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魔法

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Beautiful World 9章/あたらしい人より続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

§21

「――凄い偶然」
 飲んでいた食後のエスプレッソをソーサーにかちゃりと置いて、ながもんは云った。
 その言葉に、わたしと結城さんは顔を見合わせてにんまりと笑った。にゅっと目が細くなる笑い方、これはきっと結城さん風の“ニマニマ笑い”なんだろうなってわたしは思う。
 どうやら結城さんはながもんの高校の後輩で、最初から同じサークルに入るつもりだったらしい。ガイダンスが終わったって聞いたときにながもんが変な顔をしたのも、そろそろ結城さんが来るかと思ったからだろう。
 そのながもんも今はとっとと勧誘活動を終わりにして、こうしてわたしたちと一緒に食後のお茶を飲んでいる。結城さんが来た早々に机を片付け始めたながもんに『もう勧誘終わりなんだ!』って突っ込んだら、『だって知らない人が来たら怖いし……』なんておかしなことを云っていた。知らない人を勧誘するためにやっていたはずなのに、どうして素のながもんはこんなに引っ込み思案なんだろう。
 でも、おかげでこうして学校の案内がてら学食に連れてきてくれたんだから、わたしにとっては願ったり叶ったりなんだけど。
 この学食は、法正を象徴するような高層ビル、ボアソナード・タワーの半地下にある場所だった。大きな窓の外には外濠公園が見えていて、明るくて綺麗で眺めもいい。入学してからもお昼はここがいいかなって話したら、座席数が少ないから真っ先に埋まるよってながもんが教えてくれた。
 ――本当に、ながもんがいてくれてよかったと心から思う。
 ちょっと調べただけじゃわからない細かいことも、一年間通った人に聞けばすぐにわかるって云うものだ。それに、過去問とかノートとかの重要物資を調達できる当てができたのも、わたしにとっては凄く大きい出来事だ。
 心の中にかがみが出てきて何か云おうとしたけれど、慌てて口を塞いで黙らせた。
「――じゃあ、やっぱりこなたさんがあのお店の店員さんだったのね」
 そう云って、結城さんはダージリンをそっと口に含む。ちゃんと音を立てないで紅茶を飲むその姿は、なんだかローゼンにでてくるドールみたいに綺麗で可愛らしかった。
「――あのお店って、“ドリル”の?」
 わたしはオレンジジュースのストローから口を離して、結城さんに問いかけた。わたしが店員してたお店なんて、今もながもんが働いてるコスプレ喫茶『カフェ・ド・リルハ』――通称ドリル――くらいしかないはずだ。
「うん。もとこ先輩が働いてるから、何度か行ったことがあるのよ。こなたさんを見かけたことはなかったけれど、壁に写真が貼ってあったから……」
「――あ! 理由があってわたしが印象に残ってたって、そういうこと~?」
「そうなの。それでもとこ先輩に、同僚っぽい人をうちのお店で見かけたよって云ったんだけれど、『こなたさんがスペイン坂なんてお洒落なところにいくはずない』って一言で否定されちゃって。ああ、そうなのかしらと……」
 ぐるんとわたしが視線を向けると、とんがり帽を目深に被って首をすくめるながもんなのだった。
 そのながもんも、未だに魔法使い長門のコスプレをしている。
 だからこのテーブルを囲むのは、魔法使いとお葬式みたいなクラシックドレスを着た美少女と、そうして似合わないスーツを着込んだ小学生みたいな女の子の三人組。
 これはもしかしたら、すでにどこからどう見てもコスプレ同好会の会合なんじゃないかとわたしは思う。
「――あれ?」
 ふとあることに気がついて、わたしは首を捻った。
「どうしたの泉さん?」
「えっと、結城さんはながもんの一個下だったんだよね?」
 こくこくと、結城さんとながもんが首を縦に振っている。
「――で、ながもんは今二年生?」
「うん、ハタチ」
「――あ」
 やっとそのことに気がついたのか、結城さんは気まずそうにぺろっと舌を出す。そんな反応を見ると、やっぱりわたしの推測は間違っていなかったんだろう。
 ずずずいっと結城さんに詰め寄って、わたしは云った。
「じゃあ結城さんもわたしとタメなんじゃん! なにが“みんな現役だと思うなんて、デリカシーがない人ね”なのさ。ちょっと気にしちゃったじゃん」
「ご、ごめんなさい、嘘つきました……」
「うー、あー……まぁいいけどね。きっと大人の人が沢山いる中で聞いちゃったわたしも悪かったのだよ~」
 そう云って、わたしはぐでんとだらしなくテーブルに突っ伏した。
 ――そうすると、少しだけ高校時代の気分が蘇る。
 気を許せる友達の間でずっとぐでぐでとだらしなく過ごしていたあの頃に、いつの間にかわたしは戻っている。
 考えてみたら、わたしは朝からずっと気を張り詰めていたんだと思う。似合わないスーツを着て、高く髪も結い上げて、ちゃんと大人っぽくしないといけないなって思ってた。周りの人と違わないように、変に思われないようにと気を遣って。
 ――でも。
 結城さんに会った。
 他人と違う自分を怖がらず、周囲に向けて“わたしはわたしです”ってちゃんと云える人。
 ながもんに会った。
 高校時代のわたしを知っている人。初めてやったバイトでわたしがやらかした色んな失敗を知っていて、そうして一緒に少しずつ大人になっていった人。
 そんな二人に囲まれて安心しきったわたしは、気がつけばすっかりいつも通りのわたしになっていた。
 ――クスクス。
 テーブルに突っ伏したわたしの上に、笑い声が振ってくる。
 視線だけを上に向けると、開いた手のひらで口を隠して、ながもんが笑っていた。そうしてながもんは、笑いながらわたしたちに向けてこう云った。
「――よかったね。友達、ちゃんとできて」
 その言葉は、わたしと結城さんのどっちに向けて云ったんだろう。
 気になって結城さんの方を見上げると、その頬が初めて会った日みたいなピンク色に染まっていた。
 ――多分、わたしと同じように。

