【無音声ピアノソナタ】終楽章/プレストより続く
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終楽章/コーダ
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終楽章/コーダ
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§13
舞台を照らすシーリングライトに、みなみは少しだけ目を細めた。寝不足の目に、その眩しさが痛かった。
天上に設置されたライトの全てが、ピアノとその前に座るピアニストを照らし出そうと、舞台に光を投げかけている。
その光の中心で、みなみは呆けたように立ち竦んでいた。
ボレロを重ねたワンピースドレスを着ている。パフスリーブになった肩口の線が、そのままたおやかに細い二の腕に繋がっている、そんなクラシカルなドレスだった。その藍を一滴垂らしたような深い色のドレスは、みなみのコバルトグリーンの髪とよく似合っていた。大きく開いた胸元と、脚の白さとも、また。
小首を傾げるようにして、みなみは客席を見渡した。
大きなコンサートホールだった。音を反響させるためのシェーパーの刻まれた壁面が、ライトを浴びて飴色に光っている。ワインレッドのベルベッドが張られた椅子は円弧を描いて整然と並んでいて、その全てが聴衆で埋まっていた。
最前列にかおるが座っているのが見える。その周囲に陣取っているのは、雑誌でみかける音楽評論家だとか、誰もが知っているオーケストラの指揮者だとか、ベルリンで活躍する外国人のピアニストだとか。そんな顔ぶれだ。
その全てが、身じろぎもしないで一心にみなみをみつめている。
しわぶき一つない。完全な静寂。
そんな客席を見渡して、その中から一点に目を留めると、小さな笑みを浮かべた。
深々と礼をする。
そうして歩きだす。
ピアノにむけて歩きだす。
その足取りは、まるで。
これから恋人と会いにいくかのように、弾んでいた。
天上に設置されたライトの全てが、ピアノとその前に座るピアニストを照らし出そうと、舞台に光を投げかけている。
その光の中心で、みなみは呆けたように立ち竦んでいた。
ボレロを重ねたワンピースドレスを着ている。パフスリーブになった肩口の線が、そのままたおやかに細い二の腕に繋がっている、そんなクラシカルなドレスだった。その藍を一滴垂らしたような深い色のドレスは、みなみのコバルトグリーンの髪とよく似合っていた。大きく開いた胸元と、脚の白さとも、また。
小首を傾げるようにして、みなみは客席を見渡した。
大きなコンサートホールだった。音を反響させるためのシェーパーの刻まれた壁面が、ライトを浴びて飴色に光っている。ワインレッドのベルベッドが張られた椅子は円弧を描いて整然と並んでいて、その全てが聴衆で埋まっていた。
最前列にかおるが座っているのが見える。その周囲に陣取っているのは、雑誌でみかける音楽評論家だとか、誰もが知っているオーケストラの指揮者だとか、ベルリンで活躍する外国人のピアニストだとか。そんな顔ぶれだ。
その全てが、身じろぎもしないで一心にみなみをみつめている。
しわぶき一つない。完全な静寂。
そんな客席を見渡して、その中から一点に目を留めると、小さな笑みを浮かべた。
深々と礼をする。
そうして歩きだす。
ピアノにむけて歩きだす。
その足取りは、まるで。
これから恋人と会いにいくかのように、弾んでいた。
――あの日、すぐにでもピアノを弾きたいと思った。
ゆたかが事故に遭って病院に担ぎ込まれた夜。
病室で何も云えなかった夜に。
みなみはすぐにでもピアノに向かいたかった。新しく知ったその感情を弾くために。『熱情』の調べに乗せてその思いを伝えるために。
けれど、弾くことは出来なかった。
弦が切れていたから。
Aの音が出なかったから、みなみはピアノを弾くことができなかったのだ。
普段みなみが贔屓にしている調律師は予約が必要で、すぐに来て貰うことはできない。他の調律師に任せて音が狂うことをみなみは嫌がった。
だからみなみは、そのままのみなみでここに来た。
ピアノを弾くために。
ただピアノを弾くためにここに来たのだ。
ゆたかが事故に遭って病院に担ぎ込まれた夜。
病室で何も云えなかった夜に。
みなみはすぐにでもピアノに向かいたかった。新しく知ったその感情を弾くために。『熱情』の調べに乗せてその思いを伝えるために。
