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指切りげんまん

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だれでも歓迎! 編集
 指切りげんまん この子指に誓いを立てよう
 指切りげんまん もしもそれが嘘になったとしても
 指切りげんまん 針千本飲ますより、前よりもっと貴女を信じよう
 指切りげんまん まじないの終わりに小指を離せば願掛け終わり

     "ずっと一緒に"

 指切りげんまん 指切った







    指切りげんまん









 カレンダーを見る。日付は世が入学式と言う、子供が居る家庭ならとても重要な行事が開催される前日を指していた。
 本来ならば、明日に備えて長い休みで惚けた頭を新しい生活に向けて切り替えて、万全の状態で幸先の良いスタートを切るべきなのだろうが、机に頬杖を着いてボンヤリと外を眺める彼女の表情は毎日の鬱積が全て襲い掛かっているかのように憂鬱そうだった。
 長期休暇の最後の一日、時刻は壁に掛かっている時計の針を信じるのならば、午前九時頃を示しており、普段の休みは軽く昼を越えるまで熟睡する彼女にしてはかなり珍しい事だった。その証拠に、休みの日にも関わらず何時もは八時には起きている姉も最後の休みぐらいはだらける、と言って未だに起床の兆しを見せていない。
 しかし、一人窓際に設置された机に頬杖を着く少女は何時ものように姉と遊びたい素振りも見せずにぼんやりと窓の外を眺めるだけだった。その様子からは、姉と遊びたい、と言うよりむしろ、姉が寝静まっている事に安堵しているようにすら見える。
 やがて、ぼんやりと虚空の空を眺めるだけだった瞳が、空を背に颯爽と翼を羽ばたかせる鳥を捉えた。鳥は春の来訪に歓喜するかのように鳴きながら、滑空する。
 その鳥が彼女の視界から消え去っても、彼女の瞳にはその鳥が映っているようだ。楽しげに空を飛び回る鳥達を見て、彼女は過去の情景を思い出していたのだから。



