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【無音声ピアノソナタ】終楽章/プレスト

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【無音声ピアノソナタ】第三楽章/グラーヴェより続く
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終楽章/プレスト(急速に)
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§11

 全力でペダルを踏む。
 その度筋肉が攣りそうになって、歯を食いしばりながらみなみは自転車を漕ぎ続けた。
 その細い脚が出せる、限界ぎりぎりのスピードで。
 荒い息を吐きながら、風のようにスポーツバイクを走らせた。悲鳴を上げて軋む身体を押さえ込みながら、みなみは走った。睡眠不足と疲労と栄養失調が重なって、今にも倒れてしまいそうになる。そんな身体で。
 季節は冬だというのに、滝のような汗が流れ落ちていく。
 力を振り絞ってペダルを押し込む度、目の前でちかちかと赤い斑点がちらついた。
 自分の心臓の音が、厭に大きく鳴り響いている。
 それは激しいテンポで。
『熱情』のコーダのような激甚なプレストで。
 それが正しくコーダであるならば、その音はなにかを終わらせるための終結部だ。みなみは思う。
 コーダが過ぎてしまえば、そこで全曲が終わる。
 そうしてあとに残るのは無音だけだ。なんの音も聞こえない暗闇だ。
 ――それは、まるで死のような。
 思い浮かんでしまったその単語に衝撃を受けて、みなみは思わずうめき声を上げる。
 ――そんな、そんなはずがない。
 襲い来る陰惨な妄想と懸命に戦いながら、みなみは自転車を漕いでいた。
 母の話は混沌としていてよくわからなかった。
 もっとも、それを聞くみなみの方がより一層混乱していたので、話が一向に判然としなかった原因を彼女だけに求めるのは酷だっただろう。
『ゆたかが田園調府の駅で倒れて、救急車で近くの総合病院に運ばれた』
 とりあえずそれだけ判明したところで、みなみは自転車に乗って家を飛び出していた。
 その総合病院は、みなみの家からほど近く、街を見下ろす坂の中程にあった。病院坂と呼ばれるその坂を、懸命に自転車を走らせてみなみは登っていった。
 心臓が破裂しそうになり、もう一度たりともペダルを漕げないと思った頃、その病院が見えてきた。
 増改築を繰りかえされ、奇怪な形になった棟と棟の間を、幾本かの渡り廊下が繋いでいる。その古ぼけた病院は、羽を閉じてうずくまる化鳥のようだとみなみは思った。
 ――あと少し、そう、あともう少し。
 まるで入院患者のように青ざめた顔をして。
 みなみが漕ぐ自転車が、駐輪場へと滑り込んでいく。

 バタン、と荒々しくドアを開けて、病室に飛び込んだ。
 どこもかしこも白い病室の、窓際のベッドで。
 ゆたかが一人、身を起こして悄然と壁をみつめていた。
 胸元にリボンがついた、透かし編みの白いニット。
 頭を覆った白い包帯が、その紅梅色の髪の毛を覆い隠している。
 そうして蝋のように白い顔色をしたゆたかは、病院の白に飲み込まれて今にも消えてしまいそうにみなみには思えた。
「……みなみ、ちゃん…?」
 ゆっくりと顔をみなみの方に向けて、目を見開いてゆたかは呟いた。
 その声に、みなみの中で張り詰めていた緊張の糸が音を立てて切れた。それはまるで、あの瞬間切れたピアノの弦のように。
「ゆたか……」
 安堵感が胸に広がっていき、同時に積み重なってきた疲労がじわじわと身体を覆っていくのを感じていた。
 急速に目の前が暗くなっていく。
 薄れ行く意識の中で聞いた最後の言葉は、看護師が慌てて叫ぶ声だった。

