまるで設定していないような問題だ。答えなど一つしか無く、それ以外の解答例は存在しない。間違いの例すら有りはしないだろう。それでも私が選んだのは、解答にすらなり得ない〝無回答〟というものだった。答えようとする事ですら――それどころか、考える事も私は無意識下で放棄して逃げていたのだ。
しかし、その答えは今、私の目の前に提示されていた。逃げる暇は皆無で、私は今度こそ自分が持っていながら書こうとはしない答えと、提示されたそれとを見比べざるを得なくなった。そして、やはりそこには一つのブレも無く、私は自分の問題への正解率に初めて狂おしい程の憎悪を抱いた。
結局それからと言うものの、勉強した内容は少しも頭に入ってはくれず、私は襲ってきてもない睡魔を言い訳にして、無駄に終わった勤勉の時間に終止符を打った。
眠いと言い訳した以上、眠らないわけにはいかなかった為、私は儀礼的にベッドに入ってはみた。だが、さっきのつかさの言葉が私の頭の中で否が応でも反芻される度、私はどうしても薄暗い教室の中で密やかに唇を合わせる二人を想像してしまう。すると、どうしてだか私はそれに吐き気を催す程の嫌悪感を感じた。にも関わらず、私の頭と体はそれを繰り返すのだ。そのループが十回を回ろうかと言うところで、とうとう私は堪え切れずにトイレに駆け込んだ。
ふと、つかさの幸せそうな顔を思い出す。
女は幸せになるとあんな顔で笑うんだ。
私は、どんな顔で笑っていたのだろう?
自分の姉の立場に不安を感じ始めてから、二週間後の事だった。
◆ 4
「……でも、つかさの彼氏ってけっこう奥手な感じだよね。親友やってる私としては、是非ともお話を伺いたいものなんだけど――ってことで、柊つかさ二等兵! 本部に経過報告されたし!」
光陰矢の如し。ふと気がつけば、例年よりもずっと長く感じた夏休みも終わっていて、二学期も半ばまで到ろうかという時期、いつもの昼休みの時間に急にこなたがそんな事を言い出した。
最初はいつものおふざけだろうと聞き流していたが、頭の中で今しがた芝居がかった口調で呑気に言われた言葉をぼんやりと二、三回反芻したところで、私はこなたが聞きたがっているところを理解し、それは私の心胆を寒からしめる内容なのだと、私は顔を青ざめさせた。
「ほ、報告って言われても……」
そんな私の心情とはまるで反対に、つかさはこなたが本来聞こうとしている部分を完全には理解していないのだろう、まるで答えの分らない問題を提示された時のように首を傾げて戸惑っている。
期待の眼差しを輝かせるこなたと、苦笑しながらも興味が無いとは言えなさそうなみゆきを見比べながら、私は今すぐにでもこの場から消え去りたいと思っていた。峰岸たちに昼食を誘われた時、変な義務感など無視して素直にOKすれば良かったと今さら後悔すれども、それは〝後悔先に立たず〟という言葉の正しさを更に思い知らされるだけでしかない。
しかし、私の頭の中は矛盾に塗れていた。聞きたくないと耳を塞ごうとする私がいる反面、聞きたいと主張する私も同時に存在したのだ。私は自分がどうしたいのか理解できなかった。
「うーん、ほらさ、端的にはっちゃけて簡単に言うと、ぶっちゃけどこまでいったの? ってことかな。私の予想ではとりあえずキスまではいったかなーなんて考えてるんだけど」
それは私が一ヵ月半前に言った事と、まったく同じ内容の質問だった。その時に聞いた答えは私の中で更新されること無く放置されている。今、私は、新しい情報を手に入れるチャンスとそれを聞き入れる恐怖の中にいた。