 カァ、カァ。
 乾いたような震える鳴き声が夕染めの空に響き渡る。その鳴き声はともすれば宵闇の接近を知らせるように、ともすれば地に足を着けねば生きて行けない人々を小馬鹿にした嘲笑のように響いていた。
 人気の無い公園。錆び付いた遊具が無造作に鎮座して、その姿を燃える赤い太陽の光を受けて淡く染めている。その公園の一角、一辺が三メートルほどしかない正方形の砂場に尻餅を付いて泣いている幼い少女が居た。
 少女が肩を震わせてしゃくりあげる度に、頬を伝う透明な雫が砂場に落ちて砂の色を濃くさせた。彼女の姿は、服には所々に泥が付いていて、手も同様に薄汚れて、その汚れは顔にまで及んでいた。
 そんなみすぼらしい格好をした彼女に追い討ちを掛けるように黒い羽の装束にその身を覆った烏の嘲笑が物哀しい公園の静寂を打ち破る。少女は烏の威嚇行為に幼い容姿に違わぬ恐怖心を身体を震わせる事によって明瞭に表現した。
 しかし、宵闇の接近と獣の威嚇の恐怖心に押し潰されそうになっているにも関わらず彼女はその場から離れようとしなかった。それどころか、沢山の砂を小さな両手に一生懸命に掬い、灰色の砂地の上に乗せてはポンポンと叩いて形を整えると言う行為を繰り返し行なっていた。
 幼児がよくやるような、自己満足の為の小さな山作り。普通なら友達や家族と複数で行うようなものにも思えるが、彼女の周りに他人は居ない。虚しくその身を段々と翳らせて行く遊具が鎮座しているだけだ。
 けれど、彼女はめげずに砂を掬い続けた。脳裏に浮かぶのは、白い陽光を世界に降ろす太陽が、赤く染まる前の映像。大きな砂山の完成した姿を見て、喜んでいる二人の少女。
 そこにやって来た、意地の悪い醜悪な笑みを称えた男子の三人組。
 三人組によって見るも無惨に破壊されて行く大きな砂山。
 それがやがて平坦な砂地に姿を戻した時、一人の少女は泣いて走り去った。
 友達が帰ってしまっても、彼女は悔しさからか、必死に砂山を作り続ける。宵闇が世界を包み込んで、頼りになる光が街灯だけとなっても、彼女は手を動かし続けた。時折震える小柄な体、一つ二つと数を増やして行く、砂に滲む水の跡。酷く寂寥感が漂う小さな公園で、彼女は一人だった。
 手からは赤い液体が所々から滲んでいる。砂の中に潜む鋭利な角を持った小石が少女の綺麗な白い指を傷つけていた。痛みはあった。幼心から、いっそ泣いてしまいたい気分だった。それでも此処で妥協してしまったら、何かが崩れる気がしていた。三人組の男子の姿が脳裏を過ぎる。あのにやにやと笑う顔を思い出す度に手を必死に動かした。
 だが、小さな体しか持たない少女が一人で大きな砂山を作るなど、まるで途方の無い道を歩いて行くように容易い事ではなく、額から伝う汗を何度も拭っても完成の兆しは一向に現れない。空が茜色に染まっていた時には近くで鳴いていた烏の声も、今では幾ら耳を澄まそうと聞こえる事はなかった。あるのは、重苦しく虚しいだけの静寂。それは幼い少女には過酷なものだった。
 涙が止めどなく溢れて来る。
 寂しい、辛い、苦しい。そんな負の感情ばかりが彼女の心の中に蔓延していて、遂には静寂が広がる公園の中に響き渡ってしまうほどの嗚咽が零れ始めた。それは静かな波紋のように、公園の中に少しずつ染み込むように浸透して行き、無機質な遊具が散りばめられるだけの公園に彩りを加える。少女は自身の涙を砂に溶かしながら山を完成へと導いて行った。
つかさ!」
 その時、突如公園の中に響く少女の嗚咽以外の声。それは突き刺さるようにして少女の鼓膜を震わせ、そしてまた彼女の体を震わせた。宵闇に包まれて、頼りない街灯が照らしだす公園の入口に、新たな登場人物はその表情を心配の一色に染めて、肩で息をしながら立っていた。
「お姉ちゃん……?」
 ひっく、と一度しゃくりあげ、少女は公園の入口へと視線を投げる。それを確認して、少女の姉は息を整えながらゆっくりと少女の元へと歩み寄った。一歩、歩を進める度に砂利を踏みしめる音が園内に響き、そして訳の分からない焦燥を少女に与えた。