   *

「――それじゃ、マネージャーには一応わたしからも云っておきます。泉さん戻るからって」
「ほいほーい。パティにもよろしく~」
「ふふ、“こなたとパティ”再結成ですねー」
「おー、今流行の“一夜限りの再結成”だね!」
「……一夜限りなんですか?」
「……そういうことにしといて、毎回一夜限りで再結成するとかどだろ?」
「あは、ネタにはなるかも」
 楽しそうにそう云ったながもんは、やっぱり半年前より少し明るくなった気がする。前はそれこそ長門みたいに無口だったけど、わたしが三年になった頃からだんだん明るくなってきて、今はどちらかと云えば消失長門の方に近かった。
 改めて考えてみると、その変化はながもんが大学に入ってからのことなんだろう。やっぱり色んな人がいる大学に通っていると、それまでとくらべて心境に変化があったりするんだろうか。
 ――わたしは、どうだろう。
 そう思って、隣にいる結城さんのことを盗み見る。
 これから先、わたしの身にどんな出来事が起きるんだろう。結城さんや、心理学科の同級生や、サークルの知り合いや、やがて入るゼミ生との間で。それは、かがみやつかさやみゆきやあやのんやみさきちと笑いながら過ごしたあの三年間と、何が違って何が同じなんだろう。
 それはわからない。
 それはわからないけれど、いつかわたしも結城さんのことを“みゅーちゃん”って呼べたらいい。そんなことを考えた。
 やがてわたしたちがいる一ヶ谷駅に、オレンジ色の電車が滑り込んでくる。見鷹の地元校出身の二人は、共にわたしとは逆方向。わたしは少しだけ寂しい気持ちで、電車に乗り込む二人のことを見送った。
「――こなたさん」
 車内に入った結城さんが、くるりと回ってわたしの方に振り向いた。ふわふわのアッシュブロンドが揺れて、なだらなか胸の上でぽんぽんと弾む。
「これから、よろしくお願いします」
 ――扉が閉まる寸前、結城さんはそう云って深々と頭を下げた。