けれど、弾くことは出来なかった。
弦が切れていたから。
Aの音が出なかったから、みなみはピアノを弾くことができなかったのだ。
普段みなみが贔屓にしている調律師は予約が必要で、すぐに来て貰うことはできない。他の調律師に任せて音が狂うことをみなみは嫌がった。
だからみなみは、そのままのみなみでここに来た。
ピアノを弾くために。
ただピアノを弾くためにここに来たのだ。
その演奏会は、かおるが弾く『亡き王女のためのパヴァーヌ』で始まった。
ラヴェルの手になるその小品は、簡単な曲だった。シンプルで、そして繊細な小ロンド形式のピアノ曲。
その曲を、かおるは何度もミスタッチをしながら弾いた。
その演奏を聴いた誰もが、かおるの腕を知る誰もが、なるほどこれは引退公演なのだと理解したことだろう。
あの詩神をねじ伏せるような豪腕は、すでにそこにはなかった。
いつかみなみが見た、ラフマニノフの第三番を軽々と弾きこなしたかおるの姿は、どこにも見られなかった。
けれど。
だからこそ、その演奏は胸に響いたのだ。
自らの姿を、今はもういない王女の肖像と重ねて。
失われてしまった大切なものへの断ち切れぬ思いをその係留音に載せて。
哀愁にみちたメロディを、かおるは弾いたのだ。
客席のそこかしこから、啜り泣きの音が聞こえた。演奏会で音を出すという最大のタブーを招待客に破らせるような、そんな演奏なのだった。
舞台袖でその演奏を聴いて、みなみも滂沱の涙を流した。出番を待つ他のピアニストたちもそれぞれに涙を浮かべながら、去っていく一人のピアニストのことを悼んでいた。
十六歳の小娘から五十過ぎの中年男性まで、その全てが泣いていた。これだけ歳の離れた演奏家たちが、皆かおるの弟子なのだった。
「……大丈夫なの? みなみん」
その中の一人、二十代前半の女性がみなみに声をかけてくる。音大に通っているみなみの姉弟子で、国際コンクールで入賞したこともある人だった。
何を訊ねているかはわかっている。『熱情』をお前に弾けるのか、と問うているのだ。
「はい」
だからみなみは力強くうなずいた。
なんでだろう、と不思議に思う。ピアノに触ることすらできなかったのに、なぜだかなんの根拠もない自信に溢れていたのだった。
その顔を見て、彼女は大口を開けて目を見開いた。感情が大げさな人だったな、とみなみは思い出す。
「そっかそっか、うん、みなみんがねぇー。ま、がんばんなさいな」
そう云って、ばんばんと背中を叩いた。
「それにしてもあんた、やけにメイク濃いわね?」
顔色と目の下の隈を隠すために濃くしてきたメイクを指摘されて、困ったようにみなみは笑った。
ラヴェルの手になるその小品は、簡単な曲だった。シンプルで、そして繊細な小ロンド形式のピアノ曲。
その曲を、かおるは何度もミスタッチをしながら弾いた。
その演奏を聴いた誰もが、かおるの腕を知る誰もが、なるほどこれは引退公演なのだと理解したことだろう。
あの詩神をねじ伏せるような豪腕は、すでにそこにはなかった。
いつかみなみが見た、ラフマニノフの第三番を軽々と弾きこなしたかおるの姿は、どこにも見られなかった。
けれど。
だからこそ、その演奏は胸に響いたのだ。
自らの姿を、今はもういない王女の肖像と重ねて。
失われてしまった大切なものへの断ち切れぬ思いをその係留音に載せて。
哀愁にみちたメロディを、かおるは弾いたのだ。
客席のそこかしこから、啜り泣きの音が聞こえた。演奏会で音を出すという最大のタブーを招待客に破らせるような、そんな演奏なのだった。
舞台袖でその演奏を聴いて、みなみも滂沱の涙を流した。出番を待つ他のピアニストたちもそれぞれに涙を浮かべながら、去っていく一人のピアニストのことを悼んでいた。
十六歳の小娘から五十過ぎの中年男性まで、その全てが泣いていた。これだけ歳の離れた演奏家たちが、皆かおるの弟子なのだった。
「……大丈夫なの? みなみん」
その中の一人、二十代前半の女性がみなみに声をかけてくる。音大に通っているみなみの姉弟子で、国際コンクールで入賞したこともある人だった。
何を訊ねているかはわかっている。『熱情』をお前に弾けるのか、と問うているのだ。
「はい」
だからみなみは力強くうなずいた。
なんでだろう、と不思議に思う。ピアノに触ることすらできなかったのに、なぜだかなんの根拠もない自信に溢れていたのだった。
その顔を見て、彼女は大口を開けて目を見開いた。感情が大げさな人だったな、とみなみは思い出す。