「あんた……こんな所まで何やってんのよ!」
 少女の目の前まで歩を進めた時、彼女は有らん限りの声で叫んだ。静寂を持て余していた園内は、一瞬にしてその情景を変えたかのように見えた。他に誰も居ない空間。そこに佇む二人の少女。つかさ、そう呼ばれた少女はしどろもどろになりながら作りかけの山を見つめた。
「私がどれだけ……!」
 言って、姉の少女はつかさの肩を握り締めた。痛みが伝わって来るほどの力が込められた手が、つかさの双肩に食い込み、思わずつかさは小さく声を漏らした。
「……っ……!」
 痛みからなのか、それとも先ほどまで感じていた寂寥からか、はたまた姉が来た事への安心感か、つかさは再び涙を流す。それでも怒られている、と自分の立場を理解した時には声を出すまい、と喉の奥から込み上げて来る激情を一生懸命に塞ぎ込んでいた。
 一思いに感情を吐き出せない為に暴れ狂う激情は体の震えと言う形で顕著に表れた。足までもが震え、肩が震え、瞳が揺れる。最早、立っている事さえ辛そうな様子であったが、それでも姉はつかさの肩に置いた手の力を弱めようとはしなかった。
「泣くぐらいなら何で一人でこんな所に居るの! こんな時間に、一人で!」
 姉の怒鳴り声は針となってつかさの心に刺さった。
 言いたくなかった。虐められて、山を崩されたから一人で作り直していたなどと、幼いなりの誇りと羞恥が入り混じって、言えなかった。それは、この涙の訳にも直結している。彼女は黙秘を続けた。自分が悪いとは分かっていても、黙り続けた。
 ただ、瞳から止めどなく流れ出る涙だけは止めようと思っても止められなかった。
「ごめん……なさい」
 ただ一言、言えたのはこれが限界だった。それ以上の事は、嗚咽が妨害している所為で言葉にならず、やっと言えたその言葉も全力で頑張った結果だった。
 姉は怒気を露わにしながら更につかさの双肩に力を込める。それは大人にしたら可愛いものなのかもしれないが、子供には大きな痛みだ。つかさは、それでも何も言わない。言えなかった。
「ごめんで済む問題じゃない! 何か……何かあんたにあったら私は……っ」
 そう言って、彼女は顔を伏せた。怒りで抑え込んでいたに過ぎない悲しみの感情はとうとう壁を打ち破り、解放されてしまった。溜め込んでいた涙が次々にその時を待っていたと言わんばかりに頬を伝う。やがて彼女もつかさと同じように小さく嗚咽を漏らし始めた。
 つかさの両肩に置かれた手には、もう力は入っていない。それを示すかのように、姉の体は崩れ、砂場に座り込み、その場で泣きじゃくり始めた。
「あんたが何時まで経っても帰って来ないから……っ、何かあったのかと思って……!」
 彼女が頑張って紡ぎ出した言葉も、涙に濡れていてろくに聞きとる事が出来ない。それでもつかさには、その全ての想いが伝わったような気がした。自分に対してどれだけの心配をしてくれていたか、自分に何かあったら、姉がどれだけ悲しむか。その全てが。
「ごめ……なさっ……!」
 その内に、つかさも足の力が抜けてへたれ込んだ。姉と向かい合うようにして、その場に座り込み、年相応の幼さを表すかのように泣きじゃくり始めた。今は、そんな二人を嘲笑う烏も、つかさを虐める男子たちも居ない。邪魔が無いから、二人は大声で泣いた。
 姉としての威厳なんて、どうでも良くなっていた。自分が妹を安心させてあげなければならないのに、自分の涙は止まらない。だから、涙に濡れる視界の中で、手を伸ばした。
 自分が悪い事をしていたなんて分かり切っている事だった。姉の様子はそれを痛ましいまでに表していたし、自分でもそれがどうしてか分からない訳じゃなかった。けれど、後で怒られるのだとしても、今だけは甘えたかった。だから、涙に濡れる視界で手を伸ばした。
 お互いが居る位置なんて、分かりはしない。だが、感覚に身を任せて伸ばした手の先には確かにお互いが望む温もりがあって、二人は確かめるように何度か触れては離れを繰り返して、やがて堅くその手を繋いだ。恋人同士がそうするように、指を絡め合うと、温もりが増した気がした。

