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【無音声ピアノソナタ】第三楽章/グラーヴェ

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第三楽章/グラーヴェ(重々しく)
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§7

 そして目覚めると、みなみはこの肌寒い丘にいた。
 白く白く一面の雪景色に、たれ込めた雲も光を透かして白い。
 名も知らぬ広葉樹が、枯れ果てた枝に真っ白な樹氷を咲かせている。とぼしい朝の光に乱反射して、きらきらと光っている。
 鳥の声も聞こえない。獣の姿も見あたらない。
 どこまでも白いただ一面の雪原に、青ざめてなお白く、みなみは佇んでいた。
 その肌寒さは、決して外気温のせいじゃない。
 その白さは、雪のせいじゃない。
 その世界を作り上げているのが自分の心の冷たさなのだと、みなみはどこかでわかっていた。
 ふと自分の身体を見下ろして、気づく。
 その身体が氷でできていることに。あの樹氷のように鋭角的なカッティングで削られた、透明で、温もりの欠片もない、氷でできていることに。
 その透明な胸の中、死にかけた小鳥が歌っている。
 極寒の氷に閉じこめられて、震えながら弱々しい声で『ラ・カンパネラ』のメロディーを懸命に奏でている。キンキンと高音部が響く度に、何かが壊れる音がする。
 ――ああ、出してあげて。この子を出してあげて。
 そんな思いがわき上がり、みなみの胸を激しく衝きあげた。
 けれどその胸も、氷でできているのだ。わき上がった思いも、冷たい、凍えた、がらんどうの胸にただ響いては消えていくだけだった。
 そう、胸の中の小鳥を殺そうとしているのは、みなみ自身の心の、身体の冷たさに他ならなかった。
 それに気づいたみなみはがっくりと膝をつき、そっと雪原に身を横たえる。
 ぴしぴしと、身体の軋む音がする。ひびの入った身体が割れていく。
 つま先が、髪が、指先が、ぽろぽろと崩れ落ちていく。
 根本から折れた両手の指を見て、“ああ、これではもうピアノが弾けないな”とみなみは思う。
 胸の中の小鳥は、いつのまにか歌うのを止めていた。
 ゆっくりと、見上げた空から雪が舞い落ちてくる。
 雪が、しんしんと、音もなく、みなみの身体を覆っていく。
 凍えきったみなみにとって雪の温度は少しだけ暖かくて、そのぬくもりにそっと瞳を閉じた。

 ――そんな夢。

 ベッドの中で目覚めたとき、みなみの手は何かを掴もうとするように虚空に伸ばされていた。けれど、何も掴めてはいなかった。
 自分が泣いていることに気づき、そうしてまだ泣けることに驚いた。
 寒い。漏らした吐息が白い雲となって消えていく。
 夢から覚めた部屋も、凍えそうに寒かった。