つかさはこなたのストレートな言葉をポヤーと聞いていたかと思うと、一瞬だけ私の方を見てから、みるみる顔を紅葉の季節に変えていってしまう。好奇心の視線に晒されながら、つかさは急に体を縮ませて、熟れた林檎のように真っ赤な顔で自分のお弁当箱と睨めっこをしていた。
「ほれほれ、よいではないかよいではないかー。言ってしまえば楽になれるぞよー」
言ってしまえ。
頭の中にこなたを煽る私がいる。
「あの、泉さん? つかささん達にはつかささん達のペースがありますし、無理に聞き出すのはちょっと……」
言わないで。
頭の中にみゆきを支持する私がいる。
「……」
そして、何も言えない私がいる。
いつの間にか、私までもが自分の弁当箱を睨みつけていた。以前より腕前が上がったように見える妹の手作り弁当は、彩りを失ったように私には見える。さっき口の中に入れたばかりの卵焼きの味は、とっくに分らなくなっていた。
「でも、えと、その……報告と言われても、困っちゃうかも……」
「……なるほど、確かにつかさの言うとおりかもね。つまり、尋問形式でないと燃えないと! そういう事だね!?」
「ええっ!?」
こなたはまるで、難解の問題がようやく解けた時のようにはしゃぎながら、持っていたチョココロネも放り出してつかさへと詰め寄る。密かに逃走を試みていたつかさの努力も虚しく、一瞬で距離を詰めたこなたは素早くつかさの胴体に雁字搦めになって、つかさの体の自由を完全に奪い取っていた。
もうこの時点でこなたを止める事は自分には無理だと理解していたのだろう、みゆきは制止の言葉を出しかけたところで飲み込んで、結局いつもの苦笑いで二人のじゃれ合いを傍観するに徹するようだった。
と、そのみゆきの目が不意に私の方へ向いた。そして、何事かを頼むような仕草を見せて、私の反応を待っている。
『止めてあげてください』
みゆきの目は言外にそう語っていた。こなたの行き過ぎた行動を止める役割分担は、いつも私なのだ。今回も妹の為に私がこなたを引き剥がすと思っているのだろう。
でも、私はそうしなかった。頭の中で揉めつつも、どこかで好奇心……いや、妹への執着心と言うべきか。それが知らぬ間に優位に立っていたのだ。怖いもの聞きたさ、がエスカレートしたとしか言いようが無かった。
みゆきはそんな私に驚いたような視線を送っていたが、特に何も言っては来ない。眼鏡の奥ののんびりとした瞳が、私ですら知らない心の奥深くを見透かしているようで、私はみゆきから目を逸らした。誤魔化す為に弁当箱を突こうと思っても、いつの間にか中身は空っぽになっていて、自分がどれだけ他の事に意識を取られていたのか思い知らされる。
「言え、言うんだ! 田舎のお袋は泣いてるぞ?」
こなたは安っぽい昼ドラの刑事のようにお決まりの常套句を周りに聞こえない程度に並べ立て、つかさの脇腹をくすぐり始めていた。強制的に笑わせられてるつかさの息は絶え絶えで、やめて欲しいと言っているのだろうが、最早それは言葉になっていない。私は如何にも〝やれやれ〟といったフリをして、それを眺めていた。
「むぅ、つかさも中々強情だなぁ……まだ吐かないとは予想外だよ」
「はぅぅ……こなちゃん、もうやめてよぅ。私、息ができなくて……」
「でも、つかさ? 実は見ちゃったんだよ」
「……何を?」
「この前、教室で二人きりだったよねえ? その時にキ――むぐっ」
胸がギュッと絞められているように苦しくなる。夏休みに入る前のつかさが脳裏に過ぎる。あの夜の間、ずっと続いていた嘔吐感がまた込みあげて来るのを感じて、私は無意識に口元に手を当てていた。