 彼女が小学生低学年の時の、悲しい記憶の中に入った淡い想い出。
 それは、泣きじゃくる姉妹の姿を映し出した過去の絵画。



 気付けば壁に掛けられた時計の針は昼時を指している。姉は起きたのだろうか、そんな事を思いながら彼女はぼんやりと眺めていた空に眼を凝らした。
 青い空は何も変わらない。経過した時間が少しだったからか、流れる雲の数も、空を行き交う鳥達も、先刻に眺めていたように何も変わっていない。そして、彼女の心に未だにへばり付く、霞みがかった気持ちも、変わらない。
 頬を支えていた手を離すと、彼女は机に突っ伏した。明日に控える新しいスタートラインが頭の中を掠める度に、どうしようか、と机の上に転がる消しゴムを手で弄ぶ。中途半端な気持ちのままで明日を迎えても、彼女は素直に明日と言う日を喜べないだろう。
 コロコロ、と消しゴムが机の上を転がる。ぼーっとその光景を眺める彼女の表情は相変わらずぼんやりとしたままで、無意識の内に転がって行く消しゴムの行方を目で追っていた。それは、机の端から落ちる前に、一つの短い木の棒に当たって静止した。
「あ……」
 何かを思い出したように、彼女は小さく声を上げる。その眼の先には、やはり一つの木の棒。否、よく見ればそれは限界と言うに相応しいほどに使い込まれた鉛筆だった。
 最早、使いようが無いくらいに削られて、所々が剥げている鉛筆には、現役の時の名残か、ピンク色の塗装が少しだけ残っていて、彼女が使っていたとなると、その女の子らしさを誇張していた。尖っているべき先端は丸まった黒鉛しかなく、やはり使う事は出来そうにない。
「……」
 彼女はそれを手に取り、眼の前に近付けた。
 より鮮明になるその鉛筆の姿は傷だらけで、使用者の苦労を窺わせるようだ。
 彼女は自分が求めている答えが過去にあるような気がして、そっと目を伏せる。
 忘れかけていた記憶の回廊を辿る為に、彼女は自らの身を静かの海へと投じた。



