▽恐怖の存在としての女性像―化物退治譚の深層 (97)
「鉄の歯」の昔話と「三人兄弟・化物退治」型昔話(一~三)
著者はまず、ミクロネシア、ウリシー環礁モグモグ島で採集した昔話「鉄の歯」を取り上げる。「鉄の歯」の昔話は、昔話の分類によっては「ヴァギナ・デンタータ」(歯の生えた膣)に属する。
しかし著者が注目するのは、日本に広くみられる「三人兄弟・化物退治」型の昔話である。この型の昔話は、その形態論的構造(①三人兄弟による化物退治、②忠告者としての老婆、③山に棲む美女=大蛇)において、「鉄の歯」の昔話と驚くほど類似している。
この昔話の分析における著者の関心は、文化史的な解釈ではなく、「これらの昔話を伝承している社会において、『鉄の歯』という妖怪がなにを表象しており、山に棲む美女=大蛇がなにを表象しているのか」、「なぜ各地で繰り返し[…]語られてきたのか」(108)、という点(「共時的な解釈」)にある。
しかし著者が注目するのは、日本に広くみられる「三人兄弟・化物退治」型の昔話である。この型の昔話は、その形態論的構造(①三人兄弟による化物退治、②忠告者としての老婆、③山に棲む美女=大蛇)において、「鉄の歯」の昔話と驚くほど類似している。
この昔話の分析における著者の関心は、文化史的な解釈ではなく、「これらの昔話を伝承している社会において、『鉄の歯』という妖怪がなにを表象しており、山に棲む美女=大蛇がなにを表象しているのか」、「なぜ各地で繰り返し[…]語られてきたのか」(108)、という点(「共時的な解釈」)にある。
四 山姥の民俗学
人を呑み込む「大蛇」とは、山に棲む食人鬼(「山姥」「山姫」「鬼女」)のメタファーである。
「山姥はその社会の人びとが信じている神霊(妖怪)の一つであり、他の神霊と相互に関連」している。「その主要な役割は、奥山と村とが同質の空間ではないことを告知すると同時に、この二つの領域が相互に深く関連しあっていることをも告げている、ということにある。すなわち、村落内の秩序の状態(村びとの道徳状態)が、山中の出来事(山姥の出現)という形を通じて山の中に投影される。」(111)
しかしこの分析によっては解けない問題が存在する(山姥と山の神との同一視、山の神が女であることなど)。そこには「人間の文化に共通する深いレベルの問題》、つまり「性についての問題、男と女との差異をめぐる現象学的もしくは存在論的な問題」(112)があり、それらの解釈のために深層心理学と人類学が要請される。
「山姥はその社会の人びとが信じている神霊(妖怪)の一つであり、他の神霊と相互に関連」している。「その主要な役割は、奥山と村とが同質の空間ではないことを告知すると同時に、この二つの領域が相互に深く関連しあっていることをも告げている、ということにある。すなわち、村落内の秩序の状態(村びとの道徳状態)が、山中の出来事(山姥の出現)という形を通じて山の中に投影される。」(111)
しかしこの分析によっては解けない問題が存在する(山姥と山の神との同一視、山の神が女であることなど)。そこには「人間の文化に共通する深いレベルの問題》、つまり「性についての問題、男と女との差異をめぐる現象学的もしくは存在論的な問題」(112)があり、それらの解釈のために深層心理学と人類学が要請される。
五 山姥の深層心理学
ユング派心理学において、人の「個別化」は、「意識的人格を統合している『エゴ』(自我)を、普遍的無意識内にある元型的な『セルフ』(自己)から分離させ、普遍的な無意識からの人格の独立を保ちつつ、なお『セルフ』との結びつきを持つことで成し遂げられる」(112)とされる。この過程は「混沌・無秩序・女性原理」を意味する「太母」の脅威を克服することで達成され、人はこれにより「自我つまり男性原理、秩序ある世界を獲得するのである。こうした自我の独立への過程を示す神話や昔話は世界の各地に伝承されており、[…]多くの場合成人儀礼と密接に結びついている」(113)。
