<ETV特集>なぜ希望は消えた?~あるコメ農家と霞が関の半世紀~
今年ちょうど50回目の米作りに取り組む山形市のコメ農家・佐藤章夫氏(68)。農協の役員などを歴任してきた佐藤さんは、数年前ほとんどの役職を退き、大学院に通い研究を始めた。
「希望に満ちていた我が町の農業は、なぜ衰退したのか。」自分の地域の農業の変遷をち密に調査し、昨年ついに博士号を取得した。研究で明らかになったのは、国の農業政策が、裏目に出た半世紀の歴史だった。なぜあのとき、霞が関は、うまくゆくはずないとも思える政策を選択したのだろうか?
番組では、戦後農政の節目となる政策に関わった事務次官経験者2名を含む官僚OB合計4名に長時間インタビューを行った。なぜ規模拡大政策は続けられたのか、なぜ減反はやめられなかったのか?なぜやる気のある農家が割りを食ってきたのか。
「希望に満ちていた我が町の農業は、なぜ衰退したのか。」自分の地域の農業の変遷をち密に調査し、昨年ついに博士号を取得した。研究で明らかになったのは、国の農業政策が、裏目に出た半世紀の歴史だった。なぜあのとき、霞が関は、うまくゆくはずないとも思える政策を選択したのだろうか?
番組では、戦後農政の節目となる政策に関わった事務次官経験者2名を含む官僚OB合計4名に長時間インタビューを行った。なぜ規模拡大政策は続けられたのか、なぜ減反はやめられなかったのか?なぜやる気のある農家が割りを食ってきたのか。
番組の構成は旧農水省官僚のインタビューと、その時々の農業の現実を山形市南沼原村の 農家佐藤さん達が作った7人の農家「バイタルセブン」の50年間を追うというもの。
半世紀にわたる、「農家が農家でなくなるプロセス」は、「強い農業を目指した農政が、構造改革に政策的に挫折する歴史」でもある。
農業では儲からないが農家は農地転用によって豊かになった。
その一方で、農業の構造改革は進まず、結果として農業が崩壊していった。
半世紀にわたる、「農家が農家でなくなるプロセス」は、「強い農業を目指した農政が、構造改革に政策的に挫折する歴史」でもある。
農業では儲からないが農家は農地転用によって豊かになった。
その一方で、農業の構造改革は進まず、結果として農業が崩壊していった。
日本農政が、農業参入を制限してきたのは、農地資源利用を農家に独占させたいから?
農家の資産的利用を守るのは正義と考える農水省農政課の思想が如実に、それがまた改革派を放逐してきた。参入規制を続けることによって「農業をする人が農地を守る人であるべき」とする60年代からの農水省の改革派の主張は、ことごとく挫折していく。
農家の資産的利用を守るのは正義と考える農水省農政課の思想が如実に、それがまた改革派を放逐してきた。参入規制を続けることによって「農業をする人が農地を守る人であるべき」とする60年代からの農水省の改革派の主張は、ことごとく挫折していく。
その時代時代で改革が挫折する理由も以下のように変わっていく。
①60年代は、農業基本法の制定と誤算
②70年代は、生産調整政策
③70・80年代は米価要求運動
④70,80年代は宅地化(これは山形市を取材しているので通常より10年遅い)
⑤90年代は農水省内部の守旧派農政課
①60年代は、農業基本法の制定と誤算
②70年代は、生産調整政策
③70・80年代は米価要求運動
④70,80年代は宅地化(これは山形市を取材しているので通常より10年遅い)
⑤90年代は農水省内部の守旧派農政課
①,60年代、農業基本法の制定と誤算
1962年 農業基本法 成立。
大きな機械を使った、大規模農業を推奨。都市労働者に1/3に過ぎなかった農業従事者の所得を増加させることにあった。経営規模を大きくすることによって、所得倍増を達成しようと呼びかけた。
規模拡大を呼びかける基本法は、農村に希望を与えた。
基本法の精神の実現も
田を掘り返すことには抵抗があり、一時的な土壌の劣化が見込まれたものの、農家の近代化のためのモデル化を目指し、アメリカに留学したグループもあった。「低コストに存亡のカギを託した」
耕地整理によって、不揃いな田畑が碁盤の目のようになった(構造改革の波に乗り遅れないこと、子孫に美田を残すこと)。
しかし1960年代には田んぼを手放そうという人はいなかった。
それが規模拡大におけるひとつの誤算だった。
1962年 農業基本法 成立。
大きな機械を使った、大規模農業を推奨。都市労働者に1/3に過ぎなかった農業従事者の所得を増加させることにあった。経営規模を大きくすることによって、所得倍増を達成しようと呼びかけた。
規模拡大を呼びかける基本法は、農村に希望を与えた。
基本法の精神の実現も