 そうしてわたしは一人、一ヶ谷駅の下りホームに立っている。
 見下ろせば外濠の流れの中、なぜか駅の真下にある釣り堀で沢山の人が糸を垂らしていた。
 天気は相変わらず快晴で、陽射しはどこまでも澄んでいて、穏やかな水のうねりがきらきらと光を乱反射させていて。そんなうららかな春の光景の中、釣り人たちは眠ってるんじゃないかと思うくらいのんびりと座っている。
 ――そう云えば、わたしもあんま寝てないんだった。
 ホームのベンチに座ってぼんやりとしているうちに、一時は去ったはずの眠気が再び襲ってきた。
 今日は一日いろんなことがあったな。
 ふとももに肘をつき、ほっぺを両手の中にすっぽりと埋めながらわたしは思う。
 朝早く起きて、慣れないメイクに悪戦苦闘した。おかあさんのバレッタをつけるために結い髪なんかもがんばって、おかげでゆーちゃんにも格好いいって褒められた。
 おとうさんとは、久しぶりに随分真面目な話をした。それは楽しい話じゃなかったし、聞きたくないことだっていっぱい聞かされた。でもあの三年半前のクリスマス以降、お父さんはどこかわたしのことで達観したみたいな雰囲気があって、本当はどう思っているのか中々聞かせてもらえなかったから。だから、あれでいいんだとわたしは思う。
 ――そして。
 友達ができた。
 新しい友達と、より仲良くなれるだろう古い友達。誠実で優しくて、他人と違うことを全然怖がらない柔らかい心を持った二人。
 それはきっと、あの頃みたいにわたしのことを優しく包んでくれる、安心できる友達だ。
『――白河夜船ですね』
 どこからか、みゆきの声が聞こえてくる。
 ――ああ、してみると、わたしはまた眠っちゃったんだ。
 でも自分でそんなことがわかるのは、半分寝ながらも半分は起きているからなんだろう。靄がかかったような視界の中、外濠の上を何か水鳥が二、三羽飛んでいる。それがわかるくらい、わたしは起きている。
『――白河夜船ってなぁに、ゆきちゃん?』
 現実と二重写しになった夢の中で、つかさがぼんやりとした口調で問いかける。そのどこか間延びした云い方は、実際につかさが云った通りなんだろうか。それとも、夢の中で記憶があいまいになっているせいだろうか。既に夢の中に片足突っ込んでいるわたしには、それがどっちかわからない。
『わたし知ってるよ、わたしみたいに眠りこけてて、周りのこともわかってないやつのことを云うんだよね』
 一度見た夢のことだから、白河夜船の意味も次の展開もわかっている。自分が云うはずだった台詞を先取りされて、かがみが驚いたような顔をした。
『へー、あんたも意外と物知ってるのね』
 そうして、嬉しそうに笑った。
 ――って、なんで眠ってるはずのわたしが喋ってるんだろう。
 ふとそんな矛盾に気がついて、わたしは苦笑する。そうすると眠りに落ちかけていた意識がゆらりと現実に戻ってきて、再び目の前の景色を認識できるようになる。
 ――眠りは、船に乗っているのと似ている。
 ゆうらりゆらりとたゆたう外濠の上、一ヶ谷駅のホームはまるで大きな遊覧船のようだった。
 ――でも。
 ――でもね。
 いくら新しい友達ができたって、それはやっぱり違うんだ。
 誰もつかさみたいに他人を柔らかく受け止めることはできないし、みゆきみたいに誠実に世界の意味を知ろうとすることはできない。みさきちみたいに悩むときにすら元気いっぱいな子なんてみたことないし、あやのんみたいにふわふわしてるのに芯が感じられる人なんてそうはいない。
 ――それに。
 かがみみたいにわたしのことを愛してくれる人なんて、絶対どこにもいないんだ。
 いくら新しい友達ができたって、それはみんなの代わりができたってことじゃない。ただわたしの中に新しい友達ができる部屋ができたっていうだけで、みんながいる部屋は、いつだってそこにちゃんとある。
 今朝だってでかける前にみんなとメールのやりとりをしてきたし、つかさからは日中も細かいメールが届いてる。今日は誰がどうしたっていうことが沢山書いてあるところからすると、他のみんなにも同じように送っているんだろう。
 こうやってわたしたちは多分、これからもつかさを中心に回っていく。
 そんな予感がする。
 ――ガタンゴトン。
 ホームに電車がやってきて、その音でわたしはぱっちりと目を覚ます。気がつけば随分長いことぼんやりしてしまったけれど、いつまでもここでこうしてはいられない。やってきた上り電車に乗るにはもう間に合わないけれど、とりあえずちゃんと上りのホームまで行っておこう。
「……ふわぁぁぁ」
 大きなあくびを一つぶちかまし、わたしは首を振って立ち上がる。
 ――カツン。
 すぐ近くで、ヒールがアスファルトを叩くような音がした。
 ――なんか、ついさっきもこんなことあったな。
 そんなことを考えながら眠い目をこすろうとして、ふとメイクをしていることに気がついた。
 ――ああもう、めんどくさいなこれ。やっぱりわたしには向いてないよ。
 仕方ないからパチパチと二、三度まばたきをして、そうしてわたしは振り向いた。