日本においては、「山姥」が「太母」に相当するものとして捉えられた。例えば河合隼雄は「太母」の否定的/肯定的な面に照らして、山姥の両面性を明らかにした(退治される山姥/福を与える山姥)。また、大橋秀雄は、「山姥」とは「『他者』が乳児に与える恐怖・不安を鎮める安全地帯であるウチなるものとしての『母』の消失、つまり母性を欠いた母のイメージ」(116)として捉えた。山姥の二面性は、母性を欠いた「他者」となった母=恐ろしい山姥/安全地帯としてのウチなる「母」=福神的な山姥として読み解かれる。
日本においては、「山姥」が「太母」に相当するものとして捉えられた。例えば河合隼雄は「太母」の否定的/肯定的な面に照らして、山姥の両面性を明らかにした(退治される山姥/福を与える山姥)。また、大橋秀雄は、「山姥」とは「『他者』が乳児に与える恐怖・不安を鎮める安全地帯であるウチなるものとしての『母』の消失、つまり母性を欠いた母のイメージ」(116)として捉えた。山姥の二面性は、母性を欠いた「他者」となった母=恐ろしい山姥/安全地帯としてのウチなる「母」=福神的な山姥として読み解かれる。
六 山姥の人類学
人類学によれば、社会において女性は「男性よりも『自然』に近い存在とみなされ、男性が支配する社会・文化とそれに対する自然との媒介者の役割、つまり両義的性格が賦与され」(119)てきた。「女性は『文化』の周縁に位置する人間社会の内なる『他者』であり」、「潜在的『異人』としての役割を象徴的に担わされている。」(120)女性が「自然」を所有していることは、「文化」を支える人間の創造=出産が女性にしかできないことに示される。
「男性たちは、女性なくしては自分たちの支配する文化・社会が成り立たない、つまり、その豊饒な力を借りなければならないというまさにそのことゆえに、また自分たちにはコントロールできない力を有するがゆえに、女たちを恐怖するという矛盾した感情を、儀礼や神話・昔話の中に表現する。」(122)
「男性たちは、女性なくしては自分たちの支配する文化・社会が成り立たない、つまり、その豊饒な力を借りなければならないというまさにそのことゆえに、また自分たちにはコントロールできない力を有するがゆえに、女たちを恐怖するという矛盾した感情を、儀礼や神話・昔話の中に表現する。」(122)
七 異人としての女性
以上の心理学と人類学の議論を踏まえて、著者は「「山姥」や「大蛇」(=美女)や妖怪「鉄の歯」の像は、究極的には「自然」に近い潜在的な他者としての「女性」、男性たちが恐怖する根源的かつ統御しえない力を持つ女性のイメージを表現している」(122)と述べる。「「鉄の歯」の昔話もまた、ウリシーの男たちの心の深層部にある女性という存在への恐怖、あるいは女性と性交することの恐怖を母胎にして生み出された物語といえる」。(123)
▽猿聟への殺意―昔話における「主題」と民俗社会 (p127)
一 はじめに
「昔話を科学的に研究していくためには、それに必要な基本的用語について明確な基本概念をある程度与えておくことが要求される。」(129) ところで、「主題」ないし「テーマ」という語は、「昔話研究においてもっとも多く用いられている基本的用語」であるにも関わらず、「昔話の主要な研究文献を見渡しても、[…]昔話の「主題」を正面から扱った論文を探し出すことができない」(130)。
二 「主題」とはなにか
「主題」の概念規定に先立って、記号学における「テキスト」という概念を導入する。「テキスト」とは、「創作者によって〈主体〉の表現として生み出された一つのまとまった表現体である。」(133) テキストは「記号」と「その意味」からなり、発信者(創作者)と受信者との間の「了解に基づいた共通の決まり」=「コード」に基づいて、伝達内容が記号化(ex.言語化)されることで作られる。「小さなテキスト」は、相互に関連する他のテキストと複合することで全体として「大きなテキスト」と成りうる。