田を掘り返すことには抵抗があり、一時的な土壌の劣化が見込まれたものの、農家の近代化のためのモデル化を目指し、アメリカに留学したグループもあった。「低コストに存亡のカギを託した」
耕地整理によって、不揃いな田畑が碁盤の目のようになった(構造改革の波に乗り遅れないこと、子孫に美田を残すこと)。
しかし1960年代には田んぼを手放そうという人はいなかった。
それが規模拡大におけるひとつの誤算だった。
- 農水省 河野一郎大臣から、「誰が「農業基本法」を作ったんだ?」という批判。河野は農家出身だったので、農家が容易に土地を手放さないことを知っていた。
- 森実孝夫「2,65haが、自立経営農家の目標(農家が都市労働者なみの収益を上げるために必要な数値)。この数値を実現させるためには半分の農家、農地手放す必要があった。可能と考えていた。都市への移住の動き、挙家離農があったので、プロバビリィの検討は行わなかった」
しかし、これが誤算だった。山形では、離農おきず。都会に就職する若者がいても、長男や親が農家を続けたからである。
1966年、住宅需要の高まりから、耕地整理された農地の、宅地転用が始まる。農業では考えられないほどの収入になる。農地が無計画に転用される事態に、国は市街化区域と調整区域を分けることにする。1969年、都市計画を巡る議論。ある村が市街化区域と調整区域とがわかれたとき、「非常な熱意のなかで」市街化区域への編入が望まれた(4年がかりの耕地整理に励んだが、一向に所得はあがらなかったからである)。
農家はこの頃、規模拡大ではなく、優良な宅地に転換できる農地を望んでいた。
農家はこの頃、規模拡大ではなく、優良な宅地に転換できる農地を望んでいた。
②70年代は生産調整政策
機械化による生産量の増加と、食生活の欧風化による米が余り、生産調整。
1970年、減反政策。
機械化による生産量の増加と、食生活の欧風化による米が余り、生産調整。
1970年、減反政策。
- 農家佐藤「せっかく買った農地に作付けできなくなった。減反とは、角を矯めて牛を殺す政策。農業で生きていこうと気力を削がれる。減反が何回も続くことはボディブローだった。ボディーブローで倒れることはないけれど、あごに一発入ればノックアウトされる」
- 澤邊守「臨時措置だった減反は5年ぐらいの緊急避難という意識だった。いつまでもやるとは考えてなかった」
- 森実孝夫「過剰は予測されていた、1963年頃から消費量の減少あり、顕在化は68年。当時の米の消費量の減少は恐るべきものだった。対策がなぜ講じられなかったのか? 米に代わって何を作るかがなかったから。それが致命的だった」
③70・80年代は米価要求運動
減反政策によって、農家の農政に対する信頼感は失われていった。
農家以外の産業は所得倍々ゲーム、農業は本来の性格からそれが不可能な産業。働きが悪いから所得が低くなっているのではなく、農業という産業の性格上、そうなっていたのだから、政治的な運動を起こして米価をあげるのは当然と考えていた。
減反政策によって、農家の農政に対する信頼感は失われていった。
農家以外の産業は所得倍々ゲーム、農業は本来の性格からそれが不可能な産業。働きが悪いから所得が低くなっているのではなく、農業という産業の性格上、そうなっていたのだから、政治的な運動を起こして米価をあげるのは当然と考えていた。
- 沢邊(当時食糧庁長官)「コメ余っているのに米価あげるわけにはいかない。場合によっては下げようとしたが、生産者団体である農協がそれを押し止めた。実際、米価運動が実って米価あがった。このことがコメ農家を、離農させなくさせた。」「価格政策に頼らず、選別をもっとやるべきだった。やる気のある農家を応援し、つぶしてはいけなかった」
- 米価引き上げは、さらなる消費者離れをもたらし、悪循環となった。
④70,80年代は宅地化(これは山形市を取材しているので通常より10年遅い)
- 農家 武田さん、、ブドウ畑開墾したが、断念し、不動産経営へ。
- 農地売買の仲介が金になるというのがよくわかり、不動産資格を取得。代替え地の仲介等の不動産業へ転身。
一方で、農地を買えるうまみのある農家の資格(50アール以上の農地を持っていること)をなくさないようにし、農地を財産として確保する農家が多くなった。山形市内のアパート経営者の8割は農家。武田さんは、社員10人の不動産業へ。他方農業では、転用期待で大規模化は進まない。兼業農家ばかりで、挙家離農は起こらない。
山形農家・佐藤さんにも転機が訪れ、スーパーマーケットへ宅地化して貸し出す。
今や不動産収入に大きく依存する様になった。「バイタルセブン」の7人の内4人が農業以外の道。
山形農家・佐藤さんにも転機が訪れ、スーパーマーケットへ宅地化して貸し出す。