「そっかそっか、うん、みなみんがねぇー。ま、がんばんなさいな」
そう云って、ばんばんと背中を叩いた。
「それにしてもあんた、やけにメイク濃いわね?」
顔色と目の下の隈を隠すために濃くしてきたメイクを指摘されて、困ったようにみなみは笑った。
一人ずつ、ピアノを弾いていく。
有名オーケストラのソリストを一手に引き受けているピアニスト。
自分の名前を前面に出したCD録音を出しているピアニスト。
テレビの音楽番組に出演しているピアニスト。
そんな演奏家ばかりだった。
活気をもって。歌うように。壮大に。生き生きと。表情豊かに。
生涯を通して研鑽してきたその技量を次々と発揮して、ピアニスト達が入れ替わり立ち替わり舞台を通り過ぎていく。
そんな演奏を聴いて、普段のみなみならその音楽的暴力に圧倒されていただろう。自分の技量に対して疑問を持って、果たしてこの人たちと並ぶような演奏をできるのかと、不安になっていただろう。けれどこのときのみなみは不思議なほど落ち着いていた。ふつふつとわき上がってくる熱情を胸に抱きながら、冷静に熱狂していった。
早く弾きたい。
私もピアノを弾きたい。
今すぐピアノを弾きたい。
そう思った。
やがて姉弟子が深々と礼をすると、割れんばかりの拍手がホールを満たす。
まるで静謐が産み落としたような、端正な『ジムノペディ第一番』を彼女は弾いた。
彼女のように大げさで騒がしい人が、こんなに乾いた憂いに満ちた曲を弾くなんて。みなみはそれを意外に思った。
そう思って、そして苦笑する。
私がこれから弾く曲も、私を知る人には意外だと思われるのだろう。きっと彼女の『ジムノペディ』よりもずっと。
客席が十分鎮まるのを待って、司会者がみなみの名を呼んだ。
晴れやかな笑みを浮かべた姉弟子のウィンクに会釈を返して、みなみは舞台に上がっていった。
有名オーケストラのソリストを一手に引き受けているピアニスト。
自分の名前を前面に出したCD録音を出しているピアニスト。
テレビの音楽番組に出演しているピアニスト。
そんな演奏家ばかりだった。
活気をもって。歌うように。壮大に。生き生きと。表情豊かに。
生涯を通して研鑽してきたその技量を次々と発揮して、ピアニスト達が入れ替わり立ち替わり舞台を通り過ぎていく。
そんな演奏を聴いて、普段のみなみならその音楽的暴力に圧倒されていただろう。自分の技量に対して疑問を持って、果たしてこの人たちと並ぶような演奏をできるのかと、不安になっていただろう。けれどこのときのみなみは不思議なほど落ち着いていた。ふつふつとわき上がってくる熱情を胸に抱きながら、冷静に熱狂していった。
早く弾きたい。
私もピアノを弾きたい。
今すぐピアノを弾きたい。
そう思った。
やがて姉弟子が深々と礼をすると、割れんばかりの拍手がホールを満たす。
まるで静謐が産み落としたような、端正な『ジムノペディ第一番』を彼女は弾いた。
彼女のように大げさで騒がしい人が、こんなに乾いた憂いに満ちた曲を弾くなんて。みなみはそれを意外に思った。
そう思って、そして苦笑する。
私がこれから弾く曲も、私を知る人には意外だと思われるのだろう。きっと彼女の『ジムノペディ』よりもずっと。
客席が十分鎮まるのを待って、司会者がみなみの名を呼んだ。
晴れやかな笑みを浮かべた姉弟子のウィンクに会釈を返して、みなみは舞台に上がっていった。
瞬間、光の洪水の中にいる。
数百人の聴衆が、みなみをみつめていた。
その最前列の特等席に、かおるが座っているのが見えた。期待と不安の入り交じった、複雑な表情を浮かべている。
その顔にうなずいて、ぐるりと客席を見渡した。
自分は呆けているように見えるかもしれないな。そんなことを思いながら。
その顔はすぐにみつかった。
右翼の十五列目あたりに並んで腰掛けている。
みゆき。パティ。ひより。
そしてゆたか。
リボンがついたガーリッシュなニットキャップを被っている。
まだ頭に巻いているはずの、包帯を隠しているのだろう。
視線が絡むと少しだけ目を見開いて、ゆたかは驚いたような顔をしてみせた。そんなゆたかに微笑みかけて、みなみはピアノに向かった。
ゆたかの隣になぜかこなたがいることは、見なかったことにした。
みなみは招待状を贈っていないし、みゆきも自身に当てられたもの以外には受け取っていないはずだった。
一体どうやって潜り込んだのだろう。
ピアノの前に座ってそんなことを考えている自分がおかしくて、みなみはまた笑った。