さっきまでこなたに支えられていなければ立ってすらいられそうになかったつかさが、息を吹き返したようにこなたの口を塞いでいる。こなたの目は〝してやったり〟という風に細められ、口元はつかさの手で見えないが間違いなくニヤニヤと歪んでいるのだろう。
私はこなたが嘘を言った事を知っていた。こなたはあの日、何かのアニメの限定商品があるからとゲーマーズに行った筈だったし、そもそも、こなたは具体的な日にちも、場所だって教室としか言っていない。捉えようはいくらでもあるのだ。つかさはそれを勝手にあの日に結びつけて考え、自ら答えを露呈してしまった。少し考えれば、こなたが鎌を掛けている事など分る筈なのに。
「おおお姉ちゃん、もしかしてこなちゃんに言っちゃったの!?」
「ばか、言ってないわよ。あんたが今言ったんでしょ」
「え?」
ポカンとしたつかさの目は不思議そうにこなたの方へ向いていって、こなたはそんなつかさを見て、
「つかさは素直だねえ。将来、オレオレ詐欺に引っ掛かるタイプ?」
一言、そう言った。実に的を得ている。
つかさにはもう何か言い返す余力も無いようで、力なくその場にへたり込んだかと思うと、すぐに私の所に泣きついてきた。恥ずかしそうな顔を私の胸に埋めて隠すつかさには何の他意も無いのだろうが、嗅ぎなれた春のような匂いのする妹の体は無性に柔らかく女らしさを増したように感じられて、そして何故だか無性に懐かしかった。
そういえば、最近はこの子の苦手なホラー映画を見ても、夜になって私の所へ来ることが無くなった。ちょっと前までは、枕を持って顔を赤くしたつかさを苦笑しながらベッドに招き入れて、そのまま狭い布団の中で暑苦しくたって一緒に朝を迎えていたのに。
ふと、私はある事に気づいた。今年の夏休み、例年より涼しくて寝やすいなと感じたのは、つかさが私のベッドに潜り込まなくなったからか。懐の中の温もりを感じながら、そう思った。
この時、私は完全に気を抜いていた。話はもう終わったものだと、そう考えていた。だから余計に、心の準備もロクに出来ていない私には、こなたが続けた言葉が抉るように突き刺さって、痛かった。
「でも意外だったなあ。つかさの事だから、てっきり手を繋ぐのも恥ずかしがってるものかと。まあ、有り得ないけど、キス以上までいってたりして――」
こなたの言葉は、途中までしか聞き取れなかった。
びくっ、と私の懐に辛うじて収まった体躯が、一瞬飛び跳ねたように身を震わした。
同時に、私はクラスの喧騒から離れて、どこか次元の違う暗闇の世界に一人で枯れ果てた木のように突っ立っていた。当然、それは今の私の心情を比喩で表したにすぎないが、どんな言葉を用いてもこの絶望感のすべてを表現する事などできやしないと、私は自負している。それほどの絶望の奥底に、私は立ち尽くしていた。
だって、こなたは当ててしまったではないか。それに妹はどう反応した。密着してなければ分からないくらいの反応で何を物語った? ……夏休み、妹は何回一人で外出していただろう。
真っ暗がりの中で、私はこなたが言った言葉の意味を再び考える。考えるまでもない。つまりはそういう事。女子高校生にもなって、その意味を理解できないほど私はお子様じゃない。
やっぱり、聞くべきではなかった。みゆきに頼まれた通り、あの時こなたを止めるべきだったのだ。つかさの為では無く、私の為に。
つかさが少しだけ顔を上げて、私を見た。その表情は私の予想を少しも裏切ってはくれず、私の大好きで大嫌いな顔が、恥ずかしそうに、嬉しそうに、笑っていた。幸せそうだった。
女は幸せになるとこんな顔で笑うんだ。
私は……笑えているのだろうか?