 目を醒ますとベッドの中にいた。
 知らない天井だと、みなみは思った。
 ここはどこだろうと思いながらもぞりと身体を動かすと、腕が隣の誰かに触れる感触がした。
「……おはよう」
 そう云って微笑んだ、みなみを見下ろす草色の瞳。
 身体を起こしたゆたかが、みなみの顔をのぞき込んでいた。
 その瞳は泣きはらしたように真っ赤に充血し、涙袋ははれぼったく膨らんでいる。
「……あれ…。私……?」
「ふふ、びっくりしちゃった。みなみちゃん、来たと思ったらいきなり倒れちゃうんだもん」
「……あ」
 頭を振って意識を覚醒させる。
 そうか、自分は倒れたんだ。ゆたかが無事だったと知って、安心したと同時にそれまでの疲労が一気に襲ってきて。
「看護師さんもお医者さんもびっくりしてたけど、ただの疲労だと思うからしばらく寝かせてあげようって、こんなことになっちゃった」
 かすれた声でゆたかが云ったとき、みなみは自分が置かれている状況に気がついた。ベッドの中で、ゆたかと一緒に横になっている。いくらゆたかが小さいと云っても二人で一つのベッドに入っていては身体も密着すると云うもので。太ももに感じる暖かい感触が、ゆたかの脚と触れあっているせいだと気がついた。
「……ご、ごご、ごめん」
 慌てて毛布をめくって、みなみはベッドからまろび出た。途端に感じた寒さは、掛かっていた毛布がなくなったからだけではないだろう。
「……あ……。いいのに」
 寂しそうにゆたかが呟いたそのとき、ドアを開けて看護師が入ってきた。
「小早川さん、もういちどバイタル取らせていただきますね。って、あら、起きられたんですね、よかった。体調はどうですか?」
「……あ、大丈夫です……。ご迷惑をおかけしまして……」
 そう云って顔を赤らめて。。」
 みなみは、看護師がてきぱきと作業を進めるのを、椅子に座ってただ眺めていたのだった。

 ――その事故は、田園調府の駅で起きたという。
 電車からホームに降り立ったゆたかは、反対側の出入り口に向かって歩いていた。乗り換え駅の関係上、ここで歩くのが一番楽なのだ。
 黄色い点字ブロックの内側を、ゆたかは歩く。
 よく黄色い線の内側を歩いてくださいとアナウンスがあるけれど、あれってどうなのだろう、とゆたかは思った。視覚障害者用の点字ブロックなのに、その内側を歩いた方が安全だなんて。だったら視覚に障害がある人の方が、危険なところを歩いているってことじゃないか。そんなことを考えた。自身が身体が弱く、周囲の人の配慮に頼って生きているゆたかは、そういったちょっとしたことが気になるのだった。
 ふと、目の前にいる大きなボストンバッグを抱えた人に目が止まる。大きい鞄だな。そんな当たり前のことを考える。旅行帰りかな、それともスポーツでもしてるのかな。あんなに重そうな荷物を軽々と持てるなんて凄いな。そんな思考が思い浮かぶままにして、何気なくその人の横を通り過ぎようとしたときに。
 急に、その人が身体をひねって横を向いた。
 視界の端に、勢いよくこちらに向かってくるボストンバッグが写った。
 ――あ、当たるときっともの凄く痛い。
 そう思って、慌てて飛びずさる。
 反射的に身体が動いたのはホーム側の方だった。
 それでもかわしきれなくて、肩の辺りをバッグがかすめて通り過ぎていく。
 勢いがついた身体を、バッグがちょこんと押しだした。
 ――あれ?
 慌ててついた足は、ホームの端のぎりぎりのところだった。それでも、普通ならば踏みとどまっていられただろう。
 そのとき、急激な運動に、ゆたかが眩暈をおこさなければ。
 がくんと力が抜けた身体が、支えのなにもない中空に落ちていくのを感じていた。
 最後にゆたかの目に映った光景は、ホームに飛び込んでくる列車のライト。
 耳に入った音は、誰かが慌てて押した列車停止ボタンの甲高いベルの音。
 思い浮かんだことは、手に持ったチーズケーキのことだった。