そうして深呼吸をして。
数百人の聴衆が、みなみをみつめていた。
その最前列の特等席に、かおるが座っているのが見えた。期待と不安の入り交じった、複雑な表情を浮かべている。
その顔にうなずいて、ぐるりと客席を見渡した。
自分は呆けているように見えるかもしれないな。そんなことを思いながら。
その顔はすぐにみつかった。
右翼の十五列目あたりに並んで腰掛けている。
みゆき。パティ。ひより。
そしてゆたか。
リボンがついたガーリッシュなニットキャップを被っている。
まだ頭に巻いているはずの、包帯を隠しているのだろう。
視線が絡むと少しだけ目を見開いて、ゆたかは驚いたような顔をしてみせた。そんなゆたかに微笑みかけて、みなみはピアノに向かった。
ゆたかの隣になぜかこなたがいることは、見なかったことにした。
みなみは招待状を贈っていないし、みゆきも自身に当てられたもの以外には受け取っていないはずだった。
一体どうやって潜り込んだのだろう。
ピアノの前に座ってそんなことを考えている自分がおかしくて、みなみはまた笑った。
そうして深呼吸をして。
最初の音を出した瞬間、みなみの全身が雷に打たれたように痺れた。
鍵盤を押すと音がでる。
そんな単純なことが震えるほどに嬉しかった。
途端に溢れそうになる想いに驚いて、みなみは懸命に自制する。今は駄目。今はまだ駄目だ。その想いを出すのは、まだ早い。
生み出した和音にその身を浸して、みなみは第一楽章という川を流れていく。
アレグロ・アサイ。非常に速く、快活に。
絶え入りそうなピアニッシモを。叩きつけるようなフォルテッシモを。
みなみの指が、たぐり寄せるように第一主題を引きよせていく。その音色はどこまでも厳粛に、哀感に満ちていて。まるでゆたかと出会うまでの自分のように生硬に。
そうしてみなみは思い出していた。
ゆたかと初めて会った日のことを。
なぜか見過ごせなかった小さな背中に声をかけたときのこと。
振り向いて見上げる、その草色の瞳が綺麗だったこと。
そんな出会いに胸をときめかして。陵桜での楽しい生活を思い浮かべてしまって。
そうして進学先を決めるにいたった心の動きを。
みなみは思い出していた。
そんな想いが、気がつけば優美なる第二主題に載って流れていた。
そのことに、みなみ自身が驚いた。そうして、それが楽しかった。
指が動くことが。
次の音階を探して、自動的に指が動いていくことが。
それは終わりなき鍛錬の日々の成果だと、みなみは思った。
出口もみえず、先に何の望みも考えられず、ただひたすらにむさぼるようにピアノを弾いた日々。そのたゆまぬ反復練習は、みなみを裏切らなかったのだ。
楽しい。
ピアノを弾くことが。
嬉しい。
ゆたかと出会えたことが。
中盤に差しかかり、曲が驚くべき跳躍をみせても、みなみの指は易々と鍵盤の上を踊っていった。
ゆたかに惹かれていく日々を思い出しながら、強く、弱く、繊細に、激しく鍵盤を押し込んでいった。
そこに溢れそうな熱情を乗せていくのは簡単だ。
――今、まさにその想いが溢れそうなのだから。
やがて第一楽章も過ぎゆき、曲は第二楽章に入っている。
それはアンダンテ・コン・モート。主題の繰りかえされる、変奏曲形式の楽章。
どこまでも優しい旋律に満ちていて。
その一つ一つの音階を、慈しむようにみなみは弾いた。
それはゆたかと共に過ごした穏やかな日々だ。
優しさという主題が繰りかえされる、たおやかなる変奏曲だ。
――それは、まるで祈りにも似て。
こんな日々が永遠であればいいと願った。
けれどそんなものは夢物語で。
鮮烈なアタッカで第三楽章に入ったとき、みなみの目の前が白熱したように真っ白になった。減7の和音を叩きつけた瞬間、胸をかきむしって叫び出しそうな想いに襲われた。
ゆたか。ゆたか。ゆたか。ゆたか。
――その身体に、納めきれないくらいの激情をみなぎらせて。
背中を丸めて、うずくまるようにしてみなみはピアノを弾いていく。
目にもとまらないほどの指先の動き。
寄せられた眉。
今にも叫び出しそうに開かれた大きな口。
ゆたか。
ゆたか。
ゆたか。
ゆたか。
舞台の上に、逆巻く颶風が現れていた。それは寄る物全てを打ち倒さんばかりの、音楽的な暴虐。激しく。強く。速く。しかし過度でなく。それがアレグロ・マ・ノン・トロッポ。
氷のように冷静に荒れ狂えと伝える発想記号だ。
激しくはね回る第一主題。不安定に揺れる第二主題。その間を、嵐のように駆けめぐった。