 季節は初冬で、色づいた紅葉も散り落ちて、水たまりに薄く氷の張る頃。
 そんな季節の早朝の部屋で、けれどみなみが凍えそうに寒いのは、外気温のせいだけではなかった。

 ――ピアノを、弾けない。

 あの日以降、みなみのピアノが以前のように艶めいた感情を歌うことは二度となかった。『熱情』に限らず、『水の戯れ』も『愛の夢』も『トロイメライ』も『トルコ行進曲』も『月の光』も。
 何を弾いても、みなみにはそれが水のように流れる音楽だとは思えなかった。ただ音階の羅列に聞こえた。そこに篭めたどんな感情も、紛い物に感じた。
 人形だ、と思う。
 自分は精々のところ、よくできた演奏人形なのだ。
 あの夢のように、氷でできた冷たい人形。
 ほら、それを示すように、自分の身体はがりがりだ。
 やせっぽちの、女らしい丸みもない、棒のような手足だ。
 みゆきのような柔らかさや、ゆたかのような暖かさなど、欠片も持ち合わせていない。感情のない機械だ。
 こなたがやたらと男役に喩えていたじゃないか。
 かがみも“スレンダーでクール”と云っていたじゃないか。それが“やせっぽちで冷たい”とどういう違いがあるだろう。
 自分は、そう、熱情を抱いたことすらない人間なのだ。
 みなみはそう思った。
 そう思って、みなみはピアノを弾いた。
 弾けないと知りつつも、ピアノを弾いた。
 ピアノの悩みは、ピアノを弾くことでしか解決できないだろうと、そう思った。
 だから、朝も夕もひたすらに弾き続けた。
 それ以外に、何をすればいいのか思いつきもしなかった。
 お昼休みにも、音楽の教師に無理を云って音楽室のピアノで弾き続けた。
 朝早く起きて、遅刻ぎりぎりまでピアノを弾いた。みゆきと一緒に登校することはなくなり、一人で登下校する車中で鞄を鍵盤に見立てて指を動かした。
 放課後も真っ直ぐ家に帰り、ピアノ室に籠もって弾いた。
 岩崎家からピアノの音がとぎれることはなく、チェリーはいつもドアから顔だけを覗かせて、狂ったように弾き続けるみなみを見守った。
 岩崎家がそれなりの敷地面積を持っていたのは幸いだった。寝室で眠る母や父のもとまでピアノの音が響くことはなかったから。
 夜。
 眠れずにピアノを弾く。
 眠ろうとして目を閉じれば、眼前に広がるのは一面の雪原。
 そうして小鳥が『ラ・カンパネラ』を歌う夜に。
 みなみは眠れずにピアノを弾いた。
 緊張感を孕んだ第一楽章。
 たおやかに流れる第二楽章。
 激情に溢れた第三楽章。
 雨が降った日も、風が強い日も、試験の前日でも、どこかで誰かが結婚した日にも、どこかで誰かが殺された日にも。
 みなみはピアノを弾き続けた。感情がこもっていないと知りながら、自動人形のように弾き続けた。
 睡眠時間は三時間に減った。

 ――酷い顔色をしているな。
 お風呂場で、鏡を前にしてみなみは思う。
 目の下の隈がとれない。心なしか、頬から顎のラインがより鋭角的になった気がする。少年のように薄い胸の下、あばらが透けて見えている。体重は、五キロ減った。
 私には、こんな身体がお似合いだ。感情のない自分には、こんなやせっぽちな身体がお似合いなのだ。
 そう思って自嘲する。
 鏡に写ったその笑みは、三日月のように尖っていた。

 ある日、かおるからプログラムが届いた。開催期日の迫ったかおるの引退記念。そのプログラムだ。
 かおるの演奏のあと、六人のピアニストが演奏をする。年齢の順に弾いていき、トリをつとめるのがみなみだった。ピアニストの年齢は大体五歳ずつ開いているようだった。
 なるほど、そういうことか、と思う。
 ピアノを弾きついでいく。
 想いを、未来に繋げていく。
 そういう意図をもった公演になるのだろう。もっとも、みなみが『熱情』さえ弾ききれれば、だが。
 一つ、奇妙なところがあった。プログラムには演奏者の名前があるだけで、曲名が書かれていなかったのだ。
 そして添えられた手紙には、毛筆で『熱情はみつかったかい?』と書かれていた。子供のころから見慣れた、かおるの筆跡だった。
 その手紙を読んで、思わずみなみの顔がほころんだ。
 ――ああ、やはりわかっているんだ。なにもかも。
 曲名が書かれていないプログラムは、きっと、みなみが『熱情』を弾ききれないと判断したときに、別の曲とさしかえられるようにと考えてのことなのだろう。
 不可能かと思えるほど厳しい課題を出しながら、その一方取り返しのつかないほど傷つくことがないようにフォローも忘れない。
 なるほどあの人らしい教え方だ。みなみはそう思う。
 けれど、だからこそそんな思いに答えたかった。
 七十六年ピアノを弾き続けたその最後の舞台に、最高の演奏を贈りたかった。

 それには、どうしても『熱情』を弾かなければいけないのだ。

 だから。
 だから、みなみはピアノを弾いた。
 大丈夫。このくらいのことは大丈夫。そう自分に云い聞かせて。
 ピアニストなら。そうピアニストなら。
 きっとみんなこういう泥沼からはい上がっているはずだ。
 ホロヴィッツも、アルゲリッチも、ポリーニも、リヒテルも、ラフマニノフも、ルービンシュタインも、フジ子・ヘミングも。みんな。