 勉強に対しての意識が希薄になっていた時の事だった。テストを前日に控えるまで勉強と言える行為は全くと言って良いほどせず、それよりもテレビを見たりするのが楽しみだった。
 テストの結果が出る度に父親に叱られたが、"次は頑張る"を毎回の言い訳にして結局何時も同じような結果を辿っていた。誰にも訪れる反抗期だと、誰もが思っていたが、その実、彼女は幼いなりに抱えていた劣等感の所為だと悩んでいた。
 何をするにも片割れの姉と比べられる。自分には要領よく物事をこなす事など出来はしなかったから、何もしなかった。どうせ比べられて自分が小さく見えるのならば、最初から何もしないで悪い結果を取るべくして取った方が余程マシだった。
 だが、そんな心の内を知らなかった父親は、彼女が何時もと同じように悪い結果を取って来た時に心を鬼にして叱咤した。何時もとは違う父親の反応がとても酷い事をされている、と彼女に思わせた。柔和な微笑みを絶やさない父親の怒っている様が、とても怖く見えた。
 怒られている最中は何も言わなかった。頼りにしている姉は既に自室へと引き下がっていた。それが、酷く孤独に思えた。悪い事をしたのは自分、けれど自分が抱える悩みを知らずに色々と言ってくる父親が憎らしくさえ思えた。
『かがみはあんなに勉強しているだろう?』
 父親がそう言った時、彼女は眼に涙を一杯に溜めて、泣くのを堪えた。
 また、"かがみは"。どうして自分はこんなに姉に劣るのだろう。どうして周りの人達は自分を見てくれないのだろう。そんな想いが交錯して、胸が苦しくなった。何も知らない癖に、そう叫びたかったが、彼女はそれを自制心で抑え込んだ。全部自分が悪い。頑張ろうとしない自分が悪くて、良い結果を取る為に頑張っている姉が悪い訳が無いと、込み上げる激情を塞ぎ込んだ。
 その日の夜、彼女は咽び泣いた。声を押し殺して、誰にも聞こえないようにした。こんな事で泣いていたら、また姉と比べられると思っていた。そんな事はあるはずがないのに幼心故の思いこみが彼女を支配していた。誰とも話したくない。特に、姉とは。
 だから、声を押し殺して咽び泣いた。
「つかさ……?」
 それなのに、一番来て欲しくなかった人物は容易く彼女の部屋の扉を開いてしまった。部屋の利口に現れた姉の姿を見て、彼女は泣き腫らした目を少しだけ持ち上げた。そこには、申し訳なさそうに顔を顰める姉。それだけで、その場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「その、大丈夫かな……って」
 今の彼女に姉の心配した言葉などは慰めにもなりはしない。上の立場にいる者の、皮肉にしか聞こえなかった。
 追い出したい。
 けれど唇が震えて言葉は紡がれない。
 逃げだしたい。
 けれど足は脳の制御下から抜け出してしまったかのように動かない。
「……」
 姉は、静かに彼女に近づいた。しゃくりあげるばかりで何も言わない彼女は黙ってその様子を見詰めていた。同情を向けられようものならば、即座に突き放して一人で咽び泣くつもりだった。今は、姉の行動に何か物を言う気にはなれなかった。
「……!」
 姉は何も言わずに彼女を抱き締めた。ただ無言で、彼女を両腕で包み込んだ。
 暖かい温もりが体全体を通して彼女に伝わり、流れ出ていた涙も止まる。驚愕に眼を見開く彼女の視界に映るのは、姉の髪の毛と、その向こうにある白い壁。何を考えていたかなど、頭の何処かに吹き飛んでしまったかのように忘れていた。
 姉に対する劣等感も影を潜め、彼女に与えられていたのはとても暖かな温もり。安心感だった。母親に抱かれていると錯覚してしまうくらいに優しげな抱擁を、彼女は何も言わずに黙って受け入れていた。
「辛かったら、私に言って良いから」
 そうして、腕に力を込める姉の声はただただ優しかった。荒んでいた彼女の心を微温湯で温めてくれるような、そんな姉の行動は彼女にとって予想外のものはあったが、それでも悪い方向に向かうものではなかった。
「うん……」
 しかし、その優しさに甘えて泣くような真似を彼女はしなかった。それは姉に対して抱いていた劣等感への、些細な反抗だったのかも知れない。
 その様子の彼女を見て、姉は緩慢な動作で体を離す。体に残る温もりと、鼻孔を擽る姉の甘い香りが離れていく事に少しだけ寂しさを感じていても、彼女はそれを広言しなかった。
「つかさ、これ、あげる」
 体を離して、暫くの時が経過するまで彼女達は無言のままだった。だが、そこに流れる沈黙に気まずさと言う重苦しいものは存在しない。むしろ全てが解決したかのような爽やかな沈黙だった。その中で、姉は彼女に手を差し出した。握り拳のままで、中に何があるのかは彼女には分からなかったが、姉の眼を不思議そうに見つめると、姉は優しげな光を瞳に称えて、手を開いた。
「これ……?」
 その中にあったのは、誰もが持っているような何の変哲もない一本の鉛筆だった。桃色で統一された、女の子が持つに相応しいような可愛らしい印象を与える鉛筆を、姉は恥ずかしそうに頬を掻きながら彼女に手渡す。彼女は、自分の手の中へと渡った鉛筆をもう一度まじまじと眺めた。
「つかさが頑張れるように、私からのプレゼント」
 姉はそう言って、また恥ずかしそうに髪の毛を弄る。
「……ありがとう」
 彼女は、先刻のような表情を捨てて、満面の笑みでそれに応える。
 顔を見合せて微笑む二人、そこにあるのは劣等感と言う重さを持った感情ではなく、美しいまでの姉妹愛を感じさせる光景だけだ。
 上二人の姉達が、扉の隙間から顔を見合せて安心したように溜息を吐き、そんな場を邪魔してはいけないと、そそくさとその場を退場した事に、二人は気付かない。