「……頭を打って気を失ったわたしは、たまたま線路脇のくぼみに入ってたみたいで……」
 ぼそぼそと、唇を振るわせながらゆたかは語った。
 それを聞くみなみの顔も、みるみると青ざめていく。
 ――死んでいた。ちょっと何かがずれただけで、この子は死んでいた。
 それを思うと、みなみの身体からも震えが止まらなかった。
 ここでこうやってゆたかが喋っていられるのも、本当にただの偶然でしかないんだ。
 そのたぐり寄せた偶然の糸のか細さに、眩暈がする思いだった。
「……ゆたか」
 震える声で、みなみはその言葉を発する。それを聞いたゆたかはうつむいてしまう。
「……ごめん、なさい……」
「……無事でよかった」
 ほっとした思いが、ため息になってみなみの口から漏れだした。
 その吐息に反応したのか、ゆたかの肩がぴくりと震える。
「……本当に、心配したんだから」
「……ごめんなさい」
 みなみが声をかける度に、ゆたかはますますうつむいていく。悄然とした声で振り絞るように謝罪の言葉を紡いでいく。
 なぜだろう、そんな風に云って欲しいわけじゃないのに。
 ――少しだけ、いらいらとした。
 心配したのは本当で、今無事な姿をみせていて心から安心したのも本当で。なのに、目の前のゆたかはただ謝罪を繰りかえすだけで。
 そんな言葉を聞きたくて、ここまできたわけじゃない。
 悲しそうな顔を見たくて、ここまで駆けてきたわけじゃない。
 ただ笑っていて欲しいだけなのに。
 そんな思いがみなみの中で混沌と渦巻いて、でもその思いを上手く言葉になんてできるはずがなくて、そんな口べたな自分にまたいらいらとして。
 結局、口をついてでてきたのは、本当に云いたかったこととはまるで違う言葉だった。
「……ゆたかは、身体が弱いんだから無理しないで。……出歩いたりしないでいいから……。自分の身体のことだけ考えて」
 ――本当に、随分と違う。
 みなみは思いを伝えるのが苦手なのだった。少なくともピアノを弾くことよりは、随分と。
 なんでそんなことを云ってしまったのだろう。心からそう思ったのは、ゆたかがはっとした顔でこちらを振り向いたときのことだった。
 乾いた、諦めたような表情がその顔を支配していた。
 目も口も眉も、懸命にその無表情を保とうとしているように、ぷるぷると震えている。
 見開かれた大きな草色の瞳が、心の動きを写すようにゆれていた。
 やがて、ダムが決壊するように、その顔はくしゃりとつぶれてしまった。
 ぽろぽろ、ぽろぽろと、しみ出すように溢れてきた涙が、次第に小川のような流れを形作って頬を伝っていく。
 ぱくぱくと、ふるえる唇が小刻みな開閉をくりかえしている。
 襲ってくる嗚咽を抑えこむように、身体を痙攣させながらゆたかは泣いた。
「……ごめんなさぃ。ごめんなさぁぃ……」
 言葉にならないうめき声をあげながら、むせび泣いていた。
「ゆ、ゆたか……あの……」
 その激甚な反応に、みなみは総毛立つ思いで立ちつくしていた。自分の言葉がゆたかの心の深いところを抉ったのだということに気がついて。
 ひくひくとゆたかがしゃくり上げる度、みなみの心も悲しみに張り裂けそうになる。
 今すぐ、その嗚咽を止めてあげたかった。今すぐ慰めてあげたかった。
 でも、なんと云っていいのかわからない。
 その涙をゆたかに流させたのは、みなみ自身なのだ。
 こんな風にゆたかを泣かせてしまった、自分の言葉が信じられない。
 だからみなみも口を開こうとしてはその言葉を飲み込んで、泣きはらすゆたかをただみつめるだけだった。
「……ごめんね、わたし、一人で電車に乗ることすらできないんだ……わた、わたしもう……やだぁ……こんなわたしいやだぁ……」
「……ゆたか、ちがう……そんなことない……」
「……もう、もう、なにかしようとなんてしないから……。だれにも迷惑かけないように、じっとしてるから……みなみちゃんも、こんなわたしに優しくしないでよぉ……」
「……ゆたか……」
 その言葉を否定したくて、自分で自分を傷つけるゆたかをゆたかから護りたくて、でもそんな都合のいい言葉をかけることなんてできなかったから。
 みなみは近づいて、ゆたかの肩に手をかけようとする。
 けれどその手は振り払われてしまって、みなみはどうすることもできず、ただ呆然とゆたかを見下ろしていた。
 そのときにふと気づく。ゆたかが着ている、お姫様みたいに真っ白で無垢なニットに点々と散らばる赤。ゆたかの頭から流れ落ちたのだろう、その鮮烈な血の赤に。粉雪に舞い散った寒椿の花弁のようなその赤を見て、みなみはなぜか安心する。こんなに小さくて白い、ゆたかの身体のなかにちゃんと血が流れていることに、不思議と安心する。
 みなみの差し出した手を払ったゆたかは、身体をまるめてうずくまってしまった。なにもかもを拒絶するかのように、毛布を頭からかぶって泣き続けていた。
 それは涙の塊だと思った。小さな小さな、悲しみでできた塊。
 その塊の中から、嗚咽とうめき声だけが聞こえてくる。
「……ゆたか……」
 喉の奥からうめくように出てきた声は、自己嫌悪に錆びついて軋んでいた。
 うつむいて、頭を振って。
 そうして病室からでていった。
 ――無力感にうちのめされたまま。