 ――だから。
 みなみはピアノを弾いたのだ。


§8

 ――みゆきは、そんなみなみをただ見守っていた。
 何度手を差し伸べようとしたことだろう。けれどその度みゆきは、この差し出した手に意味などあるのだろうかと自問する。
 みなみが陥っている苦境は、まさに芸術家を襲う産みの苦しみに他ならなくて。そこから解放することで、果たしてみなみが本当に救われるのだろうかと、疑問に思うのだ。もっとも、自分が差し出した手をみなみが握り返してくる可能性は低いだろう。そう思っていたけれど。
 みなみはピアニストなのだ。
 それを、みゆきは知っている。
 自分がなろうとしなかったピアニストに、みなみがなったということを。
 ただ、自分の好きな曲を弾きたかった。『エリーゼのために』とか『メヌエット』とか『アヴェマリア』とか。そんな曲を。
 優しい曲が好きだった。柔らかい曲が好きだった。
 そんな曲しか弾けない自分はピアニストにはなれないな、そう思ったのだ。
 ピアノ教室を辞めようと思う。そう云ったとき、かおるはなんだか肩の荷が下りたような顔をした。
『そうか。……実はね、少しだけほっとしている』
『……あら、どうしてでしょう?』
『みゆきに、辛い演奏を押しつけるのは忍びなかったからね』
 みゆきの頭を撫でるかおるの指は、ピアニストらしく、節くれ立っていてとても長かった。
『みゆきのピアノは好きだよ。教えて欲しいことがあったらいつでも呼びなさい』
 そう云って笑いながら送り出してくれた。
 だから。
 その道を歩かなかったみゆきだから。
 今みなみが歩いている道の険しさを、朧気ながらにわかっているからこそ。
 手を差し伸べることができなくて、ただ見守っていたのだった。

 ――ひよりはフォローをした。
 最初のうちは、なんとかしてみなみの負担を取り除こうと、色々と話しかけた。遊びに誘ったり、どうでもいい話題でおどけてみせたり、悩みを聞いてみようとしたりした。
 けれどその度みなみは、心の底からすまなそうな顔をして。
 本当に、泣きそうな顔をして。
『ごめん』だとか。
『そういう気分になれないんだ……』だとか。
『ありがとう、でも、私の問題だから』だとかいう返事をかえしてくるのだった。
 そのうちに、自分がしていることがみなみを惑わしているだけだと気づき、ひよりは無理にみなみを元気づけようとすることを辞めた。
 そして以前より輪をかけてぶっきらぼうに見え、無口になり、近寄りがたくなったみなみがクラスから浮いてしまわないよう、ひよりは駆けずり回ったのだ。
 フォローして、説明して、またおどけてみせて、自分を悪者にすらして。
 そんなことをしている自分に少しだけ落ち込んだけれど、でも、どこかで楽しさすら覚えていた。
 クラスメイトのこんな反応は、多分みなみと出会ったばかりの頃の自分の姿なのだから、と。そう思って。
 こうして今みなみと親しくなって。その真面目なところとか、優しいところとか、不器用なところとか、そんなところを好ましく思うようになった。最初はただの無表情に見えたその表情からも、感情の微妙な変化がわかるようになった。
 そうすると、クールな性格だと思っていたみなみが、意外なほど感情に富んでいたことに気づかされるのだ。
 いつしかひよりは、みなみのことを大切な友人だと思うようになっていた。
 だから。
 そんな友達のフォローをしている自分を、少しだけ誇らしく感じていたのだった。

 ――パティはいつもと変わらないふりをした。
 自分は道化だと、常々そう思っていた。
 空気の読めない発言をして場をかきまわし、明るい口調で賑やかに騒ぎ立て、ちょっとしたことではしゃぎ回る。
 金髪碧眼で異文化の視点を持ったパティは、たしかに中世の宮廷道化師のように場をかき回すトリックスターなのだった。
 パティはそんな自分の役割をわかっていたから。
 日常が、そこにあるように。みなみがいつでも戻ってこられる日常を壊さないように。
 いつもと変わらないふりをした。
 ――パティは、みなみのスレンダーな身体が好きだった。
 自分のどこもかしこもぶくぶくと膨らんだ身体に比べて、清潔感に溢れて怜悧な印象を与えるみなみの身体に、美しさを感じていた。
 パティが子供のころから目を輝かせて見続けてきたジャパニメーションのキャラクターは、そんなスマートなフォルムを持っていたから。
 自己紹介で初めてみたときから、パティの中でみなみは、ジャパニメーションが体現するような、“きらきらとした素敵な何か”のイメージと結びついていたのだ。
 そう、パティにとってみなみはいつだってミステリアスでエキゾチックでエキサイティングで、そうして日本にきて初めてできた、大事な友達の一人なのだ。
 それでも、生まれ育った言語環境は大きくて。日本語がネイティブでないパティにとって、みなみを慰めたり元気づけたり、あるいは相談にのったりすることは難しかった。
 だから、パティはせめて自分ができることをした。
 いつもと変わらないふりをして、元気にはしゃぎ回ってみせたのだ。