 彼女が小学校高学年の時の、劣等と言う複雑な感情の中に生まれた、ほろ苦い想い出。
 それは、彼女が劣等感を少しの間だけ忘れられた、刹那の追憶。



 これのお陰であの後は頑張れたんだっけ、彼女は手の中に転がる使い古された鉛筆を見て、感慨深く溜息を洩らした。当時の面影は微塵も残っていないが、それでもこの鉛筆がとうとう使えなくなった時の事は今でも印象深く覚えていた。
 辛抱強く鉛筆削りの中に差し込んで、だがそれを回せるほどの長さを持ってなかった鉛筆はそれ以上は尖った黒鉛を見せてくれる事はなかった。何故だか、無性に悲しくなった。今までずっと使い続けていたから、愛着が湧いていたのかもしれないし、姉から貰った折角の贈り物が使えなくなったのが素直に悲しかったのかもしれない。
 けれど、それと同時に心に湧き上がった達成感は忘れようにも忘れられないものだった。姉は、良く頑張った、と頭を撫でてくれたし、家族みんなが物を大事に出来る子、と褒めてくれた。だから、その鉛筆が無くても頑張って行けたのだ。
「……はあ」
 昔の事は覚えていて、それを思い出すと良い気分になれるのに、何故だか今はとても虚しかった。空を仰げば空っぽの空に大気が風を吹かせてそよいでいる。木々のざわめきが遠くから集まって来て、自分はその中心にいるのだと思うと、やはり虚しく思うのだ。
 理由は、分かっていた。
 幼い頃にも抱いていた劣等感が今になって浮き彫りになっているのだ。あの頃はそれを乗り越えられたから、大丈夫だった。今だって、姉と同じ高校の入学式を控えているし、抱えている心配事は杞憂だと思っているのに、つくづく彼女は心配だった。
 新しい生活は目前に迫っている。明日の今頃には自分は入学式を終えて、姉と何処かを歩いているのだろう。しかし、それを素直に喜んでいる自分は果してそこにいるのだろうか。もしかしたら、この気持ちを引き摺って嫌な顔をして姉と並んでいないだろうか。
 不安は止めどなく溢れ出て、明日と言う日を憂鬱に感じさせる。姉は何もしていないのに、勝手に劣等感を抱いて、嫌な気持ちにさせてしまうかもしれない事に罪悪感を感じ、振りきれない気持ちを未だに引き摺っている自分に対して抱いている嫌悪感。その全てが嫌だった。
「つかさー」
 再三、彼女が溜息を吐こうとした時、扉の向こうから聞こえたのは姉の声だった。気付いて時計を見てみれば、もう午後三時。自分がどれほどの間感傷に浸っていたのかと思うと、可笑しくなって、彼女は静かに失笑した。
「なにー? 入って良いよ」
 努めて彼女は明るく振舞った。一大イベントの前日に姉に心配を掛ける訳にはいかなかったのだ。幼い頃に何度も掛けた事に対する意識からか、彼女は心配を誰にも掛けないような人間を目指していた。立派な目標かもしれないが、彼女にとって、それは背伸びをする事のように思えた。
「ん、ちょっと散歩に行かない?」
 扉を開けて入ったと同時に姉はそう言った。
 いきなりの事で少し動揺はしたものの、彼女は良いよ、と言って椅子から立ち上がる。持っていた鉛筆が机に転がって、コト、と寂しげな音を立てた。



「ここに来るのも久し振りな気がするわねー」
 この季節を象徴するかのように立ち並ぶ桜の木が、何処までも続いているかのような錯覚を呼び起こすような並木道に、彼女達は肩を並べてゆったりと歩いていた。香しい花の香りを柔らかな風が運んで来ては、二人の鼻孔を擽ってこそばゆい感覚を与える。
 姉は感慨深げに桜を見上げると、そう言った。
「そうだね。最後に二人で見たのって、去年の今頃だっけ」
「そうね。つかさがとうとう受験の時期がーって言って慌ててたわよね」
「ええっ!? そうだったかな……」
 彼女はそんな事はとっくのとうに忘却の彼方に吹き飛ばしてしまっていたようで、驚いたように声を上げた。姉はそんな妹を見て、ふっと微笑む。それは何処か郷愁に満ちた表情だった。恥ずかしそうに考え込んでいた彼女も、そんな姉を見て同じ表情になる。
「そう言えば、約束した時もここだったね」
 桜並木が続く道の途中、二つの桜に挟まれた脇道にひっそりと身を潜める一つの腰掛けがあった。何時から此処にあったのか、木で造られたその姿は明らかに老朽化が進んでいて、所々が黒ずんでいたり、欠け落ちたりしていた。けれど、その上に降りかかる桜の花弁が今の季節を強調するように腰掛けに在り、何処か風情を持たせた光景だった。
「つかさは、頑張ったよ」
 姉は自身の掌を目の前に持って行ってから呟いた。
 彼女も習って、姉と同じように自身の手を目の前に持って行く。
 二人は指切りげんまんをする時のように手の形を変えると、二人で顔を見合わせた。
 さっと風が吹き、二人を同じ想い出の世界へと誘った。懐かしい、過去の世界へと。