ゆたか。ゆたか。ゆたか。ゆたか。
思うのは、その人のことばかりで。
あの日病院坂を登ったときの不安。
胸のうずき。
祈り。
そしてたぎるようなその感情。
病室で最初にみたときに感じた安堵。
ベッドの中、隣で目を醒ましたとき、その半身に感じた暖かさ。
そして胸に宿った劣情。
傷つけてしまった、こと。
そんな想いの全てを伝えるために。
客席にいる、ただ一人のその子に伝えるためだけに。
みなみは、ピアノを弾いていた。
加速して和音。
爆発しそうに激烈なフォルテッシモ。
ゆたか。ゆたか。ゆたか。ゆたか。
その全てに大切な人の名前を載せて。
そうしてプレスト。終わらせるための、コーダ。
鍵盤を押すと音がでる。
そんな単純なことが震えるほどに嬉しかった。
途端に溢れそうになる想いに驚いて、みなみは懸命に自制する。今は駄目。今はまだ駄目だ。その想いを出すのは、まだ早い。
生み出した和音にその身を浸して、みなみは第一楽章という川を流れていく。
アレグロ・アサイ。非常に速く、快活に。
絶え入りそうなピアニッシモを。叩きつけるようなフォルテッシモを。
みなみの指が、たぐり寄せるように第一主題を引きよせていく。その音色はどこまでも厳粛に、哀感に満ちていて。まるでゆたかと出会うまでの自分のように生硬に。
そうしてみなみは思い出していた。
ゆたかと初めて会った日のことを。
なぜか見過ごせなかった小さな背中に声をかけたときのこと。
振り向いて見上げる、その草色の瞳が綺麗だったこと。
そんな出会いに胸をときめかして。陵桜での楽しい生活を思い浮かべてしまって。
そうして進学先を決めるにいたった心の動きを。
みなみは思い出していた。
そんな想いが、気がつけば優美なる第二主題に載って流れていた。
そのことに、みなみ自身が驚いた。そうして、それが楽しかった。
指が動くことが。
次の音階を探して、自動的に指が動いていくことが。
それは終わりなき鍛錬の日々の成果だと、みなみは思った。
出口もみえず、先に何の望みも考えられず、ただひたすらにむさぼるようにピアノを弾いた日々。そのたゆまぬ反復練習は、みなみを裏切らなかったのだ。
楽しい。
ピアノを弾くことが。
嬉しい。
ゆたかと出会えたことが。
中盤に差しかかり、曲が驚くべき跳躍をみせても、みなみの指は易々と鍵盤の上を踊っていった。
ゆたかに惹かれていく日々を思い出しながら、強く、弱く、繊細に、激しく鍵盤を押し込んでいった。
そこに溢れそうな熱情を乗せていくのは簡単だ。
――今、まさにその想いが溢れそうなのだから。
やがて第一楽章も過ぎゆき、曲は第二楽章に入っている。
それはアンダンテ・コン・モート。主題の繰りかえされる、変奏曲形式の楽章。
どこまでも優しい旋律に満ちていて。
その一つ一つの音階を、慈しむようにみなみは弾いた。
それはゆたかと共に過ごした穏やかな日々だ。
優しさという主題が繰りかえされる、たおやかなる変奏曲だ。
――それは、まるで祈りにも似て。
こんな日々が永遠であればいいと願った。
けれどそんなものは夢物語で。
鮮烈なアタッカで第三楽章に入ったとき、みなみの目の前が白熱したように真っ白になった。減7の和音を叩きつけた瞬間、胸をかきむしって叫び出しそうな想いに襲われた。
ゆたか。ゆたか。ゆたか。ゆたか。
――その身体に、納めきれないくらいの激情をみなぎらせて。
背中を丸めて、うずくまるようにしてみなみはピアノを弾いていく。
目にもとまらないほどの指先の動き。
寄せられた眉。
今にも叫び出しそうに開かれた大きな口。
ゆたか。
ゆたか。
ゆたか。
ゆたか。
舞台の上に、逆巻く颶風が現れていた。それは寄る物全てを打ち倒さんばかりの、音楽的な暴虐。激しく。強く。速く。しかし過度でなく。それがアレグロ・マ・ノン・トロッポ。
氷のように冷静に荒れ狂えと伝える発想記号だ。
激しくはね回る第一主題。不安定に揺れる第二主題。その間を、嵐のように駆けめぐった。
ゆたか。ゆたか。ゆたか。ゆたか。
思うのは、その人のことばかりで。
あの日病院坂を登ったときの不安。
胸のうずき。
祈り。
そしてたぎるようなその感情。
病室で最初にみたときに感じた安堵。
ベッドの中、隣で目を醒ましたとき、その半身に感じた暖かさ。
そして胸に宿った劣情。
傷つけてしまった、こと。
そんな想いの全てを伝えるために。
客席にいる、ただ一人のその子に伝えるためだけに。