妹に恋人が出来て、実に三ヶ月もの月日が流れていた。
光陰矢の如し。ふと気がつけば、例年よりもずっと長く感じた夏休みも終わっていて、二学期も半ばまで到ろうかという時期、いつもの昼休みの時間に急にこなたがそんな事を言い出した。
最初はいつものおふざけだろうと聞き流していたが、頭の中で今しがた芝居がかった口調で呑気に言われた言葉をぼんやりと二、三回反芻したところで、私はこなたが聞きたがっているところを理解し、それは私の心胆を寒からしめる内容なのだと、私は顔を青ざめさせた。
「ほ、報告って言われても……」
そんな私の心情とはまるで反対に、つかさはこなたが本来聞こうとしている部分を完全には理解していないのだろう、まるで答えの分らない問題を提示された時のように首を傾げて戸惑っている。
期待の眼差しを輝かせるこなたと、苦笑しながらも興味が無いとは言えなさそうなみゆきを見比べながら、私は今すぐにでもこの場から消え去りたいと思っていた。峰岸たちに昼食を誘われた時、変な義務感など無視して素直にOKすれば良かったと今さら後悔すれども、それは〝後悔先に立たず〟という言葉の正しさを更に思い知らされるだけでしかない。
しかし、私の頭の中は矛盾に塗れていた。聞きたくないと耳を塞ごうとする私がいる反面、聞きたいと主張する私も同時に存在したのだ。私は自分がどうしたいのか理解できなかった。
「うーん、ほらさ、端的にはっちゃけて簡単に言うと、ぶっちゃけどこまでいったの? ってことかな。私の予想ではとりあえずキスまではいったかなーなんて考えてるんだけど」
それは私が一ヵ月半前に言った事と、まったく同じ内容の質問だった。その時に聞いた答えは私の中で更新されること無く放置されている。今、私は、新しい情報を手に入れるチャンスとそれを聞き入れる恐怖の中にいた。
つかさはこなたのストレートな言葉をポヤーと聞いていたかと思うと、一瞬だけ私の方を見てから、みるみる顔を紅葉の季節に変えていってしまう。好奇心の視線に晒されながら、つかさは急に体を縮ませて、熟れた林檎のように真っ赤な顔で自分のお弁当箱と睨めっこをしていた。
「ほれほれ、よいではないかよいではないかー。言ってしまえば楽になれるぞよー」
言ってしまえ。
頭の中にこなたを煽る私がいる。
「あの、泉さん? つかささん達にはつかささん達のペースがありますし、無理に聞き出すのはちょっと……」
言わないで。
頭の中にみゆきを支持する私がいる。
「……」
そして、何も言えない私がいる。
いつの間にか、私までもが自分の弁当箱を睨みつけていた。以前より腕前が上がったように見える妹の手作り弁当は、彩りを失ったように私には見える。さっき口の中に入れたばかりの卵焼きの味は、とっくに分らなくなっていた。
「でも、えと、その……報告と言われても、困っちゃうかも……」
「……なるほど、確かにつかさの言うとおりかもね。つまり、尋問形式でないと燃えないと! そういう事だね!?」
「ええっ!?」
こなたはまるで、難解の問題がようやく解けた時のようにはしゃぎながら、持っていたチョココロネも放り出してつかさへと詰め寄る。密かに逃走を試みていたつかさの努力も虚しく、一瞬で距離を詰めたこなたは素早くつかさの胴体に雁字搦めになって、つかさの体の自由を完全に奪い取っていた。
もうこの時点でこなたを止める事は自分には無理だと理解していたのだろう、みゆきは制止の言葉を出しかけたところで飲み込んで、結局いつもの苦笑いで二人のじゃれ合いを傍観するに徹するようだった。
と、そのみゆきの目が不意に私の方へ向いた。そして、何事かを頼むような仕草を見せて、私の反応を待っている。
『止めてあげてください』
みゆきの目は言外にそう語っていた。こなたの行き過ぎた行動を止める役割分担は、いつも私なのだ。今回も妹の為に私がこなたを引き剥がすと思っているのだろう。
でも、私はそうしなかった。頭の中で揉めつつも、どこかで好奇心……いや、妹への執着心と言うべきか。それが知らぬ間に優位に立っていたのだ。怖いもの聞きたさ、がエスカレートしたとしか言いようが無かった。
みゆきはそんな私に驚いたような視線を送っていたが、特に何も言っては来ない。眼鏡の奥ののんびりとした瞳が、私ですら知らない心の奥深くを見透かしているようで、私はみゆきから目を逸らした。誤魔化す為に弁当箱を突こうと思っても、いつの間にか中身は空っぽになっていて、自分がどれだけ他の事に意識を取られていたのか思い知らされる。
「言え、言うんだ! 田舎のお袋は泣いてるぞ?」