「とうとう受験の時期が来ちゃったよー!」
 その日は中学三年生への始業式を済ました後の事だ。
 二人は式が終わった後、何時ものように並んで歩きながら、何時もとは違う帰路に着いていた。
 季節は春、風情のある風景を見に行こう、と姉が提案して彼女がそれに付いて行った。
 最上級生へと進級した彼女は浮かれていたが、最上級生になった事がどういう事なのかを姉から聞かされた時、彼女は大袈裟に驚いたのだった。
「あのね、まだ受検自体は後の事なんだし、そんなに悩む事じゃないでしょ」
「でもそう言う安直な考えがいけないって先生が言ってたよ」
「まあ、そうだけど……私が言いたいのは、落ち着けって事」
「だってお姉ちゃんはレベル高い所に行くんでしょ?」
「まあ、私の実力に見合った所かしらね。行く候補としては」
「そんなの私には無理だよー!」
 姉から通告された残酷な返事に、彼女は頭を抱えた。
 姉と一緒の所に行きたい彼女にとって当然の事であったが、悲しかな、彼女の学力は姉には遠く及ばないのが現実だった。彼女なりの努力で頑張ってはいたものの、姉も努力を惜しまなかったので距離はこれと言って縮まらなかったのだ。
 姉と同じ位置に追い付いても、その時には姉は更にその先に行き、彼女はそれを再び追いかける。学力に置いて、二人はいたちごっこをしているようだった。
「何も私と同じ高校じゃなくても良いんじゃないの?」
 彼女のあまりの慌て振りに、呆れたように姉は言った。だが、それは彼女にとっては言語道断と言う四字熟語が当てはまってしまうほどに有り得ない事で、心外とばかりに反論した。
「お姉ちゃんと一緒が良いの!」
 はあ、と姉は嘆息する。
 この妹が姉離れをする時が来たらそれはそれで寂しい事のような気がしなくもないが、この様子を見ていると姉離れが出来るようになるのは当分先の未来の事になりそうだ。
 一人で唸っている妹を尻目に、姉は風に靡く髪を抑えながら桜を見上げた。桜色の花弁が中空を縦横無尽に飛び交っている。行先など、風の気紛れで幾らでも変わってしまう。見当も付かない花弁の行先に、柄にもなく感傷に浸っていた姉は未だにうんうんと唸る妹に向き直った。
「つかさ、ちょっとこっち来て」
 手招きをして、姉は傍にあったベンチに腰掛けた。真新しいものだろうか、綺麗に塗装が施されているそれは姉が体重を掛けても軋む素振りさえ見せなかった。
 彼女は、頭を抱えるのを止めて、こちらに向かって手招きをしている姉に不思議そうな視線を向ける。桜に挟まれて、更に舞い散る花弁を背に手招きをする姉の姿は何だか幻想的で、妖美な美しさを放っているように見えた。
「どうしたの?」
 彼女は姉の美しさに多少気圧されながらも、近付いた。姉は黙ってベンチの隣に座るように彼女を促し、体を移動させる。そうして出来上がったスペースに、腰を落ち着けた。
「ん、」
 姉は言葉少なく小指を突き出して来た。何を意図しているのかは何となく彼女にも分かったが、それでも何で今やるのだろう、と不思議にもなった。暫く姉の細く長い小指を凝視していると、焦らされていると思ったのか、姉は再度「ん」と言って小指を差し出した。
 え、と戸惑った様子の彼女。姉はこれでもか、と言うほどに小指を彼女の前に突き出して、顔を顰めて見せた。漸く事を理解したのか、彼女もおずおずと小指を差し出した。
「はい。指切りげんまん。つかさと私が一緒の高校に行けるように、ってね」
 絡まる小指同士が上下に振られ、姉はそう言った。彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、ありがとう、と小さく呟いてそれに合わせた。幼い迷信のようなものであったが、焦燥に駆られる彼女にとってそれは心に平穏を導くおまじない。だから、喜んで受け入れた。
「ゆーびきーりげんまん、ウソついたら針千本のーます」
 二人の声が重なり合い、木々の梢が擦れる音の中に入り混じる。穏やかな時の中に入り込んだそのまじないの歌は小指を通して二人に伝わり合い、姉にも彼女にも安心感を与えた。
「ゆーび切った」
 そして、同時に離される二人の小指。
 その後、二人は顔を見合せて、同時に吹き出した。
 受験と言う中学生最後の難関を控えていた不安などは何処かに行ってしまった。