みなみは、ピアノを弾いていた。
加速して和音。
爆発しそうに激烈なフォルテッシモ。
ゆたか。ゆたか。ゆたか。ゆたか。
その全てに大切な人の名前を載せて。
そうしてプレスト。終わらせるための、コーダ。
そこに産まれた新たなる主題を弾くために。
最初の音を叩きつけたとき、みなみはこの宇宙が壊れる音を聞いた。
その音に、爆発するような感情が宿っていることがわかった。
それは新しい主題だったが、それまでの演奏全ての先にあり、そうして全く新しい意味をそこにつけくわえる。
その感情。
最初の音を叩きつけたとき、みなみはこの宇宙が壊れる音を聞いた。
その音に、爆発するような感情が宿っていることがわかった。
それは新しい主題だったが、それまでの演奏全ての先にあり、そうして全く新しい意味をそこにつけくわえる。
その感情。
好きだ。
大好きだ、ゆたか。
大好きだ、ゆたか。
――狂おしいほどに。
酸欠に陥ったように、ぱくぱくと口を開けて。
圧倒的なエネルギーに満ちた、その旋律を爆発させていく。
大好き。
一つ音を出す度に告白をする。
ずっとずっと、傍にいたい。
主題を奏でる度に、より一層ゆたかのことを求めていく。
大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。
いつまでも一緒にいたい。
ゆたかが自分のことを嫌っても、それでもゆたかが好きだ。
どんなゆたかであっても、ゆたかならば好きだ。
その心も。憂いも。喜びも。声も。指先も。瞳も。そのか弱い身体さえも。
護りたい。
抱きしめたい。
キスをしたい。
自分だけのものにしたい。
圧倒的なエネルギーに満ちた、その旋律を爆発させていく。
大好き。
一つ音を出す度に告白をする。
ずっとずっと、傍にいたい。
主題を奏でる度に、より一層ゆたかのことを求めていく。
大好き。大好き。大好き。大好き。大好き。
いつまでも一緒にいたい。
ゆたかが自分のことを嫌っても、それでもゆたかが好きだ。
どんなゆたかであっても、ゆたかならば好きだ。
その心も。憂いも。喜びも。声も。指先も。瞳も。そのか弱い身体さえも。
護りたい。
抱きしめたい。
キスをしたい。
自分だけのものにしたい。
――ああ、私はこんな聴衆の面前で、こんなことを告白している。
誰もが眉をひそめるような、女に対する女の恋心を。
だからこそみなみがなかなか気づくことができなかった、その熱情を。
こんなところで、私は叫んでいる。
熱に浮かされた頭で、みなみはちらとそう思う。
けれど顔を赤らめて縮こまる余裕などなかった。
ひたすらに鍵盤を押す。ただひたすらに鍵盤を押す。
世界にはただピアノとゆたかと自分だけがいて、突き動かされるようにピアノを弾き続けた。
誰もが眉をひそめるような、女に対する女の恋心を。
だからこそみなみがなかなか気づくことができなかった、その熱情を。
こんなところで、私は叫んでいる。
熱に浮かされた頭で、みなみはちらとそう思う。
けれど顔を赤らめて縮こまる余裕などなかった。
ひたすらに鍵盤を押す。ただひたすらに鍵盤を押す。
世界にはただピアノとゆたかと自分だけがいて、突き動かされるようにピアノを弾き続けた。
――愛している。
と。最後の音にその想いを乗せて。
と。最後の音にその想いを乗せて。
みなみは『情熱』を弾ききった。
曲が終わり、世界から音が途絶えたことに一番驚いたのは、みなみ自身だった。荒い息を吐き、全身から汗を吹きだしている。
あれ、終わりだっけ?
と、ぼんやりとそう思って。
いつもの動作で立ち上がり、自動的に礼をする。
ホールは完全な無音に包まれていて、衣擦れの音が厭に耳に大きく響いた。
客席なんて、見る勇気がなかった。
特に右翼の十五列目あたりは。
みなみが歩きだしても、ホールは無音で。
何か酷い演奏をしてしまったのだろうかと、少しだけ不安になる。
けれど袖で出迎えてくれた姉弟子は、くしゃくしゃに歪んだ今にも泣き出しそうな顔をしていて。それだけで、まあいいやとみなみは思った。
ふらりと、力が抜けて倒れそうになったみなみを彼女が受け止めたそのとき。
突然聞こえてきた雷鳴のような音が、ホールが壊れそうなくらいに鳴り響いた。
なんの音だろう、とびっくりして。
目をぱちくりさせていたみなみに、姉弟子が微笑みかけている。
そのとき初めて客席の様子に目を止めたみなみは、やっとそれが拍手の音だと気づいたのだった。
あれ、終わりだっけ?