 ――そんなそれぞれの想いを飲み込んで、時の歯車は回っていく。
 身を削りながら弾く、みなみのピアノの調べに乗せて、演奏は続いていく。
 それはまるで、みなみをソリストに擁したオーケストラが奏でる協奏曲のように。みなみを中心として、各々が各々の楽器を弾く、協奏曲のように。
 無音のオーケストラの奏でる協奏曲が、続いていく。
 ――そのオーケストラの中、不協和音を放ち続けるソリストを常に見守る存在がいた。
 喩えるなら、それは演奏をとりまとめるコンサートミストレス。
 ソリストと指揮者に並んで重要な位置にいるその者は、いうまでもなく――小早川ゆたかだった。 


§9

 はぁ、と深くため息をついた。
 今日何度目のため息かもわからなかった。
 どうすればいいのかな、と思う。
 自分になにができるのかな、と思う。
 そう思って、でも自分にできることがなにも思いつかなくて、ゆたかはまたため息をつく。
 そんなことを、みなみが沈み始めた数週間前から、ずっと繰りかえしている。
 そもそも何かしようにも、みなみが陥っている状態のことが、ゆたかにはよくわからなかった。あれほどの努力と精力をかけて何かを成し遂げようとした経験が、ゆたかにはない。そうしようと思っても、身体が云うことを利かなかった。何かを成そうとする度に、ゆたかの身体はゆたかを裏切って壊れるのだ。
 そんなことを繰りかえすうち、ゆたかの心の奥底にはいつしか荒野ができていた。
 諦観という名の、荒野が。
 まるで正反対だと、ゆたかは思う。
 みなみと自分は正反対だと、いつも思う。
 クールで無感動にみえるみなみの心の中に、暖かくて豊かな感情が渦巻いている。子供みたいに幼い外見の自分の中に、乾ききった荒野が広がっている。
 ――だから、みなみに惹かれた。
 ――だから、みなみが好きになった。
 ――だから、今のみなみの思いはわからない。
「……みなみちゃん……」
 その名を口にするだけで、目尻に涙が滲む。
 誰も見ていない自室であるのに、その涙をこぼしてしまっては何かに負ける気がして、ごしごしと涙を拭った。そのまま机の上で組んだ腕の中に顔を埋めて、しばらくまどろんだ。
 思い浮かぶのは、みなみの顔ばかりで。
 照れた顔、微笑んだ顔、怒った顔、真面目な顔、自分が体調を崩したときの、心配そうな顔。そして最近の、張り詰めて今にも切れそうな、青ざめた顔。
 拒絶されたわけじゃない。
 冷たくされたわけじゃない。
 そうだったなら、まだ何かできることもあったろうけれど。
 近づこうとしても、助けようとしても、「ごめんなさい」と泣きそうな顔で謝られてしまっては、一体どうすればよかったのだろう。
 だからゆたかは、ただ見ていた。
 大好きな人が一人で傷ついていくのを、ただ見ていた。
 できるだけ、そばにいて。
 できるだけ一緒にいて。
 話しかけようともせず、助けようともせず、わかろうともせず、ただそこにいた。
 そこで、みなみが壊れていくのを、ただ見ていた。
 メイクなどしていなかったみなみの肌に、ファンデーションが塗られていることに気づいたのはいつからだったか。
 決して居眠りなどしたことがなかったみなみが、授業中ふらふらと船をこぎ出すようになったのはいつからだったか。
 いつしか音楽室でお昼ご飯を食べるようになったみなみが、精一杯の笑みを浮かべて、でもゆたかにだけわかる辛そうな表情を浮かべながら、ゆたかが作ったお弁当をお茶で流し込むようになったのは、いつからだったか。
 “ゆたか”と、少しだけ低い、けれど深く響く声で名前を呼んでくれなくなったのは、いつからだったか。
 それはわからない。
 それはわからないけれど。
 きっとそんな日々も、もうすぐ終わるのだ。
 みなみからもらった招待状。一年D組の三人に届いた招待状に書かれた演奏会の日付は、今週末。わずか二日後に迫っていた。
 良きにしろ悪しきにしろ、その日がくれば何かが終わるのだろう。そう思った。
 だからゆたかは、考える。
 どうすればいいのかな、と。
 自分になにができるのかな、と。
 良い方の結末を迎えるためには、自分はどうすればいいのかと。
 でも、なにも思いつかなくて。
 ゆたかは深いため息をつくのだった。