 そっとドアを閉めて、うつむいていた顔を上げると、そこに一人の少女が佇んでいるのに気がついた。
「みなみちゃん」
 青髪の少女がゆたかに声をかける。その体躯はたったいま後にしてきた病室で、うずくまって泣き続けているゆたかと大差がないほど小さい。
「……泉先輩……」
 今まで見たことがないほど真剣な顔をした、泉こなたがそこにいた。
「ごめんね、聞いちゃった。盗み聞きしようとしたわけじゃないんだけどね」
 そう云って、口元だけで薄く笑う。その笑っていない目が自分のことを責めているように思えて、みなみは思わず顔を逸らしてしまった。
「どったのみなみちゃん?」
「……いえ……私は……。ごめんなさい……」
 うつむいて、ぼそぼそと喋る。
 このこなたが、ゆたかのことを実の妹のように大事にしていることは知っていた。いや、もしそれが実の妹だったら、これほど心配したりはしないだろうと思えるほどに。
 それは小早川家からゆたかを託されているのだと責任を感じているからか、それともそれまで父のそうじろうと二人で過ごしてきた家庭に新たに迎えた家族だったからか。
 それはわからないけれど、そんな風にゆたかのことを大事に思っているこなたの前で、みなみはゆたかのことを泣かせてしまったのだ。
 そのことを責められると思って。
 責められないとしても、とても顔向けができないと思って。
 みなみは、こなたと視線を交わせられなくて、うつむいてしまった。
「やだなーみなみちゃん。別に怒ってるわけじゃないよ?」
「……え?」
 予想外なその言葉に、ちらりと上目遣いでこなたを見つめるみなみだった。
「他人のことを怒ったり責めたり出来るほど、わたしまともに生きてないもん」
 ひらひらと手を振って、軽薄そうに笑う。
 けれどその笑みは、どこか無理して作った物のようにみなみには感じられた。
「二人の間のことはよくわかんないし、介入するつもりもないんだけど、とりあえずこれは渡しておくね」
 そう云ってこなたが差し出したのは、手提げに入った小振りの箱。厚紙でできたその箱は、ゆたかがよくケーキを作ってもってくるときに使う箱だった。
「わたしとお父さんで食べてって、家に置いていったやつ。失敗した方だからちょっと形は崩れてるけど、篭められてる気持ちはおんなじはずだよ」
「……あ…」
 まるで宝物を受け取るように、その手に手提げを捧げ持つ。
 救われた気がした。ゆたかの思いをこうして受け取ることができて、みなみは救われた気がしたのだ。
 呆然と、手に持った手提げを見つめるみなみを尻目に、こなたは「よっ」と声をかけて脇にあった長椅子に飛び乗った。何をしているんだろう。土足で乗っていいのかな。みなみが反射的にそんなことを考えたとき、こなたは突然みなみの頭に手を当てて、わしゃわしゃと撫で始めたのだった。
「わ……、い、泉先輩……」
「そんな気が抜けたような顔しない。ゆーちゃんがみなみちゃんのこと嫌うなんて、絶対ないからさ。まあ、とりあえずゆーちゃんのことは、このこなたお姉さんに任せたまえ~」
 そう云ってこなたは、薄い胸を張って偉そうにふんぞりかえる。
 まるで今初めて会った人をみるような眼差しで、こなたのことを見つめるみなみだった。
 この一見ぐうたらでやる気のなさそうな先輩のことを、みなみは軽く見たことはなかったけれど。
 それでも、今までの評価は甘すぎたのではないかと、みなみは思い知った。
「……はい」
 思わず微笑みをこぼしたみなみのことを、こなたは満足したような表情で見つめながら、うんうんと何度もうなずいて見送っていたのだった。
 ――だから。
 椅子に乗ったこなたが看護師にしかられて平謝りしている声を聞かなかったことにして。
 みなみは家路についた。