ジョルコフスキーとシチェグローフの記号学的「主題」研究によれば、「『主題』とはテキストのすべての要素が、したがって、そのすべてのレヴェルがそれに従属することになる志向(支配因)であり、テキストの裡に現実化されている意図である。」(135) 「テキスト」を一般化し、圧縮・抽象化することで「主題」が析出される。
この「主題」概念規定を昔話に適用すれば、「一つの昔話テキストにも一つの『主題』しかな」く、その「主題」は「昔話テキストのすべての要素、すべてのレヴェルを支配・従属させているということ」(137)になる。
ジョルコフスキーとシチェグローフの記号学的「主題」研究によれば、「『主題』とはテキストのすべての要素が、したがって、そのすべてのレヴェルがそれに従属することになる志向(支配因)であり、テキストの裡に現実化されている意図である。」(135) 「テキスト」を一般化し、圧縮・抽象化することで「主題」が析出される。
この「主題」概念規定を昔話に適用すれば、「一つの昔話テキストにも一つの『主題』しかな」く、その「主題」は「昔話テキストのすべての要素、すべてのレヴェルを支配・従属させているということ」(137)になる。
三 昔話の「主題」
では「昔話研究において『主題』ということをことさらに強調することの意義」(137)はなにか。
「昔話テキストから抽出された『主題』つまり志向=意図は、確定しえない誰かによって埋め込まれた志向=意図であ」り、「ある昔話テキストの『主題』を手に入れることは、その創作者の志向=意図を知ることである。」(139)ただし、「昔話テキストは口承形式で実現(再現)化される」ために、その「語り手」は「昔話テキストの伝達の仲介者かつ受信者であって、真の発信者ではない。」(140)「昔話テキストを生み出そうとする志向=意図〔=主題〕は、民俗社会(=社会集団)という〈主体〉に埋め込まれている」。したがって「真の〈主体〉は民俗社会なのであ」り、「昔話の主題論的研究は、現存する昔話テキストの中から社会集団が抱いている志向=意図を知る研究、つまり『集合表象』としての昔話テキストの研究といえる」。
「昔話テキストから抽出された『主題』つまり志向=意図は、確定しえない誰かによって埋め込まれた志向=意図であ」り、「ある昔話テキストの『主題』を手に入れることは、その創作者の志向=意図を知ることである。」(139)ただし、「昔話テキストは口承形式で実現(再現)化される」ために、その「語り手」は「昔話テキストの伝達の仲介者かつ受信者であって、真の発信者ではない。」(140)「昔話テキストを生み出そうとする志向=意図〔=主題〕は、民俗社会(=社会集団)という〈主体〉に埋め込まれている」。したがって「真の〈主体〉は民俗社会なのであ」り、「昔話の主題論的研究は、現存する昔話テキストの中から社会集団が抱いている志向=意図を知る研究、つまり『集合表象』としての昔話テキストの研究といえる」。
昔話「猿聟入」の主題(四、五)
定式1「爺とその分身たる末娘は、猿との間に労働力と末娘との交換をすることを装うことで、畑仕事を猿にさせたのち、末娘の知恵によって猿を殺して、反対給付として末娘の嫁入りを解消する。」
↓抽象化(「離陸」)
定式3「『人間』は『異類』を利用して幸福になることができる。」(159)
↓抽象化(「離陸」)
定式3「『人間』は『異類』を利用して幸福になることができる。」(159)
この作業により分かることは、この昔話が「《悪意》によって支配された物語であり、その《悪意》を伝達することに本質があったのではないか」(160)ということである。
「猿婿入」には、猿聟と末娘が幸せな生活を送るという異話も存在するという。しかし全国で採集されることはほとんどない。「欺し殺された『異類』たち(あるいは『異人』たち)は何を考え、なにを彼らの間で語り伝えていたのだろうか。」(161)
「猿婿入」には、猿聟と末娘が幸せな生活を送るという異話も存在するという。しかし全国で採集されることはほとんどない。「欺し殺された『異類』たち(あるいは『異人』たち)は何を考え、なにを彼らの間で語り伝えていたのだろうか。」(161)