 ――そこに、女の人が立っていた。

 ばさり。
 力が抜けたわたしの手から、ハンドバックが地面に落ちる。
 けれどわたしも彼女も、地面なんて少しも見なかった。ただお互いの顔だけを見つめていた。
 驚きに限界まで見開かれた、垂れ気味の瞳。
 ツンと上向いた鼻、大きめの唇。
 髪には緩やかなウェーブがかかり、前髪の形は決まっている。
 勝ち気そうにつり上がった眉。
 でも、今はもう以前みたいにぶっとくはない。
「……あーちゃん?」
 懐かしいあだ名を呟いたわたしに、彼女もわたしのあだ名を呟いた。
「……こなちゃん?」
 ――ゴオッ。
 駅を通過する快速列車が、風を巻き起こしてわたしたちの髪を揺らしている。

 ――わたしと、魔法使いちゃんの髪を揺らしている。

 ――だから。

 私たちが会うことは、もう二度とないでしょう。
 決して、ないでしょう。

 しばらくの間、見つめ合っていた。
 わたしたちは、お互い何も云わずに見つめ合っていた。
 わたしの中では色々な言葉が吹き荒れていたけれど、そのどれもが形にならずに飛んでいく。意味のある言葉として口から紡がれることもなく、想いの欠片が飛んでいく。
 ――随分と、大人になっていた。
 わたしが知らないあーちゃんの三年間は、彼女を魅力的な大人の女性に変えていた。
 天パー気味だった髪にはウェーブがかかり、丁度つかさと同じくらいの長さのショートカットになっている。中一の頃はわたしと変わらなかった背も凄く伸びていて、今はもうかがみよりも高いくらい。みゆきほどじゃないけど出るところは出ていて、ひっこむところはちゃんとひっこんでいる。
 ――そうして、スーツを着ている。
 わたしと同じようにスーツを着込んで、あーちゃんがこの一ヶ谷駅のホームに立っている。
「……ひさしぶり、だね」
「……うん」
 絞り出したように軋んだあーちゃんの声に、わたしはかろうじてうなずいた。首を縦に振るだけで、全身の力を使い果たしたような疲労感。喉がからからに渇いていて、わたしが口に出した声も擦れていた。
「……法正、なの……?」
 首筋がじんじんと痺れていて、目の裏のあたりが痛かった。手も足も冷え切っていて、身体の感覚がまるでない。自分が立っているのか座っているのか、それともまだ寝ているのかすら定かじゃない。
「……うん」
 ――わたしに出来るのは、ただこくんと首を振るだけだ。
 云いたいことは沢山あったはずなのに。伝えたいことも沢山あったはずなのに。まるでそれをするだけの機械のように、わたしはこっくりとうなずくだけだった。
「――そう」
 それっきり、沈黙。
 以前はどちらかが黙り込んでしまっても、気詰まりなことなんて何もなかった。全然喋らなくても気持ちがどこか通じてるって思えたから、家に遊びに行ってお互い別なことをやっていても、それで充分楽しかったんだ。今かがみやつかさやみゆきたちに対してそう感じるように。
 ――でも今は、その沈黙が鉛のように重い。
 なんとかして何かを喋ろうと口を開くけれど、でもやっぱりわたしの口からは何もでてこない。何から話し始めればいいのかわからない。何をどう、伝えればいいのかわからない。
 ――その沈黙を、拒絶だと受け取ったんだろう。
 あーちゃんは、悲しそうに顔を伏せて――
「ごめんね」
 と、そう云った。
 ごめんねと、わたしに云って。
 顔を伏せたまま、わたしの横をすり抜けていこうとした。
 切なげに細められた瞳。その目尻に浮かんだ涙が、キラリと陽光を反射しながらこぼれ落ちていた。