今や不動産収入に大きく依存する様になった。「バイタルセブン」の7人の内4人が農業以外の道。
大規模農業のために機械を通すための農道は、兼業農家が遠距離通勤に使うようになっていた。
「農地は、資産。農業は、資産管理業」
「農地は、資産。農業は、資産管理業」
④,90年以降 農水省、農業構造の改善。
1986年 全米精米業者、コメの市場開放要求。
巨大な農地で、圧倒的な低コストをもつアメリカ。
→市場原理を導入。コメ市場に入札制を導入するなど。
1986年 全米精米業者、コメの市場開放要求。
巨大な農地で、圧倒的な低コストをもつアメリカ。
→市場原理を導入。コメ市場に入札制を導入するなど。
- 高木勇樹(大臣官房企画室)、本業の農業が危ない。「危機意識をもっていた。後継者がいない、時間の経過が怖い。危機的ラインに達している。稲作中心の農家なら、10-20haの規模拡大が必要。農地制度の改革が重要と考えていた」
このとき、山形では農地の違法な転用と、農家の高齢化によって、優良な水田が次々と耕作放棄地となっていった。「寸土も余さず、遊ばせず」農地への執着がなければ百姓なんてできない。
農地法は、「耕作者主義(農地の所有権は、耕作者が所持する)」。借金のかたなどで、農地が地主にとられないようにするため。しかし、農地法は農家が農業をやめることを想定していなかった。
農地法は、「耕作者主義(農地の所有権は、耕作者が所持する)」。借金のかたなどで、農地が地主にとられないようにするため。しかし、農地法は農家が農業をやめることを想定していなかった。
- 高木「農地法の基本理念である「耕作者主義」を改革すること。農地がきちんと利用され、収益があげられるような、現実に即した制度を作るべき。そのためには農業に新規参入できるよう、企業も含めて、耕したい人に貸したい。ということで91年農地法改正の議論を行った」
だが農水省の中の農政課が反対した。なぜ反対したか?
- 石井啓雄(元農政課技官)「新規参入が少ないのは、農地法のせいではなく、農業に魅力がないから。都会の金持ちが資産の運用の一形態として農地を使うようになるだろう。戦前のような土地支配が、企業によって復活するのではないか。それは絶対だめだ。農地の上で営まれる農業は工業とは違う」
- 高木勇樹「農地は守られなければならない、守るにはきちんと農業がなされることが必要。ところが、92年1月4日日経新聞に「株式会社にも農地所有権」リーク記事が載った。内部から意図的に情報がリークされた。所有権移転なんて言ってない。貸借だ。それ以降農地法の「の」の字もいえなくなった。報道の方が信用される。議論を深めても疑惑が増えるばかりで、自粛に追い込まれた。全体が農地法について考えることをやめた状態になった」
⑤,2010年
高木勇樹、仙台の耕作放棄地視察。
2009年に農地法が改正。議論が頓挫してから18年がたっていた。耕作放棄地は、農地の1割に達しようとしている。
農業基本法から50年たった山形農家では、想像できなかった皮肉な事態がおきている。
農家が奪い合うようにしていた農地の、買い手がいない。昔は田んぼが財産だったが、いまは財産ではない。農業基本法が目指していた、大規模化の条件ができている。
「農地、集まってきてしょうがない。断っている状況。作ってくれ、作ってくれ、と」
高齢者が、後継者探しをあきらめた高齢者の田んぼを引き受けるという、やむにやまれぬ規模拡大が進む。
これは未来なき構造改善。
高木勇樹、仙台の耕作放棄地視察。
2009年に農地法が改正。議論が頓挫してから18年がたっていた。耕作放棄地は、農地の1割に達しようとしている。
農業基本法から50年たった山形農家では、想像できなかった皮肉な事態がおきている。
農家が奪い合うようにしていた農地の、買い手がいない。昔は田んぼが財産だったが、いまは財産ではない。農業基本法が目指していた、大規模化の条件ができている。
「農地、集まってきてしょうがない。断っている状況。作ってくれ、作ってくれ、と」
高齢者が、後継者探しをあきらめた高齢者の田んぼを引き受けるという、やむにやまれぬ規模拡大が進む。
これは未来なき構造改善。
かつて農業に情熱を傾けていた人たちが
いつの時代も、農家は繁栄に取り残されないようにしてきた。その結果、それぞれのやり方で、2世代、3世代かけて、農業から撤退していった。子供に高等教育を授け、兼業化を進めた。「農業撤退計画」。
いつの時代も、農家は繁栄に取り残されないようにしてきた。その結果、それぞれのやり方で、2世代、3世代かけて、農業から撤退していった。子供に高等教育を授け、兼業化を進めた。「農業撤退計画」。
戸別所得補償制度の農水省。5千600億円の補助金。