 ――とりあえず、今できることをしよう。
 そう思って、ゆたかは立ち上がった。
 そろそろ解凍していたクリームチーズが室温に戻ったころだった。 思い出すのは少し前のこと。まだみなみがこんな状態になる前のこと。みんなで行ったケーキバイキングで、みなみはチーズケーキばかり三つもお皿に載せて持ってきた。それがなんだか子供っぽくて、ゆたかは不思議と嬉しくなってしまったのだ。珍しくひよりにからかわれて、顔を赤らめていたみなみが可愛かったことを覚えている。
 その後、プリンばかり大量にもってきたパティが落ちをつけてしまったのだけれど。
 とにかく、ゆたかの中でみなみと云えばチーズケーキであり、チーズケーキといえば幸せの記憶なのだった。
 だからゆたかはチーズケーキを作ろうと思った。
 そんなもので何かがよくなるとは、まるで思えなかったけれど。
 受験で忙しいだろうに悪いかな、と思いながらもつかさにレシピまで聞いて。
 ゆたかは、チーズケーキを作ろうと思ったのだ。

 ふと。
 歩きだそうとして、足が少しふらつくことに気がついた。
 ――大丈夫……かな。
 わき上がってきた厭な予感を振り払って、ゆたかは台所に向かったのだった。


§10

 指が、動く。
 まるで両腕の先に別の脳があって、そこから指令を発しているかのように。まるで意識せずとも指が動く。自動的に次の音符を探しだし、その音をたぐり寄せるために、押すべき鍵を押していく。
 たゆまぬ反復練習が、みなみの指先にその楽譜を覚えさせていた。
 完璧に構築された音楽的迷路を、軽々と飛び越えて叫ぶ。
 緊張感を孕んだ第一楽章を。
 たおやかに流れる第二楽章を。
 激情に溢れた第三楽章を。
 みなみの指先が、駆けていく。
 ――突破口を、見いだしていた。
 少なくともその糸口になりえるものを、みなみは掴んでいた。
 これだけ自分を追い込んで、これだけ身体をいじめ抜いて、なおみなみの胸に灯るその感情。
 極寒の荒野に身を横たえてなお、その身体を動かす微かな熱量。
 ――ピアノを弾くということ。
 ――ピアノを弾きたいということ。
 ――どうしても、ピアノを弾くのだということ。
 それこそは熱情と呼ぶべき感情だろうと、みなみは思う。
 それはあの日聴いたかおるの演奏とはどこか違っていたけれど。あの今にも胸をかきむしって叫び出しそうな激情とは、少し違うけれど。
 でも、この世界を打ち壊そうと思うほどの感情は。
 辛いことも悲しいことも全てピアノの音に換えて、あらゆることを表現しようと思うこの強い感情は。
 熱情以外の何物でもないと、みなみは思った。
 ほら、その証拠に、私はこんなに弾けている。
 第三楽章に入り、和音の連打を叫んでも。
 コーダに入り、圧倒的なプレストに浸っても。
 失速することなく弾き続けることができていた。
 ――大丈夫。いける。
 あとは曲想にそってこの感情を篭めていくだけ。
 タンッ、と最後の一音まで鳴らしきり、溜めていた息を大きく吐きだした。
 ピアノ部屋に、まだ熱情の余熱が残っているように思えた。
 何度弾いても、弾き終えたときのこの胸の高鳴りを抑えることはできない。どきどきと弾む胸をもてあましながら、みなみは背もたれにもたれかかった。ギッと、椅子が軋む音がする。
 汗で張り付いた髪をかきわけて、思う。
 ――もう少しだよ、ゆたか。
 演奏会まであと二日。
 これを弾ききって、先生の新しい門出を見送って。
 そうしたら自分は、また以前のように笑える気がする。ゆたかのためだけじゃない、自分だけの歌を歌えるようになると思う。ただゆたかに依存して、ゆたかに慰めてもらって、それで安心するだけの毎日じゃなくて。自分の感情を、ちゃんと言葉にして云えるように。口ごもらないで、はっきりと言葉に出せるように。
 そうして、ゆたかの隣を一緒に歩くのだ。