§12

 Aの音が出ない。
 弦の切れた鍵盤は、いくら押してもすかすかとした感触を返してくるだけだった。ハンマーが弦に当たって鳴るあの音がピアノから聞こえてくることは、ついぞなかった。
 お湯が湧くまでの間、何度となく無意味に鍵盤を押し込んだ。
 鍵盤を押すのが好きだった。
 押した刹那は、いつもこれでいいのかと思う。もしもこのあと音が出なかったらと不安になる。でもピアノは忠実に決まりを守っていて、しっかりといつもの音を出してくれる。
 その誠実さが好きだった。 
 その音を聞くのが好きだった。
 ――でも、もう聞けない。
 今までピアノが当たり前のように調律された音階を返してくれていたことが、得難い奇跡だったようにみなみには思えてくるのだった。

 チーズケーキは、みなみ好みの味だった。
 けれど、食べているうちに段々しょっぱくなっていく、不思議なケーキだった。

 ――ゆたか。
 その名を思うだけで、涙がこぼれ落ちてしまう。
 あのとき自分が云った言葉にショックを受けて見開かれた瞳。けれどその言葉に懸命に耐えようとして。自分を傷つけた言葉を受け止めようとして、そうして果たせずに壊れてしまったあの泣き顔。
 もしもゆたかがあのときすぐに泣き出してしまうような子だったら。
 自分を傷つけたことを非難するように泣くことができる子だったら。
 身体が弱い自分が護られることは当然だと思って、他人にべたべたと甘えてくる子だったら。
 こんなに好きになることはなかったと、みなみは思う。
 わかっていたはずだった。
 ゆたかが、ただ護られるだけの自分でいたくないと、懸命に足掻いていることを。
 どうしても他人の加護をあてにしなければいけない自分に嫌悪して、だからこそ少しでも他人の役に立ちたいと、努力していることを。
 わかっていたはずだった。
 ――なのに、どうしてあんなことを云ってしまったのだろう。
 ただ護られるだけの存在でいろと、どうして云うことができたのか。事故で誰よりも何よりも傷ついていたのがゆたか本人だと、わかっていたくせに。
 消え失せてしまいたいと思う。氷のように溶けて、消えてしまいたいと思う。
 なによりも自分が情けないと感じるのは、泣き出してしまったゆたかに対して何もできないで佇んでいたことだった。
 馬鹿みたいにおろおろと繰り言を並べて。
 何一つゆたかの心に届く言葉を発することができなくて。
 どんな思いも伝えられなくて。
 ただ差し出した手は振り払われた。
 ――ゆたか。
 蓋を閉じたピアノに顔をうつぶせて、その子のことを考える。
 ゆたかにすら思いを伝えることができなくて、自分は誰にむけてピアノを弾こうとしていたのだろう。そんなことを思う。
 ゆたか以外の誰かに向けてピアノを弾こうと思った。
 ゆたか以外の誰かに思いを伝えられるように、ピアノを弾きたいと思った。
 でも、そんなものは全て思い上がりだ。
 いつでもゆたかは自分のことをわかってくれている。そんな幻想にあぐらをかいて作り上げた砂上の楼閣だ。