 ――それを見た瞬間。
 わたしは、自分がずっと間違っていたことに気がついた。

 何をやってるんだろうわたしは。
 何をしていたんだろうわたしは。
 悔やんでいたのは、わたしだけじゃない。
 仲が良い友達と喧嘩別れして、悲しんでいたのはわたしだけじゃなかったんだ。
 その思いは瞬間的に身体の中を駆けめぐり、そうして硬直していたわたしの手足を動かした。
 わたしを拒絶したのは、確かにあーちゃんの方だった。
 血のように赤い黄昏時の教室で、あーちゃんはわたしのことを最低と云った。わたしの云うことを聞こうともしないで、もう友達なんかじゃないってきっぱりとわたしに云った。
 ――でも。
 わたしは、あーちゃんに自分のことを伝えようと努力しただろうか。彼を拒絶したのは彼が嫌いだったからじゃない。あーちゃんが彼のことを好きだと知っていて、馬鹿にしてたわけじゃ勿論ない。好きな男の人になら抱かれたくなって当然だと思っていたあーちゃんに、そうじゃないこともあるんだって、わたしは言葉として伝えようとしただろうか。
 ――していない。
 わたしは全然そんなことをしていない。
 わたしは、ただ打ちのめされていただけだった。彼のことを拒絶した自分、彼女に拒絶された自分。そんな自分につけられた“アセクシュアル”っていうラベル。
 そういうものに打ちのめされて、わたしはひたすらにそこから逃げていた。わたしはわたしが何者なのかもわからず、わたしを取り巻く大きな世界の中での立ち位置もわからず、たった一人で震えていた。あーちゃんに何を云われてもその通りの最低の人間だって思ってしまって、反論することもできなかった。そうやってわたしのことを傷つけることであーちゃんも同じように傷ついていたなんて、想像することもできなかったんだ。
 ――でも。
 今は違う。今はもう違う。
 わたしは、わたしが何者なのかを知っている。この世界の中でどんな人に囲まれて、どこに立っているのかを知っている。
 つかさが。
 みゆきが。
 みさきちが。
 あやのんが。
 ――そうしてかがみが。
 それを、わたしに教えてくれたから。

 反射的に動いたわたしの手が、あーちゃんの手首を掴んでいた。
「――待って」
 わたしが云うと、驚いたように顔を上げた。
 たたらを踏んでよろめいた足。
 振り向いた。
 小さく開いた口。見開かれた瞳。

 ――勇気を、ください。

 誰にともなく、わたしは祈った。
 それは例えば今朝、結城さんが他人とは違う服を着て、家の玄関を出るときに振り絞った勇気。
 それは例えばかがみが、家族の前でカミングアウトをするときに振り絞った勇気。
 ぎゅっと目を瞑って、襲い来る不安な気持ちをはねのけて、震える手足を押さえ込みながら自分の心の底から振り絞る。
 他人とは違う自分を受け入れて、それを他人にも伝える勇気。そうすることで傷つくことを怖がらず、笑われることも気にしないで、絶対乗り越えて見せると自分自身に云い聞かせる。それはそのための勇気だ。
 ――できるはずだった。
 わたしにも、それができるはずだった。
 かがみができたんだから。結城さんができたんだから。
 そういう人たちの隣にいるためには、わたしだってそれができないといけないんだ。
「は、話が、したいんだ!」
 ――その声は、多分少しだけ震えていた。
 それでもそれが、わたしが全ての勇気を振り絞って出した言葉だったんだ。

 ――魔法みたいだと、ずっと思っていた。

 あの日狂い桜の下で、かがみがわたしを捕まえてくれたこと。わたしをぎゅっと捕まえて、わたしに居場所を与えてくれたこと。
 あの日わたしたちの間にあった何重もの壁を光の矢みたいに真っ直ぐ突き破って、自分もボロボロになりながらかがみがわたしを救い出してくれたこと。全部、魔法みたいだと思っていた。
 でも違った。
 それは全然、魔法なんかじゃなかった。魔法みたいに都合がよくて、魔法みたいに奇跡的なことなんかじゃなかった。

 ――勇気。

 わたしを救ってくれたのは、それだった。
 それは全然特別じゃない、凄くありふれた力。誰もが持っていて、誰もが使うことができて、でも誰かのためにそれを発揮するのは難しい。そんなありふれた、でも大切で得難い力を、かがみはわたしのために沢山沢山振り絞ってくれたんだ。
 思えば、あのときだけじゃない。
 夏に喧嘩したわたしと仲直りしてくれたときも、秋の浜辺でわたしに『好きだよ』って云ってくれたときも、冬に教室で暴走したわたしを止めてくれたときも、クリスマスに逃げるわたしを追いかけてくれたときも。
 ずっとずっと、かがみは沢山の勇気を振り絞ってくれていた。
 怖かったはずだった。投げ出したかったはずだった。見てないふりをして、もういいやって諦めたくなったはずだった。かがみはいつだって強いように見えるけど、でも最初からそうだったはずがない。かがみにだって、弱いところがないはずがない。さも簡単に、当たり前にこなしてきたように見えるけど、その心は今のわたしみたいに怖がって震えていたはずだった。
 ――でも。
 一度だって、逃げ出したりはしなかった。