こなたは安っぽい昼ドラの刑事のようにお決まりの常套句を周りに聞こえない程度に並べ立て、つかさの脇腹をくすぐり始めていた。強制的に笑わせられてるつかさの息は絶え絶えで、やめて欲しいと言っているのだろうが、最早それは言葉になっていない。私は如何にも〝やれやれ〟といったフリをして、それを眺めていた。
「むぅ、つかさも中々強情だなぁ……まだ吐かないとは予想外だよ」
「はぅぅ……こなちゃん、もうやめてよぅ。私、息ができなくて……」
「でも、つかさ? 実は見ちゃったんだよ」
「……何を?」
「この前、教室で二人きりだったよねえ? その時にキ――むぐっ」
胸がギュッと絞められているように苦しくなる。夏休みに入る前のつかさが脳裏に過ぎる。あの夜の間、ずっと続いていた嘔吐感がまた込みあげて来るのを感じて、私は無意識に口元に手を当てていた。
さっきまでこなたに支えられていなければ立ってすらいられそうになかったつかさが、息を吹き返したようにこなたの口を塞いでいる。こなたの目は〝してやったり〟という風に細められ、口元はつかさの手で見えないが間違いなくニヤニヤと歪んでいるのだろう。
私はこなたが嘘を言った事を知っていた。こなたはあの日、何かのアニメの限定商品があるからとゲーマーズに行った筈だったし、そもそも、こなたは具体的な日にちも、場所だって教室としか言っていない。捉えようはいくらでもあるのだ。つかさはそれを勝手にあの日に結びつけて考え、自ら答えを露呈してしまった。少し考えれば、こなたが鎌を掛けている事など分る筈なのに。
「おおお姉ちゃん、もしかしてこなちゃんに言っちゃったの!?」
「ばか、言ってないわよ。あんたが今言ったんでしょ」
「え?」
ポカンとしたつかさの目は不思議そうにこなたの方へ向いていって、こなたはそんなつかさを見て、
「つかさは素直だねえ。将来、オレオレ詐欺に引っ掛かるタイプ?」
一言、そう言った。実に的を得ている。
つかさにはもう何か言い返す余力も無いようで、力なくその場にへたり込んだかと思うと、すぐに私の所に泣きついてきた。恥ずかしそうな顔を私の胸に埋めて隠すつかさには何の他意も無いのだろうが、嗅ぎなれた春のような匂いのする妹の体は無性に柔らかく女らしさを増したように感じられて、そして何故だか無性に懐かしかった。
そういえば、最近はこの子の苦手なホラー映画を見ても、夜になって私の所へ来ることが無くなった。ちょっと前までは、枕を持って顔を赤くしたつかさを苦笑しながらベッドに招き入れて、そのまま狭い布団の中で暑苦しくたって一緒に朝を迎えていたのに。
ふと、私はある事に気づいた。今年の夏休み、例年より涼しくて寝やすいなと感じたのは、つかさが私のベッドに潜り込まなくなったからか。懐の中の温もりを感じながら、そう思った。
この時、私は完全に気を抜いていた。話はもう終わったものだと、そう考えていた。だから余計に、心の準備もロクに出来ていない私には、こなたが続けた言葉が抉るように突き刺さって、痛かった。
「でも意外だったなあ。つかさの事だから、てっきり手を繋ぐのも恥ずかしがってるものかと。まあ、有り得ないけど、キス以上までいってたりして――」
こなたの言葉は、途中までしか聞き取れなかった。
びくっ、と私の懐に辛うじて収まった体躯が、一瞬飛び跳ねたように身を震わした。
同時に、私はクラスの喧騒から離れて、どこか次元の違う暗闇の世界に一人で枯れ果てた木のように突っ立っていた。当然、それは今の私の心情を比喩で表したにすぎないが、どんな言葉を用いてもこの絶望感のすべてを表現する事などできやしないと、私は自負している。それほどの絶望の奥底に、私は立ち尽くしていた。
だって、こなたは当ててしまったではないか。それに妹はどう反応した。密着してなければ分からないくらいの反応で何を物語った? ……夏休み、妹は何回一人で外出していただろう。
真っ暗がりの中で、私はこなたが言った言葉の意味を再び考える。考えるまでもない。つまりはそういう事。女子高校生にもなって、その意味を理解できないほど私はお子様じゃない。
やっぱり、聞くべきではなかった。みゆきに頼まれた通り、あの時こなたを止めるべきだったのだ。つかさの為では無く、私の為に。
つかさが少しだけ顔を上げて、私を見た。その表情は私の予想を少しも裏切ってはくれず、私の大好きで大嫌いな顔が、恥ずかしそうに、嬉しそうに、笑っていた。幸せそうだった。
女は幸せになるとこんな顔で笑うんだ。
私は……笑えているのだろうか?
妹に恋人が出来て、実に三ヶ月もの月日が流れていた。