 彼女が中学三年生になったばかりの、姉と過ごした仲睦まじい想い出。
 桜の花弁が巻き起こす幻想的な風景が、まじないを叶えてくれたと思えた、約束の日。



 ――ああ、そうだ。
 彼女は姉と顔を見合せたまま、本当の事に気付いた。
 嫉妬なんて関係なかった。姉に対する劣等感だとか、そう言う事がどうでも良くなった。
 此処で交わした約束は果たしているではないか。過去に抱いていた劣等感は姉と一緒に発散して来たではないか。姉はあんなにも自分の事を心配してくれていたではないか。
 途端に、その事で姉に対して嫌な感情を抱いていた自分が馬鹿らしくなって、彼女は自嘲気味に微笑んだ。何も心配する事はなかった。新しい生活が始まる上で、何も危惧すべき事は無かった。一緒の高校に入って、悩みも喜びも全て姉と共有出来る、それが全てだ。
「なに笑ってんの」
 一人微笑んでいた彼女を見て、姉は怪訝な視線を向けた。
「私、頑張ったかな」
 彼女はベンチの両脇に生える桜の木を見上げ、そう呟いた。その問いに含まれる意図が、姉にはすぐに理解出来た。だから、それに対する返答は最初から決まっていた。
 彼女は頑張ったのだ。足りなかった学力を努力で補い、見事に姉と同じ高校に受かる事に成功した。最初は誰もが安全圏に行きなさい、と抗議の声を上げたが、それでも彼女はそれを頑なに拒絶して、目標の高校へといよいよ通う事になる。それは誇るべき努力の結果だ。
「もちろん」
 姉は静かにそう答えた。
 彼女は、黙って小指を姉に差し出した。
 老朽化が酷いベンチの上に、少しだけ前の二人が映っているかのように見えた。一緒の高校に行こう、と指切りを交わし、まじないの歌を口をそろえて唄う二人の姉妹の姿が、鮮明に映し出されているかのようだったのだ。
 それは新しい約束を小指で繋げている二人に向けて、幻想的な風景を醸し出している桜の花弁が見せてくれた過去の幻なのかもしれない。



 指切りげんまん 貴女と二人、交わした約束
 指切りげんまん 私は永久に忘れない
 指切りげんまん 針千本なんて怖くない
 指切りげんまん この指が離れる時に
 寂しいなんて、思わない




――end.













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  • GJ!
    感動した… -- 名無しさん (2008-08-20 14:06:16)
  • 上手い!!そして面白い!!! -- フウリ (2008-04-03 18:51:14)
  • あぁ美しき姉妹愛
    過去の情景描写まで美しい
    ホントGJすぎる -- 名無しさん (2008-02-24 23:56:13)

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