 硬直していたあーちゃんの顔が、ふにゃっと溶けた。
 けれど目尻から流れる涙は止まらない。大きめな唇が切なそうにぶるっと震えて、そうしてわたしの手をぎゅっと掴んでこう云った。
「……あのときは、ごめんね」

 ――わたしの中からも、何かが溶けていく。

 もうあの文集を思い出すことはないだろうと、わたしは思った。

§ エピローグ

 あーちゃんが理解してくれたのかどうか、それは正直わからない。
 かがみみたいに理路整然と話せればよかった。みゆきみたいに色んな知識に基づいて話せればよかった。つかさみたいに感情を上手く伝えられたらよかった。
 でも、そうできないわたしの話はひどくわかりづらいものだったに違いない。
 それでも、あーちゃんはちゃんと最後まで聞いてくれていた。
『……ごめん。正直どう考えたらいいのかわからない。……だから、もっとよく考えてみたい……』
 最後まで聞いて、そう云ってくれた。

 ――ガタン、ゴトン。
 あーちゃんを乗せた電車が去っていく。
 この春から一人暮らしを始めたあーちゃんは、仲野の方にアパートがあるらしい。だから乗っていくのは下り線。もしながもんや結城さんを見送りにこっちに来ていなかったら、今日ここであーちゃんと会うことはないはずだった。
 あーちゃんは、去り際に電車の中からわたしに笑いかけてくれた。
 それは三年半前のクリスマス以降久しぶりに見たあーちゃんの笑顔で、わたしは懐かしさに胸がいっぱいになった。

 駅のホームから、外濠を眺める。
 天気はやっぱり快晴で、陽射しはどこまでも澄んでいる。穏やかな水のうねりの中、糸を垂らす釣り人は相変わらず眠ってるんじゃないかと思われた。
 ――そう云えば、もう随分長いこと釣りなんてしていない。
 家の近くの倖手放水路はバス釣りのフールドとして有名で、子供の頃はよくお父さんに連れられて行ったものだった。春になって暖かくなってきて、今頃は自然のままの堤に沢山の草花が咲き誇っているだろう。
 ――今度、お父さんを誘って行ってみようかな。
 そうしてあの空が高い川沿いで、わたしとお父さんはまた少し真面目なことを話すんだ。

 それは例えば、この世界の美しさについて。

 アニメや漫画に比べてろくでもないこの世界のことを、わたしはずっとどこか斜に構えて眺めていた。伏線もない。フラグもない。統一された世界観も裏に流れるテーマもクリエーターのひらめきもなにもない。ただリアルっていうだけの面白みもないこの世界。
 でも、今はこの世界のことが好きだった。
 美しいとさえ、思えてきた。

 ――それも全部、かがみがそばにいてくれるから。

 なんだかどうしようもなくかがみの声が聞きたくなって、わたしはハンドバックを開いてケータイを取り出した。
 ふと目に入ったのは、なんとなく持ってきた“エヴァンゲリオン研究会”の勧誘チラシ。世をはかなむような目をした少女と、世界を呪うような眼差しをした女の子が描かれている。
 ――これはもう、わたしには必要ないかな。
 そう思って苦笑する。
 エヴァンゲリオンが、好きだった。
 何一つ明らかにならない世界の中で何もできないシンジ君は、まるでわたし自身みたいに思えた。よくわからない計画に翻弄されて、何も教えられないまま舞台に上げられてしまったシンジ君に、わたしはずっと自分を重ねていた。
 ――でももう違う。
 わたしはもう、シンジ君じゃない。
 だって、わたしは勇気を手にすることができたから。
 ありふれてるけれど得難いその力は、全てに立ち向かうための力だ。わけわかんない世界の中でぐっとふんばって立ち止まり、わたしのことをへこませよう、貶めよう、卑しい物にしてやろうと襲いかかってくる何かを真正面からはねのけて、わたしはわたしだと云うための力。
 わたしは、それを手に入れることができたから。
 だからもう、わたしに“エヴァンゲリオン研究会”は必要ない。

 指先がかがみの番号を呼び出して、自動的に通話ボタンを押す。
 かがみが電話にでたら、一体何を話そうか。
 わたしの格好のこと?
 入学式のこと?
 サークル勧誘合戦のこと?
 お父さんが話していたこと?
 ううん、違う。
 まずかがみに云いたいことはこれだった。

 ――友達が、できたよ。

 呼び出し音が止まってかがみの声が聞こえた瞬間、わたしは喜びを爆発させていた。

Beautiful World
(完)



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瑠璃色学舎へ続く














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