 みなみがそう思ったとき、書き物机においてあった携帯がカタカタと振動を始めた。丁度一曲弾き終わり、切りが良いところだった。ピアノの蓋をおろして、携帯を取りに立ち上がる。そして画面を見たみなみの顔がほころんだ。メールの送信者は今まさに考えていたその相手、ゆたかなのだった。
『調子はどう? これからそっち行っていいかな? あ、もちろんお邪魔じゃなかったらだけど』
 そんな、用件だけのシンプルなメール。
 すぐに肯定の返事を返して、丁度いいから一息いれようとキッチンに向かう。
 指が疲れていて、ポットを持ち上げるのもだるかった。なんとか火にかけてから紅茶の缶を開けたとき、再び携帯が振動を始め、ゆたかからの返信を伝えてきた。
『よかった♪ ケーキ焼いたからもってくね!』
 みなみは、演奏の余韻とは別の理由で、胸が温かくなるのを感じていた。
 思えばずっと心配をかけてきたと思う。
 出来る限りの説明はしたし、きっとわかってくれていると思っている。それでも理屈は理解していても感情を抑えられるとは限らない。はたして、一緒にいて楽しくない友達のことをずっと大事に思えるものだろうか。それはゆたかだけじゃなくて、一年D組の他の友達、パティやひよりにしてもそうだ。
 嫌われていても仕方ないかな、とみなみは思う。
 でも最近の様子を考えるに、そんな印象は見受けられなかった。いくらピアノのことばかり考えていたと云っても、周りのことも多少は見えていた。ひよりの気遣いも、パティの明るさも、みなみはわかっていた。ゆたかは週末になるとよく岩崎家に遊びにきていたし、みゆきも顔を出すことが多かった。それも、ごく自然な様子で。ちょっと顔をみにきた、みたいな様子で見守ってくれていたのだ。
 自分は、とてもいい友達をもっているんだな。
 改めてそう思ったみなみは、少しだけ涙ぐんでしまった。
 ――がんばろう。
 袖で目尻を拭って、みなみはそんな風に思いを新たにしたのだった。

 ――それにしても、ゆたか、遅いな。
 ピアノを弾きながらみなみは思う。第二楽章の中盤、展開していく主題の変奏に若干の違和感を感じていて、そこの修正に手間取っていた。
 つい熱が入ってしまって、気がつけば二時間ほど経過していた。
 ふと時計を見上げたとき、みなみはその時間の進みの速さに驚いて、それと同時に怪訝に思ったのだ。
 ――ゆたか、どうしたんだろう。
 倖手から田園調府までは確かに距離があるけれど、三時間も四時間もかかるほどではない。これから行く、と云っていたし、ケーキを焼いたとのことだから、そんなに長いこと間をおきたくないだろう。
 なんだか、厭な胸騒ぎがした。
 ――まさか……。ううん、そんなこと……。
 ぶんぶんと頭を振って、そんな思いを振り払う。
 中断していたところを仕上げるため、再び鍵盤に指を置いて続きを弾きだした。
 そうして興に乗り出したころのことだった。

 バタンッとドアを開けて。
 みなみの母が息せき切ってピアノ部屋に駆け込んでくる。

 みなみがピアノを弾いているときに、こんな風に母が邪魔することなどあり得ない。

 そうして目を丸くしてみつめるみなみに、母は云った。

「みなみ! ゆたかちゃんが、駅のホームから落ちて――で、電車が」

 この人は、何を云っているのだろう。 
 母をみつめながらそう思って。
 次に奏でるべき音をだすため、みなみの指が自動的に鍵盤を押し込んだそのときに。

 バツン。

 と雷鳴のような音を発して弦が切れた。




















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  • ぎゃー
    超生殺しー(涙) -- 名無しさん (2008-04-04 07:58:12)
  • GJ! 事態の急展開で続きがますます楽しみになりました。 -- 名無しさん (2008-04-04 06:55:23)

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