 ――一番大切な人に、一番大事な気持ちを伝えられていないじゃないか。

 ふと、気づく。
 ゆたかに伝えたい、その思いに気づく。
 瞳を閉じれば思い浮かぶのは、あの日陵桜の受験日に会ってから今までの、ゆたかのこと。
 その声。
 その瞳のきらめき。
 微かにミントの香りを漂わせていて。
 “岩崎さん”聞いたことがない音階で奏でられるその言葉が、天上の音楽のように聞こえたこと。
 入学式の日、金髪碧眼のパティを誰もが遠巻きに眺めていたのに、ゆたかはなんの屈託もなく、満面の笑みで話しかけていた。
 倒れそうになった身体を抱き留めたとき、その軽さに驚いた。
 その優しさ。
 その強さ。
 その気高さ。
 それに、みなみは惹かれた。
 気がつけばいつも傍にいた。傍で顔を見上げて笑いかけてくれていた。
 リボンの柄が曜日によって違うのは、すぐに気がついた。
 体育を見学しないといけないときの悄然とした表情は、二度と見たくないと思った。
 初めてピアノを聞いて貰ったとき、顔中を輝かせて賞賛の声をかけてくれた。
“みなみちゃん”そう呼ばれるのが好きだった。
“みなみちゃん”そう云ってゆたかが笑うと、みなみも嬉しくなった。
“みなみちゃん”そう云ってゆたかが泣くと、みなみも悲しくなった。
“みなみちゃん”そう云ってゆたかが落ち込むと、みなみも元気がなくなった。
 思い出している。
 シャボン玉のように、浮かんでは消えるその情景を思い出している。
“今のみなみの音からは、本物の感情を感じるのさ”かおるがそう云った。
“いい友達ができたんだろう?”そう云ったかおるに、自分はなんと答えたのだっけ。
 そうだ、たしか“大切な友達ができた”と、そう云った。
 それは合っているようで合っていない気がした。
 半分は合っているけれど、半分は違っていると思った。
 ゆたかはただの“友達”じゃない。
 発想記号をなぞるようだった自分の演奏に、艶めいた情動を与えてくれた人。
 氷のようだった、人形のようだった、どこか醒めていた自分に本物の感情を与えてくれた人。
 そんな人は、ただ友達と呼んで終わらせていい人じゃない。
 ゆたかがただの友達なら、この感情はなんだ。

 ゆたかを思うとわき上がる、この激情の焔はなんだ。

 それに気がついたとき、みなみは最初戸惑った。
 その感情を名付けることができなくて、もしかしたら自分は何かの病気なのではないかと思った。
 胸が熱くなって、どきどきして、いても立ってもいられなくなって。
 苦しかった。ひたすらに苦しかった。
 ゆたか。ゆたか。ゆたか。ゆたか。心の中、その名を口にすると少しだけ楽になる。けれどその度、以前を倍して燃え上がる炎が、みなみの胸を焦がしていく。
 口を大きく開けて息を吸い込む。その苦しさに眉を寄せてうずくまる。
 ――そうだ、この感情には覚えがある。みなみは思う。
 こんな風にうずくまるようにしてピアノを弾いた、そのピアニストのことを覚えている。
 あの日、あの発表会の日。
 かおるが弾いたその演奏のことを思い出している。
 ベートーヴェン『ピアノソナタ第23番』。
 あの日聴いたあの曲に溢れていた感情がこれだ。世界を打ち壊すほどの感情がこれだ。

 ――そうか。
 これが『熱情』なんだ。

 それに気がついたみなみは、雷に打たれたような思いで立ちつくしていたのだった。





















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