と、ぼんやりとそう思って。
いつもの動作で立ち上がり、自動的に礼をする。
ホールは完全な無音に包まれていて、衣擦れの音が厭に耳に大きく響いた。
客席なんて、見る勇気がなかった。
特に右翼の十五列目あたりは。
みなみが歩きだしても、ホールは無音で。
何か酷い演奏をしてしまったのだろうかと、少しだけ不安になる。
けれど袖で出迎えてくれた姉弟子は、くしゃくしゃに歪んだ今にも泣き出しそうな顔をしていて。それだけで、まあいいやとみなみは思った。
ふらりと、力が抜けて倒れそうになったみなみを彼女が受け止めたそのとき。
突然聞こえてきた雷鳴のような音が、ホールが壊れそうなくらいに鳴り響いた。
なんの音だろう、とびっくりして。
目をぱちくりさせていたみなみに、姉弟子が微笑みかけている。
そのとき初めて客席の様子に目を止めたみなみは、やっとそれが拍手の音だと気づいたのだった。
最後のセレモニーでかおるに花束を贈る役は、みなみに与えられることになった。一番上の兄弟子がいいのではないかとみなみは云ったのだけれど、なぜか満場一致でみなみに決まってしまったのだった。
和やかな、けれど盛大な拍手に包まれて、一抱えほどもある大きな花束をかおるに手渡した。
晴れやかな笑顔でそれを受け取ったかおるは、ウィンクをしてみなみに語りかける。
「恋をしているんだな」
その言葉は完全に正しいと思った。少なくとも“友達ができた”ということよりは。
だからみなみは大きくうなずいて。
「はい」
と、そう云った。
「よかった。本当によかった。……もう思い残すことはなにもない。私は良いピアノ人生を生きたよ」
ふっと宙空に笑いかけて、かおるはそう云った。
その笑顔が悲しくて、みなみは思わず花束ごと抱きしめてしまった。
みなみより頭一つ分低い、その小さな体躯。
七十六年ピアノを弾き続けた、その生涯に思いを馳せて。
「ありがとうございました!」
はっきりした口調で、そう云った。
和やかな、けれど盛大な拍手に包まれて、一抱えほどもある大きな花束をかおるに手渡した。
晴れやかな笑顔でそれを受け取ったかおるは、ウィンクをしてみなみに語りかける。
「恋をしているんだな」
その言葉は完全に正しいと思った。少なくとも“友達ができた”ということよりは。
だからみなみは大きくうなずいて。
「はい」
と、そう云った。
「よかった。本当によかった。……もう思い残すことはなにもない。私は良いピアノ人生を生きたよ」
ふっと宙空に笑いかけて、かおるはそう云った。
その笑顔が悲しくて、みなみは思わず花束ごと抱きしめてしまった。
みなみより頭一つ分低い、その小さな体躯。
七十六年ピアノを弾き続けた、その生涯に思いを馳せて。
「ありがとうございました!」
はっきりした口調で、そう云った。
――だるい。
酷くだるい。
控え室の長椅子に寝そべって、みなみは全身を覆う気怠さに身を任せていた。
ただでさえここ数週間はろくに寝ていない。
その上病院にいくときの筋肉痛も残っている。
それに加えて、二十分弱の演奏。
このまま明日の朝までここで眠ってしまいたい。泥のように眠ってしまいたい。
みなみはそう思った。
内輪の送別会兼打ち上げを誰かが予定していたはずだったけれど、今のところ特に連絡はない。
姉弟子は携帯の番号を知っていたはずだから、やるならば連絡があるだろうと、そう思ってみなみはまどろんでいた。
と、コンコンと控え室のドアをノックする音がする。
「はーい……」
眠気を振り払って、かすれた声で返事をした。
ドアを開けて入ってきたのは、桜色の髪をした近所の優しいお姉さん、みゆきだった。
「……あ、ご、ごめんなさい」
顔を赤らめながら慌てて居住まいを正そうとするみなみを手で制して、みゆきはにっこりと笑って云う。
「……素晴らしい、というのもおこがましいほどの名演だったと思います」
「……あ、ありがとうございます」
そういえば、他の出演者に面と向かって褒められてはいないな、とみなみは思った。もっとも、自分が弾いた演奏が実際に褒められるようなものだったのか、みなみは未だによくわかっていなかったのだけれど。
それに、そう。もしあの『熱情』が真実名演と呼ばれるようなものだったとしても。
自分だったらいい演奏をみせたピアニストを無心で褒めるなんてこと、悔しくてできないだろうなと、みなみは思う。
「それで、ゆたかさんが会いたいと仰ってますが、どうなさいますか?」
眼鏡の奥の普段は優しげな瞳が、そのときはなんだかいたずらっぽく煌めいているようにみなみには感じられた。
「……あ……」
改めて、それに気づく。
自分はなんてことを告白してしまったのかと。
ピアノに載せて弾いたその赤裸々な感情を思い出して、みなみの顔が茹でダコのように真っ赤に染まった。
ピアノを弾くのに必死で、その思いを伝えることに夢中になっていて、そのあとどうなるかなんて考えたこともなかったのだ。
でも、そう。
もうここから逃げ出すことはできないだろう。
伝えてしまった感情を。
持ってしまった感情を。
今更なかったことになんて、できないから。
「……あ、会います」
みなみがそう云ったとき、ためらうようにしばしの間を置いて。
キイと音を立てて、控え室のドアノブがゆっくりと回り始めていく。
やがてその向こうからゆたかが顔を覗かせるまで。
酷くだるい。
控え室の長椅子に寝そべって、みなみは全身を覆う気怠さに身を任せていた。
ただでさえここ数週間はろくに寝ていない。
その上病院にいくときの筋肉痛も残っている。
それに加えて、二十分弱の演奏。
このまま明日の朝までここで眠ってしまいたい。泥のように眠ってしまいたい。
みなみはそう思った。
内輪の送別会兼打ち上げを誰かが予定していたはずだったけれど、今のところ特に連絡はない。
姉弟子は携帯の番号を知っていたはずだから、やるならば連絡があるだろうと、そう思ってみなみはまどろんでいた。
と、コンコンと控え室のドアをノックする音がする。
「はーい……」
眠気を振り払って、かすれた声で返事をした。
ドアを開けて入ってきたのは、桜色の髪をした近所の優しいお姉さん、みゆきだった。
「……あ、ご、ごめんなさい」
顔を赤らめながら慌てて居住まいを正そうとするみなみを手で制して、みゆきはにっこりと笑って云う。
「……素晴らしい、というのもおこがましいほどの名演だったと思います」
「……あ、ありがとうございます」
そういえば、他の出演者に面と向かって褒められてはいないな、とみなみは思った。もっとも、自分が弾いた演奏が実際に褒められるようなものだったのか、みなみは未だによくわかっていなかったのだけれど。
それに、そう。もしあの『熱情』が真実名演と呼ばれるようなものだったとしても。
自分だったらいい演奏をみせたピアニストを無心で褒めるなんてこと、悔しくてできないだろうなと、みなみは思う。
「それで、ゆたかさんが会いたいと仰ってますが、どうなさいますか?」
眼鏡の奥の普段は優しげな瞳が、そのときはなんだかいたずらっぽく煌めいているようにみなみには感じられた。
「……あ……」
改めて、それに気づく。
自分はなんてことを告白してしまったのかと。
ピアノに載せて弾いたその赤裸々な感情を思い出して、みなみの顔が茹でダコのように真っ赤に染まった。
ピアノを弾くのに必死で、その思いを伝えることに夢中になっていて、そのあとどうなるかなんて考えたこともなかったのだ。
でも、そう。
もうここから逃げ出すことはできないだろう。
伝えてしまった感情を。
持ってしまった感情を。
今更なかったことになんて、できないから。
「……あ、会います」
みなみがそう云ったとき、ためらうようにしばしの間を置いて。
キイと音を立てて、控え室のドアノブがゆっくりと回り始めていく。
やがてその向こうからゆたかが顔を覗かせるまで。
みなみはそのドアを、じっとみつめていたのだった。
(了)
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- 凄い。みなみの熱い感情の描写に震えがきました。読み終えてすぐ『熱情』のCD買ってきました。 -- 名無しさん (2009-04-17 13:22:33)
- これよんでみなゆたにとりつかれた・・・。すごすぎですよ、作者さん! -- 名無しさん (2008-11-14 09:37:24)
- これはすごい・・・。
まさに芸術を思わせる小説でした。
みなゆたやかがこなではいつもHするだけ(ちょっと失礼ですが)
でしたが、これは違った。
俺もこういうものが書けるようになりたい。
これは書くではなく描く(かく)のレベルです。
感服しました、すごかったです。
-- taihoo (2008-11-09 12:21:27) - 私の中にあるみなゆた像を圧倒的な文章力と構成力でSSにしてくださったような作品です。
このような素晴らしいお話を書いてくださった作者様に私は感謝致しております。 -- 9-727 (2008-09-12 02:52:42) - 知らない筈の音楽をここまで伝えられる作者様に敬意を評します。
-- 名無しさん (2008-04-12 01:40:29) - 涙腺が決壊したが読み返しました。題材となった曲そのものは知らないのですが、その知らない筈の曲が頭の中で鳴っている様です。参りました。 -- 名無しさん (2008-04-09 00:48:54)
- 鳥肌! -- 名無しさん (2008-04-09 00:01:29)
- 告白シーンでニヤニヤが止まらなかった…! -- 名無しさん (2008-04-08 23:55:58)
- 涙 腺 大 決 壊 -- 名無しさん (2008-04-08 23:18:42)